俺の異能が中華ゲーだった ~34歳無職、ガチャで引いたキャラに変身して働きます~ 作:パラレル・ゲーマー
青森の御巫神社に居候を始めてから、五日目の朝。
ひんやりとした秋の空気が境内を満たす中、直哉は生身の三十四歳の身体で竹箒を両手に握り、石畳の上に舞い落ちた色とりどりの落ち葉をシャッ、シャッとリズミカルに掃き集めていた。
少し離れた拝殿の周りでは、白衣と緋袴の巫女装束に身を包んだ御巫梓が、同じく竹箒を動かしながら手際よく境内の手入れを進めている。
なお、直哉が維持している三身体のうち、残りの二つである御影千里とエレノア・ヴァイスは、今も東京都内のマンションに残って普段通りの生活を送っていた。今日は東京側にも急ぎの突発案件はなく、新しく買い直したゲーミングPCの環境を整えたり、八咫烏からの定期連絡を確認したりと穏やかな朝を迎えている。
直哉は、額にうっすらと浮かんだ汗をパーカーの袖で拭いながら、清々しい声で言った。
「いやー、こうして朝の澄んだ空気の中で境内を掃除するのも、結構気持ちがよくていいですね!」
拝殿の階段を掃いていた梓が、手を止めて苦笑交じりに振り返った。
「そうでしょ? ま、山の中の神社だから、今の時期は掃いても掃いても上からキリなく落ち葉が降ってくるけどねー」
「ははは、確かに。でも、日頃の運動不足の解消にもなりますし、ちょうどいいですよ!」
「……あんた、昨日は紫苑ちゃんの姿で、あーしと一緒に結構な山道をスタスタ歩いて登ってたじゃん」
「いや、昨日のあれは紫苑の身体が超人なだけで、この生身の俺自身の肉体は万年運動不足のおっさんですからね!」
「……それ、本当に同じ一人の人間が言う台詞なの?」
中身は同じでも肉体のスペックが別物なのだという直哉特有の事情に、梓が呆れたように肩をすくめた、ちょうどその時だった。
神社の入り口にある石段の方から、楽しげな話し声とともにコツコツと杖をつく音が近づいてきた。
見れば、近所に住んでいるらしき小柄なおばあちゃんが二人、朝の散歩のついでといった様子で仲良く並んで鳥居をくぐってくるところだった。二人とも、この神社には何十年も前から通い慣れている常連の参拝客なのだろう。
「あら、梓ちゃん。おはよう」
「あ、おはよー! 二人とも、今日も朝から元気ね!」
梓がパッと明るい笑顔を作って気さくに手を振る。
その自然なやり取りを見て、直哉は(へえ、実効Tier0.5の世界最高峰の封印術者って言っても、地元のお年寄りからは普通に『梓ちゃん』って呼ばれて可愛がられてるんだな)と、なんだか微笑ましい気持ちになった。
ところが次の瞬間、おばあちゃんたちの視線が、梓の少し後ろで竹箒を持って立っている見慣れない男――直哉の姿へとピタリと向いた。
「……あら? 梓ちゃん、そちらの男の人はどなた?」
「ああ、この人はナオさん。東京から来た知り合いよ。ちょっと事情があって、しばらくうちの神社に泊まってるの」
梓が何の気なしにそう紹介した途端、二人のおばあちゃんの目が、朝の太陽よりも眩しくカッと見開かれた。
「「まあああ!! 梓ちゃんのところに、男の人が泊まってるの!?」」
境内に響き渡った見事なハモりに、梓の顔がギョッとして引きつった。
「ちょ、ちょっと待ちなさいよ二人とも! 何その反応! そういう変な意味じゃないからね!?」
慌てて両手を振って否定する梓の横で、直哉は竹箒を脇に抱え直し、社会人らしく爽やかな笑顔でペコリと深く頭を下げた。
「初めまして! 森川直哉と申します。しばらくの間、こちらの神社でお世話になっております!」
ハキハキとした挨拶に、三十四歳という落ち着いた大人の年齢感、そして朝から真面目に境内の掃き掃除を手伝っている姿。
それを見たおばあちゃんたちは、一瞬で直哉に対する好感度をストップ高まで引き上げたらしく、目尻に深い皺を作ってニコニコと頷き合った。
「あらまあ、なんて礼儀正しくて優しそうな人なんだろうねえ」
「ほんとだねえ。梓ちゃん、頼りになりそうないい人が来てくれたじゃないの」
