青森県・恐山
地獄と極楽が同居すると言われるその霊場のさらに一般の人間も足を踏み入れない、荒涼とした断崖の亀裂の奥深く。
そこに外の硫黄の匂いすら途絶える静寂の地底湖が存在していた。
頭上にぽっかりと開いた僅かな岩の隙間から暗い洞窟内へと一筋の白い光が差し込んでいる。
その光に照らされた地底湖はまるで時が停止したかのように蒼く神秘的な静謐さを湛えていた。水底まで透き通った水面は鏡のように平滑で一切の揺らぎを見せない。
恐ろしいほどに澄み渡り、異界のような美しさを誇るその空間はひとりの男によって作られた「結界」そのものだった。
湖のほとり
平らな岩の上にひとりの男が静かに座禅を組んでいる。
白シャツに和服の羽織を纏い両手には決して外すことのない革手袋。
膝の上には丹念に手入れされた一振りの愛刀が横たえられている。
柊木正宗
2012年にぬえを五条悟に託してからの6年間、彼はほぼすべての時間をこの地底湖での瞑想のみに捧げていた。
喉を潤す僅かな水分を摂る以外、食を絶ち、睡眠すら削ぎ落としたその身体は骨と皮ばかりに痩せこけ、まるで枯れ枝のように痛々しい。
しかし——その凄惨な肉体とは裏腹に彼を巡る呪力は澄み渡り、淀みなく悠然と流れていた。
この恐山の深層を貫く豊かな「龍脈」
刀を使わずただ瞑想によって自然の呪力と自身を完全に同化させることで柊木はこの空間に存在する一切の穢れを断ち切っていた。
さらには、絶え間なく湧き出る水の流れる音、風の揺らぎといった自然の事象の理さえも静かに絶ちこの地底湖を外界から隔絶された絶対の領域へと変貌させていたのだ。
死の境界へと自らを追い込み、肉体が枯れ果てていくほどに柊木の神経は研ぎ澄まされていく。
骨身を削るごとに練り上げられる呪力はますます透明度を増し、鋭利な刃となっていくのを彼は感じていた。
すべては自らの無力さによって死の危機に晒してしまったあの子——ぬえのため。
自分のような無能な師のせいで傷つくことのないよう、世界の中のあらゆる害悪を断ち切れる存在になるための狂気的な自虐と戒め。
(……ぬえ。私の浅い刃では、お前を守り切れなかった)
頭の中で愛弟子の姿を思い浮かべる。
ただ重すぎる罪悪感と執着だけが枯れ枝となった彼を動かしていた。
静寂が支配する地底湖の天井から一滴の水滴が滴り落ちる。
本来ならば水面を叩き、波紋を広げ、洞窟内に硬質な音を響かせるはずの雫。
だが、落下する水滴が持つ「運動の理」は柊木が放つ無形の気配によって静かに切断され地面や水面に届く音さえ立てずに消えていくはずだった。
——チロン
静寂の果てでかすかな、ほんの小さな音が一つだけ蒼い水面に揺らぎを作った。
「…………っ」
柊木はゆっくりとハイライトのない暗い瞳を開いた。
微かな音。水面を僅かに揺らした一滴の波紋。
自然の理を切り砕き、完全な無音の領域を保つはずの術式に生じたごく僅かな綻び。
柊木は落胆と深い悔恨を込めて自らの枯れた手を見つめた。
「……浅い。……まだ、これほどまでに浅いのか」
たった一つの音すら断ち切れなかった己の未熟さを心から恥じるように。
柊木は深々と息を吐き出すと再び固く瞼を閉じ、枯れ枝のような身体で果てのない瞑想の深淵へと没入していくのだった。
2012年
ぬえを五条悟へ託したあの日から——柊木正宗の時間はこの暗く冷たい洞窟の中で止まっていた。
地底湖に来たばかりの頃の柊木は正気ではなかった。
ぬえひとり守れなかった己の無力さへの激しい自責と絶望に苛まれ、彼は狂ったように愛刀を振り続けた。
「あの子を守れなかった……私の刃が、浅かったからだ……!」
暗闇の中、研ぎ石で研ぎ澄ませた刀をただ愚直に、ひたすらに振り下ろす。
シュッ、シュッ、と鋭い風切り音が洞窟内にむなしく響き渡る。手に嵌めた革手袋の縫い目が擦り切れ、手の平から血が滲んでも腕の筋肉が悲鳴を上げても振るう手を止めなかった。
己の限界を超えて刀を振り乱し、やがて呼吸も途絶え床の岩肌へ倒れ込むように気絶する。そして目を覚ませば、また泥のように重い体を引きずり起こし刀を握り直す。
その繰り返しだった。
数ヶ月が経った頃、外界から持ち込んだ僅かな食料は完全に底をついた。
胃を苛む烈しい飢餓感。
それでも柊木は立ち上がり素振りをやめなかった。
乾きに襲われれば目の前に広がる冷たい地底湖の水を手ですくい喉を湿らせる。
