俺の異能が中華ゲーだった ~34歳無職、ガチャで引いたキャラに変身して働きます~   作:パラレル・ゲーマー

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第8話 Tier4能力者の制圧依頼が来ました

 火曜日の夜。

 

 鳴海伊織としての初仕事である、山林での異界性生物個体数調整の業務を終えて実家へ帰還した直哉は、夕食と入浴を早々に済ませ、自室のベッドに腰掛けていた。

 

 今日の仕事で得た疲労は、心地よいものだった。

 

 風呂上がりの髪を適当に乾かしながら、彼が真っ先に向き合うのは当然、自身の能力システム《因果集結クロニクル》の画面だ。

 

 現在の所持資源リスト。

 

『因果晶:1,600』

『《育成記録・初級》×22』

『クレジット:27,000』

 

 そして、現在の編成状況。

 

『FORMATION 01』

『SLOT 1:★★★★ 東雲セナ Lv.20』

『SLOT 2:★★★★ 鳴海伊織 Lv.1』

『SLOT 3:EMPTY』

 

 直哉は、昨日ガチャを回した直後から保留にしていた一つの作業に手を付けた。

 

「よし、伊織の育成をやっておくか」

 

 今日の仕事で手に入れた育成素材を使って、Lv1のまま据え置いていた鳴海伊織のレベルを引き上げる。

 

 セナをLv20まで強化した時と全く同じ手順だ。

 

『《育成記録・初級》×20を使用します』

『消費クレジット:20,000』

『実行しますか? YES』

 

 黄金色の光が画面を包み、レベルアップのファンファーレが鳴る。

 

『★★★★ 鳴海伊織』

『Lv.1 → Lv.20』

『HP:2,180 → 3,130』

 

 これで手持ちの素材はほぼ空になった。

 

『《育成記録・初級》×2』

『クレジット:7,000』

 

 直哉はステータス画面を見つめて、満足げに頷いた。

 

「よしよし。これで二人ともレベル20の初期上限まで育ったな」

 

『★★★★ 東雲セナ Lv.20 HP 3,430』

『★★★★ 鳴海伊織 Lv.20 HP 3,130』

 

 二人の頼もしいキャラクターが、自分のインベントリの中に肩を並べている。

 

 そして、直哉の視線が自然と画面の右上――『因果晶:1,600』の数字へとスライドした。

 

 ガチャのタブを一瞬だけ開く。

 

 限定バナーに輝く『10回集結』のボタン。石は足りている。今すぐ押せば、★4以上のキャラクター保証を一回踏める。

 

 だが。

 

 直哉はふうと息を吐き、静かにそのタブを閉じた。

 

「……貯めるって決めたんだから、今日はいい」

 

 今日の帰り道に決断した方針だ。天井を見据えて石を貯めると決めた以上、ここで誘惑に負けて無駄撃ちを長々と繰り返すような真似はしない。

 

 直哉はシステム画面をスッと消去し、そのままベッドに横になって深い眠りについた。

 

 翌日、水曜日の朝。

 

 午前九時前後。

 

 両親はすでに仕事へ出ている。直哉は一人で朝食のトーストとコーヒーを済ませた後、自室のデスクでスマートフォンを開いていた。

 

 立ち上げているのは、もちろん『能力者向け求人アプリ』だ。

 

 無職になってからの十一ヶ月間、午前中から求人サイトを開くことすら胃が痛くて億劫だったというのに。今の彼は、(今日はどんな仕事があるかな)と、まるで週末の遊びの予定でも探すかのような軽い感覚で、普通に仕事のリストを眺めていた。

 

「俺自身、ずいぶん真面目に働くようになったもんだな……」

 

 一人で苦笑しながら、画面をスクロールさせる。

 

 異界の定期調査。特別施設の警備。要人の護衛。怪異対応。特殊な呪物の物資運搬。

 

 様々なカテゴリの仕事が並ぶ中、直哉の指が、ある一つの目新しい表示でピタリと止まった。

 

『【追加開放案件】』

 

 直哉は眉をひそめた。

 

「……追加開放?」

 