「いーやー、だーかーら! そういうんじゃないってば! 仕事の関係で客間を貸してるだけよ!」
梓が顔を赤くして弁明するが、長年彼女を孫のように見守ってきたおばあちゃんたちの耳にはまったく届いていない。
もう一人のおばあちゃんが、しみじみと嬉しそうに言った。
「でもねえ、梓ちゃんがこうして誰かと一緒に社務所で暮らすなんて、本当に珍しいことだからねえ。いつも一人でこんな広い神社を守って頑張ってたから、私たちも安心したよ」
その言葉には、普段からたった一人で古い社と土地の役目を背負い続けている若い梓のことを、地元の人たちがどれほど気にかけ、温かく見守ってきたかが滲んでいた。もちろん、梓本人は自分の仕事に誇りを持っており、一人暮らしを寂しがって泣いていたわけなどないのだが、周囲の人間からすればこうして働き手の男性が増えたこと自体が喜ばしいニュースなのだろう。
直哉も、そんな温かい空気にすっかり気を良くして、人懐っこい笑顔で言葉を返した。
「いやー、そう言っていただけると嬉しいです。でも実際は、俺の方が梓さんに毎日お世話になりっぱなしなんですよ。梓さん、家事も手際がいいですし、作ってくれる料理も本当に美味しくて、毎日ありがたい限りです!」
「まあまあまあ! 梓ちゃんの手料理も毎日食べてるの!?」
「はい! 三日前の夜に作ってくれた特製の寄せ鍋なんて、出汁が絶品で最高でしたよ!」
「あらあらあら! もうすっかり息もぴったりじゃないの!」
キャッキャと黄色い声を上げて盛り上がるおばあちゃんたちの横で、梓がガバッと直哉の方へ振り返り、わなわなと指を突きつけた。
「ちょっとナオさん!! あんた、そこで余計な燃料を投下しなくていいから!!」
「えっ!? 俺、今なにか変なこと言いました!? 鍋が美味しかったって褒めただけなんですけど!」
「それが余計なのよ! あーもう、頭が痛いわ……!」
一人でこめかみを押さえて呻く梓と、なぜ怒られたのか分からずキョトンと首を傾げる直哉。
その夫婦漫才のようなやり取りを微笑ましそうに眺めた後、おばあちゃんたちは拝殿で丁寧にお参りを済ませると、「梓ちゃん、いい人が来てくれて本当によかったねえ」「だから違うってば!」と最後まで賑やかな笑い声を残して石段を下りていった。
その小さな背中を見送りながら、直哉はほっこりとした顔で言った。
「いやー、お二人とも元気で、すごくいい人たちですね!」
「……ほんっと、あんたはどこまでも気楽で羨ましいわよ……」
梓は深いため息をつきつつも、まんざらでもなさそうに口元を緩めて竹箒を握り直すのだった。
◆
朝の掃き掃除を一通り終えた二人は、社務所の縁側に並んで腰を下ろし、熱いお茶をすすりながら一息ついていた。
梓は、掃除中に少し緩んだ後ろ髪のリボンを一度解き、手櫛で長い黒髪を整えながらまとめ直している。
十月も下旬に入り、青森の山あいの空気は日増しに乾燥し始めていた。どれほど元が美しく艶のある黒髪であっても、これだけ長く伸ばしていれば、毎日の手入れや乾燥対策にはそれなりの手間がかかるのだろう。
自分の毛先を指でくるくると弄んでいた梓は、ふと何かを思い出したようにピタリと手を止め、隣でお茶を飲んでいる直哉の方を向いた。
「……あ、そうだ。ねえナオさん」
「はい? なんでしょう」
「三日前、スーパーで買い物した時に話してた、あの『飲むだけで髪の毛がサラサラになるお薬』の話なんだけどさ」
「ああ! 《潤髪丹》のことですか?」
「そそ、それ! あれ、あーしにも作ってくれるって約束したじゃん?」
「もちろん、ちゃんと覚えてますよ!」
「ほんと? じゃあさ、あれ、いつ作ってくれるの?」
先ほどまでおばあちゃんたちにからかわれてぷりぷりしていたのが嘘のように、梓が身を乗り出して期待に満ちた目を向けてくる。やはり、世界最高峰の封印術者であっても、二十代の女性として美容の秘薬には並々ならぬ関心があるらしい。
直哉は湯呑みを縁側に置くと、快く頷いた。
「じゃあ、せっかくですし、今日さっそく診察だけでもやっちゃいましょうか!」
「マジで!? やった!」
