吾輩はハロン棒である。
華やかな大舞台の芝コースに立つエリートの同輩たちとは違い、吾輩はトレセン学園の裏手に広がる、古びたダート練習コースの「残り200メートル地点」に突き刺さっている。
ここには何万もの観客が発する熱狂もなければ、勝利の栄光もない。あるのは毎朝毎朝、肺が凍りつくような冷たい朝靄と、土埃の匂い、そして終わりのない反復練習の苦痛だけである。
吾輩の胴体は、長年ウマ娘たちが蹴り上げた硬い砂利を浴び続けたせいで、塗料が剥げ、下地の木目が痛々しく露出している。
だが、吾輩はこの場所を案外気に入っている。
なぜならここには、本番のレース場には決して入り込むことのできない「もう一人の走者」がいるからだ。
「……時計、少し遅いな」
吾輩のすぐ隣で、分厚いコートを着込んだ男が独り言ちた。彼女の専属トレーナーである。
彼は毎朝必ず吾輩の隣に立ち、吾輩にコツンと肘を預け、親指にストップウォッチを引っ掛けてその時を待つ。彼が吾輩に体重を預けるたび、吾輩の木材を通して彼の微かな緊張と、静かな熱が伝わってくるのだ。
彼らはここで、来る日も来る日もタイムを削り、フォームを修正し、気の遠くなるような対話を続けてきた。吾輩は言わば、この無口な師弟の秘密の共有者であった。
■
地響きが近づいてくる。
朝靄の向こうから、一人のウマ娘のシルエットが浮かび上がった。
600メートルの彼が見ていたなら、
「今日の彼女はずいぶんと足取りが重い」
と評したかもしれない。400メートルの彼なら、
「飛ぶような軽やかさがない」
と首を傾げたことだろう。
確かに、天才と呼ばれるような他のウマ娘たちが持つ、芝の上を滑るような「カミソリの切れ味」は彼女にはない。彼女の足音は、ダゴッ、ダゴッ、と、大地の奥深くを抉り取るように重く、鈍い。
だが、吾輩と、吾輩に寄りかかるこの男だけは知っている。
残り200メートル。
彼女が吾輩の前を通過する直前、男が短く、しかし鋭い声で、
「行け!」
と叫んだ。同時に、男の親指がストップウォッチのボタンを強く押し込むカチリという振動が、吾輩の頭に伝わる。
その瞬間だった。
重く鈍かった彼女の踏み込みが、突然、爆発的な推進力へと変貌した。
フォームを変えたわけではない。ただ、大地を踏み抜く「質量」が桁違いに跳ね上がったのだ。蹴り上げられた分厚い土塊が散弾銃のように吾輩の胴体を打ち据える。凄まじい風圧が吹き荒れ、地を這うような低い重心のまま、彼女は一気にトップスピードへと到達した。
それはまさに「鉈(なた)の切れ味」であった。
薄い刃で肉を裂くような小綺麗なものではない。分厚く重い鋼の刃で、太い丸太を骨ごと真っ二つに叩き割るような、圧倒的で暴力的な加速。
―――重い。
重いがゆえに、誰にも止められない。
一度振り下ろされたその凶刃を押し返せる者など、この世に存在しないのではないかと錯覚させるほどの迫力だった。
彼女が駆け抜けた後、朝靄は真っ二つに裂け、そこだけが道のようにぽっかりと開いていた。
男はストップウォッチに目を落とし、小さく、本当に小さく一度だけ頷いた。遠くで息を整える彼女もまた、こちらを振り返り、無言のまま短く頷き返した。それだけで十分なのだ。
華やかなスポットライトなどなくとも構わない。
この傷だらけの木偶と、無骨な男と、一振りの重い鉈のような少女。この泥臭くも静かな朝の儀式こそが、吾輩にとっての何よりの誇りなのである