山間の廃宗教施設へ向かう道中、静寂が二人を包んでいた。
いつもならお出かけの道すがらぬえは白いワンピースの裾を嬉しそうに揺らし柊木と和やかに言葉を交わす。だが、今日ばかりは重苦しい異臭が山肌を覆い鳥のさえずり一つ聞こえない。
「……ぬえ。いつにも増して嫌な気配です。決して私の側を離れないように」
「うん、先生。ぬえ、絶対に離れないよ」
柊木は白シャツの袖を整え黒い革手袋越しに愛刀の柄の感触を確かめる。ぬえもまた華奢な指先に清廉な光の糸をすでに滑らせ警戒の色を深めていた。
施設へ足を踏み入れると息も詰まるような湿気が二人を襲う。
暗がりから現れた数十体の雑魚呪霊に対し二人の連携は完璧だった。柊木が刃を振るって空間の『距離』と『運動量』を断ち切り、無力化された敵をぬえの光糸が容赦なくお掃除していく。
だが——施設の最深部、打ち捨てられた大広間へ足を踏み入れた瞬間、空気が凍りついた。
ガチチチチチチチチチチ……ッ!!
不快極まりない無数の甲殻が擦れ合う音が暗闇を満たす。
現れたのは家一軒を丸呑みできるほど巨大な大蜈蚣の呪霊——『百足彼岸』。
その巨大な胴体の節々には苦悶に歪む人間の顔が浮かび上がり、節ごとに生えた無数の鎌のような脚が湿った床をシャリシャリと削り取っている。
おどろおどろしい黒紫色の呪毒が口から滴り床をドロドロに溶かしていた。
ガアアアアアアアアッ!!
狂乱した大蜈蚣が二人へ襲いかかる。
「下がりなさい、ぬえ!」
柊木が前に躍り出、愛刀を鞘から一閃させる。
『断理』。空間の「運動量」を切断。
ドズゥゥンッ!と重低音が響き山のごとき巨体が柊木の数センチ手前でピタリと不自然に静止した。
どれほどの質量と速度があろうと柊木の前では無に帰す。
「いまです!」
「『綾断・四つ星』!!」
背後から跳躍したぬえが光の格子網を展開。
静止した大蜈蚣の胴体を綺麗にサイコロ状へ切り刻んだ。ドサドサと肉塊が崩れ落ち黒い霧となって消える——はずだった。
ギチチチチチ! ガチチチチチチッ!!
切断された肉塊の「節」の切り口から新たなムカデの頭と脚が芽吹き一瞬にして元の大きさのムカデへ再生。切れば切るほど何百匹ものムカデとなって爆発的に増殖・分裂したのだ。
「きゃあああっ!?」
悲鳴が響く。ぬえの華奢な体に分裂した無数のムカデが押し寄せ這い上がっていた。鋭い脚がぬえの白い皮膚を切り裂き呪毒がじわじわと侵食していく。
「ぬえッ!!」
柊木は目を剥き、ぬえの元へ躍り出た。
だが、どれほど凄まじい速度で刀を振るおうと柊木の刃は物理的な打撃を一切持たない。ただ一匹の小さなムカデすら柊木単体では切り殺すことができないのだ。
「くっ……!この子に触れるな!!」
柊木は歯を喰いしばりぬえの体に群がる無数のムカデ一匹一匹に対し正確無比な精度で刀を滑らせていく。刃がムカデたちの体をすり抜ける。すり抜ける瞬間に斬ったのは、それぞれのムカデの体内に流れる「運動量」と「増殖の術式経路」。
ピタリと動きを止め増殖能力を失ったムカデたち。
「ぬえ! いまです!!」
「うあああああッ!!」
ぬえは痛みに耐えながら指先の糸を一斉に引き絞った。動きを封じられた体の上のムカデたちがぬえの糸によって一瞬で微塵切りに刻まれ黒い霧となって消え去る。
「はぁ……はぁ……っ!」
救い出されたぬえが荒く息を吐く。だが、周囲にはまだ何百、何千というムカデの大群が波となって蠢いていた。
「ぬえ、私の後ろへ!」
柊木は踏み込んだ。もはや猶予はない。
柊木は息を呑むような超高速の運足で地を蹴る。前方の空間に向かって刀を一閃——『距離の切断』
一瞬で遠くのムカデの群れとの距離をゼロに縮めると群がるムカデたちへ息つく暇もなく刀を滑らせていく。
すり抜け、すり抜け、すり抜ける。
距離を詰め、切りつけ、運動量と呪力パスを断つ。
柊木の手数は圧巻だった。辺り一面のムカデたちが、次々とただの動かない置物へと変わっていく。
「ぬえ! 一気に決めなさい!!」
「うんっ……!! これで……全部お掃除する!!」
ぬえが前線へ飛び出した。11歳の小さな体が限界を超えて呪力を練り上げる。指先から紡がれた膨大な光糸が空間全体へと格子状に広がり、全方位を覆い尽くす巨大な檻を形成した。
『綾断・蜘蛛の巣』
シュンシュンシュンシュンシュンッ——!!