梓の整った顔がパッと華やかに明るくなった。
「ただ、三日前も言いましたけど、飲む人の体質や現在の髪の状態にぴったり合うように一から処方を組む必要があるんで、まずは例の仙薬師の『白芷』の姿に変身して、梓さんの状態を診察させてください」
「うんうん! 全然それでいいわよ!」
「それと、診察した結果、今の手持ちの薬材だけじゃ足りない場合は東京から取り寄せることになるんで、実際にお薬が完成するのは数日後になるかもしれませんけど、大丈夫ですか?」
「それくらい喜んで待つわよ! オーダーメイドの特別な薬なんでしょ、今日中じゃなきゃ嫌だなんてワガママ言わないわよ!」
自身も精密な準備を要する封印術の専門家であるだけに、梓はそのあたりの手順の重要性をすぐさま理解してくれた。
二人はそのまま縁側から立ち上がり、外部からの視線が入らない社務所の客間へと移動した。
襖を閉め、周囲に誰もいないことを確認してから、直哉は生身の身体をそのまま切り替える変身を発動させた。
『【CHARACTER CHANGE】』
淡く美しい翡翠色の光と、清涼な薬草の香りを伴う白い霞が客間の中へとふわりと広がる。
数秒後、光が収まった畳の上に立っていたのは、三十四歳の男ではなく、腰まで流れる白銀の長髪と、澄み切った翡翠色の瞳を持つ絶世の美女――★★★★★、神級仙薬師《白芷(ジー)》だった。白と翡翠を基調とした大陸風の優雅な仙衣が、彼女の浮世離れした気品を際立たせている。
白芷の姿となった直哉は、柔らかな慈愛の微笑みを浮かべると、目の前の梓に向かって流れるような所作で一礼した。
「初めまして、梓様。白芷と申します。本日は、よろしくお願いいたしますね」
鈴を転がすような優しく澄んだ声が客間に響く。
座布団の前に立っていた梓は、その姿をまじまじと見つめたまま、三秒ほど完全にフリーズした。
「…………」
「梓様?」
「……え、ちょっと待って」
「はい?」
「また、とんでもない美人!?」
梓が思わずといった様子で叫び、白芷の柔和な笑顔の裏で直哉が(……いや、第一声がそれかよ!?)と内心でツッコミを入れた。
三日前に見た黒髪和風美少女の九条紫苑、そして長身美青年の白峰レイジ。それだけでも美形揃いで驚いていたのに、三人目として出てきたのが、まるで神話の絵画から抜け出してきたような銀髪の仙女だったのだ。
梓は、自分の頬を軽くつねりながら、半ば呆れたように言った。
「……ねえ、あんたさ。なんでそんなに、どいつもこいつもモデル顔負けの美男美女の変身先ばっかり持ってんのよ!?」
「ふふ。そのようにお褒めいただき、光栄でございます」
(いや、俺に文句言われても困るんだけど!? そういうハイエンドな中華キャラゲー風のガチャから出てきた結果なんだから、美男美女ばっかりなのは仕様なんだよ!)
心の中で必死に弁明する直哉と、目の前の仙女の美貌に圧倒されて目を白黒させている梓。
こうして、少しばかり賑やかな雰囲気の中で、神級仙薬師による特別診察が始まったのだった。
◆
客間の座布団に向かい合って座り、白芷はまず、少し緊張した面持ちで背筋を伸ばしている梓へと優しく微笑みかけた。
「それでは梓様、まずはお身体全体の気の流れと、現在の髪の状態を確認させていただきますね。どうぞ、お楽になさってください」
「う、うん。お願いね」
昨日の山中での封印点検では、梓が先輩として紫苑に封印術のイロハを教えていたが、今日は立場が逆転し、梓が白芷の専門技術を体験する番だった。
白芷が《万象丹炉》の解析能力を静かに発動させ、翡翠色の瞳で梓を見つめる。
もちろん、この診察の目は、梓が受け継いでいる御巫家の門外不出の封印術の構造や、魂の奥底の秘密までを勝手に暴き出すような侵略的なものではない。あくまで仙薬師として、目の前の患者の健康状態や栄養の巡り、そして処方する薬材との適合性を読み取るための医療の目だ。
数秒間の観察だけで、直哉の頭の中には、白芷の膨大な薬学知識を通じた正確な診断データがスッと浮かび上がってきた。
