雨が不気味に降り続く少年院の正門前
どんよりと垂れこめた暗雲がこれから対峙する特級呪胎の異様さを物語っていた。
補助監督の伊地知から説明を受けながら四人はどんよりとした空を見上げる。
「いいですか、みなさん。今回のミッションはあくまでも現状の把握と生存者の救助です。万が一『特級』と遭遇した場合は……絶対に戦わず逃げてください。 あなた方の選択肢は『逃げる』か『死ぬ』かです」
汗をダラダラと流しながら切実に訴える伊地知の言葉。
その横で一人だけ明らかに不機嫌なオーラを隠そうともしない少女がいた。
黒い制服の襟元と手首にあしらわれた柔らかなラベンダー色の刺繍。
ミディアムヘアをハーフアップにまとめたぬえは腕を組み冷ややかな視線を雨で濡れた校舎へと向けている。その指先にはいつでも空間を切り裂けるよう目に見えないほどの呪力糸が微かに蠢いていた。
「……だから言ったでしょ。ぬえ一人で十分だって」
ぬえは小さく溜息をつき隣に立つ三人——虎杖、伏黒、釘崎を順番に見やった。
「特級かもしれない現場にわざわざ四人で来る必要なんてない。足引っ張られるくらいならぬえがサクッと『お掃除』して終わらせた方が早かったのに」
その不機嫌で刺々しい言葉に三人の反応は三者三様だった。
「綾瀬。お前が一人でやりたがるのはいつものことだが今回は逃走が前提の任務だ。単独行動は許されない。大人しく指示に従え」
伏黒恵は呆れたような顔でいつものことだとばかりに手慣れた調子でぬえの言葉を軽く受け流す。高専歴が長くぬえの性格を熟知している伏黒にとってはこのぬえの態度はすでに「日常風景」に過ぎない。
一方の虎杖悠仁はぬえの殺気立ったオーラなど全く気にする様子もなく明るくニッと笑ってサラッと流した。
「へー、綾瀬はすげーな! でもさ、四人いた方が生存者探すのも早いだろ! 逃げるにしても人手は多い方がいいしさ!」
無邪気に褒めてくる虎杖にぬえは毒気を抜かれたように眉をひそめて黙り込む。
そして一番火花を散らしていたのが釘崎野薔薇だった。
「ちょっとアンタ、高専歴が少し長いからって調子乗ってんじゃないわよ!」
腰に手を当てぬえに強い対抗意識を露わにして食ってかかる釘崎。
「アタシだって命がけでここに来てんの! 入学早々、アンタみたいな可愛げのない女に上から目線で仕切られるなんてまっぴらごめんなのよ!」
「事実を言っただけ。釘崎、あんたは威勢がいいだけで実戦の経験が足りない。足を引っぱられたら迷惑だから言ってるの」
「なんですってぇ!?」
バチバチと火花を散らすぬえと釘崎。
ぬえが高専歴の長さを鼻にかけているわけではないと分かってはいるものの完璧主義でクールなぬえに対し自尊心の高い釘崎はどうしても対抗心を燃やさずにはいられないのだ。
「まあまあ、二人とも……」と苦笑いする虎杖とため息をつく伏黒。
ぬえがこれほど一人で来たがっていたのは自分の強さを見せつけたいからではない。
彼女にとって高専での任務は、すべて大好きな「先生」にいつか再会した時、胸を張って「もう使えない子じゃないよ」と証明するためのもの。
余計な手出しをして『逃げる』だけの不完全なミッションにつき合わされるのが不快であり何より五条の思い通りになっているようで無性に腹が立ったのだ。
「……とにかく。伊地知さんの言う通り無駄な戦闘は避けるよ」
ぬえは不満を抱えつつもクールで凛とした口調のまま三人に向かって釘を刺した。
「虎杖、伏黒、釘崎。中に入ったらぬえから離れないで。救助に集中して怪しい気配がしたらすぐ逃げる。足引っ張って死なれてもぬえは責任持たないからね」
