俺の異能が中華ゲーだった ~34歳無職、ガチャで引いたキャラに変身して働きます~ 作:パラレル・ゲーマー
青森の御巫神社に居候を始めてから、四日目の朝。
昨日届いたばかりのゲーミングPCのおかげで、前夜は遅くまで充実したゲームライフを満喫した直哉だったが、朝の澄んだ空気のおかげか目覚めはすこぶる良かった。
簡単な朝食を済ませ、客間の縁側で温かい緑茶をすすりながらくつろいでいると、廊下の向こうから凛とした足音が近づいてきた。
顔を上げてみれば、糊の効いた真っ白な小袖と鮮やかな緋袴の巫女装束に身を包んだ御巫梓が、肩から小さな布製の鞄を提げて外出の支度を整えているところだった。鞄の中には、何やら細長い木札や麻紐、それに古めかしい金属製の道具類が収められているのがちらりと見える。
直哉は湯呑みを置いて、座布団から立ち上がった。
「梓さん、今日は朝からどこかへお出かけですか?」
「ん? ああ、ちょっと山の奥の方まで行ってくるわ。うちの家で代々管理してる封印の定期点検があるのよ」
「おお! 一昨日の夜に話してた、封印のメンテナンスの仕事ですか!」
「そそ。まあ、何十年も前からそこにある古い封印の状態を確かめて、ちょっと緩んでるところを締め直すだけだから、そんな大した仕事じゃないけどね」
事もなげに言って玄関へ向かおうとする梓に、直哉はすかさず声をかけた。
「じゃあ、俺も一緒に行きますよ!」
「え? なんでよ。別にあーし一人で十分大丈夫だけど?」
「いやいや! 俺、そもそも梓さんの護衛としてこの神社に来てるんですよ!? 護衛対象の人が一人で山奥の封印がある場所へ行くのに、留守番して部屋でゲームしてたら護衛失格じゃないですか!」
直哉が至極真っ当なことを主張すると、梓は呆れたように苦笑した。
「……ねえ、あんた、あーしの実力が実効Tier0.5だってことちゃんと分かってる? その辺の山道で何が飛び出してこようと、あーし一人で余裕で対処できるわよ」
「もちろん梓さんが強いのは分かってますよ! だからこそ、世界最高峰の封印術者の人が実際にどんな風に仕事をするのか、すぐ近くで見学してみたいんです!」
「……ほら見なさい、後半の好奇心の方が本音でしょ、それ」
ジト目で突っ込まれ、直哉は「まあ、半分くらいは!」と悪びれずに笑った。
自分の手持ちのキャラクターには、攻撃や防御、索敵、時間停止、そして医療の専門家は揃っているが、『封印術』を専門に扱う者は一人もいない。同じ裏社会の仕事として、その最高峰の技術がどういうものなのか、純粋に興味があったのだ。
「ま、別についてくる分には構わないけど。足場が悪い山道も歩くから、そのつもりでね」
「了解です! だったら、山の中でも動きやすくて、いざという時に周囲に余計な被害を出さずに対応できる姿で行きますね」
直哉は、東京で稼働中の千里とエレノアの二身体はそのまま維持しつつ、青森にいる生身の自分自身の枠を使って変身を発動させた。
足元から月光に似た冷たく澄んだ光が立ち昇り、三十四歳の男の姿が一瞬にして書き換わる。
光が収まったそこに立っていたのは、艶やかな黒髪をなびかせ、白と黒の戦装束に身を包んだ★★★★★、九条紫苑《宵刃の巫女》。その腰には、白銀の鞘に収められた神刀《月白》が静かに携えられていた。
紫苑の姿となった直哉は、赤紫色の涼やかな瞳で梓を見つめ、深々と美しい礼をした。
「本日は、私が護衛を務めさせていただきます」
「……はいはい。よろしくね、紫苑ちゃん」
一昨日も一度見たとはいえ、目の前のおっさんが一瞬で凛とした絶世の美少女剣士へと変わり、しかも口調まで別人のように丁寧になる現象にはまだ少し慣れないらしく、梓は微妙な表情で頬を掻いた。
