高専の医務室
仄かに消毒液の匂いが漂う室内には午後の穏やかな陽光が差し込んでいた。
パイプ椅子を二つ並べた小さな丸テーブルを囲んでいるのは三人。
硝子の隣に座っている少女——ぬえはもうかつてのように小さく震えていた幼子ではない。15歳となりすっかり背も伸びてしなやかな雰囲気を纏っていた。
黒髪のミディアムヘアは整然としたハーフアップにまとめられ首元や手首の覗く黒い高専の制服には彼女のこだわりである柔らかなラベンダー色の刺繍とラインがあしらわれている。
その瞳は静かでどこか大人びたクールな色を湛えていた。だが、硝子の隣にいる時だけはその肩の力が抜け年相応のフランクでリラックスした表情を見せている。
「ねえ、硝子。今日のお茶、ちょっと渋くない?」
「ん? そうか? 長めに淹れちゃったからな。お湯足すか、ぬえ」
「ううん、このままでいい。お菓子食べればちょうどいいし」
ぬえは硝子と楽しそうに言葉を交わしながらテーブル中央に置かれた箱から可愛らしいマカロンをひとつ摘み嬉しそうに口へと運んだ。サクッとした食感と甘さが口いっぱいに広がりぬえの眉が満足そうに緩む。
その和やかな空気をぶち壊すように向かいのソファで脚を組んでいた男がヘラヘラと声を上げた。
「でしょ〜? それ、銀座のすっごい並ぶ店のやつなんだよね。わざわざ僕が買いに行ってあげたんだよ、ぬえ」
目隠しをした男——五条悟だ。
五条の言葉を聞いた瞬間。
ぬえの表情から一切の温度が消え去った。
ぬえは無言のまま手に持っていたマカロンをそっと紙ナプキンへ戻すとお菓子の箱ごとスッと五条の方へと押しやった。そして何事もなかったかのように自分の茶器だけに手を伸ばす。
「ちょっ、ぬえ!? なんで急にお菓子遠ざけたの!? 美味しそうに食べてたじゃん!」
「……五条が買ったって分かったから。毒でも入ってそう」
「ひどい!! 恩師に対する態度じゃないでしょそれ! 硝子、なんか言ってよ!」
「はいはい、自業自得。あんたが日頃から嫌われるようなことばっかりしてっからだろ、五条」
硝子は呆れ顔で煙草の箱を弄りながらぬえの頭をポンポンと撫でた。ぬえも硝子に撫でられるのは嫌がらずむしろ安心したように身を委ねている。
「まあでも、ぬえが高専に来てからもう4年半か。あっという間だねぇ。最初に来た時は今にも死にそうな顔して私の袖掴んで離さなかったのに」
「硝子、それは言わないで」
ぬえは少しだけ頬を朱に染め照れくさそうに視線を逸らした。あの絶望の夜から五条の指導と硝子という唯一の理解者を得てぬえは圧倒的な強さと鋭さを手に入れたのだ。
全てはあの大好きな先生——柊木正宗に再会した時、「もう使えない子じゃないよ」と胸を張るために。
すると、五条が表情を少しだけ引き締め本題を切り出した。
「ま、思い出話はそこらへんにしてさ。本題なんだけど。……ぬえ、今年から君には正式に高専の一年生として入学してもらうから」
「……は?」
ぬえは露骨に不快そうな眉をひそめた。
「嫌。なんでぬえが今さら入学なんてしなきゃいけないの?」
「なんでって、君今年で15でしょ」
「そんなの分かってる。でも、ぬえはもう4年もここで五条の指示で現場に出て呪霊なんて一人でお掃除できるようになってる。今さら一年生として授業受ける意味なんてない。時間の無駄」
バッサリと言い放つぬえに五条は肩をすくめた。
「あのねぇ、今までは君の身元やら術式の隠蔽やらで特例として扱ってただけ。ここはそもそも呪術専門の『高校』なんだよ。年齢的にも今年が入学のタイミングだし、籍を置いて正規の術師として活動してもらうのは当然でしょ」
「五条の勝手な都合じゃない。ぬえは一人で修行してる方が効率いいの。群れるつもりはないよ」
肘をついて頑なに拒絶するぬえ。
困った五条はチラリと硝子に視線を送る。硝子は溜息をつくとぬえのカップに温かいお湯を注ぎ足しながら柔らかい声で話しかけた。
「まあまあ、ぬえ。そう突っ張るなよ。ずっと戦いと修行ばっかりだったんだ、少しは普通の学生らしくしてみてもいいんじゃないか?」
「硝子までそんなこと言うの? ぬえは遊んでる暇なんて……」
「それにさ」
硝子はふっと優しく目を細めぬえの瞳を覗き込んだ。
「柊木先輩だってさ。ぬえが一人でカリカリ修行詰めてるより高専でちゃんと友達作って楽しそうにしてるって知ったらきっと喜ぶんじゃないかい? あいつ、ああ見えてぬえのこと過保護だったしね」
「……っ」
『先生が喜ぶ』
その一言はぬえの固く閉ざされた心へ特効薬のように効いた。
(先生が……喜ぶ……?)
