花御が展開する圧倒的な植物の暴力。
その渦中で伏黒恵と加茂憲紀、そして合流した狗巻棘は限界ギリギリの防衛戦を強いられていた。
ドォンッ!! ガガガガッ!!
「くっ……固すぎる……! 攻撃がまるで効いてない……!」
伏黒が式神を駆使して牽制し加茂が「赤血操術」で距離をとって矢を放つが花御の異様な耐久力の前には浅い傷しかつかない。巨大な樹木の根や幹が地表を砕きながら無数に襲いかかり周囲の森はことごとく叩き潰されていた。
「立ち止まるな! 距離をとれ!!」
「『止まれ』!!」
ドガァァンッ!!
狗巻の喉を絞り出すような叫びとともに呪言が発動し迫り来る巨大な木々の突進がピタリと停止する。
しかし、その代償は大きかった。
「ガハッ……! ゲホッ、ゲホッ……!」
狗巻は吐血し激しく咳き込んだ。咽喉薬を口に流し込んでいるものの特級呪霊相手への呪言の反動は凄まじくすでに喉は焼き切れる寸前だ。
「狗巻先輩……! もう限界だ、無理に使わないでください!」
伏黒が狗巻の肩を支える。加茂も息を荒らげ鋭い眼光で花御を見据えていた。
「あの『帳』は術師を閉じ込めるものではなく五条悟の侵入のみを拒む特殊なものだ。つまり、我々が内部で持ちこたえなければ全滅する……!」
「……いや、望みはある」
伏黒は荒い息を吐きながら、確信に満ちた目で森の奥を見つめた。
「綾瀬だ。……あいつの糸ならこの植物の群れを広範囲で裁断できる。あいつの糸の密度と精度があればあの呪霊の足止めも俺たちの退路の確保も可能だ」
「綾瀬……あの糸の術師か。だが、この乱戦の中で合流できるか?」
「来ます。あいつは絶対に気づいてここに向かってるはずだ。……あの糸が、この異常な状況に気づかないわけがない」
伏黒は影から「鵺」を召喚し上空からの視界を確保しながら走撃してくる花御の攻撃を間一髪で回避する。
「狗巻先輩、加茂さん! 綾瀬の索敵網と合流できる位置まで下がります! あいつの糸の展開エリアに入れば、攻撃を殺せる!!」
「ツナ……ッ!」
喉を抑えながらも強く頷く狗巻。
傷つきながらも一歩も引かず互いの背中を守り合いながら三人はぬえが駆けつけてくる方向へと命懸けの撤退と誘導を開始した。
そして——森の木々の隙間からラベンダー色の眩い呪力の光が微かに閃き始めていた。
シュバババババッ!!!!
「な……ッ!?」
伏黒たちの目前まで迫っていた花御の巨大な木々の根が突如として空中で十数重もの綺麗な断面を描きパンッと炸裂するように弾け飛んだ。
「伏黒! 狗巻! 加茂さん!」
乱れ飛ぶ木屑と木ノ葉の舞う中、疾風のごとく現れたのは綾瀬ぬえだった。
ハーフアップの髪をなびかせ手首の刺繍から溢れ出るラベンダー色の呪力糸を十指に絡め冷徹な殺気を全身から放っている。
「綾瀬……! 間一髪だったな」
伏黒が息を呑む。ぬえは伏黒たちの前に立ち塞がり一歩も引かずに特級呪霊・花御をラベンダー色の瞳で睨みつけた。
「……高専に不法侵入した上に、みんなを傷つけるなんて。万死に値するわ」
ぬえの術式『綾断(アヤタチ)』
それは自らの呪力を極限まで細くかつ強靭に練り上げた“光る糸”を指先から紡ぎ出し、あやとりのように指先で様々な形を構築することで対象を切り刻む術式だ。
ぬえは瞬時に両手の指を交差させあやとりの形を作り上げる。
「『綾断・箒』」
指先から扇状にパーッと広げられた数千本の光る糸が一瞬で一点へと収束。正面から押し寄せていた花御の植物の波を文字通り「お掃除」するかのように一瞬でスライスし粉砕した。
「すごい……! あの密度と威力の植物を一瞬で……!」
加茂がその圧倒的な切れ味と精度に目を見張る。しかし、当のぬえの表情は険しかった。
(……浅い!?)
