交流会当日の朝
東京校の敷地内はどこかソワソワとした空気に包まれていた。
「おーい! 伏黒! 釘崎ー!」
元気な声とともに走ってきたのは虎杖悠仁。そしてその少し後ろをいつも通りの涼やかな顔でついてくる綾瀬ぬえの姿があった。
「悠仁……! 綾瀬も……無事だったのね!」
「お前ら、修行の方はどうだったんだ?」
久しぶりの再会に伏黒恵と釘崎野薔薇の表情がパッと明るくなる。伏黒と釘崎は二人で鍛錬を積んでいたが虎杖とぬえはそれぞれ別のメニューで地下室での修行に打ち込んでいたのだ。
「聞いてくれよ伏黒、野薔薇! 俺、五条先生のスパルタでさぁ……」
「もう、最悪だったわ」
虎杖の言葉を遮るようにぬえがラベンダー色の瞳を冷ややかに細めて溜息をついた。ハーフアップの髪を夜風ならぬ朝風になびかせ手首の刺繍を気まずそうに弄っている。
「五条にクソ映画を延々と観せられてたの。呪力の出力調整だとか言ってさ。あんな下品でストーリーもないゴミ映像を何十本も観せられるなんて拷問以外の何物でもないわ」
不機嫌そうに眉をひそめて吐き捨てるぬえに虎杖がヘラッと笑いながら口を挟む。
「えー? でも綾瀬、あの『キラークラウン3』のB級感とか意外と面白くなかったか? 途中から普通に見入ってたじゃん」
「……は? 有り得ないんだけど」
ぬえは即座に虎杖をギロリと睨みつけた。
「どこが面白いのよ、あのゴミ映画。アンタの感性がゴミなだけじゃない? ぬえの貴重な時間を返してほしいわ」
「ひどっ! 俺は結構名作だと思ったのに!」
バチバチと言い合う二人を見て伏黒と釘崎は顔を見合わせた。
普段なら「寄らないで」「話しかけないで」と他者を完全に突っぱね、必要最低限のことしか喋らなかったぬえだ。それが今では虎杖と当たり前のように軽口を叩き合い愚痴をこぼしている。
(……なんか、綾瀬の雰囲気が少し柔らかくなったか?)
伏黒が心の中でそんなことを思っているとぬえは伏黒の視線に気づ、「なによ」とそっぽを向いた。素っ気ない態度は相変わらずだが以前のような氷のような壁はほんの少しだけ薄くなっているように感じられた。
「まあ、生きて戻ったなら何よりだわ。で、今日は京都校との交流会でしょ? あたしたちの力を見せてやりましょうよ」
釘崎がニヤリと笑い拳を握りしめる。
「ああ。……ちなみに2年生の先輩たちとはもう合流してるか?」
伏黒が尋ねるとぬえが「まだ来てないみたいだけど」と校舎の方へ視線を向けた。虎杖と釘崎が「2年生の先輩?」と首をかしげる。
「俺と綾瀬は入学前から2年生の先輩たちとは面識があるんだ。今日一緒に団体戦に出る先輩たちだよ」
伏黒が説明しようとしたその時だった。
「おーい! 揃ってるなー!」
ドスン、ドスンと重い足音とともに茂みの中から巨大な影が現れる。
「げっ……!? パ、パンダ!?? なんでパンダが歩いてんの!?」
「しゃけ!」
「騒ぐなバカ、先輩だ」
現れたのは巨大なパンダと口元を覆った小柄な少年、そして薙刀を肩に担いだ凛々しい少女の三人組だった。
「うわああっ! 喋った!!」
驚愕する虎杖と釘崎を余所にぬえは小さく息を吐き出すと二人に向かって淡々と紹介を始めた。
「……虎杖、釘崎。あっちの薙刀持ってるのが禪院真希さん。呪言師の狗巻先輩。で、あのデカい毛玉がパンダ」
「毛玉言うな! パンダだ!」
パンダは心外だと言わんばかりに両手を広げるとトコトコとぬえに近づいてきた。
「よお、ぬえ! 今日もツンツンしてんなぁ! どうだ、久しぶりにモフっていくか? 抱きついていいぞー?」
「……近寄らないで、でかい毛玉。糸で細切りにしてクッションの中身にしてあげるわよ」
ぬえは即座に指先を向けラベンダー色の呪力糸をチラつかせて冷たく言い放つ。
——が、その瞳はパンダの白黒のモフモフした毛並みを一瞬だけじーっと見つめており、密かに「触りたい」と思っているのが丸わかりだった。
パンダもぬえがウザがりつつも自分の見た目が好きなことを知っているので「はいはい、照れるなよー」とウザ絡みをやめない。
「相変わらず賑やかだな。……ぬえ、体術の腕は鈍ってねぇだろうな?」