 これまで二日間アプリを見てきたが、そんな赤いタグのついた案件は初めてだった。

 

 直哉は詳細タブをタップして中身を開いた。

 

『【能力者制圧協力】』

『案件番号:TK-PS-0317』

『業務区分:対能力者・身柄確保』

『業務地域:東京都内・品川区方面』

『業務形態:単独』

 

『対象:登録能力者 1名』

『対象登録Tier:Tier4』

『対象戦闘適性:あり』

『対象状態:所在確認済み/逃走中』

 

『受注条件:登録Tier3以上/近接戦闘適性保有』

『初期募集区分:Tier4能力者向け』

『現在募集区分:Tier3能力者へ追加開放』

 

『業務内容:対象能力者の武力抵抗の排除、および身柄の確保』

『殺傷:原則禁止』

『現場周辺:警察秘匿対応部門による封鎖済み』

『確保後処理:現地担当者への引き渡し』

『想定拘束時間:約2時間』

『報酬:80,000円』

 

 直哉は画面のテキストを何度か読み返し、明確な違和感を覚えた。

 

「相手はTier4の能力者なのに……なんで受注条件が『Tier3以上』になってるんだ?」

 

 さらに募集区分の項目を見る。

 

『初期募集区分:Tier4』

『現在募集区分:Tier3追加開放』

 

 意味はなんとなく分かる。

 

「なるほど。最初はTier4の能力者向けに募集を出してたけど、誰も受けなかったから、上のTier3にまで募集枠を広げたってことか?」

 

 直哉はこの時点では、八咫烏の仕事の正確な配信システムやルールについて完全には理解していなかった。だが、業務内容自体は非常にシンプルで分かりやすいものだった。

 

 対象は能力を使った傷害事件か何かを起こし、逃走中のTier4能力者一人。

 現在は人気の少ない倉庫か事業用施設に逃げ込んでおり、所在は確認済み。

 周辺はすでに一般人を退避させ、警察側が封鎖し、八咫烏の担当者も現場に入っている。

 

 直哉がやるのは、その封鎖された建物の中に入り、抵抗してくる相手を戦闘で制圧して引っ張り出すことだけ。その後の逮捕や面倒な事情聴取、法的な処理などは全て担当者がやってくれる。

 

 完全な『戦闘部分だけの外注』だ。

 

 直哉は腕を組んで考え込んだ。

 

 これまでの説明を思い返す。

 

 自分自身の公的な能力評価は『暫定Tier3』。

 東雲セナのプロフィールにも『現地登録Tier:3』と明記されている。

 昨日確認した鳴海伊織も『現地登録Tier:3』だ。

 

 対して、今回の捕縛対象は『Tier4』。

 

 もちろん、八咫烏の霧島が言っていた通り、Tierの数字は絶対的な戦闘力の勝敗表ではない。能力の相性もあるし、相手は実戦の経験が豊富な犯罪者かもしれない。条件や制約次第では、格下のTier4が格上のTier3を食うことだって十分にあり得る世界だ。

 

 それでも。

 

 少なくとも、通常であればTier3の側が有利とされる組み合わせであることは間違いない。

 

 直哉の胸の中に、静かな闘志が湧き上がってきた。

 

(初めての『対人』……人間の能力者との実戦になるけど。相手がTier4なら、今のセナの身体なら普通にいけるんじゃないか?)

 

 少し迷った。だが、報酬も八万円と破格だ。昨日の灰甲猪の駆除が七万円だったことを考えれば、たった二時間の拘束でこの金額はおいしすぎる。

 

 直哉は画面下部の青いボタンを押した。

 

「受注っと」

 

『応募を受理しました』

 

 数十秒後。

 

『受注確定』

 

 今日の仕事が決まった。

 

 直哉はすぐに、対象能力者の詳細データに目を通した。

 

 複雑な能力ではなかった。

 

 山岸拓真。28歳。

 登録Tier4。能力の種別は覚醒型で、『衝撃増幅』。

 