直後、植物の壁を突き破り花御本体が凄まじい速度で突進してきたのだ。
ぬえは即座に交戦姿勢に入り指先を鋭く滑らせる。
「『綾断・川』」
二本の平行に走る高密度の光糸が花御の突き出された太い両腕の肘関節へと平行に走り切り込む。
ギンンッ!!!
と、まるで硬質な金属同士が激突したかのような甲高い不協和音が森に響き渡った。
「……っ!? 硬い……っ!」
ぬえの『綾断』は並の呪霊や建造物なら豆腐のように容易く切り裂く切断力を誇る。
しかし、特級呪霊である花御の頑丈さは異次元だった。皮膚の表面を浅く削り薄い紫色の血を滲ませるにとどまり骨はおろか肉の深部まで切断することができない。
(なんなのこの頑丈さ……! ゴリラ以上に硬いじゃない……!)
ぬえの焦りを察したように花御は腕の傷を意にも介さずぬえを押し潰さんと巨大な木根の拳を振り下ろす。
ぬえは宙を舞うようにバックステップでかわしつつ十指を複雑に絡め合わせた。あやとりの幾何学模様がラベンダー色の眩い光を放つ。
「なら……これでどう!? 『綾断・四つ星』!!」
空間に瞬時に組み上げられたのは縦横に美しく交差する格子状の立体網。
逃げ場を塞ぐように花御の巨体を完璧に囲い込み、ぬえが両手を一撃で強く引き絞る。
シュルルルルッ……ドォンッ!!!
交差した糸の網が一斉に締め上がり花御の全身を四角く切り刻もうと強烈な圧力がかかった。
ミシリ、ミシリと花御の頑丈な皮膚が悲鳴を上げ樹皮のような肉体に格子状の赤い亀裂が深く刻まれていく。
「効いてる……! 押し潰せ、綾瀬!」
伏黒が叫ぶ。だが——
「……があぁぁぁ……」
花御は呪力を爆発させると全身の筋肉を膨張させ、なんとぬえの『四つ星』の網を力任せに内側から押し返し始めたのだ。
「嘘……っ! ぬえの『四つ星』を力で力づくで破る気……!?」
ギチギチと糸が悲鳴を上げる。ぬえは歯を喰いしばり手首の刺繍から絞り出すように呪力を注ぎ込むが特級呪霊の底知れぬタフさと筋力に糸が引きちぎられそうになる。
「綾瀬、下がるんだ! 一人では受けきれん!」
加茂が叫び弓を構える。
ぬえの鋭利な糸ですら完全な切断に至らない花御の規格外の頑丈さを前にぬえの額から一筋の汗が伝い落ちるのだった。
シュルルルルッ……バチンッ!!!
力づくで『四つ星』の網を押し広げようとする花御。ギチギチと音を立てて悲鳴を上げる糸の交差点から鋭い火花が散る。
(くっ……! この呪霊、身体の頑丈さも力も規格外すぎる……!)
ぬえは歯を喰いしばり手首のワンポイント刺繍から限界以上の呪力を溢れさせた。ラベンダー色の糸がますます眩く輝きを増す。
「伏黒、下がりなさい! ぬえが……こいつの動きを完全に止める!!」
ぬえはハーフアップの髪を激しくなびかせ十指を複雑かつ目にも留まらぬ速度で滑らせた。
あやとりの糸が指先で奇跡のような立体幾何学模様を描いていく。
「『綾断・梯子』!!」
シュバババババッ!!!!