静謐で凶悪な切断音が大広間に響き渡る。
柊木の死力によって動きと増殖を完全に封じられたムカデの大群は全方位から迫る『蜘蛛の巣』の網目によって一匹残らずサイコロ状に切り刻まれた。
散らばった残骸は黒い霧となり、空間から完全に消滅していく。
「はぁ……はぁ……っ、先生……やった、よ……」
ぬえが肩を上下させ、地に膝をつく。二人は疲労困憊だった。
だが——その安心が一瞬で打ち砕かれる。
残り弾けた本体の頭部が死に際の一瞬で怨念を凝縮させた。
——『領域展開』——
空間が禍々しい黒紫色の肉壁へと塗り替えられた。
逃げ場のない閉鎖空間。天井からも壁からも目も眩むような数のムカデの脚と牙がぎちぎちと生え出だし、床からは皮膚を溶かすドロドロの黒い呪毒の海が溢れ出す。
空気に触れるだけで肺が焼け焦げるような圧倒的な殺意と絶望。必中の理が二人を押し潰そうとしていた。
呪力を使い果たした二人にこの領域を破る術はない。
(……ああ、ここで終わるのか)
柊木は悟った。そして、迷いは一秒すらなかった。
柊木は満身創痍のぬえを乱暴なまでに抱えると完成しつつある領域の僅かな隙間、外の世界へ向かって己の全力を振り絞ってぬえを突き飛ばした。
「先生ッ!?」
「逃げなさい、ぬえ!!」
「嫌! 嫌ぁぁぁぁッ!! 先生ぇぇぇっ!!」
ぬえの手が空を切り、領域が閉じた。
ぬえの叫び声が完全に遮断され、寂寞とした絶望の閉鎖空間に柊木一人だけが取り残される。
ドロドロとした呪毒が白シャツの裾を溶かし、天井から落ちてくる腐敗した肉片が和服の羽織を汚す。無数の脚がシャリシャリと音を立て柊木の肉体を食い破らんと肉迫する。
柊木は膝をつきそうになる身体を愛刀で支え血の吐くような息を吐いた。
(私は虫一匹すら殺せない……無力な男だ。だが……あの子が逃げる時間を、数秒でも稼ぐことくらいはできる……!)
単体では何も討てない不殺の刀。しかし柊木は濁った瞳に狂おしいほどの覚悟を宿し迫り来る無数の牙に向かって刀を構えた。
自分はここで死ぬ。だが、ぬえだけは生かす。
それが、歪んだ正義を教えてしまった己の、最後の責務だと信じて。
死を覚悟し牙が首筋に触れようとした
その時——
——ズドンッ!!!!