さすがは公式Tier1、実効Tier0.5を誇る高位能力者と言うべきか、梓の基礎的な肉体と生命力は驚くほど健やかで充実している。以前診察した玲蘭のように、強い精神的ストレスによるダメージが残っているわけでも、霧島のように過労で胃が悲鳴を上げているわけでもない。
ただ、毎日欠かさず神社の外の冷たい風の中で働き、これだけ長い黒髪を維持しているため、どうしても毛先の部分にわずかな水分の不足と、季節の変わり目特有の乾燥による細かな傷みが生じ始めていた。
白芷は、梓の肩口にかかった黒髪の毛先をそっと白い指先で受け止めながら、穏やかな声で診断結果を告げた。
「お身体そのものは、大変健やかでいらっしゃいますね。気の巡りも非常に力強く、整っておられます。お髪も普段から丁寧にお手入れされていて十分に美しいのですが……やはり、これからの乾燥する季節柄、毛先にわずかな水分の不足が見られますので、今回はそこを重点的に潤し、保護する処方がよろしいかと存じます」
「へえー! ちょっと顔と髪を見ただけで、そこまで細かく分かっちゃうんだ!」
「はい。梓様のお身体の性質に合わせて薬材の配合を微調整すれば、お身体に余計な負担を一切かけることなく、今よりもさらに滑らかで艶やかな状態へと整えることができますよ」
それを聞いた梓の瞳が、キラキラと好奇心で輝いた。
「ねえ、それってさ、トリートメントみたいに髪に直接塗るんじゃなくて、丸薬を飲むんでしょ?」
「ええ。外側から一時的に表面を覆うのではなく、内側から気血と栄養の巡りを整えることで、新しく生えてくる髪から毛先に至るまで、髪質そのものに直接作用するよう調薬いたします」
「へー! じゃあさ、同じ『髪が綺麗になる薬』でも、体質が違う別の人には同じ配合の薬は出せないってこと?」
「おっしゃる通りです。同じ目的のお薬であっても、飲む方の体質やその時のお身体の陰陽のバランスによって、最適な薬材の組み合わせと分量はまったく異なってまいりますから」
白芷の丁寧な解説に、梓は「なるほどねー!」と深く頷いて膝を打った。
「そういうところ、あーしらの封印術とすごく似てるかも! 封印もさ、『ただ閉じ込めればいい』って既存の型をそのまま当てはめるだけじゃダメで、相手の性質とか土地の霊脈のクセを正確に読み取って、一つ一つオーダーメイドで術式の配合を変えないと綺麗に決まらないのよ」
白芷は、ふわりと嬉しそうに目を細めて微笑んだ。
「ふふ。確かに、まず対象の本質を正しく理解し、それに寄り添って形を整えることが何より重要という点では、封印の術も仙薬の道も、深く通じるものがございますね」
一方はあらゆるものを封じ込める世界最高峰の封印術者であり、もう一方はあらゆる素材から奇跡の薬を生み出す神級の仙薬師。
分野こそ違えど、それぞれの道の頂点にある技術体系に触れたことで、梓は単に「美容の薬がもらえて嬉しい」というだけでなく、白芷が扱う調薬技術の途方もない緻密さと高度さを肌で理解し、心からの敬意を抱いたようだった。
……だが、そんな風にハイレベルな専門家同士の優雅な対話がしばらく続いた後。
梓は、目の前で上品に微笑んでいる白銀の仙女の顔をじーっと見つめ、ふと我に返ったように真顔で言った。
「……というかさ」
「はい? なんでしょうか」
「今、あーしらめちゃくちゃ専門的で高尚な術理の話をしてるけどさ……これ、喋ってるの中身は全部ナオさんなのよね?」
白芷は、完璧な微笑みを一ミリも崩さずにコクリと頷いた。
「ええ。まぎれもなく、私自身でございますよ」
「……やっぱ、どう考えても信じらんないわー!」
「あら、何か問題でもございましたか?」
「問題しかないわよ! こんな神々しくて優しそうな絶世の美女の口から、そんな凄い薬学の話が出てるのに、中身はこの前スーパーの精肉売り場で『鶏肉のジャンボパック三つ買いましょう!』って騒いで怒られてた三十四歳のおっさんと同じなんだと思うと、あーしの頭の中が混乱するのよ!」
白芷の涼しい顔の裏で、直哉が(……なんで毎回毎回、あの鶏肉買いすぎた話を蒸し返すんだよ!? あれは鍋を豪華にしたかっただけだろ!)と涙目で抗議した。
