吾輩はハロン棒である。
同じハロン棒とはいえ、今回吾輩が立っているのは、熱狂と絶望が入り交じるゴール手前ではない。ターフの脇でも、ダートの直線上でもなく、トレセン学園の練習コースにおける「スタート直後」の地点――すなわち、すべての始まりを告げる最初のハロン棒である。
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ゴール手前の残り200メートル地点に立つ同輩は、
「あそこではすべての理性が剥がれ落ち、剥き出しの暴力的な本能だけが残る」
と語っていた。確かにその通りだろう。あいつの眼の前に広がるのは、計算も知性も燃え尽きた後の、純粋な命の削り合いである。
だが、吾輩に言わせれば、スタート直後のこの場所に渦巻く感情もまた、別の意味で異様であり、恐ろしい。
ゲートが開く直前の、あの張り詰めた静寂を想像してみてほしい。
そこにあるのは、極限まで圧縮された「理性」と「恐怖」である。いかにして完璧なスタートを切るか。どのタイミングで重心を移し、どのコース取りで最初のコーナーへ突っ込むか。頭の中で何百回、何千回とシミュレーションされた緻密な計算。そして同時に、「もし出遅れたら」「もし誰かに前を塞がれたら」という、背筋が凍るような重圧。
ゴール前が理性の「終着点」であるならば、吾輩の立つこの場所は、理性が最も高い密度で詰め込まれた「爆心地」なのである。
しかし今日、この薄暗い夕暮れの練習コースに、観客の喧騒や他者の発するプレッシャーは存在しない。秋の日は釣瓶落としというが、空はすでに赤紫色から深い藍色へと沈みかけており、冷たい夜風が砂埃を巻き上げている。他のウマ娘たちはとうに練習を終え、暖かな食堂や寮へと帰っていった。
静まり返ったコースに残されているのは、吾輩という木偶(でく)と、二つの影だけである。
「孤独な自主練」という言葉があるが、彼女のそれは、そんなありふれた感傷で語れるようなものではない。
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―――ダァンッ!
乾いた音が響く。スタートダッシュの反復練習である。
仮想のゲートから飛び出した一人のウマ娘が、吾輩の横を猛烈なスピードで駆け抜けていく。彼女の走りは、先日の朝靄の中で同輩が目撃したという、あの「鉈(なた)」のような重く暴力的な走りとは対極にある。
美しく、しなやかで、それでいて鋭い。
完璧に計算され尽くした重心移動と、無駄のない流線型のフォーム。それはまるで、名工によって鍛え上げられた一振りお名刀のように、夕暮れの冷たい空気を鮮やかに切り裂いていく。
もし「あの得体の知れない怪物」さえいなければ、彼女こそがこの世代の頂点に君臨し、誰もがその美しさに傅(かしず)いていただろう。吾輩のようなタダの木の棒でさえ、そう確信できるほどの天性の才能と完成度が、彼女にはある。
だが、現実は残酷である。
どれほど完璧に研ぎ澄まされた名刀であっても、すべてを分厚く叩き割るあの「鉈の切れ味」の前に、彼女は幾度となく苦汁を嘗めさせられてきた。光が強ければ強いほど影は濃くなるというが、彼女の場合は逆だ。あまりにも巨大で圧倒的な太陽が前にいるせいで、彼女という傑作が「挑戦者」という影の立場に追いやられているのである。
数十メートルのダッシュを終えた彼女が、ゆっくりと息を整えながら、吾輩の足元へと歩いて戻ってくる。
「……どうだ」
吾輩の隣に寄りかかり、ストップウォッチを握りしめていた男――彼女のトレーナーが、低い声で尋ねた。彼の分厚いコートのポケットには、彼女がスタート前に預けたタオルと水筒が入っている。
「悪くありません。踏み込みの角度、地面を捉える感覚……今までで一番、研ぎ澄まされている気がします」
少女は額に浮かんだ汗を手の甲で拭いながら、静かに答えた。夕闇の中で吐き出される彼女の呼気は、驚くほど白く、そして熱を帯びていた。
「時計も出ている。このダッシュなら、本番でも確実に前を取れるはずだ」
トレーナーはストップウォッチの盤面から目を上げ、じっと彼女の瞳を見つめた。
「だが、問題はそこから先だ。あの『鉈』は、中盤からじわじわと圧をかけてくる。足音が重くなる。あいつの射程距離に捕まれば、小手先の駆け引きやポジション取りなど、分厚い刃で丸太ごと叩き割るように粉砕される。……わかっているな?」
男の言葉に、少女は無言で頷いた。
これまでの敗北の記憶が、彼女の脳裏でフラッシュバックしているのだろう。吾輩の胴体を通して、男が拳を強く握りしめる微かな振動が伝わってくる。彼もまた、愛娘のような担当ウマ娘が、あの暴力的なまでの才能の前にねじ伏せられる姿を何度も特等席で見せつけられてきたのだ。
「戦略としては」
と、男は口を開いた。少し乾いた声だった。
