吾輩はハロン棒である。
いや……正確には「ハロン棒であった」と、過去形で呼ぶべき時がいよいよ来たようだ。
冷たい風が吹き抜ける、ある冬の朝のことである。
吾輩の足元、何十年と根を張ってきたトレセン学園の固い土を、作業着姿の人間たちがスコップと重機で掘り返している。ずぶり、ずぶりと土が退かされるたび、地中に埋まっていた吾輩の下半身が冷たい空気に晒されていく。痛みはない。ただ、長い間己を支え続けてくれた大地との繋がりが、少しずつ解かれていく不思議な浮遊感があるだけだ。
「随分とボロボロだな。よく今まで保ったもんだ」
作業員の一人が、吾輩の胴体を撫でながらそうこぼした。
無理もない。吾輩の胴体は、もはや白と赤の塗料などほとんど残っていない。表面には無数の傷が刻まれ、ささくれ立ち、むき出しになった木目は黒ずんでいる。あの日、分厚い「鉈」のような走りが蹴り上げた凶器のような石ころの跡。帝の「雷鳴」が駆け抜けた際に焦げ付いたかのような摩擦の記憶。数え切れないほどのウマ娘たちが吐き出した熱い息と、飛び散る汗と、泥と涙。
そのすべてをこの胴体で受け止め続けてきたのだ。ボロボロで当然であるし、この無数の傷跡こそが、吾輩がこの場所に立ち続けた証であり、唯一の誇りであった。
ふと視線を横に向けると、吾輩のすぐ隣の芝生に、真新しい「後継者」が寝かされているのが見えた。
それは、現代の最新素材――強化プラスチックだかFRPだかで作られた、真新しいハロン棒であった。
つるりとした表面は一点の曇りもなく白と赤に発色し、雨風に晒されても腐ることはなく、石がぶつかってもささくれることのない強靭さを誇っているという。木目を持たないその均質な身体は、いかにも合理的で、計算し尽くされた現代のレース理論を象徴しているかのようであった。
時代の移り変わりである。
かつての泥臭く、ただひたすらに命を燃やすような情念の闘争から、スポーツ科学に基づいた精密で洗練された競技へ。土の質も変わり、靴の性能も上がり、ウマ娘たちの走り方もより美しく、より効率的になった。
木目が割れるまで泥を浴びる吾輩のような古臭い木偶は、とうの昔にその役目を終えていたのだ。
ズズン、と重機が唸りを上げ、吾輩の身体にロープがかけられた。
いよいよ、お別れの時らしい。
吾輩は、恨み言など一つもなかった。むしろ、これほど長い間、あの残り200メートルという極限の地で、人間ならざる少女たちの最も純粋で、最も狂気に満ちた、背筋が凍るほど美しい姿を特等席で見続けられたのだ。タダの木の棒の人生(木生と言うべきか)としては、あまりにも贅沢すぎる時間であった。
「……そおれ、引き抜け!」
作業員の合図とともに、ロープがピンと張る。
メキッ、と吾輩の最深部の木の根が鳴り、何十年ぶりかに、吾輩の身体が宙に浮いた。
あぁ、空が広い。
いつも直立して見上げていた空とは違う、横倒しになって見る冬の青空は、どこまでも澄み切っていた。
遠くで、今日もまた朝の鍛錬に駆け出していくウマ娘たちの、若々しい蹄の音が聞こえる。新しいハロン棒よ。あとはお前に任せた。彼女たちが己のすべてを燃やし尽くすその一瞬を、そのつるりとした綺麗な胴体で、しかと受け止めてやってくれ。
視界が、少しずつ白く霞んでいく。
吾輩の芯を満たしていた長年の緊張が解け、大いなる安らぎが全身を包み込んでいくのを感じた。
南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏。
ありがたい、ありがたい。
神の重い足音も、天才の自由な跳躍も、帝王の完璧な雷鳴も、すべてはこの木目に刻み込んだ。こんなにも豊かな記憶を抱いて土に還れるのなら、吾輩は世界で一番幸せな木の棒である。
南無阿弥陀仏。ありがたい、ありがたい……。
己の役目を終えた古いハロン棒は、静かに祈りの言葉を吐き出しながら、その長い長いまどろみの中へと、微笑むように溶けていった。
■
南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏。