空中に一瞬にして組み上げられたのは何層にも並行して連なる高密度の呪力糸の梯子。
ぬえが両手を一撃で強く引き下ろすと同時に重なった糸の層が花御の太い首、肩、胸、そして両腕へとなだれ込むように巻きついた。
「があぁぁっ……!?」
『四つ星』でできた傷口へとさらに深く食い込む『梯子』の刃。
並の呪霊であれば一瞬で細切りの肉片へと解体されているほどの圧倒的な切断力。しかし、花御の肉体はなおも持ちこたえていた。
だが——
「切れないなら……固めるまでよ!!」
ぬえは指先を強く固め糸の硬度と密度を極限まで引き上げた。
切り裂くのではなく高密度の光糸で全身を幾重にも縛り上げその場に縫い付ける。
『四つ星』と『梯子』の二重のあやとり網が花御の巨体を完璧に包み込み周囲の巨大な大木や地表深くへと根を張るように固定された。
「ぐぅ……ッ……」
いかなる力を持った特級呪霊といえども全身の関節と呪力の節々を縛り上げられついには完全に動きを封じられた。花御の全身からは紫色の血が噴き出し深く傷を負っている。
「やった……! 特級呪霊の動きを、完全に止めた……!?」
加茂が目を見開き驚愕の声を漏らす。伏黒も息を呑んでぬえの背中を見つめた。
花御は縛り上げられたままぬえへとその不気味な顔を向けた。
『……見事です、幼き術師よ。その若さにして、これほどの術式精度と呪力密度……そして、私に傷を負わせるほどの気迫。称賛に値します』
脳内に直接響く花御の言葉。ぬえは肩で荒い息をつきながら額の汗を手の甲で拭った。
「……ふぅ。これで……おとなしく……っ」
一息つこうとぬえが呪力を緩めかけた——その瞬間だった。
ドォォォォォンッ!!!!
「っっ!??!」
花御の全身から先ほどまでとは比べものにならないほどの禍々しく圧倒的な呪力が噴き出した。周囲の空気が重雷のように震える。
『……ですが、まだ足りません』
メリメリメリ……バチンッ! バチバチバチッ!!!
「嘘……でしょ……!?」
ぬえが目を見開く。
あれほど強靭に練り上げ、花御の全身を縛り付けていたラベンダー色の光糸が花御がさらに呪力を増して筋肉を爆発させたことで次々と音を立てて引きちぎられていく。
「あぁぁぁぁ……っ!!」
ぬえの指先に猛烈な反動と衝撃が跳ね返り手首の刺繍から血が滲む。
拘束を強引に引きちぎって破った花御はそのまま巨大な木根の拳を振り上げ無防備になったぬえの頭上へと凄まじい速度で振り下ろした。
(あ……動かない……っ!?)
限界まで呪力を使い切り反動で全身の筋肉が硬直する。
迫り来る巨大な木の拳。ぬえのラベンダー色の瞳に死の影が覆いかぶさろうとした——
パンッ
静まり返った戦場にどこか軽快で場違いなほどの手拍子の音が一つ、響き渡った。
パッと視界が反転する。
「……え?」
次の瞬間、ぬえの目の前にあったはずの巨大な拳と花御の巨体が消えぬえの身体は数メートル離れた安全な位置——伏黒たちのすぐ隣へと移動していた。
代わりに花御の目の前……ぬえが先ほどまでいた場所に立っていたのは——
「フハハハハ! ギリギリセーフだな、ぬえ!!」
バツンッと花御の振り下ろした拳をその分厚い両腕で受け止めて仁王立ちする男——東堂葵だった。
「な……東堂……!? 虎杖……!?」
伏黒が声を張り上げる。東堂の後ろの樹上からドスンと着地したのは虎杖悠仁だった。
「綾瀬! 無事か!?」
「虎杖……? ゴリラ……? なにが、起きたの……?」
困惑するぬえに向かって東堂は肩をすくめ、白い歯を見せてニッと笑った。
「お前という輝かしい乙女をこんな不細工な呪霊の手で散らせるわけにはいかんからな」
東堂はゆっくりと振り向き花御を見据えて凄まじい圧力を放ち始めた。虎杖もまた拳に呪力を宿して東堂の隣へと並び立つ。
「悠仁。……修行の成果を見せてみろ」
「おう!!」
絶体絶命のピンチを救われたぬえは荒い息をつきながらも頼もしく立ち塞がる二人——相変わらず暑苦しい東堂と虎杖の背中をぽかんと見つめるのだった。
「……何なの、あの二人」
伏黒に肩を支えられながらぬえは呆然とした声を漏らした。
息は荒く手首の刺繍からは未だに微かな血が滲んでいる。だが、ぬえのラベンダー色の瞳は、目の前で繰り広げられる異次元の連撃から片時も離れることができずにいた。
「ブラザー! 左だ!」
「おうっ、任せろ!!」
東堂が虎杖を「ブラザー」と叫びながら指示を出し、虎杖も当然のようにそれに応じる。
(ブラザー……?? いつからあいつら兄弟になったの……? 意味が分からない……)
ぬえの頭の中は困惑で一杯だった。つい先ほどまで死闘を繰り広げ自分を吹き飛ばしてきたあの怪力ゴリラと高専に入ったばかりの虎杖がまるで長年組んできた相棒のように息を合わせている。
だが——困惑と同時にぬえの胸を支配したのは圧倒的な興味と戦慄だった。
パンッ!