自分が一人でストイックに強くなることだけを考えていたけれど先生はぬえが「普通の女の子」として笑っていることも望んでいたのだろうか。もし再会した時、「友達ができたよ」と報告できたら先生はあの優しい手で頭を撫でてくれるだろうか。
揺れるぬえの表情を見逃さず五条がニシシと意地悪く笑いながら追撃をかけた。
「それにさ、今年の一年生はなかなか面白いのが揃う予定なんだよね。ぬえにとっても良い刺激になると思うよ?」
「五条の面白いは信用してない」
ぬえは五条を冷たく一蹴したがもう一度硝子の方を見た。硝子は「まあ、気楽にやってみな」と笑って頷いている。
ぬえは小さく息を吐き出すと折れたように呟いた。
「……五条の言うことはどうでもいいけど。硝子がそう言うなら……入学する」
「よっしゃ! 言ってみるもんだね〜!」
「喜ばないで、五条。授業も訓練もぬえのペースを乱したらタダじゃおかないから」
「はいはい、怖ーい」
お菓子を五条から奪い返し硝子の隣で再び静かにお茶を飲み始めるぬえ。
こうして、かつて不殺の剣士に導かれ高専で最強とともに成長したあやとり少女は、2018年——新たな物語の舞台へと足を踏み入れることになったのだった。
◆
五条悟に連れられて虎杖悠仁が初めて足を踏み入れた東京都立呪術高等専門学校。
鬱蒼とした森に囲まれた古風な校舎の佇まいに虎杖は目を輝かせていた。
「へぇ〜! ここが高専か! 思ってたよりずっと寺だな!」
「だろ? 歴史あるからねぇ」
脳裏に焼き付く怪異や呪霊の恐怖を抱えながらも、虎杖は持ち前の明るさで周囲を見渡す。そこへ全身に包帯を巻いた伏黒恵が廊下の曲がり角から歩いてきた。
「あ、伏黒! お前大丈夫かよ、怪我!」
「……まあな。お前こそ、生きてて良かったよ」
伏黒は短く答えると五条へ視線を向けた。
「五条先生。もう一人はまだ到着してないんですか?」
「ん? ああ、野薔薇ならまだ原宿で買い出し中〜。で、もう一人はね……今、校庭で自主練中だよ」
「もう一人……?」
首をかしげる虎杖に伏黒がボソリと付け加えた。
「綾瀬だろ」
「正解〜! 恵もよく知ってるでしょ。相変わらずカリカリ稽古しててさ、もう少しお淑やかになって欲しいよね」
「綾瀬……? 女の人か?」
「ああ。高専歴だけで言えば俺たちよりずっと先輩だ。……色々と規格外だから、驚くなよ」
伏黒の言葉に虎杖はごくりと唾を飲み込んだ。
五条に案内され広大な校庭へと足を踏み入れた虎杖。
その瞬間、ピシッ……という、空間そのものが軋むような甲高い音が耳を打った。
校庭の中央
ミディアムヘアをハーフアップにした少女が一人たたずんでいた。
黒い高専の制服の襟元と手首から覗く柔らかなラベンダー色の刺繍。彼女が指先を優しく交差させると空中へ目に見えないほど細い『糸』が幾重にも張り巡らされる。
指先が繊細に動く——次の瞬間
ズバババンッ!!
