月明かりすら届かぬ鬱蒼とした深山。
その奥深くに取り残された廃村は、まるで時の流れから置き去りにされた墓標のように静まり返っていた。
朽ち果てた茅葺き屋根からは湿った土とカビの臭いが立ち込め、破れた障子戸が夜風に揺れるたび、ギィ……ギィ……と不気味な軋み声を上げる。村を覆う空気は重く粘りつき、皮膚にまとわりつくような不快な冷気を孕んでいた。かつて人々の信仰を集めていたであろうその土地は今や負の感情が澱み、禍々しい異界へと変貌を遂げている。
村の中央、崩れかけた社の前に二つの影が佇んでいた。
白シャツに書生風の羽織を纏い、両手に漆黒の革手袋をはめた好青年——柊木正宗。
整った涼しげな顔立ちには物越し柔らかい笑みが浮かんでいるがその瞳には光が入らず、どこまでも深い底なしの闇のように濁っていた。
その隣には純白のワンピースを着た11歳の少女——綾瀬ぬえ。
華奢で小柄な身体を寄せ無垢な瞳で師の顔を見上げている。
「ぬえ。……出ますよ。この街を汚すゴミのお掃除です」
「はい、先生。きれいにお掃除するね」
柊木が静かに腰の刀へ手をかけた瞬間、廃村の空間が激しく歪んだ。
——オォォォ、オオオオオッ……!!
地鳴りのような怨嗟の咆哮と共に社の奥から現れたのは長きにわたり廃村の負念を吸い上げて肥大化した特級相当呪霊だった。
何十体もの人間の顔が気味悪く蠢く肉塊。無数の腕が奇怪な角度で生え揃いその爪からは触れた土を削り取るほどの濃密な呪毒が滴っている。
呪霊は侵入者を認識するや否や怒号と共に何本もの巨腕を振り下ろしてきた。風を切り裂く暴力的な一撃。だが、柊木は表情ひとつ変えずぬえの前に一歩踏み出し手袋越しに愛刀の鞘を弾いた。
刃がわずかに覗く。それだけで目の前の空間に「断絶」が走る。
振り下ろされた巨腕が柊木の数センチ手前でまるで目に見えない不可視の壁にぶつかったかのようにピタリと静止した。
柊木の術式『断理』
物理ダメージを排した代わりに概念や事象の繋がりを斬る力。柊木が空間の「運動量」と「慣性」を断ち切ったことでどれほど強力な物理打撃であろうと彼の前では一瞬で運動エネルギーを失い置物と化す。
「立ち回りを見なさい、ぬえ。……踏み込みと、軸の維持です」
「うん……! よく見てる!」
静止した腕を足場にするかのように柊木が滑らかな運足で跳躍した。
そのまま空中で刀を一閃。切り裂いたのは呪霊の肉体ではない。柊木と呪霊との間に存在する「空間的な距離」そのものだ。
十数メートル離れていたはずの呪霊の巨大な頭部が次の瞬間には柊木の眼前に引きずり出されていた。距離の概念を失った呪霊が意図を理解できず呆然とする間もなく柊木は空中で刃を滑らせる。
シャキンッ——!!
綺麗な金属音が夜の廃村に響く。
だが、刀は呪霊の肉体を何ら傷つけることなく、水のようにスルリとすり抜けた。血の一滴すら流れない。
しかし、すり抜けた瞬間——呪霊の巨体が不自然に硬直した。
柊木が斬ったのは呪霊の体内に張り巡らされた「呪力経路」。直接刀を触れさせることで発動する。
動きの根源を断たれた呪霊は宙に浮いたまま金縛りに遭ったかのように身動きを失う。
「ぬえ」
「はい!」
地上で待機していたぬえが、指先から極限まで細く練り上げた光る糸を紡ぎ出した。あやとりの「川」の形を両手で作ると二本の平行な光糸が閃光となって伸びる。
シュンッ!
「ガァァァッ!?」
両腕を綺麗に平行に切断され呪霊が悲鳴を上げた。
だが、土地神としての異能は伊達ではない。切断面から生えた無数の細い触手が瞬時に腕を繋ぎ合わせると呪霊は狂乱しその巨大な口を大きく開いた。
——ゴオオオオオッ!!
