吾輩はハロン棒である   作:灯火011

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あるいは完璧なる『帝』の胎動

 吾輩はハロン棒である。

 

 トレセン学園のダート練習コース、そのすべての起点を司る「スタート地点」に突き刺さった白と赤の標識である。

 

 時代は今、一つの熱狂の渦中にある。

 

 かつて、あの分厚い「鉈(なた)」のような重脚でターフを支配した絶対者から、実に十九年。待ちに待たれた三冠の偉業が、ついに成し遂げられたのだ。

 

 そのウマ娘は、常識を嘲笑うかのような自由奔放さを持っていた。最後方から信じられないタイミングで捲り上げ、すべての定石を蹴り飛ばして勝利をさらう。彼女の破天荒な走りは、世界中を魅了し、ターフに新しい時代の風を吹かせた。人々は酒場で、スタンドで、あるいはこの練習場の片隅で、その「奇跡のような自由」を讃えてやまない。

 

 だが。

 

 このスタート地点に立つ吾輩は、背筋――木目と言うべきか――が凍るような予感を抱いていた。

 

 奇跡だの、自由だの、常識破りだのといった浮ついた熱狂を、根底から冷酷に叩き潰すであろう『本物』が、今、吾輩の横で静かに息をしているからだ。

 

 

「――よろしい。時計を回してくれ」

 

 まだあどけなさすら残るジュニア級ウマ娘。しかし、その少女の口から紡がれる声には、一切の迷いも、若さゆえの昂ぶりもなかった。

 

 彼女の瞳は、はるか先のゴール板すら見ていない。彼女が見据えているのは「自分が完全に勝利を収めるという確定した未来」そのものである。

 

 仮想ゲートが開く。ダァン! という音が鳴る。

 

 吾輩は幾千幾万のスタートダッシュを見てきた。闘争心で前へのめり込む者、恐怖で出遅れる者、計算が追いつかずバランスを崩す者。

 

 だが、彼女のスタートは、そのどれでもなかった。

 

 例えるならそれは「完璧な物理演算の執行」であった。

 

 一切のブレがない。重心の移動、砂を蹴る蹄鉄の角度、空気抵抗を切り裂くフォーム。すべての力が1ミリのロスもなく前への推進力へと変換される。熱気すら感じさせない、ただただ冷徹で精密な出足。

 

 彼女は、吾輩の横を過ぎ去るわずか数メートルの間に、すでに他の誰も到達できない絶対的なトップスピードの地盤を完成させていた。

 

 恐ろしい。これがまだジュニア級だというのか。

 

 吾輩は、砂埃の中で震えた。彼女の走りは、自由などとは程遠い。例えるならば圧倒的な「規律」だ。

 

 その背中を見送りながら、吾輩は次の同輩へと視点のバトンを渡した。

 

 

 吾輩は第3コーナー、残り600メートル地点に立つハロン棒である。

 

 普段の吾輩ならば、ここを通過するウマ娘たちの「小賢しい駆け引き」を見るのが三度の飯より好きだ。誰がインを突くか、誰が外へ持ち出すか。知性と虚栄心がぶつかり合う、泥臭い騙し合いの場。それがこの600メートル地点である。

 

 今しがた、あの自由奔放な三冠ウマ娘の幻影が、吾輩の脳裏を掠めた。

 

 あの天才は、この場所でいつも常識外れの動きをした。バ群の大外を非常識なスピードで駆け上がり、それまでの駆け引きなどというものを一瞬で無に帰してしまう。それは確かに痛快であり、観客を熱狂させる「奇跡」であった。

 

 だが、今吾輩の眼前に迫ってくるあのジュニア級の少女は違う。

 

 奇跡?

 

 自由?

 

 常識破り?

 

 ―――冗談ではない。彼女の走りは、そんなふわふわとした不確かなものではない。

彼女の走りは「王道」である。

 

 最もロスが少なく、最も合理的で、最も力強いコース取り。

 

 誰もが頭では分かっていながら、肉体的な限界や精神的な重圧から決して実行できない「理想のライン」を、彼女は寸分の狂いもなくトレースしてくる。

 

 インコースの砂の深さ、コーナーの曲率、遠心力。すべてを支配下に置き、まるで初めからそこにレールが敷かれていたかのように、彼女は完璧なコーナリングを披露した。

 

 駆け引きなど成立しない。

 

 彼女の前に立った時点で、相手の策はすべて「無駄な足掻き」へと変貌するのだ。奇を衒う必要など微塵もない。ただ真正面から、最も正しく、最も強い力で叩き潰す。

 

 一切の隙がないそのコーナリングを見せつけられ、吾輩は己の存在意義すら見失いそうになった。彼女には、600メートルの駆け引きなどという概念すら不要なのだ。

 

 ただ、戦慄のみが残った。

 

 嗚呼、直線入り口の同輩よ。お前の前で、この怪物はどう動く?