「へいへい、分かりましたよーだ!」と口を尖らせる釘崎。
「おう! 了解!」と元気に答える虎杖。
伏黒は静かに玉犬を呼び出す準備を始める。
三人のそれぞれの反応をよそにぬえは無意識に制服の手首にあるラベンダー色のワンポイントをそっと指先で撫でた。
(……先生なら、こういう時どうするかな。『指示を守り、正しくお掃除しなさい』って言うよね)
「……帳、降ろします」
伊地知の声とともに空が黒い液体のような膜で覆われていく。
昼から夜へ急速に光が奪われていく暗闇の中、ぬえは瞳の奥に冷たい殺気を灯させた。
「……行くよ。サッサと終わらせて帰る」
不機嫌さを残したままあやとりの糸を指先に絡ませ、ぬえは誰よりも早く不気味な少年院の扉へと足を踏み入れた。
不気味な重圧が満ちる扉をくぐり少年院の内部へと足を踏み入れた瞬間——異変は起きた。
「……なっ……!?」
虎杖と釘崎が思わず息を呑んで立ち尽くす。
外観からは想像もつかない異様で広大な空間。
鉄筋コンクリートの無機質な壁はうねるように歪み、幾重にも重なる階段や通路が上下左右を無視して支離滅裂に伸びていた。まるでだまし絵の世界に迷い込んだかのような狂気的な光景。
「おい……これ、どうなってんだよ!? 外から見たときと全然違うぞ! 二階建ての建物だったろ!?」
虎杖が焦りを隠せずに声を張り上げ目を丸くして周囲を見回す。
「伏黒! 扉は!? 出口はどこ行った!?」
ふたりが狼狽えて振り返ると今通ってきたはずの正面入り口の扉は綺麗に消え失せ滑らかなコンクリートの壁へと変貌していた。
慌てるふたりとは対照的にぬえは眉ひとつ動かさず静かに足を止めた。
「……落ち着きなよ、虎杖、釘崎」
ミディアムヘアのハーフアップを微かに揺らしぬえは冷ややかな眼差しで周囲の構造を分析していた。ハーフアップの髪から覗く首元、そして制服の手首にあしらわれたラベンダー色の刺繍が不気味な暗闇の中でわずかに揺れる。
「これは生得領域……呪霊の呪力で空間そのものが書き換えられてる。出口が消えたんじゃなくて私たちが入った瞬間に空間が歪められたの」
「生得領域……!?」
「伏黒、玉犬は?」
ぬえに振られ伏黒はすぐさま影から白い玉犬を呼び出した。
「……大丈夫だ。こいつが出口の匂いを覚えている。戻ることはできる」
「よし。じゃあ余計なパニックは終わり。……行くよ」
ぬえは凛とした口調で短く指示を出すと迷いのない足取りで奥へと歩き始めた。
うねる廊下を先に進むと鼻を突く強烈な血生臭さが漂ってきた。
空間が開けた場所——そこには無惨に引き裂かれ原型を留めていない複数の遺体が転がっていた。
「……っ!」
虎杖が息を詰まらせ遺体へ駆け寄る。胸元のネームプレートを確かめるとそこには『岡崎正』と記されていた。少年院の在所者の一人だ。
「……岡崎……。遺体だけでも連れて帰る」
虎杖が胸を痛めその遺体を抱え上げようとした瞬間、伏黒がその手首を強く掴んで止めた。
「やめろ、虎杖。そいつは置いていく」
「なっ……! なんでだよ!? 遺体だけでも家族に返してやるべきだろ!」
「俺たちは『生存者』の確認と救助に来たんだ! 既に死んでいる人間の遺体を持って歩く余裕なんて今の俺たちにはない!」
言い争うふたりを見つめていたぬえは冷ややかな視線のまま、伏黒の言葉に淡と同調した。
「伏黒の言う通りだよ、虎杖。そんなゴミみたいなものを抱えて歩くなんて無駄」
「ご……ゴミ……!?」