世界が外側から壊弾した。
絶望に満ちていた『領域』の肉壁が巨大なエネルギーの奔流によって紙くずのように力任せに粉砕される。
煙と散らばる呪霊の残骸の中、ゆっくりと歩み寄ってくる一つの影。
黒い目隠しを頭に巻き制服のポケットに手を突っ込んだ男——五条悟。
「やーやー、ギリギリセーフってとこ? 苦戦してんじゃん、柊木先輩」
五条は欠伸をしながら今しがた特級呪霊と領域を『蒼』の一撃で跡形もなく吹き飛ばした指先を手持ち無沙汰そうに揺らしていた。
圧倒的。理不尽なまでの「強さ」
柊木は膝をついたまま茫然と立ち尽くしていた。
自分とぬえが命を削りどれほど苦しみ、死を覚悟した特級呪霊を……この男は指先一つでゴミでも払うかのように消し去ってみせたのだ。
「……五条……」
「言ったでしょ。子供に無理させんなって」
五条の冷ややかな視線が柊木を射抜く。
領域の外から泣き叫びながら駆け寄ってくる擦り傷だらけのぬえ。
「先生! 先生ぇぇぇっ!」と柊木にしがみつき泣きじゃくる幼い少女。
その冷たい体温と涙を感じながら柊木正宗の胸の中で何かが音を立てて崩れ落ちていった。
(あぁ……そうか。私の「正義」は……この子を殺すところだったのだ)
己の無力さ。五条悟という存在の圧倒的な高み。
濁った瞳に涙を浮かべ柊木は泣きじゃくるぬえを抱きしめながら静かに、けれど決定的な拒絶と諦絶の決意を固めるのだった。
その夜
二人は五条の計らいで高専の医務室へと運び込まれ、家入硝子による反転術式での治療を受けた。
今回の件は元より五条のもとに「特級相当の呪霊の疑いあり」として討伐の依頼が降りていたものだったという。高専とは関係なくフリーで活動していた柊木たちがたまたま先に現場へ居合わせ結果的に五条に助けられる形となったのだ。
治療を終えて我が家へと戻った頃には夜はすっかり更けていた。
高専で手当てを受けたとはいえ心身に刻まれた疲労は深い。
二人は簡単な夕食を静かに済ませ先にぬえがお風呂へ入ることになった。
湯気が白く立ち込める浴室
温かなお湯を満たした浴槽にぬえは膝を抱えるようにして小さく身を沈めていた。
お湯がじんわりと身体に染み渡るはずなのに心の奥底にへばりついた冷たい不快感は少しも消えてくれない。
(……ぬえ、全然だめだった)
お湯に浮かぶ自分の華奢な両腕を見つめる。
11歳の幼い身体。どれほど血のにじむような特訓を重ねても大人とは比べものにならないフィジカル。特級呪霊の圧倒的な暴力と無尽蔵の増殖を前に、自分の「あやとり」はあまりにも無力だった。
自分が『四つ星』で無闇に切り刻んだせいで敵は分裂して数を増やした。
先生が命がけで『断理』のデバフをかけ続けてくれなければ自分はあの場でとっくに噛み殺されていた。
そして何より——最後、領域に閉じ込められた先生を前に自分は助けるどころかただ情けなく泣き叫んで五条悟に縋ることしかできなかった。
(先生を助けられなかった……。ぬえが弱いから……ぬえが、使えない子だから……!)