 

 

 吾輩は直線入り口、残り400メートル地点のハロン棒である。

 

 本来ならば、ここは希望と絶望が交差する場所だ。視界が開け、スタンドの歓声が爆発し、ウマ娘たちが残されたすべての力を振り絞ってスパートをかける、最も華やかで残酷な舞台の入り口。

 

 しかし、今日この夕暮れの練習コースで、吾輩が目撃したのは「希望」などという生易しいものではなかった。

 

 コーナーを抜け、直線を向いたそのジュニア級の少女の姿は、まるで絶対的な権力を持つ君主の行軍であった。

 

 乱れがない。まったく、一糸の乱れもないのだ。

 

 普通のウマ娘であれば、コーナーからの遠心力を処理しきれずに外へ膨らんだり、スパートの反動で首が高くなったりする。だが彼女は、直線を向いた瞬間に、まるでギアの歯車がカチリと完全に噛み合ったかのように、さらに一段上の次元へと加速した。

 

 それは、暴力的なまでの「精密さ」だった。

 

 筋肉の軋みも、肺の悲鳴も聞こえない。ただ、大気を切り裂き、大地を制圧する重厚な駆動音だけが響く。彼女の後ろには、仮想のライバルたちが何人も走っているのが吾輩には幻視できた。だが、そのライバルたちは皆、彼女の完璧すぎる背中を見た瞬間に、心が折れ、膝から崩れ落ちていく。

 

 自由奔放な天才は、人々に「夢」を見せた。

 

 しかし、この少女が見せているのは「現実」だ。

 

 誰も抗うことのできない、冷酷で完璧な現実だ。

 

 彼女が一歩を踏み出すごとに、周囲の空気が重く沈み込んでいく。

 

 もはやこれはレースではない。

 

 処刑だ。

 

 彼女の定めた絶対的な法に従い、他のすべての存在がひれ伏すための儀式なのだ。

 

 頼む、200メートル地点の同輩よ。

 

 お前が見てきたあの「鉈」の記憶と、いや、全ての熱狂と、この少女を比べてくれ。吾輩にはもはや、彼女の強さを計る尺度が存在しない。

 

 

 吾輩はハロン棒である。

 

 すべての策が剥がれ落ち、純粋な命の削り合いだけが残る、残り200メートル地点の証人である。

 

 かつて、吾輩はこの場所で、一人の偉大なウマ娘の走りを目撃した。

 

 圧倒的な質量で大地を踏み抜き、太い丸太を骨ごと真っ二つに叩き割るような「鉈(なた)」の切れ味。どんな名刀も叩き折る、泥臭くも圧倒的な破壊力。吾輩はそれを、至高の力だと信じて疑わなかった。

 

 だが、今吾輩の眼前に迫るこのジュニア級のウマ娘は、何だ。

 

 ―――重くないのだ。

 

 いや、正確に言えば、物理的な踏み込みの重さはある。しかし、あの「鉈」が持っていたような、泥臭い質量の暴力とは根本的に次元が違う。

 

 彼女の走りは、空を切り裂き、大地を焦がす「雷(いかずち)」であった。

 

 鉈は、振り下ろされれば対象を両断する。だが、雷は違う。

 

 雷は、触れたものを一瞬にして「消し飛ばす」のだ。

 

 残り200メートル。

 

 限界を迎えるはずのこの地点で、彼女の精密機械のようなフォームはさらに鋭さを増した。一切の無駄を削ぎ落とされた肉体が、極限のスピードの中で完璧な調和を保っている。

 彼女が吾輩の横を通り過ぎる瞬間、バチリ、と空気が静電気を帯びたように弾けた錯覚に陥った。

 

 熱気すらない。ただ、背筋が凍るほどの冷たい威厳だけが、一陣の閃光となって吾輩をすり抜けていく。

 

 もし仮に、あの「鉈」を振るう怪物が、全盛期の姿でここに並んでいたとしたら。

 

 

 ――斬り合いにすら、ならないだろう。

 

 

 鉈が振り下ろされるより早く、彼女の雷鳴がすべてを焦土に変え、ただ一つの事実だけを残して去っていくはずだ。

 

 彼女は、ゴール板を真っ直ぐに見据えていた。

 

 そこにあるのは、勝つかもしれない、という希望ではない。勝って当然だ、という傲慢さでもない。

 

「自らが一番にあの板を駆け抜けることこそが、世界の正しい摂理である」

 

 という、揺るぎない絶対の真理だけがある。

 

 

 ゴール板を駆け抜け、砂煙を上げて静かにスピードを緩める彼女の背中を見つめながら、吾輩は確信した。

 

 自由奔放な天才が切り拓いた熱狂の時代は、そう長くは続かないだろう。

 

 なぜなら、規律無き自由は、絶対的な法の前には無力だからだ。

 

 間もなく、ターフに『帝』が降臨する。

 

 泥臭い鉈の時代も、奇跡に酔いしれる自由の時代も、彼女の放つ雷鳴によってすべて過去の遺物となるだろう。

 

 精密にして力強く、冷徹にして完璧。

 

 他のいかなる可能性も介入を許さない、絶対的な『王』。

 

 吾輩は、ただこの場所に突き刺さったタダの木の棒に過ぎない。

 

 だが今日、この静かな練習場で、ひとつの時代が終わる音と、新たな帝王の胎動を確かに聞いた。

 

 ――シンボリルドルフ。

 

 やがて世界中がひれ伏すことになるその名前を、吾輩たちハロン棒は、誰よりも早く己の木目に深く、深く刻み込んだのであった。

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