軽快な柏手の音が鳴り響く。
「っ!?」
花御が虎杖へ振り下ろした巨大な木の腕が突如として東堂の位置と入れ替わる。
完璧なタイミング。
花御が空を切った瞬間に生じた一瞬の隙——そこへ入れ替わった東堂が恐ろしい踏み込みから威力を乗せた拳を花御の顔面に叩き込んだ。
ドカァァンッ!!!
「ぐっ……!?」
特級呪霊の巨体が横揺れする。
ぬえはその光景に息を呑んだ。
(……すごい。ただの位置交換じゃない)
東堂の術式『不義遊戯(ブギウギ)』
位置を入れ替えるだけのシンプルな能力だからこそ使う者の「戦闘IQ」がすべてを決める。
拍手を鳴らすと見せかけて鳴らさないブラフ、自分と虎杖の入れ替え、自分と花御の入れ替え、さらには落ちている呪具との位置交換——その選択肢の提示速度と判断力があまりにもズバ抜けている。
(わけのわからないゴリラだと思ってたのに……戦闘におけるセンスが高すぎる……!)
そしてさらにぬえを驚かせたのは虎杖の存在だった。
パンッ!
再び位置が反転する。
東堂の手拍子ひとつで目まぐるしく変化する視界と間合い。
普通なら自分の位置が瞬時に変われば平衡感覚を失い攻撃の軸すらブレてしまうはずだ。ましてや虎杖は呪術師としての戦闘経験など数ヶ月にも満たない素人同然のはず。
それなのに——
「はああぁぁぁっ!!」
ドスッ!! ズゴォォンッ!!
位置が入れ替わったコンマ数秒後には虎杖はすでに完璧な軸で踏み込み、花御の傷口へ正確無比な拳を叩き込んでいた。
体幹の強さ、異常なまでの反射神経、そして何より「空間を直感的に把握する戦いのセンス」
東堂の高度な戦略と高速の位置交換に虎杖は持ち前の超人的な身体能力と直感だけで完璧に追従し、同調してみせているのだ。
「……信じられない」
ぬえは支えてくれている伏黒の腕を思わずギュッと握りしめた。
「虎杖って、呪術を始めてまだほんの少しでしょ……? なんであのゴリラに感覚だけでついていけてるの……!?」
「……あいつはそういう奴だ」
伏黒は荒い息を吐きながら誇らしげにだが険しい表情で戦場を見つめている。
「東堂の術式は味方ですら混迷させる。だが虎杖は東堂の思考を完璧に信じて体に任せてるんだ。……あの二人の連携はいまや花御の思考速度を完全に上回ってる」
パンッ! ガンッ! パンッ! ドカァンッ!
目の前で目まぐるしく入れ替わる二人と術式の網に捉えられて防戦一方になる特級呪霊。
ぬえの手首の刺繍が微かにうずく。
ぬえ自身、糸を使った精緻な立体戦を得意とする術師だからこそ分かる。
あの二人の戦いは乱暴に見えてその実、一ミリの狂いもない極上のパズルだ。
(悔しいけど……目が離せない。あのゴリラと虎杖……本当に強い……!)
ぬえはラベンダー色の瞳を輝かせながら息を詰めて異次元の連撃を見つめ続けるのだった。
ドカァァンッ!!