しかし、飢えによって徐々に体力が削ぎ落とされていくにつれ彼の戦い方に変化が訪れた。
(……闇雲に振っても、届かない)
体力が限界を迎え、筋力で刀を振ることが不可能になった時、柊木は闇雲な素振りを止めた。
身体が枯れ死の領域へと一歩ずつ近づいていく。
だが、肉体が滅びに向かうのと反比例するように柊木の意識は恐ろしいほど鮮明になっていった。
まるで全身の皮膚が剥がれ落ち、生身の神経が直接世界に剥き出しになったかのような感覚。
己の胎内を巡る呪力の脈動。
そして、この恐山の深層を満たす龍脈の呪力。
その二つの存在が驚くほど鮮やかに、かつ克明に知覚できるようになっていた。
素振りは回数をこなす作業から「何を斬るか」を脳内で限界まで明確に鮮明に思い描く修行へと昇華された。
空間に漂う呪力の揺らぎ
洞窟を渡る微かな空気の流れ
水滴が落ちる音の振動
世界に存在するあらゆる現象にはすべて「流れ」がある。
柊木は枯れ木のような腕でゆっくりと極めて穏やかに刀を振るうようになった。その一閃は、空間に存在する無数の「流れの隙間」を滑らかにすり抜けるように通過していく。
2年が過ぎた頃
かつての面影もないほど骨と皮ばかりに痩せこけた彼の体はついに唇を湿らせる程度の滴以外、一切の食を断つようになった。
もはや立ち上がって刀を振る体力すら存在しない。
柊木は地底湖のほとり、平らな岩の上に座禅を組みただ静かに眼を閉じるようになった。瞑想の時間が、彼の世界のすべてを占めていく。
肉体の死線を踏み越えた静寂の中で彼は悟る。
自分の手元にもう刀の重みは必要ない。
手入れされた愛刀を膝の上に横たえたまま、彼は意識の底で常に研ぎ澄まされた一本の「刃」を感じていた。
手に触れずとも振るわずとも、頭の中に存在し続ける揺るぎない刀。
事象の繋ぎ目を捉え指先一つで世界と対峙する『無刀』の境界。
己を殺し世界と同化することで到達したその静寂の底で。
柊木正宗はただ静かにいつか訪れる「愛弟子を守る一瞬」のためだけにその無形の刃を研ぎ続けのだった。
どれほどの月日が流れたのだろうか。
時間の感覚すら失われた地底湖で柊木はただ静寂の深淵に溶け込んでいた。
不自然なほどに浄化された洞窟内。
水面はガラスのように硬直し天井から落ちる水滴の音すらも「理」の切断によって絶たれている。
風も、音も、穢れすらも存在を許されない完璧なる無音の聖域。
——そこへ、足音が一つ
冷たい岩肌を鳴らし外界の泥を携えた異物が足を踏み入れようとしていた。
柊木は座禅を組み眼を固く瞑ったまま身動ぎ一つしない。
だが、その鋭敏な神経は侵入者の気配と禍々しい呪力のうねりを克明に捉えていた。
「……素晴らしいな。まさかこれほどとは思いもしなかったよ」
静寂を切り裂いて響いたのは頭部に不気味な縫い目を持つ男——千年の時を生きる術師、羂索の声だった。
羂索はもはや結界と呼ぶべき領域へ昇華された地底湖を見渡し内心でひどく感心していた。
情報では知っていた。
元・登録上5級の落ちこぼれ術師。呪術の才能など微塵も感じられないこの男が己の肉体を極限まで削ぎ落とし、龍脈と一体化するにまで至っていようとは。
「君に会いに来た理由は他でもない。……少々、私の計画に予定外の誤差が生じてね」
羂索はゆっくりと歩みを進めながら夏油傑の器を使って滑らかな口調で語りかける。
「綾瀬ぬえ、という少女を知っているね? 彼女の成長速度が私の計算を上回り、私の駒が一つ排除されてしまった。……まあ、計画自体に大きな変更はない。だがね、私は不確定要素を残しておくのが嫌いでね。私の理想を阻む芽は小さいうちに摘んでおきたい」
羂索の細い目が怪しく光る。
「彼女の強さの根底にあるのは、君への執着と歪んだトラウマだ。……だからこそ、彼女の心の拠り所である『柊木正宗』という存在をここで完全に消しておこうと思ってね。……かつての同胞として柊木先輩に最後の挨拶をしに来たのさ」
洞窟内に夏油傑の声がどこまでも澄み渡って響く。
しかし、柊木は瞑想の姿勢を崩さない。枯れ枝のように痩せこけた体は息をしているのかすら判別できず羂索の目から見ても「死人」そのものだった。
だが——静寂の底からか細く、けれど恐ろしいほど耳に残る静かな声が染み出してきた。
「……久しぶりだな、夏油……」
長い断食と渇きで擦り切れた囁くような語り。