 自分の放った打撃によって発生する物理的な衝撃を、因果的に数倍に増幅して対象へ叩き込む能力らしい。

 拳、蹴り、あるいは手に持った鈍器。相手や物に接触して衝撃さえ成立させられれば、分厚いコンクリートの壁すら砕くことができる。

 

 普通の人間がまともに食らえば一撃で内臓が破裂する、極めて危険で実戦的な能力だ。加えて、山岸本人も荒事には慣れているという。

 

 だが。

 

 直哉はテキストを読みながら、ふと一つの致命的な弱点に気づいた。

 

「これ……『攻撃を当てなければ』、何も起きない能力だよな?」

 

 いくら衝撃を十倍に増幅できようと、空振りに終わればただの素振りだ。

 

 そして直哉の頭の中にある『東雲セナ』という戦闘スタイルは、相手の攻撃を紙一重でかわし、死角から高速で切り刻むことに特化している。

 

(……めちゃくちゃ相性が悪いな、この相手)

 

 直哉はそう結論づけ、準備を整えた。

 

 正午過ぎ。

 

 直哉は集合場所の現場へ到着する数駅前のトイレで、東雲セナの姿へと『キャラクターチェンジ』を済ませていた。

 

 今回は狭い屋内での対人近接制圧。相手も近接型のインファイターだと事前情報にある。

 

 なら、適任は間違いなく前衛特化のセナだ。ここで狙撃手の伊織を出す理由はどこにもない。直哉も迷うことなく、自然な判断でセナの姿を選択していた。

 

 受付上は業務表示名の《ナオ》。

 現場の担当官たちも、彼女の正体が三十四歳の男性である『森川直哉』だなんて知る由もないし、知る必要もない。

 

 指定された現場は、東京都内の品川区方面にある、古びた小さな貸し倉庫だった。映画に出てくるような派手な特殊施設ではなく、シャッターが半分閉まった地味な事業所だ。

 

 建物の周囲には、黄色と黒の規制テープが張られ、私服の警察官と八咫烏のスーツ姿の担当者たちが物々しい雰囲気で立っていた。

 

「業務表示名《ナオ》さんですね。お待ちしておりました」

 

 現場の責任者らしき男性が、セナの姿を確認して短く頭を下げた。

 

「対象は山岸拓真、登録Tier4。『衝撃増幅』の使用記録があり、すでに一般人を数名負傷させています」

 

「中に一人だけ?」

 

「はい。現在確認できている限りでは、対象一名のみです」

 

「逃げ遅れた一般人とか、人質は?」

 

「全員退避済みです。内部の安全は確保されています」

 

「じゃあ、その山岸って人を捕まえれば終わりでいいんだね?」

 

「はい。ただし、可能な限り殺傷は避けて無力化をお願いします」

 

 担当者は、小型の金属製ワイヤーロックを一つ差し出した。

 

「確保後はこちらを使ってください。能力者向けの高強度拘束具ですが、能力そのものを封じるものではありません」

 

 非常に事務的でドライなやり取りだ。八咫烏側にとって、能力者同士の制圧依頼など日常茶飯事なのだろう。

 

 直哉も、セナの明るい声で端的に答えた。

 

「了解!」

 

 だが、背中を向けて倉庫の薄暗い入り口へと向かう直哉の内心では、少しだけ緊張の糸が張り詰めていた。

 

(人間の能力者と本気でやり合うの、これが初めてなんだよな……)

 

 異界のモンスターではない。知性と悪意を持った、自分と同じ超常の力を持つ人間。

 

 相手の衝撃増幅の拳を顔面にまともに食らえば、いくらセナのHPが高くてもただでは済まないだろう。

 

 直哉は深く深呼吸をし、右手に『★★★《制式霊装刀・四式》』を実体化させながら、静かに倉庫の中へ足を踏み入れた。

 

 倉庫の内部は薄暗く、埃っぽい空気が漂っていた。

 

 高い天井。並んだ鉄製の資材棚。積まれた木製パレット。中央にはフォークリフトが通るための広い搬送用通路が真っ直ぐに伸びている。

 

 コツ、コツ、とセナの軽い足音がコンクリートの床に響く。

 