真希がニッと不敵に笑いながらぬえの肩をポンと叩いた。
「真希さん……。鈍ってるわけないでしょ。毎日イメージトレーニングは欠かしてないわ」
「ハッ、口だけは一人前だな! 交流会が終わったらまた組手につきあえよ。お前の糸と体術の組み合わせだいぶ様になってきたけど素の体術ならまだまだアタシの方が上だからな」
「……ふん。すぐに追い抜いて見せるわ」
ぬえは不服そうに唇を尖らせつつも真希を見る瞳には確かな尊敬の光が宿っていた。二人は普段からよく組手をしており真希の圧倒的な身体能力と体術をぬえは深く参考にしているのだ。
「おかか、ツナ」
狗巻がぬえの隣にスッと立ちポンポンとぬえの頭を優しく撫でた。
「……何よ、狗巻。ぬえは子供じゃないんだけど」
ぶつぶつと言いながらもぬえは狗巻の手を振り払おうとはしない。何と言っているかは分からないが自分を気にかけてくれている優しい先輩だということは十分に分かっているからだ。狗巻も満足そうに「しゃけ」と頷き頑張れよとばかりに拳を握ってみせた。
「なんだか、すごく良いチームワークね……」
釘崎が感心したように呟き、虎杖も「へへっ、楽しくなりそうだな!」と鼻をこすった。
「よし、じゃあそろそろ京都校の連中を迎撃しに行くか!」
真希の掛け声とともに東京校の面々は校門へと歩き出す。
いつも通りのクールな毒舌を吐きながらも頼もしい先輩たちと少し打ち解けた同級生たちに囲まれ、ぬえの表情には静かな闘志と確かな居場所の温もりが宿っていた。
校門前の広場に立ち込め始めるピリッとした空気。
階段の上から現れたのは深緑の学ランを身に纏った京都校の面々だった。
「あら、相変わらず賑やかね。東京校はおバカの集まりかしら?」
真っ先に声を上げて下りてきたのは禅院真依だった。その細い眉を釣り上げ皮肉めいた笑みを浮かべながら視線はまっすぐに実の姉である真希へと向けられる。
「落ちこぼれの姉さんに相変わらずみっともない連中を引き連れちゃって。……見てるだけで吐き気がするわ」
「相変わらず口だけは減らねぇな、真依。お前こそ、少しは腕も上がったんだろうな?」
真希は薙刀を肩に担ぎ直し鼻で笑ってみせる。姉妹の間に火花が散り一瞬にして空気が緊迫した。
真依はチッと舌打ちをすると真希の隣に立つぬえへと不機嫌そうに視線をスライドさせた。
「……それに、そこの綾瀬。相変わらず高専のお気に入り気取り? 恵まれた術式を持ってて羨ましいわねぇ」
「……真依。相変わらず下品でくだらない嫉妬ね。そんなことに時間を使ってるからいつまでも成長しないんじゃない?」
ぬえはラベンダー色の瞳を冷たく細め一歩も引かずに静かな毒を吐き捨てる。真依の額に青筋が浮かんだがぬえは意に介さずフンと顔をそっぽに向けた。
「あ、あの! 綾瀬さん……っ!!」
その険悪な雰囲気を破るように後ろからオロオロとした声が上がった。三輪霞だ。三輪は真依の後ろからひょっこりと顔を出すとぬえの姿を認め、ぱあっと表情を輝かせた。
「お久しぶりです! 今日もすごく素敵ですね……髪型もめちゃくちゃ可愛いですっ! また会えて嬉しいな……!」
「……三輪。……久しぶり」
先ほど真依に向けた刺々しい空気はどこへやら、グイグイと好意的な熱視線を送ってくる三輪にぬえは少しだけ気圧されたように後ずさった。
不器用にハーフアップの髪を弄りながらどこか気まずそうに視線を泳がせる。嫌っているわけではないのだがこの真っ直ぐすぎる好意にはどうにも調子が狂ってしまうのだ。
「フン、相変わらず無駄にモテるわね」
真依が皮肉っぽく呟き西宮桃も箒の上から「相変わらず可愛くて生意気ね、ぬえちゃん」と小さく手を振っている。
そんな女子たちのやり取りをまるで意に介さない巨大な影が前に躍り出た。
「おい、待て」
ズシン、と地面を揺らす足音。ドシッと立ちはだかったのは規格外の体躯を誇る男——東堂葵だった。
東堂は腕を組み仁王立ちのまま鋭い眼光でぬえを見下ろす。
「お前が噂の『五条悟の弟子』……綾瀬ぬえだな?」
その単語が出た瞬間、ぬえの眉間が一瞬で険しく寄った。ラベンダー色の瞳に急速に絶対零度の殺気が宿っていく。