外見は静謐な美少女剣士のままだが、直哉の内心は(よし! 今日は本物の封印術の現場をじっくり見学できるぞ!)と、社会科見学へ向かう子供のようにワクワクと弾んでいた。
二人は社務所を出て、神社の駐車場に停めてある梓の白い軽自動車へと乗り込んだ。
運転席に白衣と緋袴の本職の巫女が座り、助手席に白黒の戦装束を着て太刀を携えた巫女風の剣士が座るという、すれ違う車が見たら二度見しそうな絵面で、軽自動車は人里離れた山の奥へと向かって走り出した。
◆
舗装された町道を外れ、木々が鬱蒼と生い茂る細い林道へと車が入っていく途中、助手席の紫苑――直哉は、ふと思いついたことを口にした。
「ところで梓さん。本日は古い封印のメンテナンスということでしたが、もしその場所に危険な存在が封じられているのでしたら、私がお役に立てるかもしれません」
ハンドルを握る梓が、ちらりと横目で紫苑を見た。
「ん? お役に立てるって、どういうこと?」
「なんなら、中に封じられているものをこのまま『斬って』しまいましょうか? 対象の構造や接続を正確に認識できれば、私の《宵刃》で根源から断ち切れる可能性がございますので」
直哉としては、ごくシンプルで親切な提案のつもりだった。
何十年も前からわざわざ手間をかけて封印を維持し続けているということは、中に厄介な怪異か何かが入っているのだろう。だったら、今ここにいる紫苑と《月白》の力で中身ごと綺麗に斬り捨てて消滅させてしまえば、梓がこれから先も定期的に山奥まで点検に通う手間が丸ごと省けるのではないか、と考えたのだ。
それを聞いた梓は、一昨日の買い物中に聞いた『京都の《九番目の御霊》を土地との因縁ごと斬り捨てて討伐した』という直哉の武勇伝を思い出したのか、「……あー、なるほどね」と一度は納得したように頷いた。
「確かに、あんたのその概念だか繋がりだかをぶった斬るデタラメな刀なら、昔から倒せなくて封じてあった相手でも、力ずくで処理できちゃうかもしれないわね」
しかし、そこで梓はふっと少しだけ笑って、ゆっくりと首を横に振った。
「でもね、紫苑ちゃん。一口に『封印』って言っても、世の中には本当に色々な事情のやつがあるのよ」
「……色々、ですか? 人に害をなす悪しきものを閉じ込めているだけではないのですか?」
「うーん……まあ、あんたも正義感だけで後先考えずに突っ走るような子供じゃないってことは一昨日の話で分かったし、せっかく興味持ってついてきたんだから、ちょっとばかし術者社会の『黒い話』もしてあげるけど、いいわね?」
「ええ。ぜひお聞かせください」
山道のカーブを慣れた手つきで曲がりながら、梓は封印術という技術が持つ現実的な側面について語り始めた。
「まず一つ目は、あんたが今想像した通りの一番オーソドックスなやつね。当時の術者たちの火力じゃどうしても討伐しきれないほど強大な怪異や神格を、被害が出ないように場所ごと閉じ込めて隔離する封印。これは分かりやすいでしょ?」
「ええ。私が思い浮かべていたのも、まさにそのような封印です」
「で、それの応用として、怪異や神格の『本体』そのものじゃなくて、そいつが持ってる『人間に害を与える危険な能力や性質だけ』をピンポイントで縛って封じてるパターンもあるのよ。本体は殺せない、あるいは殺すとマズい事情があるけど、毒気だけ抜いておけば無害になるっていうケースね」
梓はそこで、紫苑の腰にある《月白》へと視線を向けた。
「そういう、単純に倒せなくて閉じ込めてるだけの暴れん坊とか、有害な能力の繋がりだけを処理したいパターンなら、あんたのその刀とめちゃくちゃ相性がいいんじゃない? 害を与える仕組みそのものを綺麗に斬り捨てられるなら、もう封印を維持する必要自体がなくなるかもしれないしね」