湯船の中でぬえはぎゅっと目を閉じ己の髪を強く掴んだ。
激しい自己嫌悪と脳裏をよぎる恐ろしい予感。
——『「正義を果たさない強い者ほど醜いゴミはありませんからね」』
かつて柊木が世の中の「正義を果たさないゴミ」に対して放っていた冷酷な言葉がリフレインのように脳裏を駆け巡る。
(このままじゃ……ぬえ、先生に捨てられちゃう……っ)
あんなに優しく頭を撫でてくれた先生。新しいお服を買ってお弁当を美味しいと言ってくれた先生。
もし先生に見捨てられたら自分の生きている意味すらなくなってしまう。恐怖で身体がガタガタと震え湯船の湯面が小さく揺れた。
お風呂から上がり、着替えを済ませたぬえは濡れた髪にタオルをかけたまま廊下を歩いていた。
リビングのドアに手をかけようとした、その時。
部屋の中から低く静かな柊木の話し声が漏れ聞こえてきた。
携帯電話で誰かと話しているようだ。受話器の向こうの相手はわからない。
ぬえは息を呑みドアノブを握ったまま足を止めた。入るタイミングを見失い、隙間からじっと中の様子を窺う。
部屋の中で背中を向けた柊木が静かに呟いていた。
「——ええ、分かっていますよ。使えない代物なら早々に捨てればいいだけの話です」
「……っ!?」
ぬえの心臓が跳ね上がった。
柊木の声にはいつもの温もりや柔らかさは欠片もなかった。どこまでも冷徹で氷のように冷ややかなあの「ゴミ」を処分する時のトーン。
言葉はさらに追い打ちをかけるように紡がれる。
「……価値のないものを側に置いておく意味はありませんからね。役に立たなくなれば、容赦なく処分します」
ドクン、と頭の中で何かが弾ける音がした。
足元の床が抜け落ちていくような感覚。血の気が引き、視界がぐにゃりと歪む。
(ああ……やっぱり……)
先生は、ぬえのことを見限ったんだ。
今日の戦いで何の役にも立たず、足を引っ張り、無様に泣き叫んだぬえを……「使えない代物」として捨てようとしているんだ。
握りしめたドアノブの金属の冷たさすら感じないほどぬえの全身は恐怖とショックで完全に凍りついていた。
絶望の闇が少女の心を容赦なく塗り潰していった。
◆
脱衣所のドアが閉まりお湯の流れる音が微かに聞こえ始めたリビング。
一人残された柊木正宗は照明の落ちた部屋の中で、自身の愛刀を静かに見つめていた。
革手袋を外した手がうっすらと震えている。
(……何が『正義』だ。笑わせる)
胸の奥から湧き上がるのは吐き気をも催すほどの激しい自己嫌悪と自恥だった。
かつて、才能の限界に打ちのめされながらも「世の害悪を裁く」ために剣術を磨いていた日々。しかし、己の無力さゆえに目の前で家族を殺されぬえ一人しか救えなかった悲劇。
あの日、剣士としての誇りも手にした力も全て捨てて二度と守るべきものを失わないために手に入れた『断理』の力。
だが、今日突きつけられた現実はあまりにも残酷だった。
(何も……変わっていなかった。私は、一人では一匹の虫すら殺せぬハリボテのままだ)
どれほど動きを制限しようと、概念を斬ろうと、留めを刺す「殺傷力」が自分にはない。
ぬえがいなければ何も完遂できない。
それどころか己の術式の不完全さゆえにぬえに過酷な負担を強い最後には領域に閉じ込められ、あの子を残して無様に死にかけたのだ。
師として正義を語り、幼いぬえを導いてきた自分がこれほどまでに弱く、不甲斐ない。
(このままでは……あの子を死なせる。私の甘さが、あの子の未来を奪う)
静寂の中、柊木は何度も熟考を重ねた。濁った瞳に苦渋と絶望、そして狂おしいほどの悲壮な決意が宿る。
ポケットから携帯電話を取り出し、ある番号画面を表示させた。登録すらしていない、だが決して忘れられない男の番号。
通話ボタンを押す。数回のコール音の後、パチッと回線が繋がった。
『……ん、誰? こんな夜遅くに』
不機嫌そうな五条悟の声。柊木はこの男が心底嫌いだった。圧倒的な才能を持ちながら怠惰に振る舞い力を持ちながら責務を果たさない存在。
だが——その『圧倒的な力』だけは認めざるを得なかった。今、この惨めな自分に足りないもののすべてを、あの男は持っている。