「……何それ。五条悟の弟子? 一緒にしないで。あんなゴミの弟子になった覚えはないわ。……気安く呼ぶな、デカいゴミ」
「フハハハ! 威勢がいいな! だが、実力さえあれば肩書などどうでもいい!」
ぬえの氷のような毒舌を東堂は高笑いで一蹴した。そしてぬえに向かってバッと右手を突き出し、朗々とした大声を張り上げる。
「挨拶代わりだ、ぬえ! お前に一つ聞きたいことがある!」
「……名前で呼ばないでって言ってるでしょ」
「どんな男が好みだ!! 性癖にはそいつの全てが詰まっている! 答えてみろ!」
暑苦しすぎる大音量と脈絡のない質問に東京校の面々はドン引きして一歩引き下がる。
しかし、ぬえは眉ひとつ動かさずただ胸糞悪そうに東堂を睨み据えた。
「……答える筋合いはないわ。鬱陶しいから消えて」
「答えろ! それが俺とお前の挨拶だ!」
ぬえは深々と溜息をつくと諦めたように冷ややかに吐き捨てた。
「……先生」
「あ?」
「ぬえの好みは、先生よ。……それ以外に興味はないわ。満足したなら二度と話しかけないで」
ぬえの脳裏に浮かんでいたのはもちろん自分を正しく導いてくれた大好きな柊木先生のことだった。
しかし、それを聞いた東堂の顔が一瞬で衝撃に打ち震えた。
「な……なに……っ!?? 『先生』だと……!?」
東堂は絶句しガタガタと肩を震わせたあと、ハッと何かを悟ったように一人で大きく頷いた。
「なるほど……! 世間では五条悟の弟子と呼ばれながらも、それを否定し……しかしその心は、あの『五条悟』という絶対的な強者に囚われているということか……!! 年上の指導者への憧憬と恋心……! まさかあの五条悟を選ぶとはな……!!」
「……は??????」
ぬえの顔から完全に血の気が引いた。そして次の瞬間、耳まで真っ赤に染まり、全身からラベンダー色の強烈な呪力糸が爆発的に噴き出した。
「誰が……誰が五条悟だって言ったのよおおおーーーーっっ!!!!」
「おっと! 乙女の恥じらいか! だが好みは人それぞれだ、恥じることはないぞぬえ!!」
「気持ち悪いこと言わないで!! 妄想で脳みそ腐ってんじゃないの!!? 切り刻んで本当にゴミにしてあげるからそこに立ちなさい!!!」
シュバババババッ!!!
目にも留まらぬ速度で放たれる数千本の呪力糸が東堂の足元や顔かすめるように校庭のコンクリートを細切れにしていく。
「うわあああっ! 綾瀬がマジギレしてる!!」
「東堂のバカ、一瞬で踏み込んじゃいけない地雷を踏み抜きやがった……!」
虎杖と伏黒が青ざめて叫び三輪ちゃんは「綾瀬さん落ち着いてー!」と手を振り、真依は「バカねぇ」と呆れ返っている。
暑苦しい勘違い男・東堂への激怒と取り返しのつかない誤解へのパニックで交流会前の広場は一瞬にして大混乱に陥るのだった。
◆
東京校の作戦会議
「いいか、京都校で一番警戒すべきは間違いなく東堂だ。あいつを野放しにすると一瞬で戦術が瓦解する」
教室の黒板前で真希が木刀を手に真剣な表情で切り出した。全員の視線が集まる中、伏黒が頷く。
「東堂の抑え役だが……虎杖、お前に頼みたい。時間稼ぎでいい。とにかく足止めをしてくれ」
「おう! 任せろ伏黒、俺が全力で——」
「異議あり」
虎杖が胸を叩こうとしたその瞬間、氷のように冷たい声が教室を凍りつかせた。
全員の視線が一斉にぬえへと向かう。ぬえはハーフアップの髪を揺らし腕を組んだままラベンダー色の瞳を怪しく光らせていた。手首の刺繍が怒りの余波でピキピキと怪しく明滅している。
「あのデカいゴリラはぬえが相手をするわ。……理由? さっきの変態的な勘違いと発言。存在自体が不快で万死に値するからよ」
ぬえの指先からチリチリと殺気を孕んだ呪力糸が漏れ出している。
「あのゴミ、ぬえの糸で綺麗に1ミリ単位の細切れにして二度と気持ち悪い妄想ができない肉片にしてあげる。気合いなら十分よ」
「いやいやいや!! 綾瀬、細切れはダメでしょ!? 交流会だからね!? 殺人になっちゃうから!!」
虎杖が青ざめて即座に両手を振り回してツッコんだ。パンダも「落ち着けぬえ、細切れはルール違反だ!」と汗を流し真希が呆れたように溜息をつく。
「ぬえ、気持ちは分かるがダメだ。お前には別の重要な役割がある」