「なるほど。そのような対象であれば、私でもお役に立てそうですね」
もちろん、実際に封印を解いて中身を斬るとなれば、周囲への被害や対象の性質を事前に徹底的に調べる必要はあるが、理屈としては十分に成立する。
だが、梓は「問題はここからよ」と人差し指を立てた。
「二つ目が、結構厄介なやつでね。その地域の『バランス』を取るために、あえて強い存在を封印したまま維持してるパターン」
「……地域のバランス、ですか?」
「そそ。例えばさ、ある山の中に、とんでもなく格が高くておっかない大物の怪異がいたとするじゃない? そうすると、その辺をうろついてる雑魚や中堅クラスの弱い怪異たちは、そいつの縄張りの気配を怖がって、絶対にその山には近づいてこないでしょ?」
「ええ、縄張り意識のようなものですね」
「じゃあ、その大物の怪異を完全に殺して消しちゃうんじゃなくて、外に出て暴れられないようにきっちり封印したうえで、『恐ろしい気配や影響力だけ』をうっすら外に漏らすように調整して置いておいたら、どうなると思う?」
紫苑の姿の直哉は、少し考えてからハッと気づいたように目を見開いた。
「……強大な存在が持つ威圧感を、そのまま周囲の怪異を寄せ付けないための『魔除けの重し』として利用するわけですね」
「その通り! 話が早くて助かるわ!」
梓は満足そうに頷いた。
「そういう土地の均衡を守るための要石(かなめいし)になってる封印をさ、『中に悪い怪異がいるから!』ってあんたの刀でスパッと斬って消滅させちゃったら、どうなるか分かる? 重しがなくなった途端に、それまで怖がって山に寄りつかなかった周辺の雑魚や中堅の怪異たちが、一斉に麓の人里へなだれ込んでくるのよ」
「……なるほど。目の前の脅威を取り除いたつもりが、結果として土地全体の安全を崩してしまう可能性があるのですね」
「そういうこと! だから、中に入ってるのが危険な奴だからって、何でもかんでも斬れば解決ってわけじゃないのよ」
直哉は内心で深く唸った。
京都の《九番目の御霊》のように、今まさに封印が破られて街全体を殺そうとしている明確な敵なら迷わず斬ればいい。しかし、静かに維持されている古い封印には、そうして地域全体の生態系や霊的な均衡をコントロールしているインフラとしての役割があるのだ。
すると梓は、少しだけ声のトーンを落ち着かせて、さらに踏み込んだ事実を口にした。
「しかもさ、この手の封印で一番タチが悪いのは……中に封じられてる存在が、必ずしも『人間に害をなす悪い奴』とは限らないってことなのよね」
「……と、おっしゃいますと?」
「別に人間を襲う気なんてなかった大人しい異界の生き物や、ただ生まれつき周りの怪異を怯えさせるほど強い力を持っていただけの霊的な存在をね、昔の人間が『こいつをここに縛り付けておけば、村に他の化け物が入ってこなくて安全だ』って考えて、文字通り『人柱』みたいに無理やり封じ込めて利用した例もあるのよ」
「…………」
紫苑の唇が、わずかに引き結ばれた。
「まあ、何百年も前の、今よりずっと人間が怪異に対して弱くて必死だった時代の術者社会の話だけどね。封じられた当人からしてみれば、悪いこともしてないのに勝手に捕まって何百年も魔除けの置物にされてるんだから、たまったもんじゃないでしょうけど」
梓はさらに、三つ目のパターンについても淡々と言葉を継いだ。
「それと、もう一つ。封印してる存在から、純粋な『力』だけを少しずつ吸い上げて、人間側のリソースとして利用するパターンもあるわね」
「力を取り出す、ですか?」
