放課後の静寂が満ちる高専の道場
沈みかけた夕暮れの赤黒い光が射し込む中、静寂を切り裂くのは木刀が空を裂く鋭い音と足袋が擦れる重厚な音だけだった。
フッ、ハッ、と短く重い呼吸を吐き出しながら、柊木正宗は愚直に面を打ち下ろす。
一千、一千一、一千二——
腕の筋肉は焼けるように熱く胴着は汗で重く肌にへばりついている。手に巻いた晒しからは血が滲み出ていたが柊木がその手を緩めることは一度としてなかった。
(……足らない。まだ、踏み込みが甘い。呪力の乗せ方が一瞬遅れている)
柊木は心の中で自らに冷徹な叱責を飛ばす。
当時の柊木の術式は刀身の物理的な『切れ味』と『強度』を純粋に高める強化系。シンプルだからこそ誤魔化しが利かない。己の肉体の鍛錬、剣術の精度、そして瞬発的な呪力操作——そのすべてを極限まで高めなければ強大な呪霊を一刀両断することはできないのだ。
どれほど手が擦り切れようと夜が更けて脚の震えが止まらなくなろうと柊木は刀を振り続けた。
「力とは正しき努力の果てにのみ宿るものだ。楽をして手に入れた力など土壇場で己を裏切る」
それが柊木正宗という男の揺るぎない信念だった。
だが、そんな柊木の泥臭い努力を嘲笑うかのように高専には異次元の「天才」たちが存在していた。
五条悟、そして夏油傑
ある日の昼下がり。道場の縁側で五条は制服の襟を肌蹴けさせだらしなく寝転がりながら携帯ゲーム機をいじっていた。
「あーあ、だる。今日の任務さぁ、僕が行くまでもなくゴミみたいな呪霊だったわ。一瞬で終わってヒマー」
あくびをしながら画面のボタンを適当に叩く五条。
その不真面目極まりない態度に稽古着姿の柊木は額に青筋を立て静かに歩み寄った。
「……五条。その姿勢は何ですか。高専の敷地内で術師としての品位を欠く振る舞いは慎みなさい」
「げっ、柊木先輩。お堅いねぇ、相変わらず。別にいいじゃん、仕事はきっちりこなしたんだからさ」
「結果さえ出せばいいという問題ではありません!」
柊木は厳しい視線で五条を見下ろし咎めるように声を張り上げた。
「天から与えられた圧倒的な素質に胡坐をかき、己を磨く努力を怠るなど言語道断! 力とは、正しい志と弛まぬ修練によって育むもの。そのような怠惰な態度は呪術師としての死を意味すると知りなさい!」
「はいはい、お説教ご苦労様〜。先輩みたいに一日中刀振り回して汗だくになるの、効率悪いと思うんだけどなー」
耳をほじりながら鼻で笑う五条。
柊木は拳を強く握り締め激しい不快感を胸の奥で噛み殺した。
(この男は……! 己に与えられた恵みの大きさを理解しておらず努力の尊厳すら踏みにじる)
五条の存在そのものが努力を信条とする柊木にとって耐え難い侮辱だった。
しかし、柊木は決して諦めなかった。
(……今はまだ、格の違いがあるかもしれん。だが、才能に頼る者の成長には限界がある。泥を舐め血を吐きながら積み上げた私の剣術はいずれ必ずあの理不尽な才能に追いつき追い越してみせる)
才能の差に屈するどころか、柊木は己の正しさを証明するためにより一層稽古に打ち込むのだった。
一方、もう一人の天才である夏油傑に対して柊木はある程度の敬意を払っていた。
夏油は五条と違い、礼儀正しく、呪術師としての自覚を持っていた。何より彼もまた、己の術式のために不快な呪霊を飲み込み続けるという過酷な努力と忍耐を重ねていることを知っていたからだ。
ある日の夕方、道場の軒先で汗を拭う柊木に夏油が温かい茶の入った湯呑みを差し出してきた。
「お疲れ様です、柊木先輩。相変わらず熱心ですね」
「……夏油か。かたじけない」
湯呑みを受け取り一口含んだ柊木は静かに夏油を見つめた。