「……お前が、俺を捕まえに来た八咫烏の犬か」

 

 奥の棚の陰から、一人の男が姿を現した。

 

 山岸拓真。二十代後半。体格は筋肉質で、目つきには追い詰められた獣のような獰猛な光が宿っている。

 

 山岸は、小柄なセナの姿を見て、少しだけ拍子抜けしたように警戒を解いた。

 

「ナオ。確保の仕事で来たよ。大人しく投降してくれないかな」

 

 山岸は鼻で笑った。

 

「女一人を寄越して終わりかよ。八咫烏も俺を随分舐めたもんだな」

 

 直哉の内心は極めてフラットだった。

 

(うわぁ……本当にそういう台詞を言う奴いるんだな……)

 

 むしろ少し感動すら覚えていた。

 

 山岸は両手の拳を強く握り込み、指の関節をバキバキと鳴らした。

 

「帰れよお嬢ちゃん。俺はまだ捕まる気はねえんだ」

 

 直哉は刀の切先を下げたまま、涼やかな声で返した。

 

「悪いけど、それだと私の仕事にならないんだよね」

 

 交渉決裂。

 

 山岸が動いた。

 

 荒事に慣れた人間らしい、鋭い踏み込み。

 

 数メートルの距離を一気に詰め、山岸の右の拳がセナの顔面を捉える。

 

 《衝撃増幅》。拳の周囲の空気が、因果の歪みによってブレて見えた。

 

(速い!)

 

 だが。

 

 直哉の視界の中では、全てが奇妙なほどスローモーションに見えていた。

 

 セナの肉体は、ただ半歩だけ右へスッと足を踏み出した。

 

 山岸の必殺の右ストレートが、セナの頬の数ミリ横を空しく通り過ぎる。

 

 直哉の感覚としては、(……あれ?)という拍子抜けした驚きしかなかった。

 

 拳は直哉には当たらず、そのまま後方に積まれていた木製の大型パレットへと直撃した。

 

『ドガァァァンッ!!』

 

 すさまじい爆発音が響き、硬い木材のパレットが粉々に砕け散って木片が宙を舞った。拳の接触から生み出された衝撃波が、後ろの鉄製の棚までをへし折っていた。

 

 威力は明らかに異常で、危険極まりない。

 

(うわ、あんなの生身に当たったら普通に即死だな)

 

 直哉は冷静に分析する。

 

 だが。

 

 当たらなければ、どうということはない。

 

「チッ!」

 

 山岸が舌打ちし、そのまま怒涛の連撃へと移行した。

 

 返しの左フック。

 低い軌道からの鋭い蹴り。

 さらに大きく踏み込んでからの、体重を乗せた肘打ち。

 

 一発一発が、空気を叩き割るような重い風切り音を立てている。普通の格闘家であれば、防御した腕ごと骨を砕かれている威力だ。

 

 だが、直哉の目には、その全てが『見えていた』。

 

 セナの肉体が、まるで相手の思考を事前に読んでいるかのように反応する。

 

 踏み込む足の角度。

 肩の筋肉の収縮。

 腰の捻り。

 視線の動き。

 重心の移動。

 

 攻撃が到達するコンマ数秒前の『予備動作』の全てを、セナの目は完全に拾い上げていた。

 

 半歩下がる。

 首をわずかに傾ける。

 身体を捻って刃の軌道をそらす。

 後ろへ一歩引いて間合いを外す。

 

 山岸の渾身の連撃は、その全てがセナの残像をかすめるだけで、ただの一発も直哉の身体に触れることすらできなかった。

 

 ここで直哉は、決定的な事実に気づき、初めて実感した。

 

(……遅い)

 

 山岸を馬鹿にしているわけではない。彼は確かに動き慣れている。荒事の経験もあるのだろう。

 

 それでも。

 

『東雲セナ』というTier3の肉体の反応速度と比べてしまえば、あまりにも遅すぎるのだ。

 

 少なくとも今回の戦闘では、この絶望的な速度差が決定的な差になっていた。

 

「ちょこまかと……! 逃げてばかりじゃねえか!!」

 