しかしその声は柊木が作り上げた領域の波紋となって洞窟全体へ不気味なほど鮮明に響き渡る。
「高専を去ったお前が……呪詛師になったことは聞いていた。強者の責務を果たそうとしあまりの真っ直ぐさに壊れてしまったお前の『正義』……。才能も力もない私はただ逃げることしかできなかったが……もし何かが違っていたら、私もお前のようになっていたかもしれない」
柊木はゆっくりと瞼を開けることなく、しかしその意識を目の前の異物へ注ぎ込んだ。
「……だが。お前は……誰だ?」
「……ほう?」
羂索の眉が微かに動く。
「夏油傑の根底には歪んでいようと彼なりの正義と覚悟があった。……だが、私の前に立つお前からは腐ち果てた底無しの悪意……胸の悪くなるような醜悪な穢れしか感じられない」
柊木の声に、静かな確信が宿る。
「……五条から聞いた話は正しかったようだな。本物の夏油傑は……とっくの昔に死んでいる」
「……クク、ハハハハハ!」
羂索は思わず腹を抱えて笑い出した。
「驚いたな。5級の落ちこぼれ術師に私とこの器の偽りを見抜かれるとは夢にも思わなかったよ。……だが、それが見抜けたところで君の運命が変わるわけではない」
羂索の目が冷ややかに細まる。
「己の命を削り、惨めに肉体を枯らしてまで乏しい才能を補う姿勢……実に見事な執念だ。だがね、いくら綺麗に研ぎ澄まそうと凡夫は凡夫。天才の領域には遠く及ばない。泥をどれほど磨いたところで泥は泥のままだよ、柊木正宗」
存在そのものを冷酷に否定する羂索の言葉。
だが、柊木の心は一片も揺らがなかった。
瞑想する彼の脳裏に浮かぶのはただひとりの少女の姿。
(……泥であることなどとっくの昔から分かっている……)
両親を奪われ世界の底で泣いていた11歳の少女。
自分のような無能な男を「先生」と慕い、その背中に憧れて輝きたいと願ってくれた一筋の清らかな光。
(……私のような泥の底で、あの子という『本物の月』を見つけてしまったのだ。……あの子が私を憧れと呼ぶのなら、どれほど身を削ろうと、偽りの輝きであろうと……私は最後まであの子の輝く『月』でいなければならない)
肉体が死の境界を踏み越えようともその覚悟だけが彼を繋ぎ止めていた。
「……私のような男が、まともに死ねるなど……最初から思っていない」
静かな囁きが絶え間なく響く。
「私が今もこうして生き永らえているのは……あの子のためだ。そして……私はあの子のために死ぬ」
「……ふん。美しい師弟愛だね」
羂索は心底つまらなさそうに吐き捨てると薄笑いを浮かべた。
「『いつかあの子のために死ぬ』なんて言わずに……君は『今』、ここで死ぬんだよ」
羂索は呪力を練り上げようとしたがぴたりと足を止めた。
柊木が長い年月をかけて龍脈と一体化し、恐ろしいまでに清め尽くしたこの空間——呪霊を出した瞬間に存在の理が霧散し羂索自身であっても容易に踏み込むことができない「結界」
「……ふむ。直接手を下すのも野暮か」
羂索はクスクスと不気味に笑うとクルリと背を向け、地底湖の出口へと歩き出した。
「これほど浄化された空間なら……場所ごと消してしまえばいい」
羂索が脱出すると同時に予め洞窟の外に配置しておいた巨躯の呪霊たちが山全体の地盤を破壊した。
ズズズズズズ……ドカァァァァァンッ!!!!
凄まじい落盤音とともに恐山の断崖が崩落する。
千年の歴史を持つ静謐な地底湖は数千トンもの巨大な岩石と土砂によって一瞬にして押し潰され跡形もなく埋もれていった。
ゆうゆうと崩落を逃れた羂索は煙が立ち込める瓦礫の山を見下ろしていた。
念には念を入れ、召喚した小型の呪霊たちを瓦礫の隙間に這わせ入念に内部を探らせる。
やがて、一匹の呪霊が瓦礫の底から一振りの品を持ち帰ってきた。
手に嵌めた革手袋の跡が残る、柊木の手入れされた愛刀。
羂索はその刀を手にとり、じっと検分した。
そこに生き物の呪力や生命の気配は一切残っていなかった。
「……ふむ、生命反応は皆無。完全に潰れたか」
羂索は満足そうに目を細めると拾い上げた刀を呪霊に飲み込ませた。
「さようなら、柊木正宗。君の死はいずれ渋谷で彼女を絶望の底へ叩き落とすための……最高の劇薬とさせてもらうよ」
振り返ることもなく、羂索は闇の中へと消えていく。
あとに残されたのは崩れ去った岩石の山。
そして……瓦礫の底深くに静まり返るあまりにも深く、あまりにも冷たい「静寂」だけだった。