真希が黒板をコンコンと叩いた。
「お前の索敵能力と機動力、そして呪霊を一瞬で処理できる切断力はこの団体戦の要だ。棘と同じようにお前には単独で広範囲のエリアを動き回り、一刻も早く準1級・2級の呪霊を退治してもらう」
「そうそう! ぬえが自由に暴れ回ってポイント稼いでくれた方がチームとして圧倒的に勝率が上がるんだよ!」
パンダがもふもふの手を広げて説得し、狗巻も「しゃけ、しゃけ」と真剣な表情で大きく頷く。
みんなから頼りにされている視線と何より真希や狗巻の説得にぬえは不機嫌そうに頬を膨らませた。
「……チッ。分かったわよ。あんなゴミにぬえの貴重な糸を使うのも勿体ないしね。……その代わり、勝利はぬえたちが貰うわ」
しぶしぶと納得したぬえを見て一同はホッと安胸を撫で下ろすのだった。
京都校の計画会議
一方、京都校の会議室はドロドロとした暗く冷酷な空気に包まれていた。
学長・楽巌寺嘉伸からの命令を下すため加茂憲紀が静かに口を開く。
「……作戦を変更する。我々の真の目的は宿儺の容器——虎杖悠仁の抹殺だ」
真依やメカ丸、西宮たちが静かに耳を傾ける中、加茂は続けた。
「だが、最大の障害となるのは五条悟の秘蔵っ子……綾瀬ぬえだ。彼女の糸の術式、そしてあの異常なまでの呪力操作精度は極めて危険。一度網を張られればこちらの連携は一瞬で断ち切られる。綾瀬の索敵網をいかに回避し、虎杖を孤立させるかが今回の鍵となる」
「綾瀬さんの糸……本当に綺麗で凄いけど敵に回すと恐ろしいですね……」
三輪が青ざめた顔で呟き、真依が忌々しそうに「あの女……本当に邪魔くさいわね」と舌打ちをする。
京都校の面々がぬえの対策について深刻な表情で討議を重ねようとした。
「くだらん」
どっかと椅子に座っていた東堂が鼻で笑って立ち上がった。
「謀など興味はない。俺は俺のやりたいようにやる」
「待て東堂! これは学長直々の命だぞ!」
加茂が制止しようとする東堂はまったく聞く耳を持たない。それどころか、どこか遠い目をして腕を組み熱く語り始めた。
「……それにだ。俺はあいつの恋を邪魔するつもりはない。ぬえは……あの『五条悟』という絶対的な強者に秘めたる想いを寄せている。師弟という垣根を越えた禁断の恋……! その健気な乙女心をお前たちの下らん暗殺計画で踏みにじっていい道理があるか!?」
「「「「……は?????」」」」
京都校全員の頭の上に巨大なハテナが浮かんだ。
真依は目を見開き、三輪は「え、えぇーっ!?? 綾瀬さんが五条先生を!?」とパニックになり、加茂ですら普段の冷徹な表情を崩して「……何を言っているんだ、あの男は……」と茫然自失としている。
「フッ、高田ちゃんの番組の時間が迫っている。俺はこれで失礼する。……おいお前たち、ぬえの禁断の恋を邪魔するような真似をしてみろ。その時は俺が相手になるからな」
東堂はそれだけ言い残すと困惑しきる一同を置き去りにして颯爽と部屋を去っていった。
ドアが静かに閉まった後、残された京都校の部屋には、耐えがたい困惑と静寂が落ちていた。
「……ねぇ、あのゴリラ、本当に何言ってるの……?」
真依の力ない呟きがぽつりと部屋に響くのだった。
◆
「よーい、スタート!!」
モニター越しの五条のゆるい掛け声とともに東京校の面々は一斉に森林エリアへと飛び出した。
「作戦通り、まずは中央のエリアを抜けて——」
真希が指示を飛ばそうとしたその瞬間、森の奥から樹木を押し倒す凄まじい衝撃音と地鳴りのような足音が迫ってきた。
ドドドドドドッ!!!!
「来たわ……! あのゴリラ!!」
ぬえが即座に立ち止まり指先からギラリと光る呪力糸を展開する。
広場の木々をなぎ払いながら突進してきたのは上半身裸の東堂葵だった。
「ハハハハ! 待っていたぞ、東京校! そして——ぬえ!!」
「だっ……誰がぬえよ!! 名前で呼ぶなと言ったでしょ、このゴミ!!」
東堂の姿を見た瞬間、作戦会議での言い聞かせなど一瞬で吹き飛んだ。ぬえのラベンダー色の瞳が怒りで激しく燃え上がり、数千本の呪力糸が目にも留まらぬ速度で東堂の顔面へ切り込んでいく。
シュバババババッ!!!