しかし、白芷の声帯を通すと、そんな内心の叫びも「ふふ、お肉がたくさんあった方が、お鍋は美味しいですからね」という、どこまでも優雅で包容力に満ちた言葉へと自動変換されてしまうのだから仕様がない。
梓は「その顔と声で言われると余計に腹筋に悪いわ!」とひとしきり笑った後、改めて白芷と向き直った。
「それでは、本日の診察結果をもとに、梓様専用の《潤髪丹》の処方を組ませていただきますね」
「やった! 楽しみにしてるわね!」
今回の調薬に必要なのは、怪異の肉片のような危険な超常素材ではなく、一般的な漢方薬局でも手に入る良質な生薬の組み合わせだ。ただ、梓の力強い気の流れに合わせるための生薬が数種類ほど手持ちに足りなかったため、直哉は東京にいるエレノアの身体を使って都内の老舗漢方薬局へ買い出しに行かせ、宅急便で青森の神社へと発送させる手配を整えたのだった。
◆
それから数日後。
東京から発送した追加の生薬一式が無事に神社へと届き、直哉は再び客間で白芷の姿へと変身していた。
座卓の上には、小分けにされた乾燥薬草や木の実が綺麗に並べられており、その横で梓が正座をしてワクワクと目を輝かせながら作業を見守っている。
今回は、以前行った腕の完全再生のような大掛かりで危険な超常医療ではなく、あくまで健康な梓の髪質を内側から極上の状態へと整えるための穏やかな美容処方だ。専用武装の薬鼎まで仰々しく取り出す必要はない。
それでも、ただ材料を適当に混ぜれば勝手に完成するわけではない。
白芷が並べられた生薬の上へと静かに両手をかざし、《万象丹炉》の淡い翡翠色の光を展開する。
それぞれの植物が持つ微細な性質を見極め、不要な雑味やアクを光の中で丁寧に分離して取り除き、梓の体質に最も馴染む有効成分だけを純粋な形で抽出していく。そして、複数の性質が反発し合わないよう絶妙なバランスで融合させ、一粒の小さな丸薬へと凝縮させていく。
横でじっとその光景を見つめていた梓が、感嘆の息を漏らした。
「……へえー。これが神級仙薬師の調薬なんだ。火も鍋も使ってないのに、薬草の中のいい力だけが綺麗に抜き出されて、一つの結晶みたいにまとまっていくのが、あーしの目で見ても分かるわ」
「ふふ。梓様のお身体に最も優しく馴染み、お気に召していただけるよう、心を込めて丁寧にお作りしておりますよ」
「あー、もう! そんな風に言われたら、ますます期待しちゃうじゃない!」
やがて翡翠色の光がスッと収束し、座卓の上の小皿に、透き通るような淡い翠色をした真珠のように美しい一粒の丹薬がコロンと姿を現した。
白芷はそれを小さなガラス容器に収めると、両手で梓へと差し出した。
「お待たせいたしました。こちらが、梓様専用に調合いたしました《潤髪丹》でございます」
「おおお……! なんか宝石みたいに綺麗ね!」
梓は目を輝かせて受け取ると、「これを飲めば、あーしの髪もシルクみたいにサラサラになるのね!」と確認し、用意してあったコップの水と一緒にすぐさまコクリと飲み込んだ。
ごくん、と喉を鳴らした後、梓は自分の黒髪を両手で触りながら、少しそわそわとした様子で首を傾げた。
「……あれ? まだ何も変わんないわね?」
「ふふ。劇薬ではございませんので、お身体の隅々まで穏やかに作用が行き渡るまで、もう十数分ほどお待ちくださいませ」
「分かってるけど、目の前で作ってもらったら早く確かめたくて気になるじゃん!」
子供のようにウズウズしながらお茶を飲んで待つこと、十数分。
ふと、梓が何気ない仕草で、自分の肩に垂れていた黒髪の一房へ指先を通した。
するり。
いつもなら乾燥するこの時期にはわずかに感じるはずの毛先の引っかかりが、嘘のように消え失せ、まるで水の中を滑るように指が通り抜けた。
「…………あれ?」
梓の動きがピタリと止まる。
もう片方の手で、後ろの長い髪全体を根本から毛先までゆっくりと撫で下ろしてみる。
するする、さらさら。
「……えっ?」
梓は弾かれたように立ち上がると、部屋の隅に置いてあった姿見の前へと駆け寄り、鏡の中の自分の姿を食い入るように覗き込んだ。