「……五条。私です」
『げ、柊木先輩? なに、昼間のお礼でも言いたくなった?』
「……頼みがあります。ぬえを……高専で預かってほしい」
電話の奥で五条の息を飲む気配がした。
「あの子に高専の教育を受けさせ、私など及ばないほど強く……正しく鍛え上げてほしいのです。……そして私自身も、一人で遠くへ出直し修行をやり直します」
『……は? 何言ってんの? 先輩、自分が一番わかってんだろ。先輩の術式は単体じゃ成立しない。一人で修行なんて次に呪霊と遭ったら死ぬぞ』
五条の言葉は正論だった。単体で不殺の男が一人で旅立つなど自殺行為に等しい。
だが、柊木はハイライトのない瞳を閉ざし冷淡な声で言い放った。
「——ええ、分かっていますよ。使えない代物なら、早々に捨てればいいだけの話です」
自分という存在が、一人では使い物にならないゴミならば死んだところで惜しくはない。
『……ハッ、相変わらず極端だな。……じゃあぬえはどうすんだよ。あの子、先輩のこと盲信してんだろ。いきなり一人にして側にいてあげなくていいわけ?』
だが、今の柊木にとって己の無力さを晒したままぬえの側にいることこそが最大の罪悪だった。この手で正義を成せる強さを手に入れない限りあの子の前に立つ資格などない。
「……価値のないものを側に置いておく意味はありませんからね。役に立たなくなれば、容赦なく処分します」
ぬえに胸を張れる師であり続けるため役に立たぬのなら自分は必要ない。
「……よろしく頼みます、五条」
それだけを告げ柊木は返答を待たずに通話を切った。
その直後だった。
パタン、とリビングのドアが小さく開きお風呂から上がったぬえが入ってきた。
だが、その顔は血の気が完全に引き、真っ白に青ざめていた。髪からは滴が垂れ、身体を強張らせて突っ立っている。
「……ぬえ? どうしました、そんなに青い顔をして。気分でも悪いのですか?」
柊木は瞬時にいつもの穏やかな表情に戻り、心配そうにかがみ込んだ。
「う、ううん……なんでも、ないよ……っ」
ぬえは声を震わせながら視線を泳がせそのまま逃げるように布団へ向かおうとした。
柊木はその小さな手首を優しく引き止める。
「いけませんよ。濡れた髪のまま寝ては風邪を引いてしまいます。……ほら、座りなさい」
ドライヤーを持ってこさせソファにぬえを座らせる。
ぶおぉぉ、と温かい風が吹き出し、柊木は革手袋越しにぬえの柔らかい濡れ髪を丁寧になでつけながら乾かし始めた。
手袋越しに伝わる、幼い身体の細かな震え。
(……怖がらせてしまったのですね。今日の戦いで命の危険を感じさせてしまった)
柊木は胸を痛めながら髪を乾かす手を緩めなかった。
そしてドライヤーのスイッチを切り静寂が戻った室内でぬえの頭を優しく撫でながら静かに告げた。
「ぬえ。……明日、大切な話があります」
柊木の手のひらの下でぬえの華奢な身体がビクッと大きく跳ねるように震えた。
すれ違う二人の想いを乗せたまま夜は静かに更けていくのだった。
翌朝
陽光が差し込むリビングの食卓にはいつものように温められただけのシンプルな朝食が並んでいた。
二人で静かにスープを口に運ぶ中、柊木はスプーンを置くと意を決したように静かなトーンで切り出した。
「……ぬえ。昨日言っていた大切なお話です」
ぬえの手がピタリと止まる。スプーンを握る指先が白くなるほど力が入っていた。
「今日からしばらくの間、君を高専に預けることにしました。五条のもとで指導を受けなさい。……私もしばらく旅に出て一人で修行をし直してきます」
ぬえの瞳からすっと光が消えた。
昨夜、ドアの隙間から聞いた「使えない代物なら捨てればいい」という先生の冷酷な言葉が脳裏を支配する。
(やっぱり……ぬえ、捨てられちゃったんだ……)
胸が張り裂けそうなほどの絶望が押し寄せていたがぬえは涙すら流さなかった。ここで駄々をこねて嫌がれば、もっと先生に嫌われてしまう。これ以上「使えないゴミ」だと思われたくなかった。
「……うん。分かった、先生」
ぬえは真っ白な顔のまま放心したように小さく頷いた。
「物わかりが良くて助かります。では、身の回りの荷物をまとめなさい。すぐに出発しますよ」