「徹底してインコースに張り付き、あいつの視界から消えることだ。あいつが外から捲ってくるその一瞬の隙を突き、仕掛けを遅らせる。真正面からやり合うのは愚策中の愚策だ。泥臭く、賢く、影のように立ち回れば、勝機は必ずある」
それは、トレーナーとして極めて正しく、合理的な戦術だった。
あの鉈のような怪物に勝つためには、真っ向勝負を避けるしかない。プライドを捨て、勝つためだけの冷徹な機械になること。それが「名刀」に与えられた唯一の生き残り策であると、彼自身が誰よりも理解しているはずだった。
しかし。
少女はふっと息を吐き、静かに首を振った。
「……嫌です」
その声は、震えていなかった。冷たい夜風の中で、彼女の瞳だけが、まるで青白い炎のように静かに燃え上がっていた。
「逃げて、隠れて、泥を啜って勝ったとして、それは本当に『勝った』と言えるのでしょうか。私は、あの重い足音から逃げたくない。あの背中を、小賢しい策で出し抜きたくない」
彼女は一歩、男に歩み寄った。
「私は、真正面からあいつとやり合いたい。あの分厚い鉈が振り下ろされるその真正面に立ち塞がり、私のこの刃で、あいつを真っ向から斬り伏せたいのです」
それは、狂気である。
吾輩は、心を持たぬ木の棒でありながら、思わず戦慄した。
圧倒的な暴力の前に真正面から立ち向かうなど、玉砕以外の何物でもない。しかし、彼女の顔には一片の迷いもなかった。永遠の二番手、最強のチャレンジャーとしての意地と誇りが、合理性という殻を破り捨て、彼女をただの「闘争の化身」へと変貌させていた。
沈黙が落ちた。
風の音だけが、虚しく練習コースを吹き抜けていく。トレーナーは、言葉を失ったかのように彼女を見つめていた。教え子の無謀な直訴。本来ならば、大声で一喝し、現実を見据えさせるのが彼の役目であるはずだ。
だが、男の口から漏れたのは、怒声ではなく、低く、くぐもったような笑い声だった。
「……ふ、ふふっ。ははははっ!」
男は天を仰ぎ、声を上げて笑った。それは、諦めでも嘲笑でもなく、己の心の底に隠していた本性を、愛する教え子に見透かされたことへの歓喜の笑いだった。
彼もまた、本心では真っ向勝負を望んでいたのだ。策を弄して得た勝利ではなく、己のすべてを懸けて伝説を打ち破るという、その至高の瞬間を。
男は笑いを収めると、ポケットからタオルを取り出し、彼女の肩にふわりとかけた。
そして、夕暮れの空の彼方、誰もいない暗闇のコースを見据えながら、ひどく楽しそうな声でこう呟いた。
「人生は、たかが一レースの競争だ、という気がするのだ」
少女が、目を丸くして彼を見る。男はニヤリと笑い、彼女の頭にポンと手を置いた。
「詩人をやってる友人の言葉さ。生まれて、走って、死んでいく。その複雑怪奇な人生のすべてが、結局のところ、たった一回のレースの勝敗に集約されてしまう。……まったく、馬鹿げていると思わないか? たかが徒競走だ。たかが、あの白いゴール板を誰が一番に駆け抜けるかというだけの、くだらない遊びだ」
男はそう言いながら、吾輩の胴体をバンと力強く叩いた。
「だが、お前はその『たかが一レース』に、己の人生とプライドのすべてを懸けようとしている。逃げることも、誤魔化すこともせず、最強のバケモノに真っ向から喧嘩を売ろうとしているんだ。……最高じゃないか」
「トレーナー……」
「わかった。やろう、真っ向勝負だ」
男の目にも、少女と同じ青白い炎が宿っていた。
「あの重い鉈を、お前の刃で正面からへし折ってやれ。あいつの土俵で、あいつの力すべてを引き出した上で、完璧に叩き潰す。……世界がひっくり返るぞ」
少女の顔に、今日初めての、そして酷く美しい笑みが浮かんだ。
「はい。必ず、へし折ってみせます」
二人は並んで、すっかり夜の闇に沈んだコースを見つめていた。
もはやそこには、名刀と鉈という比喩も、王者と挑戦者という立場もない。ただ、一人の不器用な男と、彼を信じる一人の誇り高き少女が、来るべき決戦に向けて静かに命を燃やしているだけである。
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吾輩は、練習場に突き刺されたハロン棒である。
これから本番のレースで、彼女たちがどのような結末を迎えるのか、吾輩には知る由もない。ゴール前の200メートル地点で、彼女があの鉈の前に屈するのか、それとも見事に斬り伏せるのか、それはあのゴール前の同輩だけが目撃する特権だ。
だが、吾輩だけは知っている。
彼女たちの本当の戦いは、観客の歓声に包まれた大舞台ではなく、この孤独で冷たい夕暮れの練習コースで、一枚のタオルと一つの詩とともに始まっていたのだということを。
この静かな狂気を帯びた誓いの証人になれたことを、吾輩は木偶ながらに、少しだけ誇りに思っている。