虎杖の連撃と東堂の『不義遊戯』が、花御の異次元の耐久性を削る。
しかしそれだけではトドメには至らない。特級呪霊の驚異的な生命力を完全に砕くためぬえは深く息を吐き出し胸元の手首の刺繍に両手をあてがった。
「伏黒」
「……なんだ、綾瀬」
「ぬえに、少し時間をちょうだい。……あんなゴミ呪霊、一瞬で消し飛ばす『あやとり』を編むわ。……あんたの影を貸して」
伏黒は一瞬目を見開いたがぬえのラベンダー色の瞳に宿る絶対的な覚悟を感じ取り即座に影を結んだ。
「脱兎……!」
足元の影から溢れ出す無数の白いウサギたち。ぬえはラベンダー色の呪力を極限まで圧縮し指先どころか両腕、そして全身を滑らかな舞のように踊らせながら光る糸を解き放った。
「伏黒、感覚を繋ぐわよ。ぬえの『指』になって」
ぬえの糸の1本が伏黒の指先へと繋がり、同時に何千匹もの脱兎たちの耳や足へと結びつけられた。
次の瞬間、伏黒の脳内にぬえの持つ繊細極まる呪力感覚と精緻な立体幾何学の設計図がダイレクトに流れ込む。
「な……ッ! これが、綾瀬の術式構造……!?」
広大な空間の数ミリ単位の密度、風の流れ、呪力の揺らぎ——ぬえの世界の圧倒的な解像度に伏黒は戦慄した。
「考えないで感覚に任せなさい! 走らせて!縦横無尽に!!」
「——あああぁぁぁっ!!」
伏黒の号令とともに糸を纏った無数の脱兎たちが森の中を縦横無尽に駆け巡る。
数百、数千に分裂する脱兎たちが木々を跳び、空間をクロスしぬえの指先と連動して糸を幾重にも交差させていく。
ぬえは両腕を天にかかげ優美で洗練された動作で空中の糸を手繰り寄せ折り重ねていく。
指先から紡ぎ出された糸はもはや目視不可能なほど極細に研ぎ澄まされ光の粒子となって空中を漂い始めた。
それはまるで地の上に降り立った夜空。
森の深淵に目も眩むようなラベンダー色の光の粒子が立ち込め、螺旋を描き、幾何学的な立体交差網を形成していく。
脱兎たちが駆け抜けた軌跡がそのまま光の筋となりまるで頭上に広がる巨大な銀河そのものが森の中に顕現したかのようだった。
「すごい……なんて美しさだ……」
加茂が傷の痛みを忘れて息を呑んだ。
繊細で、儚く、しかし触れたもの全てを無に帰す死の美しさ。
ぬえと伏黒が魂を同調させて創り上げた至高の立体大あやとり。
「東堂!! 虎杖!! 離れなさい!!」
ぬえの鈴を転がすような、しかし凛とした声が戦場に響き渡る。
全身からラベンダー色の光を解き放ち、天を仰ぐぬえの姿はまるで神話の女神のようだった。
「完成よ——『綾断・天ノ川』」
東堂と虎杖は即座に交戦をやめ、空中を埋め尽くす光の銀河の中心へと視線を向けた。
天ノ川の真ん中——そこには糸を繋がれた1匹の脱兎がちょこんと佇んでいた。
花御が異変を察知し、ぬえに向かって巨大な木根の爪を振り下ろそうとしたそのコンマ一秒前。
「よくやったぞ、ぬえ!! ブラザー、合わせろ!!」
東堂が両手を固く掲げた。
パンッ!!!!
澄み渡る手拍子の音が森に切なく響く。
天ノ川の中心にいた1匹の脱兎と——特級呪霊・花御の位置が一瞬で入れ替わった。
『な……ッ!?』
花御が己の置かれた状況を理解した時にはすでに遅かった。
自らの全方位、上下左右、逃げ場のない360度すべてが光の粒子となって漂う超高密度の極細糸——「天ノ川」の真っ只中
ぬえは交差させた両腕を静かに、そして苛烈に引き絞った。
「解けて、消えなさい」
収縮
光の銀河が一斉に一点へと集束し狂おしいほどの美しさをもって花御の巨体を包み込んだ。
シュルルルルルルルッ………………ッッ!!!!
音すら置き去りにする極小の切断音。
天ノ川を構成する数十万本の光糸が花御の頑丈な皮膚、肉、骨、そして呪力の核に至るまでを「面」ではなく「分子レベルの点」で網羅し一瞬にして通過していく。
「あ……が………………」
花御の巨体が空中ピタリと静止した。
次の瞬間、天ノ川の眩い光が弾けて消えると同時に——
ドサササササササッッ!!!!