ありがたい、ありがたい。
己の役目を終え、冷たい冬の空の下で静かに土へと還るはずだった。無数の傷跡と、泥と、汗と涙の記憶を抱いたまま、ただの朽ちた木片として世界の循環に溶け込んでいく。
それは、何十年もの間、極限の闘争を見つめ続けてきた吾輩にとって、これ以上ないほど完璧で、満ち足りた大往生のはずであった。
だが、運命というやつは、時として人間の――いや、ハロン棒の理解をはるかに超えた悪戯をするらしい。
気がつくと、吾輩は温かな光の中にいた。
土の匂いも、冬の冷たい風もない。代わりに感じたのは、トクトクという、規則正しくも力強い「鼓動」であった。吾輩の芯――かつて木目があったはずの中心から、熱い液体が全身へとポンプのように送り出されている。
目を開ける。
視界に飛び込んできたのは、見慣れたターフの風景ではなく、白い天井だった。そして、己の身体を見下ろした吾輩は、思わず声を上げそうになった。
枝葉を持たぬ真っ直ぐな丸太だったはずの身体には、しなやかな手足が生えている。
頭のてっぺんには、周囲の音を鋭敏に拾う二つの尖った耳。そして腰のあたりからは、ふさふさとした豊かな尻尾が伸びているではないか。
鏡の前に立ってみた。
そこに映っていたのは、白と赤の塗料が剥げた古びた木偶ではない。白みを帯びた銀色の髪の毛の一部に、ふわりと赤いメッシュが入った、見知らぬ少女の姿だった。
「……吾輩は、ウマ娘になってしまったというのか?」
声が出た。硬い木を打ち合わせるような音ではなく、鈴を転がすような、しかしどこか芯の通った少女の声だった。
理屈など分からない。輪廻転生というやつか、それとも神の気まぐれか。だが、一つだけ確かなことがあった。吾輩の魂は、かつて最も間近で、最も羨望の眼差しを向けていた「走る者」の肉体を与えられたのだ。
名前は、すでに用意されていた。
新しい家族となった心優しい人間たちが、彼女(吾輩)につけた名前。それは奇しくも、吾輩の前世そのものを指し示す言葉であった。
『ファーロング・ポウル』
それが、この新しい器に与えられた名前だった。
吾輩は、己の小さな手を握りしめ、開いた。皮膚の下で、筋肉が滑らかに動くのを感じる。あぁ、なんという機能美だろうか。ずっと「そこにある」ことしかできなかった吾輩が、己の意志で「前へ進む」ことができる。
この脚がどれほど動くのか。吾輩は、抑えきれない衝動に駆られていた。
■
数ヶ月後。
ファーロングポウルという一人のウマ娘となった吾輩は、地方の小さなジュニア向けウマ娘スクールの門を叩いていた。中央のトレセン学園のような華やかな設備はない。古びたダートコースと、少しばかりの芝生があるだけの、こぢんまりとした練習場である。しかし、吾輩にとっては十分すぎた。そこには、土の匂いがあり、風の音があり、何より「走るための道」があったからだ。
「よし、それじゃあ新入りの実力を見せてもらおうか。1000メートルの模擬レースだ」
地元の人の良さそうな老トレーナーが、ストップウォッチを片手にそう言った。周囲には、同年代のウマ娘たちが数人、好奇の目を向けて並んでいる。彼女たちは皆、走るのが好きで、いつか大きな舞台に立つことを夢見る純粋な少女たちだ。
吾輩は、スタート地点のゲートに足を踏み入れた。
その瞬間、足の裏から強烈な電流のようなものが駆け上がってきた。
―――わかる。
大地が、吾輩に語りかけてくるのがわかるのだ。砂の深さ、水分の含有量、風の向き、そして次にどこへ足を置けば最も反発力を得られるか。何十年もの間、地に突き刺さり、ウマ娘たちの足音を全身の振動として受け止めてきた吾輩にとって、コースのコンディションを把握することなど、息をするよりも容易いことであった。
「位置について」
老トレーナーの声が響く。
吾輩は腰を落とし、前傾姿勢をとった。その瞬間、かつてスタート地点に立っていたあの「同輩」の言葉が脳裏に蘇る。
『いかにして完璧なスタートを切るか。重心を移し、どのコース取りで突っ込むか。ここは理性が最も高い密度で詰め込まれた爆心地なのだ』
ダァンッ!