 山岸が焦燥を露わにし、さらに能力の出力を強引に引き上げた。

 

 床を強く蹴り、真っ直ぐな突進から渾身の右のストレートを放つ。

 

 セナはただ、横へスッとステップを踏んだだけだ。

 

 山岸の拳がまたしても空を切り、勢い余って背後の資材の山を派手に吹き飛ばした。

 

 直哉は立ち止まり、小さく息を吐いた。

 

(相手の攻撃が強いのは間違いない。一発もらえば大怪我だ)

 

(でも、当たらないなら何の関係もないな)

 

 このあたりで、倉庫に入った時に感じていた直哉の『相手の攻撃を食らうかもしれない』という緊張は、見事なまでに消え去っていた。

 

「これで終わり?」

 

 セナが涼しい顔で挑発すると、山岸の顔が屈辱で朱に染まった。

 

 直哉は一瞬、スキルの《瞬雷》を使って一気に終わらせようかと考えた。

 

 だが、すぐにその考えを取り下げた。

 

(いや、これ、わざわざスキルなんて使う必要ないな)

 

 山岸の直線的で大振りな攻撃を見切るのに、雷の加速などという過剰な出力は不要だ。通常の身体能力と基礎的な剣術だけで、お釣りが来るほど十分すぎる。

 

 直哉は《制式霊装刀・四式》を構えた。ただし、殺傷は禁止されているため、刃を相手の胴体へ通すつもりはない。

 

(斬るだけなら簡単なんだけどな)

 

 速度差はもう分かっている。だが、今日の仕事は山岸を倒すことではなく、できるだけ大怪我をさせずに身柄を確保することだ。

 

(強い相手を倒すより、壊さず捕まえる方が気を使うな)

 

 山岸が怒りに任せて、再び右の拳を大きく振りかぶった。

 

 直哉にとっては、それこそが最高に分かりやすい隙だった。

 

(そんな大振り、もっと当たらないって)

 

 直哉は横へ滑るように抜け、一瞬にして山岸の懐――完璧な死角となる背後へと入り込んだ。

 

 セナの口から、明るい声が飛ぶ。

 

「そこ、空いてるよ!」

 

 直哉は刀の刃を返し、峰と柄頭の硬い金属部分を使って、山岸の右の手首の神経を正確に強打した。

 

「ぐっ……!!」

 

 山岸の口から短い悲鳴が漏れ、拳に込められていた因果の力が一瞬で霧散する。

 

 直哉はそのまま動きを止めず、相手の右足を深く払い抜いた。

 

 山岸が必死に踏ん張ろうとする。筋力は強い。だが、セナの次の動作の速度に全く追いつけていない。

 

 直哉は背後から山岸の膝裏を蹴り払い、完全に体勢を崩させた。

 

「舐めるなァッ!!」

 

 山岸が倒れながらも、悪あがきで左の裏拳を振り回してくる。

 

 直哉はその腕を容易く空中で掴み取ると、手首を極めて背中側へと一気に捻り上げ、自分の体重を乗せて冷たいコンクリートの床へと完璧に押さえ込んだ。

 

『ドンッ!』

 

 山岸の身体が床へ押さえつけられる。

 

 直哉はすぐさま、支給されていた八咫烏の能力者用拘束具(特殊な金属製のワイヤーロック)を、山岸の手首にガッチリと装着した。

 

 山岸が必死に抵抗しようと身体をよじるが、関節を完全に極められ、重心を制圧されているため、指一本動かすことができない。

 

「動かないで。腕折れるよ」

 

 セナの警告に、山岸はついに抵抗を諦め、床に顔を押し付けたまま荒い息を吐くだけになった。

 

 戦闘終了。

 

 直哉は、押さえ込んだままの状態で内心首を傾げた。

 

(……え? もう終わった?)