特級呪霊の強固な肉体がまるでサイコロどころか砂の城が崩れるかのように幾何学的な超微粒子の肉片となって一斉に崩れ落ち地面へと崩落した。
森に静寂が戻る。
光の粒子の名残がふわふわと夜の風に舞う中。
ハーフアップの髪を風になびかせ肩で息をつくぬえの姿があった。
「……ふぅ。お掃除……完了ね」
ぬえが指先を解くと手首の刺繍から微かに立ち上っていた呪力が静かに消えていくのだった。
静寂が戻った森の中に風が優しく吹き抜けていく。
花御だったものは光の塵となって完全に消滅し、あれほど禍々しかった呪気が嘘のように霧散していた。
「……ハァ……ハァ……」
ぬえは膝から崩れ落ちそうになるのをなんとか踏み止まった。全呪力を使い切った全身の筋肉が激しく痙攣し手首の刺繍からは血がポタリと地面に落ちる。伏黒もまた満身創痍でその場に座り込んでおり、加茂に至っては完全に倒れ込んで空を見上げていた。
そんなボロボロの術師たちの中でただ一人——
「フハハハハ! 実に素晴らしいフィニッシュだったぞ、ぬえ! まさに愛と情熱の交響曲! 我々のソウルが一つになった瞬間だな!!」
「……なんであのゴリラ、あんなに元気なのよ……気持ち悪い……」
ぬえは荒い息をつきながら破れた胸元をバシバシと叩いて1ミリも疲れていない様子の東堂を心底鬱陶しそうに睨みつけた。
その時、頭上の空がぐにゃりと歪み周囲を覆っていた真っ黒な『帳』がガラスのようにパリパリとひび割れて弾け飛んだ。
「あ、帳が落ちた……」
澄み渡った青空が広がると同時に上空からふわりと舞い降りてくる白い影。
「やあみんな! 無事か〜い……って、あれ?」
目隠しをした男——五条悟が空中から着地した。
その片手にはなぜか白目をむいた三輪霞が抱えられている。
「三輪ちゃん!?」
「あ、途中で木に引っかかってたから拾ってきた。気絶してるけど無事だよ」
五条は三輪を草むらに寝かせると周囲の激しい戦闘の痕跡と特級呪霊の気配が完全に消えていることに気づき目隠しの下で目を丸くした。
「……ねえ、もしかして特級呪霊、祓っちゃった?」
「……ええ」
伏黒が肩で息をしながら答える。五条は珍しく心底驚いたように声を漏らした。
「マジで? 外部の救援なしで、君たちだけで特級を……? どんな手を使ったのさ」
「……俺や東堂先輩は繋ぎに過ぎません」
伏黒は少し離れたところで腕を組んで立っているぬえに視線を向けた。
「ほとんど綾瀬が一人でやったようなものです。あの広範囲の精密な術式構築と切断力……あやとりの一撃で消し飛ばしました」
「おう! ぬえの集中力と術式精度は実に見事だった!」
東堂が大きく頷き豪快に笑う。
「ああ! 綾瀬のあの光る糸、マジで凄かったぞ! 天の川みたいで超キレイだったしあいつを一瞬で粉々にするなんてハンパねぇよ!」
虎杖も目を輝かせながら身振り手振りを交えて絶賛した。
次々と浴びせられる称賛の言葉にぬえはパッと顔を背けた。ラベンダー色の瞳を明後日の方向へ向けツンと横顔を向ける。
「……べ、別に。一人じゃもっと苦戦してたわよ」
ぬえはそっぽを向いたままボソボソと小さな声で呟いた。
「……伏黒が脱兎を出してくれなきゃ糸が足りなかったし、あのゴリラの入れ替えがなきゃ当たらなかった。……みんなが居たから、勝てたのよ」
「……!?」
その瞬間、伏黒と虎杖が「あの素直じゃない綾瀬が!?」と言わんばかりに目を見開き固まった。
「おい伏黒……今の聞いたか? 綾瀬が……『みんなのおかげ』的なこと言ったぞ……?」
「ああ……明日、槍でも降るんじゃないか……?」
「聞こえてるわよバカ!! 殺すわよ!!」
顔を真っ赤にしたぬえがギャーギャーと叫び散らすのを見て五条はくすくすと楽しそうに笑い声を上げた。そして、ぬえの頭の上に大きな手をぽんと乗せ乱暴に撫で回した。