虎杖が信じられないという目でぬえを見つめる。ぬえは顔色ひとつ変えず、指先にあやとりの糸を軽く絡ませながら冷徹な本音を口にした。
「そもそも……ぬえは最初からここにいる奴らを助ける気なんてサラサラないよ」
「……っ、どういう意味だよ、綾瀬……! ここにいるのは、助けを待ってる人たちだろ!?」
「人?」
ぬえはフッと自嘲気味に鼻で笑うと虎杖の目を真っ直ぐに見据えた。その瞳には、かつて大好きな『先生』から叩き込まれた絶対的な正義が宿っていた。
「ここにいるのは少年院の収容者……つまり、外で誰かを傷つけたり悪事を働いた『害悪』でしょ。世の中のルールすら守れないゴミを救ってどうするの? そんな奴らを生かしておいたってまた誰かを苦しめるだけ。駆除されるべき対象だよ」
「な……っ!」
「ぬえの先生が教えてくれたの。『正しく生きていない者に、生きる価値はない』って。だから、仮に生存者がいたとしてもぬえはそいつらを助けるつもりなんてない。……お掃除の邪魔だからそこの遺体もさっさと諦めて」
先生——柊木正宗の正義を純粋に信じ込み、完璧な『刃』として育ったぬえにとって悪人は救うべき人間ではなく世界から排除されるべき害悪に過ぎなかったのだ。
「そんなの……そんなの間違ってるだろ!! どんな奴だって、死んでいい理由にはならない!!」
感情を爆発させて食ってかかる虎杖。だが、伏黒がその間に割り込み虎杖の肩を強く押し開いた。
「いい加減にしろ、虎杖!!」
「伏黒……っ!」
「今は領域の中だぞ!? いつ特級が現れてもおかしくない異常事態なんだ! 理念の違いで言い争ってる時間なんて俺たちにはない!」
伏黒は荒い息を吐きながら虎杖を、そしてぬえを交互に見やった。
「……それにな、虎杖。俺は……限定的だが綾瀬の言いたいことも理解できる」
「え……?」
伏黒の言葉に虎杖が言葉を詰まらせる。伏黒は苦い表情のまま静かに語り継いだ。
「ここは少年院だ。そこにいる岡崎正は、無免許運転で女子トラック運転手を跳ねて殺している。……俺は、自分が助けた人間が将来誰かを殺したらどうしようかと考えることがある。だから俺は不平等に人を助ける。……俺もお前も、あいつも、譲れない割り切りを持ってここに立ってるんだよ」
「……」
「だが、今はそんなこと言ってる場合じゃない。遺体は置いていく。それが……今の俺たちの『生存率』を一番上げる選択だ」
静まり返る異様な空間。
虎杖は握りしめた拳を震わせ、悔しそうに歯を食いしばりながら、ゆっくりと手を引いた。
ぬえはそのやり取りを冷めた目で見つめながら手首のラベンダー色のワンポイントを愛おしそうに指先で撫でていた。
(……ねえ、先生。ぬえは間違ってないよね。正しくない奴らはみんな『お掃除』されるべきだもの……)
その直後——異空間の静寂を切り裂くように圧倒的で禍々しい呪力が四人の背後で爆発的に膨れ上がったのだった。
言い争いの余韻が冷めやらぬその瞬間——世界の軸が歪むような圧倒的で禍々しい重圧が四人の全身を襲った。
「……ッ!!?」
息が止まる。肌が粟立つ。
次の瞬間、伏黒の影から出ていたはずの玉犬が壁に埋め込まれるようにして即死していた。
「玉犬……!?」
伏黒が絶句する間もなく空間の歪みが弾け、そこに「それ」が現れた。
人の形を模しながらもおぞましい気配を撒き散らす特級呪胎。
「動くな!!」
伏黒の悲鳴に近い叫び。全員が恐怖で体を硬直させる中、特級呪霊が軽く腕を振るった。
それだけで圧倒的な破壊の衝撃波が吹き荒れる。
ズドンッ!!!