 

 開始から制圧まで、時間にしてわずか数十秒。おそらく、一分も経っていない。

 

 コンビニ強盗の素人を相手にした時とは違う。今回は、ちゃんとした戦闘経験のある『Tier4能力者』を相手にした本物の実戦だったはずだ。

 

 それなのに、セナの肉体にとっては、ただの準備運動程度の手応えしか残っていなかった。

 

「……ナオさん、確保確認しました。お疲れ様でした」

 

 倉庫の入り口から、八咫烏の現場担当者が数名の警察官と共に足早に入ってきた。彼らは手際よく拘束済みの山岸を引き取り、立ち上がらせる。

 

 直哉は少し拍子抜けした顔で担当者に尋ねた。

 

「……これで終わり?」

 

「はい。完璧な制圧です」

 

「もう? なんかあっけなかったんだけど」

 

 担当者は、何を不思議なことを聞くのかといった顔で淡々と答えた。

 

「対象はTier4の能力者ですから」

 

 その一言が、直哉の胸にストンと落ちた。

 

 担当者側からすれば、「Tier3の優秀な前衛能力者が、格下のTier4を一人、短時間で無傷で制圧した」。それだけのことであり、驚くような結果でも何でもないのだ。

 

 もちろん、相手の能力が直線的な打撃だったため、回避特化のセナとの相性が抜群に良かったこともある。

 

 担当者も少しだけ補足した。

 

「近接型同士ですが、ベースの速度差がかなりありましたね。相手の攻撃が当たらなければ、衝撃増幅も無意味です。相性も非常に良かったと思います」

 

 だが、決して「Tierが上なら一秒で絶対勝てます」と魔法のような絶対化をしているわけではない。今回はTier差に加えて、能力相性とセナの基礎戦闘性能の差が素直に結果へ出ただけだ。

 

 直哉は、自分の手を見つめた。

 

(Tier3って……俺が思っていたよりも、現実の能力者社会の中では『普通に強くてヤバい側』に入ってるのか)

 

 これまで、霧島から「Tier3認定です」「Tier4より一段上の規格です」と知識として言われてきただけだった。

 

 だが今日、初めて人間の能力者と本気でやり合って、それを肉体の感覚として深く理解することができた。

 

 警察官に連れられていく山岸を見送りながら、直哉は一瞬だけ考える。

 

(一般人を何人か怪我させてるんだよな。まあ、この後どうなるかは警察の仕事か)

 

 自分の仕事は、ここまでだ。

 

 倉庫の外へ出た直哉のスマートフォンに、業務アプリの完了通知が届いた。

 

『【業務完了】』

『対象能力者:1 / 1』

『身柄確保:完了』

『一般人被害:なし』

『追加負傷者:なし』

『殺傷:なし』

『報酬:80,000円』

『支払処理:確定(明日付振込)』

 

 移動や現場での待機時間を含めれば、拘束時間としてはそれなりにかかった。だが、実際の戦闘そのものは一分未満で終わっている。

 

 直哉は数字を見てため息をついた。

 

(これで八万円か……)

 

 昨日の山林で灰甲猪を三頭駆け回って狩ったのが七万円だった。それより高い。

 

 そして、彼が能力者の仕事を始めてからの累計報酬額。

 

「これで……二十三万円か」

 

 たった数日で二十三万円。特殊技能の価値というものを、直哉は改めて噛み締めていた。

 

 現場を離れ、私服のパーカーを羽織って駅へと向かう道すがら。

 

 一人になったところで、視界の右上にあの通知がポップアップした。

 

『【因果変動記録】』

 

 直哉の足が止まる。

 

『外部因果への有意な干渉を確認しました』

『集結者の介入によって成立結果が変動しました』

『活動記録を更新します』

『評価処理完了』

『活動報酬を獲得しました』

 

『《育成記録・初級》×8』

『《クレジット》×10,000』

 

 そして、最後に表示された最も重要なアイコン。

 

『《因果晶》×1,600』

 

 直哉の内心で、再び歓喜が爆発した。

 

(また十連分出た!!)