「夏油。君の精進ぶりには目を見張るものがある。五条のような不真面目な者とは違い、君は『力を持つ者の責務』を正しく理解しているようだ」
「ふふ、悟と一緒にされたら困りますよ」
夏油は苦笑しながら遠くの空を見つめた。
「ですが私は当たり前のことを言っているだけです。呪術は非術師を守るためにある。……『弱者生存』。それが力を持つ我々呪術師のあるべき社会の姿でしょう」
夏油の言葉は一見すれば高潔で正しいものに聞こえた。
だが——柊木はその言葉の裏にある「ズレ」を見逃さなかった。
「……『弱者生存』、ですか」
柊木は湯呑みを握る手に微かに力を込め冷ややかな眼差しを夏油に向けた。
「夏油。君の考えは一見慈悲深く見えるが大きな過ちを孕んでいる」
「……過ち、ですか?」
夏油が微かに眉をひそめる。柊木は静かにけれど断固とした口調で自らの「正義」を語り始めた。
「弱者=守るべき善、という図式は甘妄だ。弱者であれ人は容易く悪に染まる。盗み、欺き、人を貶める非術師などごまんといるのだよ」
「……」
「私が守るべきだと思うのは、単なる『弱者』ではない。『正しく生きている者』だ。正しく生き、社会に尽くす者にのみ生きる価値がある。逆に、どれほど弱者であろうと正義に背き悪をなすゴミならば……それは淘汰されるべき害悪に過ぎない」
柊木にとって生きる価値を決めるのは「強いか弱いか」ではなく「正しいか正しくないか」だった。
弱者だからという理由だけで無条件に救う夏油の思想は柊木から見れば不完全で甘い偽善に見えたのだ。
夏油はしばらく無言で柊木を見つめていたがやがて困ったようなどこか寂しげな笑みを浮かべた。
「……先輩の正義は、少々厳しすぎる気がしますね。人は誰しも完璧ではいられない」
「甘えです、夏油。正しくあろうと刮目し続けることこそが人が人であるための最低限の条件なのだから」
二人の視線が交差する。
一見、共に高専の「常識人」として並んでいるように見えた二人だったがその根底にある思想はすでに決定的な歪みを孕んで離れ始めていた。
自分は正しい
己の努力も、己の思想も、すべてが正義なのだと信じて。
柊木正宗は今日もまた血の滲む手で刃を握り直すのだった。
2006年
夏の眩しい陽光が降り注ぐ高専の校庭。
その中央に、男が立っていた。
五条悟
かつては怠惰で不真面目で天与の恵みにあぐらをかいていると柊木が軽蔑していた後輩。
だが死の淵から生還し「覚醒」を果たしたその男はもはや柊木の知る「生意気な生徒」ではなかった。
宙に浮く彼の身体。その周囲を覆う絶対に届かない絶対不可侵の空間。
指先ひとつを軽く掲げただけで天地が鳴動し、大気が歪み、巨大な空間そのものが抉り取られて消滅する。
『天上天下唯我独尊』
その圧倒的な神々しさすら漂わせる姿を遠巻きに目撃した瞬間、柊木正宗の手からガタリと木刀がこぼれ落ちた。
「……あ……あぁ……」
声にならぬ絶望の吐息が柊木の喉から漏れ出た。
全身の毛穴が開き冷や汗が噴き出す。
視界がぐにゃりと歪み立ち眩みのような強烈な眩暈が彼を襲った。
(なんだ……あれは……)
嫉妬や怨嗟すら湧いてこなかった。
そこに存在していたのはただひたすらに圧倒的で、惨めで、残酷な「事実」だけだった。
(私は……何をしていたのだ……?)
脳裏を駆け巡るのは血を吐くような毎日の稽古だ。
手が擦り切れ、骨が軋み、足の爪が剥がれ落ちても愚直に刃を振り続けた日々。
「正しき努力の果てにのみ力は宿る」と信じ、才能にかまける五条を叱責いつかその鼻を明かして追いついて見せると誓った、己の青臭い矜持。
それらすべてが目の前で指先を振るう男の一動によって徹底的に完璧に粉砕された。
(努力など……修練など……! あの男の前にあっては砂上の楼閣にすら等しい……!)