「いや〜、さすが僕の可愛い弟子! 特級撃破なんて100点満点あげちゃうぞ〜!」
「……っ触らないで!!」
ぬえは五条の手を勢いよくバシッと振り払うと鋭い目つきで五条を睨みつけた。
「あと何度も言わせないで! 誰があなたの弟子よ! ぬえはあんたに術式なんて一回も教わってないんだからね!!」
怒気を含んだ声で叫びつつもその頬はどこか赤く、照れくささを隠しきれていない。
脅威が去った森にいつもの賑やかで呆れたような笑い声が静かに響き渡っていた。
◆
「それでは! 姉妹校交流会二日目、プレイボール!!」
五条の適当なアナウンスとともに始まったのは昨日までの血生臭い死闘が嘘のようなポカポカ陽気の下での野球大会だった。
「ブラザー!! 輝いているぞ!!」と一人だけ暑苦しい黄色い声援を送る東堂。
しかし、虎杖の反応は冷ややかそのものだった。
「いや、マジで誰がブラザーだよ……。昨日からずっと怖いんだけど俺……」
どうやら昨日の激戦が終わり冷静を取り戻した虎杖は東堂の「存在しない記憶」による洗脳から完全に解けたらしい。
心底嫌そうな顔で東堂から距離を置く虎杖を見てベンチの伏黒は「ようやく正気に戻ったか」と静かに胸を撫で下ろしていた。
一方、ファーストの守備位置についたぬえは完全に死んだ目をしていた。
「あつ……だる……。なんで呪霊を倒した次の日にこんな棒切れで玉打つ遊びしなきゃいけないのよ……」
ダボダボのユニフォームの袖をまくり上げやる気ゼロでグラウンドに突っ立っているぬえ。そこへセンターからパタパタとパンダが走り寄ってきた。
「こらこら、ぬえ! ちゃんと構えないとボール飛んでくるぞー? ほら、パンダ応援歌歌ってあげるから!」
「うるさい、寄らないで毛が飛ぶ。だいたいぬえはこんな硬い球投げるのも捕るのも興味ないの」
「塩対応! 昨日はあんなに『みんなが居たから勝てた』ってデレてたのに!」
「〜〜〜っ!? 忘れなさいよそれ!! 糸でぐるぐる巻きにしてマウンドに埋めるわよ!!」
顔を真っ赤にして怒るぬえの横でベンチの端っこでは深刻な落ち込みを見せる人物が一人。
「うぅ……私、昨日なにもしてない……。木に吊るされたまま気絶して……気づいたら五条先生に回収されて戦いが終わってた……役立たずだぁ……」
膝を抱えて地面に円を描いている三輪霞である。
「どんまい三輪〜。まああんたが居ても足引っ張るだけだったし結果オーライでしょ」
「そうそう、木に吊るされてる姿、なかなかシュールで可愛かったわよ」
真衣と西宮が容赦ない煽りを入れ、三輪はさらに「うぐっ……!」とダメージを受けて小さくなる。
するとベンチの隅に置かれたメカ丸の通信用傀儡から静かだが優しい声が響いた。
『……気にすることはない、三輪。相手は特級だ。無事でいてくれただけで十分だ……』
『メカ丸〜〜〜! 優しいのはメカ丸だけだよ〜〜!』
そんな和気あいあい(?)とした雰囲気の中、試合は進み、東堂の打席が巡ってきた。
「フッ……見ろブラザー、俺のアーチを——」
ポコンッ!
真希が投げた容赦ないデッドボールが東堂の顔面にクリーンヒットする。
「ナイスピッチャー!!」
「ナイスキー!!」
東京校・京都校の全員が揃って拳を突き上げて大喝采。
「……え、みんな東堂のこと嫌いすぎじゃない?」と引き気味の虎杖を尻目に、ぬえはベンチで冷たいお茶を飲みながら本日一番のニッコリ笑顔を浮かべていた。
「あら、いいコースに入ったじゃない。ナイスピッチャー、真希さん」
昨日までの命がけの死闘を乗り越え、文句を言い合いながらも笑い合う。
青空の下、高専の生徒たちの少し変でけれど賑やかで温かい休日が過ぎていくのだった。