「くっ……!?」
床が崩落し空間がグニャリと捻じ曲がる。
煙が立ち込める中、虎杖と伏黒が必死に姿勢を立て直すがすぐ隣にいたはずの釘崎の姿が綺麗に消えていた。
「釘崎!!」
虎杖が叫ぶ。伏黒が焦燥に駆られて影を弄ろうとした、その時——
「——伏黒、虎杖。動かないで」
静かだが鈴の音のように透き通った声が二人を押しとどめた。
立ち込める煙の向こう側。
黒い高専制服の裾を揺らしハーフアップの髪をなびかせたぬえが特級呪霊と真っ向から対峙していた。
その指先からは目に見えないほど細く鋭利な呪力糸が幾重にも伸び空間全体に密密と張り巡らされている。手首のラベンダー色の刺繍が特級の禍々しい光を受けて妖しく浮き上がっていた。
「あ……綾瀬……!?」
虎杖が目を見張る。ぬえの瞳からは一切の恐怖が消え去り、あるのは氷のように冷たい研ぎ澄まされた殺気だけだった。
「伏黒。玉犬を出して落ちた釘崎の匂いを追いかけなさい」
「な……!? 何言ってるんだ綾瀬! こいつは特級だぞ! 一人でどうにかできる相手じゃ——」
「うるさい!!」
ぬえは伏黒の言葉を一蹴し鋭い眼光で二人を射抜いた。
「言ったでしょ、あんたたちは足手まといだって! ぬえのあやとりは間合いが広いの。あんたたちが近くにいたら巻き込まないように手加減しなきゃいけない。……そんな無駄な余裕、このバケモノ相手にあると思う?」
「っ……!」
「虎杖も伏黒も、さっさと釘崎を回収して外に逃げなさい。ぬえがここで時間を稼ぐ。……五条の言った通り、ぬえがこの中で一番『先輩』なんだから指示に従って」
冷酷で突き放すような言い方。
けれどそれは二人を確実に生かして逃がすためのぬえなりの冷徹な最適解だった。
(それに……先生が見てたら、きっと言うはずだもの。『後輩を守り、正しく害悪を駆除しなさい』って)
ぬえは指先をわずかに動かし空間に張り巡らせた糸をピンと張り詰めた。
「綾瀬……! だが……!」
食い下がろうとする虎杖の胸ぐらを伏黒が固い表情で掴んだ。
「……行くぞ、虎杖!」
「伏黒!? 綾瀬を一人にするのかよ!?」
「あいつの邪魔にしかならねえ! 綾瀬が稼いでくれた時間で釘崎を助けて、俺たちが外に出るのが一番あいつの生存率を上げるんだ!!……死ぬなよ、綾瀬!」
伏黒は玉犬(黒)を召喚すると未練を残す虎杖を半ば強引に引っ張って崩れた通路の奥へと走り出した。
二人の足音が遠ざかっていくのを確認しぬえはフッと小さく口元を緩めた。
「……素直でよろしい」
一人残された異次元の空間。
目の前には圧倒的な呪力を狂気的に膨らませる特級呪霊。
ぬえは黒い制服の手首にあるラベンダー色のワンポイントを愛おしそうに最後にもう一度撫でると、あやとりの糸を構えた。
「さあ……お掃除の時間だよ、バケモノ」
大好きな先生から授かった「正義」を胸にぬえは単身、特級呪霊の暴力へと飛び込んでいった。
特級呪霊の圧倒的な暴力とぬえの研ぎ澄まされた洗練——二つの呪力が狭い領域内で激しく衝突した。
「……行くよ」
ぬえが指先を滑らせた瞬間、目に見えないほど細い無数の呪力糸が空間を走り真空の刃となって特級呪霊へ肉薄した。
ズバババンッ!!
先制の一閃
特級呪霊の巨体を交差するように切り裂いた——はずだった。
「ガ……ギギッ……!」
特級呪霊は微動だにしなかった。
ぬえの鋭利な糸が肉体に触れた瞬間、呪霊が体表から噴出させた圧倒的な密度の呪力によって糸は甲高い音を立てて弾け飛び易々と切断されてしまったのだ。
「……へぇ」
特級呪霊は嘲笑うかのように口を歪めて異様な声を漏らした。
己と少女との間に存在する、圧倒的な「呪力量の格差」を見せつけるような余裕。高専の1年生が立ち向かっていい領域のバケモノではない。
普通ならばその圧倒的な圧力に絶望し膝を折る場面だ。
しかし——ぬえの冷ややかな瞳には恐怖の欠片すら浮かんでいなかった。
(知ってる。五条を見たぬえにとって、この程度の呪力密度なんて……大したことない)
ぬえはミディアムヘアのハーフアップを揺らしハッと小さく息を整えると手首のラベンダー色のワンポイントに触れた。
「……笑ってられるのも今のうちだよ」
ドガッ!!!