ゲートが開いた。他の少女たちが、若さに任せて飛び出していく中、吾輩は一切の無駄を省いた完璧な初動を見せた。
重心のブレはゼロ。前脚が大地を掴み、後脚が爆発的な推進力を生み出す。周囲の空気が一気に後ろへと置き去りにされ、吾輩は瞬く間に先頭へと躍り出た。
風が、顔を打つ。
あぁ、なんという心地よさだ。突っ立っている時に受ける風とは違う。己の力で切り裂き、己の力で生み出す風の、なんと甘美なことか。
■
模擬レースは中盤に差し掛かった。
吾輩は意図的にペースを落とし、バ群の真ん中、あるいは少し後ろへとポジションを下げた。ただ逃げ切るだけでは面白くない。この肉体が、どこまで「あの記憶」を再現できるのか、試してみたかったのだ。
残り600メートル地点。
第3コーナーに差し掛かる。この場所の同輩は、いつも駆け引きを愛していた。
『知性と虚栄心がぶつかり合う、泥臭い騙し合いの場。それがこの600メートル地点である』
前のウマ娘たちが、牽制し合いながらインコースの奪い合いを始める。吾輩は、ふっと息を吐き、視線を鋭くした。
思い出すのは、あの自由奔放な三冠ウマ娘の姿。定石など知ったことかと言わんばかりに、バ群の大外を非常識なスピードで駆け上がっていったあの痛快な跳躍。吾輩は、あえて外へ持ち出した。そして、遠心力を完全に支配下に置いたまま、滑るようなステップで一気に加速する。
「なっ……!?」
横を通り抜ける際、他のウマ娘たちが驚愕に目を見開くのが見えた。当然だ。今の吾輩のコース取りは、かつての天才が魅せた「奇跡のライン」そのものなのだから。
残り400メートル地点。直線入り口。
400メートルの彼は、ここで爆発する希望と歓声を愛していた。
『緻密だったはずの計算が吹き飛び、ただ前へ、前へと理性が熱に浮かされていく』
地元の小さなスクールゆえに、スタンドの歓声などない。だが、吾輩の耳にははっきりと聞こえていた。
何十年もの間、400メートルの同輩が聞き続けてきた、あの地鳴りのような大歓声が。
幾千万の人間たちが喉を枯らし、己の夢を託して叫ぶ、あの熱狂の記憶が。
吾輩は、幻の歓声を背に受け、さらにギアを上げた。
思い出すのは、あの帝の「雷鳴」。一切の隙もなく、圧倒的な規律と精密さをもって大地を制圧する、完璧なる王道。吾輩のフォームはブレることなく、冷徹なまでの正確さで直線を突き進む。他の少女たちの足音が、次第に遠ざかっていく。彼女たちの心が、吾輩の背中を見た瞬間に折れていく。そんな音が聞こえるようだった。
そして。
残り200メートル地点。
かつて吾輩自身が立ち続け、見守り続けた、あの残酷で美しい最後の試練の場。
肺が焼けるように熱い。心臓が早鐘のように打ち鳴り、酸素を求めて喉が悲鳴を上げる。
あぁ、これが。これが彼女たちの感じていた「痛み」か。
吾輩の横を通り過ぎていったあの少女たちは、こんなにも苦しく、痛く、血の味がするような極限状態の中で、それでもなお前を向いていたというのか。
愛おしい。この苦痛すらも、途方もなく愛おしい。
吾輩は、最後の力を解放した。脳裏に浮かぶのは、あの永遠の好敵手が誓った「真っ向勝負」の炎。そして、太い丸太を骨ごと真っ二つに叩き割るような、あの圧倒的な「鉈(なた)」の重脚。
ドゴッ!