「そそ。強い霊力や呪力を持った怪異や人外を生きたまま封じ込めて、そこから湧き出るエネルギーだけをパイプで引くみたいに回収するの。町全体を守る大きな結界を維持するための燃料にしたり、強力な呪具を動かすための動力源にしたりね。いわば、生きた発電所扱いにする封印よ」
あまりにも実務的で、同時にどこまでも人間本位な仕組みの説明に、紫苑の口から静かな呟きが漏れた。
「……それは、ずいぶんと人間のエゴというやつですね」
「まあねー。封印されて力を搾り取られる側からしたら、間違いなく人間の身勝手なエゴ以外の何物でもないわね」
車内に、少しだけ静かな間が流れた。
ただ、ハンドルを握る梓の横顔には、先人たちの残酷さを嘆くような感傷もなければ、逆にそれを誇らしげに肯定するような傲慢さもなかった。
彼女はただ、何百年も続く封印術の家に生まれた当主として、事実を事実のまま見据えながらこう言ったのだ。
「でもさ、紫苑ちゃん。だからといって、そういう封印が全部『私利私欲や悪意』から生まれたものだとも限らないのよ」
「……どういうことでしょうか?」
「昔の術者たちだって、別に趣味で弱い者いじめをしたかったわけじゃないの。要するにそれって、善悪の話じゃなくて、『どうやったら明日もより多くの人間が死なずに安全に生活できるか』を突き詰めて考えた結果なんでしょ。一(いち)より、九十九(きゅうじゅうきゅう)を優先してたのよ」
静かに落ちたその言葉に、直哉はハッとして梓の横顔を見た。
「たった一人の異端や一つの存在を犠牲にして封じ込めれば、麓の村で暮らす九十九人の普通の人間が怪異に食い殺されずに済む。……そういう極限の天秤を突きつけられた時に、当時の責任ある人間たちがどっちを選んだかってだけの話よ」
「……なるほど」
「もちろん、無理やり一の方に選ばれて封じられた側からしてみれば、そんな人間の都合や数の理屈なんて知ったことじゃないし、恨まれても文句は言えないけどね」
直哉は、紫苑の静かな表情の裏で、三十四歳の社会人としてその言葉の重みを噛み締めていた。
(……うーん。言われてみれば、確かにそうだよな)
今の直哉には、紫苑やレイジ、ヴェルミリアといった規格外の力で敵を正面から粉砕するという選択肢がある。しかし、そんな都合のいいチート能力など持っていなかった過去の時代の人間たちが、圧倒的な怪異の脅威からコミュニティを守るために、綺麗事だけでは済まない泥臭い『一と九十九の選択』を積み重ねてきたというのは、歴史のリアリティとして痛いほど理解できた。
誰かを悪者にして断罪するのは簡単だが、その犠牲の上に今の安全な土地が成り立っているのもまた事実なのだ。
そして何より、隣で「一より九十九を優先してたのよ」と当たり前のように語る梓自身の価値観の中に、もし九十九人を救うために『自分という一』を封印の楔にする必要が生じたなら、この人は迷わずそれを選んでしまうのだろうという危ういほどのプロ意識が透けて見えた気がして、直哉は内心で少しだけ背筋が引き締まる思いがしたのだった。
◆
やがて林道の行き止まりにある小さな退避スペースに車を停め、二人はそこから徒歩で整備された山道へと入った。
落ち葉を踏みしめながら木漏れ日の差す緩やかな斜面を登っていく途中、梓は先ほどの話の補足をするように、また明るい調子で口を開いた。
「あ、あとね、そもそも当時の人間の力じゃ『どうしても封印すらできないほど強い存在』が出てきた時の対処法もあるわよ」
「封印すらできない……梓さんほどの術者でも、ですか?」
「いや、今のあーしの話じゃなくて、もっと昔の人たちの話よ。倒すこともできないし、器に閉じ込めて封印することすら不可能なレベルのバケモノや大怨霊が出てきた時、昔の日本の連中がどうしたか、あんたも聞いたことあるでしょ?」
「別の方法、ですか?」