特級呪霊が地を蹴り音速を超えた速度で肉薄してくる。
振るわれる巨大な拳。掠めるだけで肉体が破裂するほどの衝撃波がコンクリートの壁を粉砕しながら空間を叩き割る。
だが、ぬえは直撃を受けない。
「あやとり——『綾流し』」
ぬえの指先から伸びた糸が迫り来る呪霊の腕や脚に優しく滑らせるように絡みつく。
直撃を受け止めるのではなく、攻撃の軌道上に糸の網を薄く重ね相手の爆発的な運動エネルギーを斜めへと滑らせて逸らすのだ。
ズゴォォォンッ!
ぬえのすぐ横の壁が爆発したように粉砕されるがぬえ自身には擦り傷一つ付かない。
滑らかな舞のように攻撃を回避しながらぬえは逸らした瞬間の無防備な隙を見逃さず指先を小さく弾く。
シュパッ!
呪霊の目元、首筋、関節の隙間——呪力防御が手薄になる局所を狙い打ち的確に細利な糸で切り込んでいく。
「ガッ……!?」
だが、相手は特級だ。
浅い切り傷など一瞬で再生しさらに怒りを増して追撃を繰り出してくる。
ドカッ! バキバキッ!
右からの薙ぎ払い、上空からの踏みつけ、凄まじい呪力波。
狭い空間を破壊し尽くすような苛烈な連続攻撃がぬえを襲う。
ぬえは跳び、身を捻り、時に足場を糸で引っ張って瞬時に加速し間一髪で死線をくぐり抜け続けた。
一歩間違えれば即死。そんな極限の攻防が十数回、数十回と繰り返されていく。
——しかし、この一見「防戦一方」に見える激しい立ち回りこそが、ぬえの仕掛けた罠だった。
ぬえは攻撃と回避の裏で、普段用いる切断用の糸とは異なる呪力感知すら困難な「髪の毛以下の超極細糸」を己の動きに合わせて空間全体へ絶え間なく吐き出し張り巡らせていたのだ。
1回目の交差——呪霊が左腕を振るった瞬間、その手首に一本の極細糸が掠める。
3回目の回避——地面を蹴った呪霊の足首に、三本の糸が優しく巻きつく。
7回目の攻防——豪快に背後の壁を叩き割った呪霊の背中に、網目状の糸が重なる。
ぬえが空間を縦横無尽に動き回り呪霊がそれを追って暴れ回れば暴れ回るほど目に見えない糸は空間に密密と編み上げられていった。
呪霊は気づかない。
あまりにも細く、攻撃力の感じられないその糸は肌に触れても綿あめが触れた程度にしか感じられないからだ。
だが、極細の糸は重なれば重なるほど「強靭な束」となる。
15回目の攻防
特級呪霊がぬえを押し潰そうと最大出力の呪力を込めて右腕を大きく振りかぶった——その時だった。
ギチッ……!!
「……ガ……!?」
特級呪霊の動きが空中でピタリと止まった。
腕が、振れない。
それどころか追撃のために踏み出そうとした右足も地から離れなくなっていた。
異変を感じた呪霊が自分の体を見下ろす。
そこには——いつの間にか全身を隙間なく覆い尽くしていた、無数の半透明な糸の束が存在していた。
腕、足、首、腰、そして空間の至る所に残された破壊痕。
それら全てを結ぶように張り巡らされた数千本もの超極細糸が呪霊の猛烈な運動の残響をそのまま利用し、自らを強固に縛り上げる巨大な「あやとり」と化していたのだ。
力任せに引き千切ろうと呪霊が呪力を爆発させる。
しかし、幾重にも重ねられた糸は力を巧みに分散させ動こうとすればするほど鋭い刃となって肉体に深く食い込んでいく。
ギチギチギチギチッ……!!