もともと手入れの行き届いた綺麗な黒髪ではあった。
しかし今、鏡に映っている彼女の髪は、障子越しの柔らかな光を受けて、まるで最高級の黒真珠か黒繻子(くろしゅす)のようにしっとりと深い艶を放ち、頭を少し動かすだけで、空気を含んだようにふわりと滑らかに揺れ動いていた。
「……ちょっと待って! なにこれ!? めちゃくちゃサラサラなんだけど!!」
鏡の前で自分の髪を両手で持ち上げ、パッと離してはサラサラと流れ落ちる感触を確かめていた梓が、信じられないといった顔で振り返った。
白芷が、座布団の上から優雅に微笑みかける。
「ふふ。いかがでしょう、お気に召していただけましたか?」
「気に入るとかそういうレベルじゃないって! えっ、なにこれ凄い! 毛先のパサつきが一個もなくなって、自分の髪じゃないみたいに指が通るんだけど! 本当に凄いわよこれ!!」
以前、紅城院玲蘭に同じ《潤髪丹》を処方した時は、お嬢様らしく最初は上品に驚き、それから徐々に年相応の笑顔を見せてくれたものだった。
だが、気さくな梓の場合は、最初から遠慮ゼロで全身を使って喜びを爆発させていた。鏡の前でくるりと回って髪の揺れ具合を確かめたり、何度も自分の頬に髪の束をすり寄せたりして、無邪気にはしゃいでいる。
(……いやー、ここまでストレートに大喜びしてもらえると、作ったこっちとしても本当に嬉しいなあ!)
直哉が内心でホクホクと満足感に浸っていると、梓は鏡の前から戻ってきて、感服したように白芷の手をギュッと握った。
「これ、ほんっとうに凄いわね! あーしの封印術をどれだけ極めたって、髪の毛をこんなにツヤツヤにするなんて芸当は絶対にできないし!」
「ふふ。梓様の精緻な封印術も、私には到底真似のできない素晴らしい御業でございますよ」
「いやいや、今日ばっかりはあんたの完全勝利だわ! ありがとね、ナオさん……じゃなくて、白芷ちゃん!」
勝ち負けの問題ではないのだが、自分の専門外の技術を素直に「あんたの勝ちだ」と笑って称賛できる梓の気風の良さが、直哉にはとても心地よかった。
◆
そして、梓が《潤髪丹》を服用した翌日の朝。
いつものように境内の掃き掃除の時間となり、生身の三十四歳の姿に戻った直哉は、梓と一緒に石段の周りの落ち葉を集めていた。
梓の長い黒髪は、今日も普段通りに後ろで一つにまとめられている。しかし、朝日を浴びて輝くその髪の艶と、風に揺れるたびの滑らかな動きは、昨日までとは遠目に見ても明らかに違っていた。本人も朝から気分がいいらしく、竹箒を動かす手つきまでどこか弾んでいる。
そこへ、数日前と同じように、近所の常連である二人のおばあちゃんが石段を登って参拝にやってきた。
「あら、梓ちゃん、ナオさん。おはよう」
「あ、おはよー! 今日もいい天気ね!」
梓が笑顔で挨拶を返した、その直後だった。
先頭を歩いていたおばあちゃんが、梓の顔と髪を見て、ふと足を止めて目を細めた。
「……あら? 梓ちゃん、なんだか今日……」
「ん? どうしたの?」
「あんた、髪の毛がずいぶん綺麗になったんじゃないかい?」
その一言が飛び出した瞬間、梓の顔がパッと花が咲いたように輝いた。
「えっ! やっぱり見て分かる!?」
「そりゃ分かるわよー! 昔から綺麗な黒髪だったけど、今日は一段とピカピカに艶があって、まるでCMの女優さんみたいじゃないの!」
もう一人のおばあちゃんも、近くまで歩み寄ってきて感心したように目を丸くした。
「ほんとだねえ、見惚れちゃうくらい綺麗だよ。何か東京の新しい高級なお手入れでも始めたのかい?」
褒められてすっかり気を良くした梓は、竹箒を片手に持ったまま、えっへんとばかりに胸を張って得意げに言った。
「ふふん! 実はね、これ、ナオさんがあーしのために特別に作ってくれたお薬のおかげなのよ!」
「…………」
二人のおばあちゃんの視線が、くるりと音を立てんばかりの勢いで、隣に立つ直哉へと集中した。
直哉は、事情をよく飲み込めないまま、愛想よくニコッと笑って頭を下げた。
「いやー、お役に立てて、こんなに喜んでもらえたなら作った甲斐がありましたよ!」