「そそ。怨霊を『御霊(みたま)』として神社に祀り上げちゃうのよ。菅原道真、平将門、崇徳天皇。あの辺の日本三大怨霊って呼ばれる方々が一番の有名どころね」
聞き覚えのある歴史上の偉人たちの名前に、紫苑は小さく頷いた。
「ええ。学校の教科書の知識としてですが、名前は存じております。怨霊として恐れられた方々ですね」
「そう。普通の歴史じゃ『祟りを恐れた当時の朝廷や民衆が、迷信で神様として祀った』みたいに言われてるけど、こっちの裏の業界の歴史から見ればあれは迷信でもなんでもないのよ。実際に都を滅ぼしかねないほど強大な怨霊と化してて、当時の最高峰の術者たちが束になっても封じることすらできなかったから、無理に力で押さえつけるのを諦めて、『神様として恭しく祀り上げて礼を尽くすことで、怒りを鎮めて味方になってもらった』っていう、究極の政治的妥協なの」
紫苑は、少し驚いたように目を瞬かせた。
「……力で封じるのではなく、神として祀ることで鎮めるのですね」
「そういうこと。どんなに腕に覚えのある術者だって、力比べじゃ絶対にどうにもならない相手はいるんだから。だったら、相手のプライドを尊重して怒りを鎮めるとか、最初から神様として丁重に扱って害をなさない契約を結ぶとか、そういう別のルートを考えるしかないでしょ? まあ、歴史に名前が残ってる有名どころはそんなものね」
直哉は、紫苑の涼しい顔の裏で、深く感心していた。
(……いやー、学生時代に日本史の授業で習った三大怨霊の話が、この世界の裏側だとそんなガチの超常対策の歴史になってるのか)
京都で実際に《九番目の御霊》という巨大な怨念の塊と戦った直哉だからこそ、昔の人間がそれを力で抑えきれずに『神として祀る』という知恵を絞ったことの意味が、単なるおとぎ話ではなく生々しい実感を伴って理解できた。
倒す。封じる。利用する。そして祀る。
人間が超常の脅威と隣り合わせで生き延びていくためのアプローチは、直哉がこれまで見てきた以上にずっと奥深く、多様なのだと知らされた思いだった。
◆
山道を登ること十数分。
視界が少し開けた杉木立の奥に、古い石段と、その上に佇む小さな石造りの祠(ほこら)が姿を現した。
祠の周囲には、長い歳月を経て苔むした四本の石柱が四方を囲むように立てられており、その間には太い注連縄(しめなわ)が張られている。ここが、御巫家が代々管理している山中の封印地点の一つらしかった。
今回の点検対象は、先ほど車内で梓が説明してくれたうちの『地域のバランスを維持して周辺の怪異を寄せ付けないための封印』だという。
紫苑は石段の手前で足を止め、その古い祠へと静かに視線を向けた。
生身の直哉の目であれば、「なんか山の中に古そうな祠と石柱があるな」としか思わなかっただろう。
しかし、紫苑の固有能力である《宵刃》の視覚を通じて観察してみると、その祠を中心として、四方の石柱、さらには足元の山の地脈や周囲の空間へと向かって、幾重にも織り上げられた精巧で強固な『構造と接続の網』が張り巡らされているのがはっきりと感じ取れた。
「……なるほど。この小さな祠を中心として、周囲の空間や土地と複数の複雑な接続が成立しているようですね」
紫苑が感嘆を込めて呟くと、隣で鞄を下ろしていた梓が「おっ」と感心したように眉を上げた。
「へー! あんた、封印術の専門教育なんて受けてないはずなのに、ひと目見ただけでそこまで構造が分かるんだ。さすがね」
「いえ、私には接続の全体の意味までは読み解けません。ただ、非常に緻密に組まれていることだけは分かります」
「あはは、十分よ。……あ、でも念のため言っとくけど、接続が見えるからって絶対にそれ斬っちゃダメなやつだからね!?」