「おっと! 相変わらず激しい愛の鞭だな!」
東堂は分厚い両腕でガードしながら高笑いを上げる。
「だが安心しろ! お前が五条悟にどれほど心を奪われていようと俺はお前のその健気な恋心を踏みにじるような真似はせん! 存分に戦い、愛を育むがいい!!」
「誰が……誰が五条悟に恋してるって言ったのよおおおーーーっっっ!!!」
「ぬえ落ち着け!! 殺しちゃダメ!!」
「しゃけ! おかか!!」
ブチギレて完全に自我を失いかけたぬえをパンダと狗巻が左右から必死に羽交い締めにして押し止める。真希も「チッ、東堂のバカが余計な火に油を注ぎやがった!」と頭を抱えた。
「綾瀬、ここは俺に任せろって言ったろ!!」
虎杖が前に飛び出し東堂の凄まじい飛び膝蹴りを正面から両腕で受け止めた。ガツンッと鈍い衝撃音が森に響き渡る。
「……虎杖。あんた、邪魔しないで」
「邪魔じゃねぇ! 作戦だろ!! ほら、みんなは先に行ってくれ!!」
ぬえはパンダの腕を振り払うと真っ赤になった顔を誤魔化すようにフンと鼻を鳴らした。そして、虎杖の背中に向かってラベンダー色の糸を幾重にも巻き付ける。
「あ? え、綾瀬何して——」
「行ってらっしゃい、虎杖。あのゴミを肉片にしてきて」
「うおあああああっ!??!?」
ぬえが腕を振り抜くと同時に糸に縛られた虎杖が弾丸のような速度で東堂へ向かって投げつけられた。
「フハハハ! 豪快なパスだな!!」
「うわあああ死ぬ死ぬ死ぬー!?」
空中から東堂へと激突していく虎杖の悲鳴を聞き届け、ぬえはくるりと背を向けた。
「行くわよ、真希。あんなゴミに付き合ってたら頭がおかしくなるわ」
「……お、応。ナイスパス(?)だ、ぬえ」
こうして混乱と狂騒の足止め劇を残しぬえたちは森の奥へと駆け出していった。
虎杖を一人残しエリアの手前で分かれて単独行動へ移行したぬえ。
ハーフアップの髪をなびかせ、森の樹木へ目視できないほどの極細の糸を張り巡らせていく。
(……冷静になりなさい、ぬえ。あのゴリラのバカに毒されたらダメ)
パンパンと自分の頬を叩き、頭を冷やしたぬえは糸を通した振動感知に集中した。
広大な森のあちこちで蠢く呪霊の気配。
しかし、それ以上に異質な「人の呪力」の動きが糸を通じてぬえの脳内に伝わってくる。
(……変ね)
ぬえの足がぴたりと止まった。
京都校のメンバー——加茂、真依、西宮、メカ丸、三輪。
彼らは呪霊の討伐に一切動いていない。東堂を一人残したまま全員が示し合わせたかのように一つの地点へと急速に集結していた。
その集結地点にいるのは——虎杖悠仁
「……何やってるの、あいつら?」
ぬえのラベンダー色の瞳に冷ややかな警戒の光が宿る。
同じ頃、別のルートを走っていた伏黒恵もまた影を通じた索敵で京都校の異常な動きを察知していた。
樹上からぬえが滑り降りてきて伏黒の前に降り立つ。
「伏黒」
「……綾瀬か。お前も気づいたか?」
「ええ。京都校の全員が呪霊を無視して虎杖のところへ向かってるわ。……きな臭いわね。あのゴミたち、最初から呪霊狩りなんてする気がない」
伏黒は険しい表情で頷いた。
「京都校の狙いは……悠仁だ。上層部からの指示であの場で悠仁を殺す気かもしれない」
「……高専のルールを破ってコソコソと暗殺? 本当に吐き気がするわね」
ぬえの手首のワンポイント刺繍が静かな怒りとともに淡く発光する。
「行きましょう、伏黒。……せっかく虎杖が少しはマシな顔をするようになったのに邪魔させるわけにはいかないわ」
「ああ、急ぐぞ!」
冷徹な戦術眼を取り戻したぬえと伏黒は顔を見合わせると虎杖が孤立する戦場へ向かって疾風のごとく駆け出した。
伏黒とともに木々の間を疾風のごとく駆け抜け虎杖のもとへ辿り着いたぬえ。
「虎杖……っ!」
二人が樹上から飛び降り臨戦態勢を整えた直後——現場に漂っていたのは緊張感とは程遠い、あまりにも異様な空気だった。
「……は?」
ぬえのラベンダー色の瞳が点になった。
倒れ伏す木々の中心であの巨漢の男・東堂葵が滝のような涙をぼろぼろと流しながら虎杖の肩を固く抱きしめていたのだ。
「……親友ッッ!!!!」
「え、誰!? 誰なんだよお前!!」
暑苦しい叫び声を上げる東堂と心底困惑してドン引きしている虎杖。東堂は己の頬を伝う涙を拭いもせず感極まった様子で熱弁を振るう。
