都内の百貨店、子供服フロア
平日の午後の店内は混雑もなく、穏やかな BGM が静かに流れている。
「……うーん」
普段はどんな呪霊を前にしても崩れない柊木正宗の爽やかな笑顔が今ばかりは困惑の色に染まっていた。
革手袋をはめた手を顎に当て目の前にズラリと並ぶ色鮮やかな少女服のラックを前に本気で頭を抱えている。
その隣ではぬえがいつもの白ワンピース姿でちょこんと大人しく立っていた。
高専からの帰り道、柊木はふと思い立ったのだ。
ぬえは高専の伊地知や五条の前では意地を張り、健気に振る舞っていたが幼い心に少しは負担がかかったはずだ。何か買ってあげよう、服でも新調してあげようと思いついて立ち寄ったのだが——早くも暗雲が立ち込めていた。
「ぬえ。例えば……このピンクのフリルがついたワンピースなどはどうですか? 可愛らしいと思いますが」
柊木がラックから一枚の服を取り出しぬえの身体に合わせてみる。
ぬえは服を一瞬見つめすぐに柊木の顔を見上げて首を横に振った。
「ううん。ぬえ、ピンクはいいや。フリルがたくさんあるとあやとりの糸が引っかかっちゃうもん」
「あ……なるほど、実用性の問題ですね。ではこちらのシンプルなネイビーのブラウスとスカートは?」
「うーん……ぬえ、今着てる白いワンピースで満足してるよ? お洋服、そんなにたくさん要らないもん」
ぬえは本当に欲がないのだった。
両親を失い、柊木に引き取られて以来、彼女の世界の中心は「先生」だった。美味しいご飯を食べさせてもらい、屋根のある場所で眠り、先生のお役に立つ。それだけでぬえの心は満たされており、同年代の女の子が興味を持つような「お洒落」にはとことん疎かった。
困り果てたのは柊木の方だ。
「……参りましたね。女の子の服の選び方など私の人生の知識にありませんでした」
柊木は眉を下げて苦笑した。
自分自身の服といえば、白シャツに和服の羽織という書生風のスタイルでほぼ固定されている。普段の買い物すらネット通販で済ませがちな男にとって実店舗で11歳の少女の服を選ぶというのは特級呪霊の討伐よりも難易度の高い「任務」だった。
(あの子に惨めな思いはさせたくない。……だが、私に女の子の『可愛い』の基準がわからない……)
柊木が一人で真剣に悩み込んでいるとぬえがそっと柊木の羽織の裾を引っ張った。
「先生? どうしてそんなに困ってるの?」
「……ぬえ。私は君に可愛い服を着てほしいのですよ。ですが私の好みで選んで君が動きづらかったり気に入らなかったりしては意味がないでしょう?」
柊木がかがみ込み目線を合わせて困り顔で微笑む。
するとぬえは少し考えてからポツリと言った。
「……先生が『似合う』って言ってくれる服なら、ぬえ、なんでも嬉しいよ」
「……え?」
「ぬえはね、服が欲しいんじゃないの。先生がぬえのために選んでくれた服を着て先生に『似合うね』って笑ってほしいの」
無垢でけれどどこまでもまっすぐな言葉。
ぬえにとって服のデザインなんてどうでもよかったのだ。「先生が自分のために選んでくれた」という事実こそが何よりの宝物だった。
柊木はその言葉に一瞬だけ目を丸くしそれからふっと今日一番の柔らかい笑みを浮かべた。ハイライトのない濁った瞳の奥に確かな愛おしさが灯る。
「……そうですか。ならば真剣に選び直さなければいけませんね」
「うん!」
それからの柊木は真剣そのものだった。
糸が引っかからないシンプルな仕立てであること、ぬえの動きを邪魔しない生地であること、そして何より「ぬえに似合うこと」。店員にアドバイスを求めながら(店員も格好いい書生服の青年と可愛らしい妹のような少女の組み合わせに微笑ましそうに対応していた)何着かを試着室へ持ち込んだ。
数分後
試着室のカーテンが開く。
そこにいたのは深いラベンダー色のシンプルなノースリーブワンピースに着替えたぬえだった。胸元に控えめな白いリボンがあしらわれぬえの白い肌と可憐さを引き立てている。
「……どうかな、先生? 変じゃない……?」
少し緊張した面持ちで裾をギュッと握りしめるぬえ。
柊木は少し離れた場所からその姿をじっくりと眺めると満足そうに頷いた。
「いいえ。……とても、よく似合っていますよ。まるで天使のようです」
「……っ!」
「あやとりの邪魔にもならなさそうな綺麗なシルエットです。……それに、君の白い肌によく映える」