「ええ、心得ております。先ほどご説明いただいた、この山の均衡を維持するための大切な封印ですね」
「そそ! この辺りの山里は、昔からここの封印の気配のおかげで変な化け物が降りてこないように守られてるんだから。あんたはそこで周りの見張りだけお願いね!」
紫苑が「承知いたしました」と一礼して少し後方の見通しの良い位置へと下がり、腰の《月白》の柄に軽く手を添えて周囲の森林への警戒を開始する。
それを確認した梓は、ふっと息を吐いて表情を引き締めると、祠の前へと進み出た。
鞄から取り出した数枚の符と金属製の小さな法具を手に持ち、梓が静かに印を結んで祝詞(のりと)にも似た独特の呪言を紡ぎ始める。
次の瞬間、祠を取り囲む四本の石柱と注連縄の周囲の空気が、微かな音を立ててピリピリと震え始めた。
ド派手な光線が飛び交ったり、地面が割れたりするような視覚的な派手さはない。
しかし、後方でそれを見守っている紫苑の目には、梓が行っている作業の異常なまでの高度さが、手に取るように伝わってきていた。
祠の中に封じられている存在の圧力を抑え込むための『内向きの鍵』。
その存在の気配だけを適切な濃度に薄めて山全体へと広げるための『外向きのフィルター』。
そして、長い年月の風雨や自然の霊力の揺らぎによってわずかに摩耗し、ズレが生じていた土地との『接合部』。
紫苑の《宵刃》の目から見ても気が遠くなるほど複雑に絡み合ったその何十本もの接続の糸を、梓はまるで自分の指先で編み物を直すかのように、一本一本の役割と張力を完璧に把握しながら、緩んだ箇所だけをピンポイントで締め直し、摩耗した部分に新しい力を継ぎ足して滑らかに整えていくのだ。
(……いや、これ、とんでもなく凄くないか!?)
直哉は、紫苑の凛とした無表情の裏で、本気で舌を巻いていた。
(俺の紫苑の能力なら、あそこにある接続の糸を『見つけて斬る』ことはできる。でも、どれが何を支えてる糸なのか全部理解したうえで、壊さずにミリ単位で調整して繋ぎ直すなんて芸当、俺には百万年かかっても絶対に真似できねえぞ……!)
ただ出力が高いだけの力押しではない。何百年と受け継がれてきた知識と、対象を完全にコントロール下に置く緻密極まりない技術。これこそが、『封印術において世界に封じられないものはない』と豪語する実効Tier0.5の専門家の真骨頂なのだと、直哉は自分の目で見て深く納得した。
一方、作業に没頭している梓の方も、今日は背後に紫苑が控えてくれていることで、普段とは違う快適さを感じていた。
いつも一人でこうした山中の点検を行う際は、術の微調整に神経を集中させながらも、同時に「作業中の無防備な背後から野生の怪異や不届き者が近づいてこないか」という周囲への索敵に意識の三割ほどを割かなければならない。
しかし今日は、自分のすぐ後ろに、あの京都の大怨霊すら一刀両断したという最高峰の剣士が微動だにせず立ってくれているのだ。途中で一度、遠くの茂みで野生のタヌキか何かが枝を揺らした小さな物音がした時も、紫苑が即座に視線だけで安全を確認し、問題ないと示すように静かに佇んでいたため、梓は周囲の警戒を完全に丸投げして、百パーセントの集中力を封印の調整だけに注ぎ込むことができた。
おかげで、いつもなら三十分近くかかることもある点検と補修の作業が、わずか十五分足らずで、しかもこれ以上ないほど完璧な仕上がりで完了した。
最後の印を解き、法具を鞄へとしまった梓は、くるりと振り返って満足げに胸を張った。
「はい、おしまい! 今日も特に異常なし、調整もバッチリ完了よ!」
警戒を解いた紫苑が歩み寄り、穏やかな声で尋ねる。
「お疲れ様でした。封印に問題はなかったのですね」