「忘れるはずもない! あの甘酸っぱい中学三年の春! お前と一緒に地元の中学で過ごした、あの輝かしい青春の日々を……!」
「過ごしてねぇよ!! 俺とお前、今日が初対面だろ!!?」
必死に否定する虎杖だったが東堂の脳内に存在しない記憶が溢れ出している様子はあまりにも真に迫っていた。
「……ねぇ、伏黒」
ぬえが引きつった顔で隣の伏黒に冷たい視線を向けた。
「……虎杖って、あのゴミと同中だったの?」
「んなわけあるか!!」
虎杖が即座に大声で怒鳴り返す。伏黒も頭を抱え眉間を深く揉みほぐしながら深く溜息をついた。
「いや……虎杖の地元は仙台だ。東堂は京都だぞ。同中のわけがない」
「でも、あの熱量よ? 虎杖、アンタまさか記憶喪失にでもなってあのゴリラと青春を謳歌してた時期があるんじゃないの?」
「だからねぇって言ってるだろ綾瀬ぇ!! 俺が一番怖いんだよ今!!」
パニックになる虎杖を余所に東堂は急に真顔になると虎杖の肩をぽんと叩いた。
「ぬえ、伏黒。……ここは俺と親友の聖域だ。手出しは無用」
「……誰が手出しなんてするか……」
ぬえの眉間に血管が浮き浮かぶ。あまりの会話の通じなさと相変わらず自分を「ぬえ」と馴々しく呼ぶ態度にぬえの忍耐の限界が訪れた。
「会話するだけ無駄ね。……二人まとめて、邪魔」
シュバババッ!!
ぬえが指先を一閃させると虎杖と東堂の足元から張り巡らされた呪力糸が一気に弾けた。
「「うわああああああっっ!!??」」
二人の身体が糸の弾性によって盛大に掬い上げられそのまま森の彼方へとドカンと放り投げられた。
樹木の梢を突き破り二人の悲鳴が遠ざかっていく。
……静まり返る森の中。
ぬえはハーフアップの髪を軽く整えるとしびれを切らして周囲の木々から姿を現した京都校の面々——加茂、真依、メカ丸、西宮、三輪を一瞥した。
(……あのゴリラ、虎杖を殺す気なんて微塵もないわね。むしろ、気味の悪い愛着を持ってたわ)
当初警戒していた「東堂による虎杖殺害」の懸念が完全に消え去ったことでぬえのモチベーションは一気に氷点下まで下がっていた。
(……ハァ。一気にやる気なくなったわ。暗殺だかなんだか知らないけど、くだらない)
ぬえが冷ややかに溜息をついていると真希、パンダ、釘崎も合流し両校のメンバーが対峙する形となった。
「恵、ぬえ。悠仁はどこへ行った?」
真希の問いに伏黒は「東堂と一緒に飛んでいきました」とだけ答え加茂を見据えた。
「加茂さんは俺がやる。暗殺の意図、聞いておきたいからな」
「私は真依だ。ずっとウジウジ言ってる腹いせを晴らしてやるよ」
真希が薙刀を構えると真依が「フン、望むところよ」と銃口を向ける。
「メカ丸は俺っちが相手するぜ! もふもふパワー見せてやる!」
「西宮とかいう魔女っ子はあたしがぶちのめす!」
パンダと釘崎もそれぞれターゲットを決め、戦線が次々と分かれていく。
そして——残されたのはぬえと、その前にぽつんと立っていた三輪霞だった。
「……え?」
三輪は刀を構えた姿勢のまま目を丸くして固まった。
自分と向かい合っているのはあの五条悟の弟子であり、圧倒的な呪力と殲滅力を持つ憧れの綾瀬ぬえだ。
「え、えぇっ!? ま、まさか私が綾瀬さんの相手なんですかっ!?? 嘘でしょ、無理無理無理! 私なんて一瞬で細切りにされちゃいますよ!!?」
頭を抱えて露骨にパニックになる三輪に対しぬえはラベンダー色の瞳を死んだ魚のように半目にしてつまらなさそうに髪の毛を弄った。
「……騒がないで。ぬえも今、すっごくやる気ないんだから」
「えっ? やる気ないんですか!?」
「当たり前でしょ。あのゴリラの相手させられそうになるし、変な誤解は広まるし……。手短に済ませるわよ、三輪」
テンションダダ下がりのぬえと予想外の強敵との対戦に焦りまくる三輪。
どこか噛み合わない二人の戦いが静かに始まろうとしていた。
三輪 霞 vs 綾瀬ぬえ
「シン・陰流——簡易領域!」
三輪が足元に領域を展開し柄に手をかけた刀を低く構える。
その表情は真剣そのものだ。憧れの綾瀬ぬえが相手とはいえ京都校の呪術師として手を抜くつもりは微塵もない。
「いきます……っ!」
シュッ!!