口腔から放たれたのは村の呪念が凝縮された超高密度の呪い。広範囲を焦土に変える圧巻の濁流が柊木とぬえをまとめて飲み込もうと押し寄せる。
「危ない……っ!」
ぬえが咄嗟に指を交差させ、全方位に糸の檻を展開しようとした。
『綾断・蜘蛛の巣』
だが、幼いぬえの呪力量では特級クラスの広範囲の呪いを完全に受け止めるには出力が足りない。糸の檻が歪み破破滅の光が漏れ出そうとしたその時——
「焦る必要はありませんよ、ぬえ」
静かな声と共に柊木がぬえの前に滑り込んだ。
迫り来る呪いの濁流に対し柊木は刀を大きく横一文字に振るう。
刀身が呪いをすり抜けた瞬間、嵐のような破壊衝動は一瞬で霧散しただの無害で温い「風」となって二人の頬を撫でて消えた。
呪いの「指向性」を切断されたのだ。暴風としての意味を失った呪力は空間に溶けるように消滅する。
「あ……」
「相手の力に呑まれてはいけません。冷静に、どこを断てば無力化できるかを見極めなさい」
「……はい、先生! ぬえ、落ち着いてお掃除する!」
恐怖を払拭したぬえが再び指先に光糸を絡める。
攻撃を全て無力化された恐怖に呪霊の無数の顔が歪んだ。逃げ出そうと地を蹴ろうとするが柊木はすでに次の手柄を打っていた。
「逃がしませんよ。世の害悪は……一粒残らず消え去るべきです」
柊木の瞳から一切の光が消え底なしの濁りが呪霊を射抜く。
詰めていた間合いから刀を三度滑らせ、呪霊の足元、胸元、そして頭部へと刃を「すり抜け」させていく。
一撃目で、運動エネルギーの切断
二撃目で、反動と次の動作への移行を切断
三撃目で、術式を繰り出すための呪力供給パスを完全に切断
物理ダメージはゼロ。しかし、呪霊は指一本すら動かすことのできない、完全な「置物」へと成り下がった。
「ぬえ。……固定しました。処理しなさい」
「うん……!」
ぬえが前線へと躍り出た。
11歳の華奢な指先があやとりの「星」の形をなぞるように目まぐるしく交差する。繊細な動作で織り上げられたのは縦横無尽に空間を覆う立体交差の光格子。
ぬえの無垢な瞳から一切の感情が消え去り、ただの「作業」として視線が冷たく冷える。
「先生の邪魔をするゴミは……残さずお掃除しなきゃ」
指に絡めた糸をふっと解くように一閃させる。
『綾断・四つ星』
シュンッ——!!
静謐な切断音が夜の廃村に響き渡った。
『断理』によって完全に動きと術式を封殺され、抵抗の余地すら奪われた土地神の巨体。ぬえの放った格子状の光糸が一気に収束し、肉体を網目状に包み込むと次の瞬間には何百ものサイコロ状の肉塊へと解体された。
散らばった残骸は地面を汚すことすら許されず一粒残らず黒い霧となって夜空へと消滅していく。
後には、静まり返った月夜の廃村だけが残されていた。
「……ふぅ」
柊木は刀を静かに鞘へと納めカチリと澄んだ音を響かせた。
柊木は手袋をはめた手で額の汗を拭うと振り返り、いつもの物越し柔らかい微笑みをぬえに向けた。
「見事なお掃除でしたよ、ぬえ。……糸の収束、以前よりずっと速くなりましたね。えらいです」
柊木がかがみ込み、革手袋の手でぬえの頭を包み込むように優しく撫でる。
「えへへ……! 先生のおかげだよ! ぬえ、もっともっと上手にお掃除できるようになるね!」
大好きな先生の手の温もり。
褒められたことが嬉しくてぬえは無邪気で可愛らしい笑顔を弾けさせた。
師の瞳の奥に、どれほど歪で恐ろしい「正義」の執念が渦巻いているかを、11歳のぬえはまだ知らない。ただ、先生の隣で役に立てた喜びだけに、幼い胸を踊らせるのだった。