「そそ。一昨日も言ったでしょ、封印なんてものはね、今日も明日も何事もなく静かに終わるのが一番いい仕事なのよ」
一昨日の夜、鍋をつつきながら聞いた言葉だったが、実際にこうして彼女の緻密な仕事を目の当たりにした後では、その言葉の持つ重みと頼もしさが何倍にも増して聞こえた。
紫苑は、心の底からの敬意を込めて、梓に向かって静かに頭を下げた。
「……実に見事なお仕事でした。封印術というものが、これほどまでに繊細で高度な技術の上に成り立っているとは存じませんでした」
真っ直ぐな称賛の言葉に、梓は一瞬だけ目を丸くした後――みるみるうちに顔をほころばせて、得意満面といった様子で鼻の下をこすった。
「おっ! 分かる? いやー、同じTier0.5クラスの紫苑ちゃんにそう言われると、やっぱり分かっちゃうって感じよねー!」
「ええ。私には到底真似のできない御業かと」
「ふっふっふ、ま、あーしはこれでも御巫家の当主だからね! 伊達に小さい頃からここで修行してないわよ!」
普段はサバサバと強気なことを言っているくせに、自分の専門分野の腕前を褒められると、こんな風に尻尾が見えるくらい分かりやすくご機嫌になる。
(……あー、なんかこうして褒められて素直に嬉しそうにしてるとこ見ると、普通に可愛い人だなあ、梓さんって)
直哉は、紫苑の涼やかな微笑みの裏で、そんな風にほっこりとした親しみを感じていた。
◆
点検を終えた二人は、来た時と同じように木漏れ日の差す山道を並んで下り始めた。
すっかり機嫌を良くした梓は、軽い足取りで階段状の山道を降りながら、隣を歩く紫苑に声をかけた。
「いやー、でも今日はあんたがついてきてくれて本当に助かったわ。いつもはこの点検、一人で全部やってるからさ」
「いえ、私はただ後ろで周囲を警戒して立っていただけですので、何もしておりません」
「その『ただ後ろに立っててくれる』のが大きいのよ。あーしが細かい術の調整に集中してる間、周りの安全確認を丸ごと任せられる相手がいるっていうのは、やってみると結構びっくりするくらい楽なのよねー」
梓はそう言って、紫苑の横顔を見てニッと笑った。
「うん。あんたがいれば作業時間も半分で済むし、これからもう少し奥にある厄介な封印の点検に行く時も、また護衛を頼んでもいいかもね」
「私でお役に立てるのでしたら、いつでもお申し付けください」
最初は「八百の言うことなんか信用できないし、護衛なんていらない」と突っぱねていた梓が、一昨日の買い物に続いて、本業である封印術の仕事においても直哉を明確に『頼りになる相棒』として認め始めた瞬間だった。
紫苑は、木々の間から見える山の景色を眺めながら、しみじみと言った。
「私としても、本日は同行させていただいて大変勉強になりました」
「そお?」
「ええ。封印とは、ただ危険なものを力ずくで閉じ込めるだけの技術ではないのですね。土地の均衡を守り、多くの人々の暮らしを支えるための仕組みなのだとよく分かりました」
「そゆこと! いやー、こういう話をちゃんと分かってくれる相手がいると、あーしも説明しがいがあるわ!」
「ええ。貴重なお話をありがとうございました」
素直に頷く紫苑の腰にある白銀の太刀――神刀《月白》へと、梓がふと視線を落とした。
「……そういやさ、紫苑ちゃん。あんた今日、護衛でついてきてくれたけど、結局一回もその刀を抜かなかったわね」
「そうですね。幸い、害をなすものは現れませんでしたので」
「その刀を抜けば、そこらの山にいる怪異なんて一太刀で簡単に斬り捨てられちゃうんでしょ?」
「対象にもよりますが、大抵のものであれば十分に対処可能かと存じます」
「うんうん。でも、今日はそれを一度も抜く必要がなかった。……つまり、今日のお仕事は大成功で百点満点だったってことよ!」