踏み込みとともに三輪の間合いに侵入した空気を捉え刀が抜刀される。
しかし——ぬえの表情には緊迫感などひとかけらもなかった。
「……遅い」
ぬえはハーフアップの髪をゆらりと揺らし最小限の体術で三輪の刃をサラリとかわす。
そのまま指先から極細の呪力糸を1本だけ伸ばし、三輪の刀の側面を「チーン」と軽く弾いて軌道を逸らした。
「わわっ!?」
「踏み込みが甘い。体幹がブレてるから刀の軌道が簡単に読めるのよ」
「は、はいっ!? …って、アドバイス!?」
ぬえは脱力した手つきで糸をゆらゆらと遊ばせながら三輪の連続攻撃をステップと糸の最小限の操作だけで軽々と受け流していく。
ぬえがこうして三輪の相手を丁寧に気にかけているのには一つ理由があった。
三輪が「刀」を使う術師だからだ。
ぬえにとって「刀を使う人」といえば大好きな柊木政宗だった。幼い頃から先生の洗練された美しい太刀筋をずっと隣で見つめ続けてきたぬえにとって刀を扱う者には自然と親近感が湧いてしまう。
(……だからって、この太刀筋は無駄ばかり)
ぬえは三輪の刃をあしらいながら心の中で冷ややかに評していた。
柊木先生の刀線には一切の無駄がなく刃が空気を切り裂く音すら美しかった。それに比べて三輪の刃は力みすぎで、軌道が無駄に大きく隙だらけだ。
さらには打ち合うたびに糸を通じて伝わってくる刀の質。
(……それに、その刀。なまじ手入れはされてるみたいだけど根本的に安物ね。呪力の伝導率も悪いわ)
そんな評価を下しつつもぬえは無意識のうちに言葉を口にしていた。
「ほら、肘が下がってる。あと簡易領域の半径、無駄に広げすぎ。呪力の消費が激しくなるだけで意味がないわ。……刀の重さに振り回されないで軸を意識しなさい」
「す、すみません! ……じゃなくて! 綾瀬さん、本当に指導になってますよ!?」
「……ぬえは別に指導なんてしてない。あんたの動きがあまりにも隙だらけで打ち込む気すら起きないだけ」
冷たく言い放つものの殺気はゼロ。
もはや戦闘というよりは放課後の道場で先輩が後輩の稽古をつけているような、どこかほのぼのとした空気が漂っていた。
三輪も必死に刀を振るいながら心のどこかで(綾瀬さん、口は悪いけどやっぱり優しい……!)と密かに感動すら覚えていた。
——そう、三輪が「あの禁断の質問*を口にするまでは。
「あの……綾瀬さん! 刀を振りながら聞くのもアレなんですけど……っ!」
三輪は額に汗を浮かべながら意を決したように尋ねた。
「東堂先輩が言ってたことって本当なんですか……!? 綾瀬さんって……本当に五条先生のことが好きなんですか!?」
「…………」
ピタッ
ぬえの動きが完全に停止した。
あんなに軽やかに動いていた足音が絶え、森の風すら止まったかのような静寂が訪れる。
「え……? 綾瀬……さん……?」
三輪は刃を止めて首を傾げた。
何か触れてはいけないものに触れてしまったのだろうか。
ぬえはうつむいたまま微動だにしな——
ドォンッ!!!!
次の瞬間、ぬえの全身から膨れ上がったラベンダー色の呪力が周囲の樹木を揺らすほどの暴風となって爆ぜた。
ゆっくりと顔を上げたぬえの表情を見た三輪は背筋に氷を突き立てられたような激しい戦慄に襲われる。
「……な、なに……今の……」
ぬえのラベンダー色の瞳はハイライトが完全に消え去り、絶対零度の冷徹さと触れたもの全てを粉砕するほどの激怒に染まっていた。
額には青筋が浮かび手首の刺繍が血のような赤紫色の光を放っている。
「……三輪」
地獄の底から響くような低く静かな声。
「あんたも……あの気味の悪いゴリラと同類だったのね」
「ひっ……! ち、違います! 私はただ純粋な疑問で……っ!」
「消えなさい」
「〜〜〜〜〜っっっ!!!!」
ぬえの右手が前に突き出された瞬間、空気が悲鳴を上げた。
遊びは終わりだ。ぬえの全呪力が注ぎ込まれた数万本の呪力糸が目にも留まらぬ密度と速度で三輪へと襲いかかる。
「シン・陰流——抜刀っ!!」
三輪は悲鳴を噛み殺し、簡易領域の自動掃撃で迫り来る糸を必死に切り払おうと刀を閃かせた。
キン! キキンッ! ギンッ!