五条悟の覚醒は柊木正宗という男の「存在理由」そのものの否定だった。
自分がどれほど命を削り、人生の全てを捧げて積み上げてきた剣術があの男が寝返りを打つ程度の軽快さで易々と凌駕されていく。
才能や努力の違いなどという生易しい話ではない。
これは——生き物としての根本的な格の差だ。
アリがどれほど鍛錬を重ね完璧な兵隊アリになろうとも、踏み外された象の一足で潰される運命は変わらない。柊木が一生をかけて到達できるかどうかも怪しい境界の遥か先へ、五条悟はあくびをしながら辿り着いていた。
「……私の剣は……私の力は……」
柊木は己の手を見つめた。
血と汗が染み込みタコだらけになった武人の手。
昨日までは誇りだったその手が今はとてつもなく惨めで、滑稽で、汚らわしいゴミのように思えた。
自分は「正しい力」を手に入れたつもりでいた。
だが、そんなものは本物の神の前ではままごと以下の悪あがきに過ぎなかったのだ。
(痛い……胸が、痛い……)
胸の奥が焼きゴテを押し当てられたように熱く苦しかった。
己の半生を否定された激痛
正しい努力が裏切られた絶望
そして何より恐ろしかったのはあの男と同じ空気を吸い、あの男の視界に入る場所にこれ以上留まり続けることだった。
あそこにいれば、自分がどれほど無力で無価値で哀れな存在であるかを刻一刻と突きつけられ続ける。
「先輩」と呼ばれながら心の底ではあの圧倒的な化け物に怯え己の無力さに惨めさを感じる日々に柊木正宗の自尊心は耐えられなかった。
「……もう、ここにはいられない」
柊木は落ちた木刀を拾うことすらなく背を向けた。
高専の門をくぐる脚は重く、力なく震えていた。
逃げるように。去っていく背中にかつて抱いていた「正義」や「誇り」の欠片は残っていなかった。
己の存在そのものを否定された男はただ失意のままに光の当たらない闇の中へと消えていくのだった。
高専の門を潜り抜け呪術界の表舞台から姿を消した私には帰るべき場所などどこにもなかった。
普通の人間として生きる——そんな器用な選択肢など端から持ち合わせてはいない。朝起きて会社へ行き、人に笑いかけ、くだらない世間話に花を咲かせる。
そんな「平穏」に逃げ込む術を私は知らない。
(私は……呪術師としてしか生きられない。いや……それ以外の生き方を知らんのだ)
高専を辞めてなお私は手に馴染んだ刀を捨てることができなかった。
他にできることなど何もない。身につけたのは人を、呪いを斬る術だけだ。
だから私は呪術界の闇に蠢く斡旋屋から安売りされるような小規模な依頼を請け負い、地方を転々とするフリーの呪術師となった。
薄汚れたビジネスホテルや打ち捨てられた廃寺で夜を明かす日々。
刀の手入れをしながらふと暗い天井を見上げるたび、自問自答が頭を巡る。
(何のために、私は生きている……?)
五条悟という理不尽な天災を前にして私の積み上げた半生はゴミクズへと成り果てた。
いくら刀を研ごうと、いくら術式を練ろうと、あの男の指先ひとつに及ばない。私の存在などこの世界において何の価値もないのだ。
(……いっそ、死んでしまえば楽になれるのかもしれんな)
そうだ。
私は、死に場所を探していたのかもしれない。
正義を叫びながら、誰かを護り、散っていく。
そうして「正しき呪術師」として命を落とせばこの惨めで無価値な人生にもせめて一筋の誇りという名の傷跡を残せるのではないか。
己の正義と心中することこそが私に残された唯一の救済なのだと心のどこかで願っていた。
……そう、信じていたのだ
あの日、あの悍ましい大雨の夜までは
◆
山あいにひっそりと佇む、古い集落
「化け物が出る」という曖昧な依頼を受け私は土砂降りの雨の中、集落の奥へと足を踏み入れた。
だが甘かった。
闇の奥から這い出てきたのは地方の小さな呪霊などではない。何十年、何百年と土地の祟りを吸い上げて肥大化した、準1級にも及ぶ強大な異形の土地神だった。
グゥ……オォォォォォンッ!!