「ガ……ギ……ァ……ッ!?」
完全に体動を封殺された特級呪霊はただ怒りと恐怖の混ざった絶叫をあげることしかできない。
ぬえは静かに着地すると凛とした立ち姿で呪霊を見下ろした。
ミディアムヘアのハーフアップを整え制服の手首にあるラベンダー色の刺繍をそっと撫でる。
「気づくのが遅いよ。……ぬえのあやとりに捕まったら、もう逃げられない」
ぬえは右手をすっと高く掲げた。
指先に集う収束された高密度の呪力。
(……先生。見ててね。ぬえはもう、誰の足手まといでもないよ)
大好きな先生から教わった「正義」と高専で磨き上げた「才能」の結実。
ぬえは掲げた右手を扇を描くように一気に振り下ろした。
「——あやとり」
指先から放たれた無数の糸が空中へ一気に広がると、まるで巨大な竹箒の穂先のように美しく扇状のシルエットを描いた。
「『綾断・箒』」
シュゴォォォォンッ!!!
扇状に広げられた広大な糸の網が一瞬で中心に向かって爆発的な速度で収縮・収束していく。
それはまさに部屋の隅のゴミをまとめて掃き出す「箒」そのものだった。
絡め取られて逃げ場を失っていた特級呪霊の巨体は、上下左右、全方位から押し寄せる密度の暴力——糸の箒によって包み込まれ一瞬の猶予もなく網目状に凝縮されていく。
「ガ、ぁぁぁぁぁぁぁぁっ……!?」
ズバババババババババババンッッ!!!!
肉が、骨が、呪力が、寸分違わずスライスされる凄絶な断裁音。
直後、弾け飛んだのは黒い呪いの霧だけだった。
特級呪霊だったものは文字通り「お掃除」されたかのように塵一つ残さず切り刻まれ空間の塵となって消滅したのだった。
「……ふぅ」
糸をすっと指先に回収し消し去るぬえ。
静まり返った不気味な生得領域の中でハーフアップの髪を軽く整えながらぬえは冷ややかに呟いた。
「……お掃除完了」
かつて先生と苦戦した異形すら易々と凌駕する圧倒的な強さを証明し、ぬえは一人、静かに佇んでいた。
特級呪霊の消滅とともに歪んでいた領域がガラスのように脆く崩れ去っていく。
元のコンクリートの壁、不気味な暗闇、そして静寂が少年院の空間へ戻ってきた。
ぬえはミディアムヘアのハーフアップを整えると指先の糸を消し手首のラベンダー色の刺繍をそっと撫でて小さく息を吐いた。
「……ふぅ。これで終わり」
その直後、奥の通路からバタバタと激しい足音が響いてきた。
釘崎を回収し危機を察知して戻ってきた伏黒と虎杖だ。
「綾瀬……!?」
「おい! 無事か、綾瀬!?」
二人が目に飛び込ませたのは血を流して倒れるぬえの姿ではなく——静かに佇む少女と跡形もなく消滅した「特級呪霊の痕跡」だった。
伏黒は目を見開き息を呑んで立ち尽くす。
あの玉犬(白)が一瞬で叩き潰された特級を一人で……傷一つ追わずに祓い切ったというのか。
彼女の圧倒的な才能がどれほどの領域に達しているかを目の当たりにして身体が震えた。
「な……なぁ、伏黒。あいつ、どこ行ったんだ? 逃げたのか?」
虎杖が呆然と周囲を見回す。伏黒は固い声で短く答えた。
「いや……祓われたんだ。綾瀬……お前、一人で……あいつを……」
「えぇぇぇっ!? マジで!? あのデカくてヤバそうなやつ一人でやっつけたの!?」
虎杖が目を輝かせて駆け寄りぬえの周りをグルグルと回り始めた。
「すげーよ綾瀬! マジで一瞬じゃん! 一体どんな手使ったんだよ! 糸で切り刻んだのか!? かっけー!!」
「ちょっと、静かにして虎杖。うるさい」
ぬえは鬱陶しそうに顔を背け眉をひそめた。賞賛など彼女にとってはどうでもよかった。彼女の欲しい賞賛は、ただ一人——大好きな『先生』からの言葉だけなのだから。
「ふん、まあ……少しは見直してあげてもいいわよ」
抱えられて戻ってきた釘崎もフンと鼻を鳴らしながらも驚きを隠せない様子でぬえを見つめていた。
「けど、一人でいいカッコしちゃってさ。アタシたちの活躍の場がなかったじゃない」
「……助けられた側が言わないで、釘崎。ぬえはただお掃除しただけ」
「……綾瀬。本当に無事で良かった。感謝する」
伏黒も真剣な眼差しで頭を下げた。
三人から口々に取り囲まれ感嘆と賞賛の言葉を浴びせられるぬえ。だが、ぬえは「早く帰りたい」とでも言いたげにあからさまに不機嫌な顔で溜息をついた。
「……褒められても何も出ないよ。こんなの、高専にいたら当然……」
冷たくあしらおうとした——その瞬間
ズクン……ッ!!