「……はい」
◆
柊木の手配した車に乗り込み二人を乗せた車は高速道路を走り抜ける。
車内は痛いほどの静寂に包まれていた。柊木は前を見つめたまま何も語らずぬえは抱えた小さな鞄をギューッと膝の上で握りしめていた。
やがて、車は山奥にある都立呪術高専の大きな門の前に到着した。
車を降りると門の前にはすでに黒い目隠しをした男——五条悟が立ち二人を待っていた。
「やー、来たね。荷物それだけ?」
五条の軽い問いかけを無視し、柊木は一歩前へ出ると深々と頭を下げた。
「五条。くれぐれも……ぬえをよろしく頼みます」
「はいはい、任されちゃって。僕がみっちり鍛えてあげるから」
「では」
柊木は一度もぬえの顔を振り返ることなく踵を返して車へと乗り込んだ。
そのままエンジン音が響き車は滑らかに坂道を下り始めていく。去っていく車影を見つめ、ぬえの胸の底から激しい寂しさと恐怖が溢れ出した。
「あ……っ」
思わず去りゆく車に向かって小さく手を伸ばす。
引き止めたかった。
「捨てないで」「先生のお役に立つから連れて行って」と泣き叫びたかった。
だが——ぬえは伸ばしかけた手をハッと引くとギュッと拳を握り締め血が滲むほど強く唇を噛み締めて耐えた。
(泣いちゃダメだ……! 泣いたら、もっと先生に嫌われちゃう……)
懸命に涙を押し殺し背中を震わせる幼い少女。
そんなぬえの隣に五条がひょいと歩み寄り頭の後ろで手を組みながら気楽な声をかけた。
「さて、ぬえちゃん。これからよろしくね」
五条が差し伸べようとした手をぬえは冷たい目で見つめ——パシッ!と強い音を立てて激しく払い除けた。
「……さわらないで」
大好きな先生が「一番嫌い」と言っていた男。
そして、自分が先生に捨てられる原因となった憎い男。
ぬえは憎悪と拒絶の籠もった鋭い視線で五条をひと睨みすると返事も待たずにぷいっと背を向け、高専の敷地内へと一人で歩き去ってしまった。
払われた手を空中でひらひらさせながら五条は去っていくぬえの小さくも刺々しい背中を見送った。
「あー……これは参ったな。めちゃくちゃ嫌われてるじゃん、僕」
五条は頭をガリガリと掻きながら困ったように肩をすくめた。
高専の広大な敷地をぬえは力なくふらふらと歩いていた。
足取りは重く視線は地面に落とされたまま。つい先ほどまで大好きな先生の隣にいたはずなのに自分の世界からは完全に光が失われていた。胸の奥が冷たく締め付けられ息をするのすら苦しい。
言葉通りの「今にも死にそうな顔」で歩いていると校舎の陰から白衣を着た女性——家入硝子が歩いてきた。煙草を指に挟んでいた硝子はぬえの尋常ではない様子に気づくとハッと目を見開いて煙草を揉み消した。
「おいおい……大丈夫か、ぬえ」
昨夜、怪我の手当てをしたばかりの少女。
あまりに真っ白な顔をしたぬえを放置できず硝子は彼女の肩を優しく抱えると本館ロビーのふかふかのソファへと連れて行き腰掛けさせた。
「ちょっと待ってな」
自動販売機で温かい缶のココアを買ってくると硝子はそれをぬえの小さく冷え切った手に握らせた。
「一口飲みな。……で、どうした? どこか痛むか? 柊木先輩はどこ行ったんだ」
問いかけにぬえは固まったように唇をギュッと結び俯いたまま何も答えようとしない。膝の上で缶ココアを抱え込みじっと自分の爪を見つめている。
だが、硝子は嫌な顔ひとつせずぬえの隣に静かに腰掛けた。急かすこともなくただ優しく背中をさすりながら根気よくぬえが口を開くのを待った。
静寂が流れるロビー。
やがてココアの温もりが少しずつ指先に伝わってきた頃、ぬえの唇からぽろぽろと小さな声が漏れ出した。
「……捨てられちゃった……」
「え?」
「ぬえが……使えない子だから。弱くて……昨日も先生の足を引っ張って……だから……ぬえ、捨てられちゃったんだ……」
ポロポロと溜め込んでいた大きな涙の粒がぬえの頬を伝って落ち膝の上の缶ココアを濡らした。
昨夜からの激しい恐怖と絶望がようやく言葉となって溢れ出す。
硝子は驚いたように目を丸くした。
(……あの柊木先輩が、この子を捨てる?)