山を揺らすほどの咆哮。凄まじい密度の呪力が豪雨を吹き飛ばしながら大気を圧迫する。
(なっ……!? なぜ、これほどの呪霊が……斡旋屋の報告と違うぞ!)
胸が引き裂かれそうなほどのプレッシャーに胃が固く縮こまる。
だが、私は歯を食いしばり刀を抜いた。
(怯むな! 相手が何であろうと関係ない! 私は剣士だ……正義を成す者だ!)
己を奮い立たせ地を蹴る。
呪力の出力を極限まで高め刀身の切れ味を限界まで引き上げる。鋭い一閃が呪霊の巨大な腕を切り裂いた。
——勝てる。そう確信した瞬間だった。
ガァァァァッ!
肉が削ぎ落とされたはずの傷口からドロリとした黒い肉芽が爆発的な速度で盛り上がり一瞬で再生したのだ。
それどころか反撃として振るわれた巨腕が私を叩きのめす。
「ガハッ……!? ぐ……あ……ッ!」
肋骨が叩き割れる嫌な音が響き視界が真っ赤に染まる。泥水の中を転がりながら私は激しく血を吐き出した。
(く……くそ……! 斬っても斬ってもキリがない……! 質量が……呪力の上限が違いすぎる!)
私の術式は物理的な「切れ味」を高めるだけだ。
どれほど鋭く斬ろうとも相手の肉体がそれを上回る速度で再生し、押し潰してくるならば……私の刀など巨大な豆腐に針を刺しているに等しい。
その時、近くの民家が倒壊し悲鳴が響き渡った。
崩れた屋根の下で幼い少女を庇うように抱きかかえた夫婦が血みどろになって倒れている。
「が、あぁぁ……ッ!」
呪霊の巨大な足が容赦なくその民家を踏み荒らそうと振り上げられる。
(助けなければ……! 立つんだ、柊木正宗! ここで前に立ち、家族を護るのが……剣士の正義だろう!!)
心の中で叫び、刀を握り直す。
しかし——膝が、ガタガタと酷く震えて動かない。
迫り来る死の圧迫感。
次にあの巨腕が振り下ろされれば私ごとこの家族は潰され頭骨が熟した果実のように簡単に破裂する。
(死ぬ……? 私が……? ここで……こんなところで……!?)
その瞬間、私の中で「正義」や「誇り」といった綺麗事が音を立てて冷たく吹き飛んだ。
嫌だ。死にたくない。
痛いのは嫌だ。骨が砕けるのも、血を吐くのも、闇に呑み込まれて消えるのも嫌だ!
正義と心中する? 誇り高く死ぬ?
嘘だ、全部嘘だ! 私は恐ろしいのだ! 死ぬことが、命を失うことが、たまらなく恐ろしい!!