おばあちゃんたちは、互いに顔を見合わせると、先日以上に深い、すべてを察したかのような温かな笑みを浮かべた。
「あらまあああ……!」
「ナオさん、お料理を褒めてくれるだけじゃなくて、梓ちゃんの髪の毛が綺麗になるお薬まで手作りしてくれるの?」
「ええ。梓さんには毎日美味しいご飯を作ってもらったりして本当にお世話になってますからね、これくらいのお礼は当然ですよ!」
「まあまあまあ! なんてマメで優しい人なんだろうねえ!」
おばあちゃんたちが大盛り上がりする横で、梓は自分が口走った言葉を思い返し、みるみる顔を赤くした。髪を褒められた嬉しさで直哉の薬を自慢したせいで、先日からの誤解をますます加速させてしまったのだ。
一人のおばあちゃんが、嬉しそうに梓の肩をぽんぽんと叩く。
「梓ちゃん、女の子の髪のことまでそんなに大事に気にかけてくれる人が来てくれて、本当に幸せ者だねえ」
「ち、違うってば!! そういうロマンチックな話じゃなくて、この人がそういう薬に詳しいから頼んで作ってもらっただけなの!!」
必死に否定する梓の横で、直哉はなぜそんなに否定するのか分からないまま、朗らかにフォローを入れた。
「でも本当に、梓さんの髪は元からすごく綺麗でしたから、ちょっとお薬で手助けしただけで見違えるようになって、俺も嬉しいですよ!」
「まあまあ、聞いたかい? 元から綺麗だったってよ!」
「ちょっとナオさん!! あんたはもう黙ってて! 一言も喋らなくていいから!!」
「ええっ!? なんでですか!? また俺、何か変なこと言いました!?」
頭を抱えて呻く梓と、本気で不思議そうに首を傾げる直哉。
そのやり取りを見てケラケラと楽しそうに笑っていたおばあちゃんの一人が、ふと優しい目をして梓の顔を見つめた。
「でもねえ、梓ちゃん。あんた、ナオさんがここに来てから、本当によく笑うようになったねえ」
「……え?」
思いがけない言葉に、梓がピタリと動きを止めて目を瞬かせた。
「この前来た時もそうだったけど、今日は一段と顔が明るくて楽しそうだよ」
もう一人のおばあちゃんも、深く頷いて言葉を添えた。
「そうだねえ。やっぱり、一人で黙々と頑張ってるより、こうして誰かと一緒に暮らして賑やかにしてる方が、ずっと素敵だよ」
それは、無理に二人を恋人同士だと決めつけて冷やかすような言葉ではなかった。
ただ、幼い頃から知っている梓が、以前よりもずっと柔らかい表情で毎日を楽しそうに過ごしている。その確かな変化を、地元の年長者として純粋に喜んでくれている温かい言葉だった。
だからこそ、梓も今度は「違う!」とムキになって否定する気にはなれなかった。
サラサラになった自分の黒髪の毛先にそっと指を触れながら、梓は少しだけ視線を逸らして、小さく呟いた。
「……まあ、ナオさんが来てから、毎日が結構楽しいのは確かだけどさ」
その素直な一言を聞いて、おばあちゃんたちはまた「ふふふ、よかったねえ」と嬉しそうに目を細めた。
すると、隣で聞いていた直哉が、何のてらいもない満面の笑みで大きく頷いた。
「いやー、俺もこっちに来てから毎日すごく楽しいですよ!」
あまりにも真っ直ぐで曇りのない声に、梓は思わず直哉の顔を見た。
直哉にとっては、お世辞でも何でもない百パーセントの本心だ。封印術という未知の専門技術の勉強もできたし、梓の手料理は毎日美味しいし、こうして一緒に掃除をしたり軽口を叩き合ったりする時間も楽しい。そして客間に戻れば、完璧な環境でゲームもできる。直哉にとって、この青森の神社での暮らしは、予想していた以上に快適で充実したものになっていたのだ。
「じゃあ、二人とも、これからも仲良く暮らすんだよー」
「……もう! だから、そういうんじゃないって言ってるでしょ!」
最後まで元気よくツッコミを入れながら、二人は参拝を終えたおばあちゃんたちを笑顔で見送ったのだった。
◆
参拝客の姿が石段の下へと見えなくなった後、二人は掃き掃除の仕上げを済ませ、社務所の縁側に並んで腰を下ろした。
秋の澄んだ風が境内を吹き抜け、遠くの山で野鳥の鳴く声が聞こえる。