柊木が歩み寄り試着室の前で膝をついてぬえの頭を優しく撫でた。
その言葉と大好きな先生の手の温もりに、ぬえの顔が一気にぽっと赤くなった。恥ずかしそうに下を向きながらも口元は嬉しさに耐えかねて大きく綻んでいる。
「えへへ……じゃあ、ぬえ、これにする……!」
「ええ、それにしましょう。色違いで紺色のも買っていきましょうね」
「そんなにたくさん要らないよー!」
「いいのです。私の自己満足ですから」
会計を済ませ、大きな紙袋を持った柊木と新しい服の入った袋を嬉しそうに両手で抱えるぬえ。
百貨店を出ると夕暮れ時の優しいオレンジ色の光が街を包み込んでいた。
「先生、今日の夕ご飯は何にする?」
「そうですね……今日は奮発して、ぬえの好きな洋食屋さんのハンバーグにしましょうか」
「わーい! ハンバーグ!」
手をつなぎ仲良く並んで歩く二人。
ただお互いだけを世界の中心に置き、小さな幸せを噛み締めながら二人は温かな我が家へと帰っていくのだった。
百貨店を出て夕暮れ時の朱色に染まる街並みを二人で歩く帰り道。
ぬえは新しい服の入った紙袋を大事そうに抱え、柊木は隣でその小さな歩幅に合わせてゆっくりと歩いていた。
その時、路地裏のゴミ箱の陰からグチグチと不快な湿り気を帯びた音が聞こえた。
現れたのは人間の掌ほどしかない、ひよこのような形をしたごく小さな呪霊だ。雑多な不快感が形をなしたハエ叩きでも祓えそうな最下級の呪霊。
「……虫が湧いていますね」
柊木が脚を止め静かに呟く。
そして腰の愛刀へ手をかけ——ふと、その手を止めた。
どんなに小さな呪霊であっても、柊木単体では絶対に祓うことができない。
かつて高専の術師だった頃は、この程度の雑魚など一瞬で一刀両断できた。だが、物理的なダメージを完全に削ぎ落とし概念を切断する『断理』の縛りを結んで以来、彼の刀は呪霊の肉体をむなしく滑り抜けるだけだ。
単体での殺傷力を完全に放棄した男。
そのため、かつて3級だった彼の登録等級は今や最低ランクの「5級術師」にまで落ちぶれていた。
「先生、ぬえがやるね!」
柊木の躊躇を察したぬえがくるりと前に出た。
小さな指先からシュッと一本の光る糸が伸びる。あやとりを弄ぶような軽やかな手つきで指先を一度交差させた。
『綾断・川』
一瞬の静寂
すれ違いざまに走った二本の平行な光糸が小さな呪霊を豆腐のようにスライスする。呪霊は悲鳴をあげる暇すらなく小さな黒い霧となって夕暮れの空に溶けて消えた。
「先生! お掃除完了!」
ぬえはドヤ顔で振り返り褒めてもらうのを待つように胸を張った。
「……ええ。素晴らしい手際です、ぬえ」
柊木はかがみ込みいつものように革手袋の手でぬえの頭を優しく撫でた。
「えへへ……!」
大好きな先生に頭を撫でられ、ぬえの頬がぽっと赤らむ。先生のお役に立てたこと自分の力で「ゴミ」を掃除できたことが嬉しくて幼い胸を誇らしさでいっぱいに満たしていた。
だが——
頭を撫でる柊木の瞳の奥にはいつになく深い思考の影が落ちていた。
(……こんな小さなゴミ一つ、今の私には払うことができない)
ぬえの手際の良さに満足し誇らしく思う気持ちに嘘はない。だが、手袋越しに感じるぬえの小さな頭の柔らかさが昼間に五条悟から投げつけられた言葉を嫌でも思い出させた。
『何も知らない子供を戦わせてさ。それが先輩の言う正義なわけ?』
『子供の自由を縛る権利なんて大人にはねえんだよ』
(自由、ですか……)
自分が『断理』の縛りを結び、物理的な殺傷力を失ったからこそこの子はこうして小さな呪霊にすら糸を向けなければならない。
自分自身の歪んだ力、そして「この子に正義を託す」という選択。それは本当に、この子を正しく導いていると言えるのだろうか。
万能の力を持つ五条悟の軽薄だが芯を突いた拒絶。
それがほんのわずかだけ柊木正宗という男の揺るぎないはずだった倫理観に小さな歪みを生じさせていた。
「先生? どうしたの?」
頭の上で手が止まったのを不思議に思ったのかぬえが首をかしげて顔を覗き込んでくる。
「……いいえ。なんでもありませんよ」
柊木はすぐにいつもの穏やかな笑みを浮かべ思考を振り払うように立ち上がった。
「さあ、急ぎましょう。ハンバーグがなくなってしまいますからね」
「うん! おなか空いちゃった!」
疑問を胸の奥深くに押し込め、柊木は再びぬえの手を取る。
橙色から群青色へと変わりゆく街の景色の中、二人の小さな影が長く伸びていっていた。