己の底にある、浅ましく、汚く、醜い「生の執着」が私を支配した。
「たす……けて……ッ!!」
絶望的な父親の叫び。
血みどろの父親はもはや自分たちが助からないことを悟ったのだろう。死にかけた目のまま最後の力を振り絞って幼い少女を私の方へと押し出した。
「おねが、い……です……! この子……ぬえだけでも……っ!!」
母親もまた押し潰されそうな体で私の足を掴み涙と血にまみれた顔で必死に私を見上げた。
「……あ……あ……ッ」
私は、返事すらできなかった。
呪霊を祓うことも、この夫婦を救い出すこともできない。私にできるのは……伸ばされた腕から泣き叫ぶ幼い少女を奪うように抱きかかえることだけだった。
「お父さん! お母さん! 嫌ぁぁぁぁっ!!」
少女の絶望的な叫びが耳腔を刺す。
「す……すまない……ッ! すまない……ッ!!」
私は泣き叫ぶぬえを腕の中に強く抱き締めると両親に背を向けた。
「うあああああああああッ!!」
振り向かない。一度も振り返らない。
背後で響き渡る、家屋が完全に押し潰される凄惨な音と二人の生命が途絶える嫌な感覚。
泥水を撥ね散らかし冷たい雨に打たれながら私は狂ったように走り続けた。
托された命を守るため——いや、それを言い訳にして己の命を守って逃げるために。
「はぁッ、はぁッ、ハッ……!」
雨音に混ざって、己の醜い喘ぎ声と心臓の早鐘のような音が耳の奥でうるさく鳴り響く。
(私は……見捨てたのだ……! あの両親を見捨て、幼子一人だけを抱えて逃げ出した……!)
五条悟の才能に敗れ今またはっきりと突きつけられた。
私には才能もない。強さもない。それどころか……家族全員を救う覚悟すら持ち合わせていない、ただの無力で惨めな敗北者だということを。
泥まみれの服。血と雨水で汚れた顔。
幼子を抱えながら雨の中を疾走する私の姿は誇り高き剣士などではなくただの哀れな害獣そのものだった。
豪雨を凌ぐためになだれ込んだ人里離れた荒れ寺。
雨音がトタン屋根を激しく叩く音が静寂の残響のように虚しく響いていた。
「ハッ……ハッ……う……ぐぅ……っ」
湿った土間にひざざまづき私は泥と血にまみれた自分の両手を激しく震わせていた。
許せない。
自分という存在が、たまらなく惨めで、汚らわしく、許せなかった。
(何が剣士だ……何が正義だ……っ!!)
脳裏に焼き付いて離れない。
豪雨の中、血みどろになって私に我が子を託した夫婦の顔。押し潰される民家。肉の潰れる音。
「この子だけでも」という叫びに縋りつき、私は幼い少女一人だけを泥棒のように奪い去り己の命を守るためだけに逃げ延びたのだ。
正義をなすために剣を握ったはずだった。
誇り高く生きるために高専を出たはずだった。
だが、その実態はどうだ?
五条悟の異常な才能に怯えて高専を逃げ出し今また死への恐怖に惨めに屈して助けを求める家族を見捨てて逃げ延びた。
私は……誇り高き剣士などではない。
ただの臆病者で、卑怯者で、生きている価値すらないゴミクズだ。
(死ね……。死んで詫びろ、柊木正宗……!)
カチリ、と硬い音が響く。
震える手で鯉口を切り抜き放った刀の冷たい刃を己の首筋へと強く押し当てた。
力を込めれば、一瞬で終わる。
首筋を切れば血が噴き出しこの醜い呼吸も胸を焼き尽くすような屈辱と罪悪感もすべてから解放されるのだ。
「……すまない……すまない……」
涙と泥で汚れた顔を歪め、刃に力を込めようとした——その時だった。
「……お、兄ちゃん……?」
か細く今にも消えてしまいそうな声が聞こえた。
ハッと息を飲み、視線を落とす。
そこには、全身を泥と雨に濡らし、両親を目の前で失った恐怖でガタガタと酷く身体を震わせている幼い少女——ぬえが立っていた。
小さな唇は青ざめ大きな瞳からはボロボロと涙が溢れ落ちている。
幼子にとってそれは世界が崩壊したも同然の凄惨な体験だったはずだ。恐怖で狂ってしまってもおかしくないはずだった。
だが——ぬえは、震える小さな足を一歩、また一歩と踏み出すと刃を首に当てている私の足元へとおずおずと近づいてきた。
そして、泥だらけの小さな手で私の濡れた羽織の裾をぎゅっと握りしめたのだ。
「……お兄ちゃん……。たすけて……くれて……ありがとう……」
「……っ!?」
私は息を詰まらせた。
ぬえは絶望的な恐怖に怯えながらも精一杯の強がりと健気さで涙に濡れた顔を上げて私を見つめていた。
彼女の幼い心の中では自分を抱えて雨の中を走り抜けてくれた私は……両親の最期の願いを聞き入れ、自分を救い出してくれた「命の恩人」なのだ。
私が己の保身のために逃げ出した臆病者だとも知らずに。
(ああ……なんということだ……)
刃を握る手が激しく震えた。
この幼い子は、両親を失い、家を失い、この広い世界にたった一人で取り残されたのだ。
そんな子を前にして私はまた——自分勝手な罪悪感から逃げるために自ら命を絶とうとしていたのか?