梓が誇らしげに言って笑い、紫苑も「ええ、その通りですね」と柔らかく微笑み返した。
(……なるほどな。強い敵が出てきて派手にぶっ飛ばすだけが能力者の仕事じゃないって、本当にこういうことなんだな)
直哉の中でも、この青森の神社での穏やかな日々が持つ意味が、また一つ腑に落ちていた。
やがて林道の駐車スペースへと戻り、車で神社へと帰還した直哉は、人目のない客間へと入ったところで紫苑の変身を解除し、元のパーカー姿の三十四歳の男へと戻った。
すると、先ほどまでの凛とした大和撫子の空気はどこへやら、一気にいつもの直哉の砕けた口調が戻ってくる。
「いやー! それにしても梓さん、今日のあの封印の調整、本当にめちゃくちゃ凄かったですね! 俺、横で見てて感動しちゃいましたよ!」
鞄を置いて一息つこうとしていた梓は、その急激な温度差に「……あー、はいはい」と遠い目をして額に手を当てた。
「やっぱり、元の姿に戻ると、喋り方も一気にいつものナオさんに戻るわね」
「えっ、何ですかその微妙な反応!?」
「いや、さっきまであんなに上品で物静かで頼りになる美少女剣士だったのに、変身解いた途端に、一昨日お肉買いすぎて怒られてたいつものゲーム好きのおっさんに戻ったなーって思って」
「ひどいな!? さっき真面目に受け答えして褒めてた中身も、最初からずっとこの俺ですからね!?」
「分かってるわよ! 分かってるけど、見た目のギャップが激しすぎるのよ!」
ケラケラと笑い飛ばした梓は、それからポンと手を叩いて台所の方へと向き直った。
「さてと! 今日は紫苑ちゃんのおかげで予定よりずっと早く点検が終わったし、護衛のお礼に、お昼はあーしが何か美味しいものでも作ってあげるわ!」
直哉の顔が、パッと明るく輝いた。
「おお! 本当ですか!? ありがとうございます! 梓さんの料理、一昨日の鍋もめちゃくちゃ美味しかったですからね、楽しみです!」
「ふふん、そうでしょうとも! ほら、もっと褒めてもいいわよ?」
「もちろんです! 世界最高峰の封印術者にして、料理の腕前も最高峰です!」
「あはは、ちょっと大げさだけど気分いいから許すわ! 昨日は結局うどんにしなかったし、一昨日の鍋と同じ美味しいお出汁も取ってあるから、今日は約束の特製煮込みうどんにしてあげる! 手洗って待ってなさい!」
上機嫌で鼻歌まじりに台所へと向かう梓の背中を見送りながら、直哉は客間の縁側に立ち、穏やかな昼下がりの光が差し込む神社の境内を眺めた。
(……いやー、最初はガチャ石目当ての軽い気持ちだったけど、本当に青森まで来てよかったな。梓さん、話してて普通にすごく面白い人だし、俺が知らなかった仕事の勉強にもなるし)
何より、この少し寂れた静かな神社を、彼女がどれほど誇りを持って大切に守り続けているかが今日でよく分かった。
(もし本当に、ひまりちゃんが言ってたみたいなヤバい神格がここへやって来る日が来たとしても……こんないい人が一人で犠牲になるなんて結末は、絶対に俺が認めないからな。いざという時は、俺の全戦力で必ず守ってみせるぞ!)
台所から聞こえてくる包丁の軽快な音と、温め直された鍋の出汁の香ばしい匂いに包まれながら、三十四歳の居候は護衛としての決意を静かに新たにするのだった。
ここまで読んでいただきありがとうございます! もし「面白い」「続きが気になる」と思っていただけましたら、ページ下部より【お気に入り登録】や【評価】、感想などをいただけると執筆の励みになります。 作者のモチベーション上昇に直結しますので、是非ともよろしくお願いします!
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