と、吾輩の蹄鉄が深くダートを抉り取った。これまで滑らかだった走りが一変し、大地を踏み砕くような暴力的な質量を持った加速へと変貌する。
重い。だが、速い。
吾輩は一人で走っているのではない。
神の鉈が、天才の自由が、帝の雷鳴が、そして何万という名もなきウマ娘たちの汗と涙が、吾輩の脚に宿っているのだ。
すべてのハロン棒が記憶し。
すべての観客が目撃してきた。
―――世代を超えた「執念の結晶」。
それこそが、ファーロングポウルというウマ娘の走りの正体であった。
一陣の暴風となって、吾輩はゴール板を駆け抜けた。
■
静寂。
模擬レースが終わった後のスクールのグラウンドは、不気味なほどの静けさに包まれていた。
老トレーナーは、手元のストップウォッチを見たまま、石像のように固まっている。ポトリ、と彼の手から鉛筆が落ちた。一緒に走っていた少女たちは、遥か後方で膝をつき、信じられないものを見るような目で吾輩を見つめていた。
「お前……」
ようやく老トレーナーが口を開いた。その声は、微かに震えている。
「……どこで、その走りを覚えた? 今のは、まるで……いや、あり得ない。だが……」
彼は言葉を継ぐことができなかった。無理もない。今、彼が目撃したのは、レース史に名を刻んだ数々の伝説たちの走りを、一つに繋ぎ合わせたようなキメラの如き力なのだから。
吾輩は、荒い息を整えながら、ゆっくりと空を見上げた。
冬の終わりの空は高く、澄み切っている。
肺が痛い。足の筋肉が悲鳴を上げている。
だが、全身の細胞が、これまでにないほどの歓喜で打ち震えていた。
走るとは、生きるとは、こういうことだったのか。
あの時、夕暮れの練習コースでトレーナーが言った言葉が、痛いほどのリアリティを持って胸に響く。
『人生はたかが一レースの競争だ、という気がするのだ』
ならば、吾輩の人生(ウマ娘としての生)は、まだ始まったばかりだ。
「……トレーナー殿」
吾輩は、老トレーナーに向かって静かに口を開いた。その声には、自分でも驚くほどの威厳と、確固たる決意が込められていた。
「吾輩は、行かねばなりません」
「行くって……どこへ?」
「中央へ。トレセン学園へ」
吾輩は、かつて自分が立ち尽くしていたあの緑のターフを思い描いた。あそこには、今も新しいハロン棒たちが立っているはずだ。かつての吾輩のように、無言で、冷徹に、ウマ娘たちの走りを定点観測している同輩たちが。
「吾輩には、背負っているものがあります。この脚に宿る記憶を、情念を、あの最も華やかな舞台で証明しなければならない。見守る側ではなく、見られる側として。歴史を記録する木偶としてではなく、歴史に名を刻む一人の走者として」
老トレーナーは、しばらく言葉を失っていたが、やがて深く、深く頷いた。
彼の目には、確かな畏敬の念が浮かんでいた。彼もまた、ウマ娘という生き物を、走るという行為を心底愛する人間なのだ。吾輩の放つ異様なまでの「重み」を、本能で感じ取ったのだろう。
「……わかった。俺の手に余る器だということは、この数分で骨の髄まで理解したよ。推薦状を書こう。お前なら、間違いなく中央の連中の度肝を抜ける」
吾輩は、小さく一礼した。そして、誰もいなくなったゴール板の先、かつて自分が立ち続けていたであろう「残り200メートル地点」の方向を真っ直ぐに見据えた。
待っていてくれ、同輩たちよ。
今度は、吾輩がお前たちの前を駆け抜ける番だ。
白と赤の標識ではなく、ファーロングポウルという血の通った一人のウマ娘として。
何万もの歓声を背に受け、すべての策を振り捨てて、泥と汗に塗れながら、あの極限の200メートルでお前たちに極上の景色を見せてやろう。
吾輩の新しい物語は、今、始まったばかりである。