訓練用に配置されていた巨大な標的の岩石群がまるで豆腐か何かのように完璧な格子状に美しく切り刻まれドサドサと崩れ落ちた。
「うおっ!? なんだ今の……糸!?」
虎杖が思わず声をあげる。驚異的な呪力精度と一切の無駄がない研ぎ澄まされた動作。
「やあやあ、ぬえ! 相変わらず血気盛んだねぇ〜」
五条が能天気な声を張り上げて手を振った。
その声が届いた瞬間、少女——綾瀬ぬえはピタリと動きを止めた。凛とした背中から瞬時にドス黒い殺気が立ち昇る。
ぬえは緩やかに振り返ると氷のように冷たい瞳で五条を射抜いた。
「……五条。集中してたんだけど。邪魔しないで」
「冷たいなぁ! ほら見て、君の新しいクラスメイトだよ!」
五条は気にすることもなく隣にいる虎杖の肩をポンと叩いた。ぬえの視線がスッと虎杖へと向かう。虎杖はその圧のある視線に思わず背筋を伸ばした。
「初めまして! 虎杖悠仁です! よろしく!」
元気に挨拶をする虎杖に対しぬえはフッと小さく息を吐き出すと軽く手だけを振った。
「ぬえ。……よろしく」
一秒で会話を終わらせ、再びあやとりの糸に呪力を込めようとするぬえ。明らかに「関わる気がない」という塩対応だ。
そこへ、後ろから歩いてきた伏黒が声をかける。
「綾瀬。相変わらずだな」
「恵。あんたこそ、そのボロボロの体でウロウロしないで。足手まとい」
「……悪かったな」
眉をひそめる伏黒だったが慣れた様子で溜息をついた。二人は高専にいる期間が長いためお互いの性格をよく知っているらしい。
ぬえのつれない態度を見かねて五条がニシシと笑いながら間に割り込んだ。
「はいはい、ぬえちゃん流そうとしないの! 君たち今日から同じ一年生なんだからさ、仲良くしなきゃダメでしょ?」
「……嫌。ぬえは一人で十分。群れるつもりはないよ。それに五条、ぬえはあんたの指示で現場に出てたんだからこの二人と同級生扱いされる意味がわからない」
バッサリと言い放つぬえに虎杖は目を丸くした。
「えっ、五条先生にしかもなんかめちゃくちゃ当たりキツくね!?」
「虎杖、気にすんな。あいつの五条先生に対するスタンスは昔からだ」
伏黒が呆れ顔で虎杖の肩を叩く。
ぬえはあからさまに不快そうな顔で五条を睨みつけた。
「とにかく、ぬえの特訓を邪魔しないで。これからもう一巡『お掃除』の精度を上げるんだから」
「まあまあ。そうカリカリすんなって。悠仁もなかなか面白くってさ、宿儺の指食べたんだよね」
「……は?」
その言葉にぬえの動きが完璧に止まった。
ゆっくりと虎杖の方を見直しその身体に眠る禍々しい気配を敏感に察知する。
「……五条。この間抜けそうなのが呪物の容器なわけ?」
「そうそう! 面白いでしょ?」
「……最悪。五条の周りにはろくなのが寄ってこない」
毒を吐きながらもぬえは貼り詰めていた糸をスッと消した。
これ以上特訓を続ける気も失せたらしい。手首のラベンダー色のワンポイントを無意識に撫でながらぬえは虎杖をじっと見つめた。
「……言っておくけど、虎杖」
「お、おう?」
「足引っ張ったら、容赦なく切り刻むからね」
「ひえっ……厳しい……!」
怯える虎杖と淡々とそれを見守る伏黒そして満足そうに笑う五条。
こうして、高専歴が一番長い「実は最強格の同級生」ぬえと虎杖悠仁の最悪で賑やかな出会いが果たされたのだった。