三輪の剣術も見事だった。領域内に侵入した糸を数本、数十本と完璧に弾いていく。
——だが、ぬえの糸の精度と圧倒的な量は、三輪の限界を遥かに超えていた。
「くっ……糸が、多すぎ——!?」
シュババババッ!!!
三輪の刀の軌道をあざ笑うかのように糸は上下左右、そして足元から多角的に領域を食い破った。
三輪が「しまっ——」と声を漏らした時にはすでに勝負は決していた。
ドスンッ!
「きゃああっ!?」
三輪の持っていた安物の刀が糸によって一瞬で巻き取られて手元から弾き飛ばされ、同時に全身を無数のラベンダー色の糸がぐるぐると高速で包み込んでいく。
シュルルルルッ……ポンッ!
数秒後
そこには全身を頑丈な糸でミノムシのように緊縛され大木の太い大枝から吊るされた三輪の姿があった。
「うぅ……動けない……っ」
首から下を完全に固められ枝からぶら下がってゆらゆらと揺れる三輪。
その下でぬえは冷ややかにハーフアップの髪を手で払うと吊るされた三輪を見下ろした。
「……高専に戻るまでそこで頭を冷やしてなさい。……それと、二度とあいつの名前をぬえの前で出さないこと。分かった?」
「は、はいぃ……! すみませんでしたぁ……!」
涙目になって謝る三輪を残しぬえは「まったく、どいつもこいつも……」と不機嫌そうに毒を吐きながら森の奥へと立ち去っていくのだった。
三輪を樹上に吊るし不機嫌そうに溜息をつきながら森の小道を歩いていたぬえ。
しかし——その表情はすぐに引き締まり冷徹な術師としての顔へと戻っていた。
ぬえは先ほど東堂とともに遥か彼方へと投げ飛ばした虎杖に対し目視できないほど極細の呪力糸を1本、密かに繋げたままにしておいたのだ。
(……あのゴミゴリラが虎杖を殺すとは思えないけれど万が一京都校の他の連中がコソコソ襲いかかったら面倒だしね)
さらに、ぬえは森全体に張り巡らせた自らの糸の網を通じて各戦場の状況をリアルタイムで把握していた。伏黒と加茂、真希と真依、パンダとメカ丸——それぞれの交戦の気配を感じ取りながら一人静かに森を移動していた、その時だった。
ブツッ——……
不意に右手の指先に伝わっていた「虎杖へと繋がる糸」の手応えがプツリと唐突に途絶えた。
「……え?」
糸が緩んだのではない。何者かによって、一瞬にして鮮やかに「切断」されたのだ。
ぬえがハッと目を見開いた直後——
プチプチプチプチプチプチッ!!!!
「っ……!?!?」
森全体に張り巡らせていた数万本もの索敵糸が波打つような衝撃とともに一斉に、瞬時に切り刻まれて破断した。
指先を通じて脳内に押し寄せる、猛烈なフィードバックと衝撃。ぬえは思わず胸元を押さえハーフアップの髪を揺らしながら膝をつきそうになった。
(な、なに……!? ぬえの糸が……一瞬で全部……!?)
ただ事ではない。
単なる一級呪霊や高専の生徒レベルの仕業ではない。ぬえの精緻な呪力糸をこれほど広範囲かつ一瞬で灰燼に帰すなどあり得ないのだ。
次の瞬間——
ゴォォォォ……ッ!
空が、重く不気味な黒に染まり始めた。
上空からドロリとした粘着質で漆黒の液体のようなものが垂れ下がり高専の敷地全体を包み込んでいく。
「帳……!? でも、高専の演習用のものじゃない……!?」
ぬえは即座に立ち上がり、手首の刺繍に呪力を集中させた。手元に残った僅かな糸を再び森の中へと鋭く走らせ周囲の索敵を試みる。
(誰が……どこにいるの……!?)
糸を通じて伝わってくる空気の歪み。
そして——ぬえのラベンダー色の瞳が激しく揺れた。
伏黒と加茂、そして真希たちが交戦していたエリアのすぐ近くにこれまでの人生で感じたこともないほど禍々しく広大で、密度の高い異常な呪力が突如として出現していた。
(何なの……この気味が悪いほどの膨大な呪力……!! 伏黒たちのところに……!!)
「伏黒……! 真希……っ!」
冷や汗がぬえの白い頬を伝う。
ぬえは迷うことなく地面を強く蹴ると異様な呪力の塊——特級呪霊・花御が降臨した戦場へ向け疾風のごとく駆け出した。