梓は温かい番茶の湯呑みを両手で持ち、ふーっと小さく息を吐いた。
「……はあ。もう、ほんっと田舎って噂が広まるのが早いんだから。今頃、麓の町中で『御巫の巫女さんのところに東京からいい人が来た』って話が回ってるわよ」
「ははは、いやー、でもあのおばあちゃんたち、本当に親切でいい人たちですね!」
「……あんたねえ、なんで毎回そんなに気楽なのよ」
呆れたように言われ、直哉は不思議そうに首を傾げた。
「え? だってあのお二人、梓さんのことを昔から見てきて、本当に家族みたいに大切に思ってるんでしょう?」
「……まあ、それはそうだけど」
「そういう人たちが、梓さんが楽しそうにしてるのを見て喜んでくれてるんだから、すごくいいことじゃないですか!」
直哉にそう言われ、梓は少しの間だけ黙って湯呑みの中のお茶を見つめた後、ふっと力を抜いて柔らかく笑った。
「……まあね。あーしがちっちゃい頃から、ずっとこの神社に通ってくれてる人たちばっかりだから。あーしの前じゃ好き勝手言ってるけど、本当にありがたいとは思ってるわよ」
そこから二人は、お茶を飲みながら少しだけこの土地の日常の話をした。
梓が幼い頃からこの社務所で先代のお婆ちゃんに鍛えられて育ったこと。参拝客は少なくても、あんな風に近所の人たちが季節の野菜を持って立ち寄ってくれたり、世間話をしていったりすること。
何か劇的な事件があるわけではない、ごく普通の、けれど梓がずっと大切にしてきた暮らしの話だった。
しばらくそんな穏やかな会話を交わした後、梓が湯呑みを縁側に置いて、ぽつりと言った。
「……でも、まあ」
「はい?」
「さっきおばあちゃんたちにも言ったけど、ナオさんがここに来てから、あーしも結構楽しいのは確かかもね」
直哉がぱっと笑顔になる。
「おお! そう言ってもらえると、居候としてもよかったです!」
「最初はさー、あのいい加減な八百がまた変なこと言い出したと思ってたし、あんたも着いた初日からゲーミングPCがどうとかばっかり言ってるし、『なんなのこの変な男!』って思ってたけど」
「……いや、その節は本当に申し訳ありませんでした!」
「あはは、別に怒ってないってば!」
梓はケラケラと声を立てて笑い、サラサラに輝く黒髪を風に揺らしながら直哉を見た。
「でも、こうして一緒にスーパーへ買い物に行ったり、山の中の封印の仕事を手伝ってもらったり、毎日ご飯食べながら喋ったりしてると……なんだかんだ、一人でいた時より結構楽しいのよね」
直哉も、心の底から同意して大きく頷いた。
「俺もすごく楽しいですよ! 梓さんと話してると飽きなくて面白いですし、作ってくれる料理は毎日美味しいですし!」
「……また料理の話? あんた、あーしのこと都合のいい料理番だと思ってないでしょうね?」
「いやいや! この前の封印術のお仕事も、めちゃくちゃカッコよくて勉強になりましたって!」
「あはは! 分かってるわよ、冗談よ!」
梓は楽しそうに吹き出すと、少しだけ目元を和らげて微笑んだ。
「……ま、髪もこんなに綺麗にしてもらったことだし。これからも、しばらくよろしくね。ナオさん」
「こちらこそ! よろしくお願いします、梓さん!」
梓は温かな湯呑みを手に取り、隣で笑う直哉にちらりと目をやった。神社の静けさは変わらない。それでも、笑い声が一つ増えただけで、いつもの縁側が少しだけ賑やかに感じられた。
(……いやー、青森に来る前はどんな厳しい場所かと思ってたけど、来てみたら思った以上に毎日楽しいな)
直哉は、美味しい番茶をもう一口すすりながら、秋の青空を見上げた。
(梓さん、実力はとんでもなく強いし、話しててサバサバしてて面白いし、飯も最高にうまいし。……ひまりちゃんが言ってた神格の件さえ、いざという時に俺がしっかり守って解決できれば、しばらくこういう神社暮らしを続けるのも悪くないよな)
穏やかな秋風が吹き抜ける縁側で、二人の笑い声がまた静かな境内へと響いていった。
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