あり得ない、と硝子は即座に思った。
あの男がどれほど異常な執着と愛情を持ってこの子を育てていたか、一度会っただけの自分でもはっきりと分かる。自分の命よりも大切にしていたはずだ。何かの行き違いか、あの極端な先輩なりの「理由」があるに違いない。
「……そっか。辛かったな」
硝子はぬえの頭をポンポンと優しく撫で尋ねた。
「でもさ、本当にそれだけだったか? 先輩、他に何て言ってぬえをここに置いていった?」
ぬえは涙を拭い、ひっく、としゃくりあげながら答えた。
「……ここで、強くなりなさいって……。五条の指導を受けろって言われたの……」
「ほらな」
硝子はふっと柔らかく微笑んだ。
「本当に捨てるつもりならわざわざ五条のところに預けたりしないよ。あの人はね、ぬえに強くなってほしいんだよ」
「う、うん……。でも……五条悟は嫌い……。あんな奴、信用できない……。先生だって、あの人のこと大嫌いなんだもん……!」
ぬえはぽつりと五条への激しい拒絶感を口にした。
すると——
「ハハッ! あははははッ!」
硝子は腹を抱えて大笑いし始めた。突然のことにぬえは涙目を丸くして呆気にとられる。
「あはは、ごめんごめん! いやぁ、大正解だよぬえ! あんな五条みたいなクズ、信用できなくて当然だ!」
「く、クズ……?」
「そうだよ、あんな性格最悪な奴、誰も信用してねぇよ。柊木先輩が嫌うのも当然だし、ぬえが嫌うのも大正解。正しい感覚をしてるよ、あんたは」
硝子は笑い飛ばしながらぬえの目線を合わせるようにかがみ込んだ。その瞳には大人としての深みと温かさが宿っていた。
「いいかい、ぬえ。五条のことが嫌いならさ……五条をぶっ飛ばせるくらい、ぬえが強くなればいいんだよ」
「え……?」
「あのクズの技術も指導も、利用できるもんは全部利用してやるの。で、強くなって鼻明かしてやればいい。『アンタの教え方なんて大したことない』ってね」
ぬえの息が止まる。硝子の言葉が凍りついていた心にじわじわと温かい波となって広がっていく。
「それにさ」と硝子はぬえの頬に残った涙を指で拭った。
「『使えないから捨てられた』って思い込んで泣いてる暇があるなら……強くなって、ぬえが柊木先輩を迎えに行ってやりな。 『ぬえはこんなに強くなったよ、だからずっと一緒にいよう』って、今度はぬえが迎えに行って、あの不器用な先輩の頭ひったたいてやればいいんだ」
迎えに行く——
その言葉がぬえの暗闇の世界に一筋の輝く太陽のような希望となって差し込んだ。
(そうだ……ぬえが、迎えに行けばいいんだ。もっと強くなって……先生のお役に立てるようになって、先生を迎えに行けばいい……!)
絶望で真っ黒に塗り潰されていた瞳に少しずつ、確かな光が灯り直していく。
握りしめていた缶ココアの温もりが今度はちゃんと自分の心まで届いた気がした。
ぬえはぐっと袖で涙を拭うと背筋をピンと伸ばした。まだ幼く華奢な身体だがそこにはもう「捨てられた可哀想な女の子」の弱さはなかった。
「……ぬえ、頑張る」
「ん?」
「五条のことも、高専のことも……ぜんぶ利用して、ぬえ、絶対すごーく強くなる! で、先生を迎えに行くの!」
「いい顔になったね」
硝子は満足そうにニカッと笑うとぬえの髪をごしゃごしゃと撫で回した。
「よし! じゃあまずは腹ごしらえだ。高専の食堂は美味いぞ。あのクズに奢らせてやろう」
「うん!」
ぬえは手に持ったココアをゴクゴクと飲み干すとしっかりと自分の足で立ち上がった。
大好きな先生のもとへ帰るため。
もう二度と「使えない」なんて言わせないため。
あやとり少女は、己の足で未来へ向かって踏み出し始めたのだった。