 

 現在の所持リソースを確認する。

 

『因果晶:3,200』

 

 二十連分だ。

 

(……三件続けて、きっちり1,600なんだよな)

 

 青灰回廊の定期踏査、灰甲猪の個体数調整、そして今日の対人制圧。仕事内容は全部違うのに、因果晶だけは三件連続で十連一回分だった。

 

(でもコンビニ強盗を止めた時は、《因果変動記録》自体は出たのに石はゼロだった)

 

 仕事だからなのか、1,600が何かの支給単位なのか。まだ断定できる材料はない。

 

(まあ、次も見てみるか)

 

 ここで直哉の頭に、一つのよこしまな考えが一瞬だけよぎった。

 

(……これ、もしかして今日のみたいな『自分より格下のTier4の案件』だけを狙って受け続ければ、めちゃくちゃ楽に安全に石と金を稼げるんじゃないか?)

 

 しかし、直哉はふとその考えから、ある矛盾に思い当たった。

 

「そういえば……」

 

 直哉は駅前の人目のないベンチに座り、スマートフォンを取り出して八咫烏の霧島へ直接通話を入れた。

 

 《因果集結クロニクル》の報酬について話すつもりはない。単純に、今日の仕事の制度についての疑問を聞くためだ。

 

「お疲れ様です、森川です。今日、Tier4相手の制圧案件が終わったんですけど」

 

『お疲れ様です。無事に完了したとの報告は受けております』

 

「一つ気になってたことがあって。今回みたいに、Tier4が対象の比較的楽な仕事が、上のTier3向けに追加で回ってくることって、結構頻繁にあるんですか?」

 

 霧島は電話の向こうで、少しも淀まずに答えた。

 

『いえ。あまりありませんよ』

 

 直哉は少し拍子抜けした。

 

「そうなの?」

 

 霧島は、能力者向けの案件の配信システムについて端的に説明してくれた。

 

 八咫烏が管理する仕事は、基本的に『想定される危険度や対象に最も見合ったTierの登録者』へ優先的に配信される仕組みになっている。

 

 今回の案件なら、対象はTier4の能力者。であれば、戦闘向けの適性を持ったTier4の能力者たちで十分に対応可能と判断される。

 

 だから最初の『初期募集区分』は、Tier4の登録者だけに向けて発行されていたのだ。

 

『ところが、案件ごとに設定されている「募集猶予時間」を過ぎても、今回はたまたま受注する能力者が一人も現れませんでした』

 

「なんで誰も受けなかったんです?」

 

『理由は単純です。現在の国内には、Tier4に分類される能力者が圧倒的多数を占めており、その中で仕事を受けている人間も大勢います。ですが、曜日、時間帯、現場の位置、他の仕事との兼ね合いなど……本当にたまたま、そのタイミングで条件の合うTier4の人間がいなかっただけです』

 

 特別な裏事情や、相手が強すぎるから逃げたといったドラマチックな理由ではない。ただのタイミングの問題だ。

 

『そのため、対象の逃走を防ぐために募集の範囲が一段階上のTier3へ拡大され、追加配信されました。森川さんが見た「追加開放」のタグは、その意味です』

 

 直哉は納得して頷いた。

 

「じゃあ、普段はTier4の人が取らなかった仕事の残り物が、ごくたまにこっちへ流れてくるってこと?」

 

『はい。ただ、頻繁にあると思わない方がいいですね。普通のTier4向け案件は、だいたい最初の募集段階で誰かが受けて枠が埋まりますから』

 

 直哉の『格下案件だけを狙って楽に稼ぐ』という甘い目論見は、あっさりと崩れ去った。

 

「そっか……じゃあ、こういうのだけ狙って楽するのは無理か」

 

『難しいと思います』

 

 少し間を置いて、霧島が確認する。

 

『それと、今日が森川さんにとって初めての対人制圧だったと思いますが、体調や気分に問題はありませんか?』

 

「今のところは大丈夫です。相手も大怪我させずに捕まえられましたし」

 

『それなら結構です。後から違和感が出た場合は、いつでも連絡してください』

 

「分かりました」

 

 それから霧島は「楽」という言葉に少し間を置き、静かに問い返した。

 

『……今日の案件、森川さんにとっては楽だったんですか?』

 

「私が思ってたよりは、かなり」

 

『Tier3の規格ですからね』

 