命の恩人だと信じて縋りついてきたこの子を、暗闇の中に置き去りにして自分だけ楽になろうとしていたのか?
(どこまで……どこまで私は、浅ましく、卑怯な男なのだ……!)
死ぬことすら私にとっては許されない逃避でしかなかった。
(死ねない……。今、私が死ぬわけにはいかない……っ!)
私は刀を鞘へと納めた。カチャンという重い音が私の死の猶予を告げる。
せめて……せめてこの子が、一人で生きていけるようになるまでは。
私がこの子に最低限の護身の術を教え己の身を守れる強さを与えるまでは死ぬことすら許されない。
それが、夫婦を見捨て、この子の人生を狂わせた私に課せられた最低限の「贖罪」だ。
「……ぬえ、と言いましたね」
私は膝をつきぬえの目線に合わせてかがみ込んだ。
そして、その震える小さな肩に手を置いた——その瞬間だった。
(……な……に、だ……これは……!?)
静電気が走ったかのような衝撃が私の掌を駆け抜けた。
ぬえの幼く華奢な身体の奥底から脈打つように溢れ出してくる恐ろしいほどの呪力の奔流。
静かに、だが確実に渦巻くその呪力量は……私が一生をかけて錬磨しても到底届かない圧倒的な才能の塊だった。
(ばかな……っ! これほどの呪力をこの幼さで秘めているというのか……!?)
目の前が真っ白になるような衝撃だった。
かつて高専で、五条悟の覚醒を目の当たりにした時の絶望が脳裏をよぎる。
私には才能がなかった。血を吐くような努力を重ねても物理的な限界を超えられず、本物の天才の前ではゴミ同然の無力だった。
だが——目の前にいるこの子は違う。
この子には、才能がある。
私が喉から手が出るほど欲しかった理不尽を打ち破るための圧倒的な「強さ」の芽がこの小さな身体の中に確かに眠っているのだ。
その瞬間——壊れかけていた私の心の中で冷たく狂おしい何かが音を立てて繋ぎ合わさった。
(……そうだ……。私の正義は……まだ、終わっていない……!)
瞳の奥に暗く妖しい光が灯る。
私自身には世界を正す力も、正義を完遂する才能もなかった。
だが、この子を育て上げればどうだ?
私の理想とする「正しい心」をこの子に教え、この膨大な才能を開花させ、私の『刃』として振るわせることができたなら——
私が成し得なかった「本当の正義」をこの子を通じて世界に示すことができるのではないか。
罪悪感、無力感、敗北感
それらすべてを覆い隠すように歪んだ希望が私の胸を満たしていく。
「ぬえ」
私は泥と涙で汚れたぬえの幼い頬を包み込むように優しく撫でた。
「今日から……私が君の先生です。君に、強くなるためのすべてを教えましょう」
「……せん……せい……?」
「ええ。私と一緒にいきましょう。そして……この世界から、すべての理不尽と『悪』を綺麗にお掃除するのです」
ぬえは、よく意味が分かっていない様子だったが私の温もりに安心したように深く小さく頷いた。
「……うん! 先生……!」
ぬえがぎゅっと私の首に抱きついてくる。
その温もりを感じながら私は静かに目を閉じた。
私という不完全で無力な男は今日ここで死んだのだ。
これからは……この子を最高の『正義の刃』へと育て上げるためだけに私は生きていく。
こうして、狂気と贖罪の混ざり合った歪んだ師弟の物語が冷たい雨の中で幕を開けたのだった。