◆
雲ひとつない快晴の休日
絶好のお散歩日和に柊木正宗は「少し近所を散歩でもしませんか」とぬえを誘った。
「お散歩! うん、行く!」
ぬえは目を輝かせたあとポンと手を打って提案した。
「ねえ先生、せっかくのお天気だから、お弁当持って公園に行こうよ!」
「お弁当ですか。いいですね」
柊木がいつものように包丁を使わなくても済むサンドイッチや事前に下ごしらえされた食材を並べようとキッチンに立つとぬえがパタパタと駆け寄ってきてその前に立ちふさがった。
「待って! 今日はぬえが作るの! 先生は座ってて!」
「えっ……ですが、ぬえ。一人では危険ですし……」
「大丈夫! ぬえには『あやとり』があるもん!」
腕まくりをしたぬえはキッチンの作業台に食材を並べた。
包丁代わりに使うのは、指先から伸ばした極細の術式糸だ。
「えーっと、まずはキュウリとハムを切って……『あやとり・千切り』!」
シュッと一瞬、空気の切れるかすかな音が聞こえると、まな板の上のキュウリが見事な薄切りになっていく。あやとりの糸を自在に操り寸分の狂いもなく均等に食材を刻んでいく手際はまるで熟練の料理人のようだった。
「おお……素晴らしい精度です、ぬえ」
「ふふん、任せて!」
だが、いくら術式で器用に刻むことができても火加減ばかりは「あやとり」ではどうにもならない。
フライパンに向かったぬえは卵焼き作りに大苦戦。
「あ、あつい! ひっくり返さないと……!」と慌てて箸を動かしたもののうまく巻けずに崩れてしまい端っこが少し黒く焦げてしまった。
「うぅ……失敗しちゃった……」
しょんぼり肩を落とすぬえに、柊木は優しく微笑みかけて頭を撫でた。
「何を言っているのですか。こんなに美味しそうな卵焼きは見たことがありませんよ。形などどうでもいいのです。君が私のために作ってくれた、それが何より特別なのだから」
「先生……! うん、仕上げるね!」
そうして完成したお弁当箱を抱え、ぬえは先日買ったばかりのラベンダー色のワンピースに着替えた。
胸元に控えめなリボンがあしらわれた真新しい服に袖を通すと、ぬえの心は踊った。
先生と二人きりでお弁当を持ってお出かけ——ぬえにとってこれは特別な「デート」だった。
◆
ぽかぽかと温かい日光が降り注ぐ公園
青々と茂る木々の隙間から木漏れ日が落ち、爽やかな風がぬえのワンピースの裾を揺らしている。手をつないで歩く二人を公園を訪れた人々が微笑ましそうに見つめていた。
大きなクスノキの木陰にあるベンチに二人は並んで腰掛けた。
「はい、先生! 召し上がれ!」
ぬえが誇らしげに開けたお弁当箱には綺麗に切り揃えられたサンドイッチと少し形が崩れて端が焦げた卵焼き、そしてタコさんウインナーがぎっしりと詰まっていた。
柊木は手袋を外しまずは崩れた卵焼きをひとつ、箸でつまんで口に運んだ。
もぐもぐと噛み締め静かに頷く。
「……とても美味しいです、ぬえ。ほんのり甘くて、私が一番好きな味付けですよ」
「ほんと!? やったぁー!」
ぬえはパッと顔を輝かせ自分もサンドイッチを頬張った。
温かな日差しの中で食べるお弁当は格別の味がした。
お腹が満たされると心地よい風が二人の頬を撫でていく。
ぬえはお弁当箱を片付けるとちょこんと柊木の隣に寄り添い、その羽織の裾をギュッと握りしめた。
「ねえ、先生」
「はい、何でしょう?」
ぬえは眩しそうに空を見上げそれからまっすぐに柊木の顔を見つめた。
「ぬえね、いま、すっごく幸せ。……だからね、これからもずっと、ずーっと先生と一緒にいたいな。ぬえがもっと強くなって先生のこといっぱいお掃除して助けるから。ずっと一緒にいようね?」
幼い、けれど偽りのないまっすぐな永遠の約束。
柊木はその言葉を聞き膝の上で握った手にふっと力を入れた。
六眼の男——五条悟に突きつけられた『子供の自由を縛るな』という言葉が一瞬だけ脳裏をかすめる。
しかし、目の前で嬉しそうに自分を見つめるぬえの無垢な瞳を見たとき柊木の心に去来したのは狂おしいほどの愛おしさだった。
「……ええ」
柊木はいつもの穏やかなけれどどこか切ない笑みを浮かべぬえの髪を優しく撫でた。
「ずっと……一緒にいましょうね、ぬえ」
それがどれほど歪であろうとも。
うららかな春の陽気の中、二人は静かに肩を寄せ合い穏やかな休日の時間を惜しむように過ごすのだった。