 その一言に、確かな信頼と評価が込められているのを感じ、直哉は少しだけ誇らしい気分で電話を切った。

 

 帰りの電車の中。

 

 直哉は窓の外を流れる夕暮れの景色を眺めながら、今日の戦闘を振り返っていた。

 

 今までは、Tier3。Tier4。

 ただの知識としての数字のランクでしか知らなかった。

 

 でも今日、初めて戦闘向けの能力者と実際に向き合った。

 

 山岸という男は決して弱くはなかった。倉庫の床や頑丈な資材を粉砕するだけの、現実の凶器としての威力も確かにあった。

 

 でも。

 

 一発も、当てさせなかった。

 

 直哉にとっては、それだけの話だったのだ。

 

(同じ能力者でも、Tierが一段違って、しかも相性までこっちに有利だと、実戦ではここまで差が出るのか)

 

 ただし、直哉は油断はしない。

 

(霧島さんも能力の相性があるって言ってたし、相手がTier4なら誰でも今日みたいに一方的に勝てるってわけじゃないんだろうけどな)

 

 慢心せず、しかし自分の力への確かな自信だけは手に入れた。直哉の心は、また一つ成長していた。

 

 自宅の最寄り駅を降り、歩きながら直哉は視界のシステムを呼び出した。

 

『因果晶:3,200』

 

 十連ガチャ、二回分。

 

 限定バナーを見る。

 

『★5キャラクター確定まで:70回以内』

 

 天井までに必要な総額は11,200。

 現在手元にあるのが3,200。

 追加で必要なのは、8,000。つまり、十連ガチャ五回分だ。

 

 直哉は歩きながら小さく頷いた。

 

(あと、五回分)

 

 昨日の時点では六回分だった。確実に、一歩ずつゴールへと近づいている。

 

 直哉は、画面の下に光る『10回集結』のボタンを一瞥した。

 

 押せる。今すぐ二十連回せば、★4以上のキャラクター保証を二回踏める。

 

 だが、直哉の指は動かなかった。

 

 そのまま、スッとガチャのタブを閉じた。

 

(……まだだな)

 

 前回の「今回は、貯めるか」という決断で、彼の方針はすでに固まっている。毎回同じ葛藤を繰り返して悩む必要はない。今の戦力で十分に仕事が回せている以上、無駄撃ちをする理由はなかった。

 

 実家の自室に戻り、変身を解除した直哉は、ベッドに倒れ込みながらもう一度編成画面を開いた。

 

 今日使ったのは、東雲セナ。

 

『★★★★ 東雲セナ Lv.20 HP 3,430』

 

 スキルを使う必要すらほぼなかった。基礎的な身体能力と剣術だけで、戦闘系のTier4能力者を圧倒した。

 

 直哉はこれまで、彼女のことを「ゲームの★4キャラ」としてしか見ていない意識が強かった。

 

 でも今日、現実の世界において、明確な脅威である犯罪能力者を無傷で制圧した。

 

(セナの『現地登録Tier3』って肩書き、本当に伊達じゃないんだな)

 

 改めて、自分の手に入れた力の大きさに息を呑む。

 

 そして、その隣に並ぶもう一人のキャラクター。

 

『★★★★ 鳴海伊織 Lv.20 HP 3,130』

 

 同じ、現地登録Tier3の肩書きを持つ狙撃手。

 

(ってことは、伊織も方向性は違っても、Tier3相応の戦力を持ってるってことか……)

 

 まだ、この二人しか持っていない。

 レアリティは★4。最高レアの★5でもない。

 

 それでも、今の自分は、この現実の能力者社会において『普通に強くてヤバい側』へと足を踏み入れている。

 

 最後に、右上の所持石の数字を確認する。

 

『因果晶:3,200』

 

 直哉は天井を仰ぎ見て、小さく笑った。

 

「……あと五十連、か」

 

 限定バナーの残り時間は、『10日と06時間』。

 

「まあ、焦らずに。明日もちゃんと働くか」

 

 三十四歳の無職の男は、明日も仕事へ行くためのアラームをセットし、静かに目を閉じた。




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