空間の空気が急劇に冷え切った。
特級呪霊の比ではない呼吸すら許さないほどの圧倒的な「死」の気配。
虎杖の顔の側面に突如として黒い紋様が浮かび上がり、怪しい口が形成された。
『——ほう』
低く、響くような掠れ声。
宿儺だ
『あの程度の虫相手とはいえ……小娘一人が、手も足も出さずに細切れにしたか』
「……ッ!?」
伏黒と釘崎が即座に身構える。虎杖も自分の頬を押さえて焦りの表情を浮かべた。
宿儺は虎杖の意志を無視して頬から口を覗かせ、ぬえの全身を舐め回すように刺すような視線を送っていた。
『小娘。お前の術式……『糸』か』
「……何?」
ぬえは氷のように冷たい目で虎杖の頬にある宿儺の口を見下ろした。
眉間に深い皺が寄る。自分以外の「害悪」の気配。それも高専に来てから知った歴史上最悪の呪いの王。
宿儺は可笑しそうに、低く歪んだ笑い声を上げた。
『ククッ……形こそ糸という糸状の媒体を使っているがその本質は『不可視の切断』。空間を格子状に切り刻むその筋の良さ……不快だが、俺の『術式』に酷似しているな』
宿儺の術式『御廚子』
目に見えぬ刃で対象を切り裂き切り刻む術式
ぬえが幾重にも張り巡らせた極細の呪力糸による高密度の切断陣は規模や出力こそ違えど事象としては宿儺の切断と驚くほどよく似ていた。
呪いの王にとって、己の領域を犯すような「切断」の使い手。しかもそれが、自分と比べれば虫ケラに過ぎない幼い小娘だという事実がほんのわずかに宿儺の興を惹いたのだ。
『俺を真似たような出来損ないのあやとりだが……その歳でそこまで精度を高めたか。つくづく、この時代の人間は出来損ないの癖に小細工だけは巧みだな』
嘲笑う宿儺。
だが——ぬえの反応は宿儺の想像とは全く異なるものだった。
畏怖も、恐れも、怒りすらもない。
ぬえの瞳に浮かんでいたのは「肥溜めの中のゴミ」を見るかのような純粋で絶対的な嫌悪感と不快感だった。
「……気安く話しかけないで、ゴミ」
「あ……綾瀬……!?」
ぬえは指先をすっと立て目に見えないほどの極細糸を虎杖の頬——宿儺の口がある一点へ向けてピンと張り詰めた。
「虎杖の体の中に引っ込んでるから生かされてるだけであんたは世界で一番汚い『駆除対象』。ぬえの術式をあんたの汚い術式と一緒にするな」
『……なんだと?』
宿儺の気配が一瞬で凶悪な殺意へと跳ね上がる。
小娘が生意気にも己を蔑みなおかつ「ゴミ」と切り捨てたのだ。
「ぬえのこの術式は……大好きな先生が教えてくれた大切なもの。あんたみたいな害悪に語られる筋合いなんてない。次その汚い口を開けたら、虎杖の頬ごと切り落とすよ」
凛とした声には一切の揺らぎがなかった。
ぬえにとってこの世界で価値があるのは先生の教えてくれた正義、そして己の磨いた強さだけ。
宿儺がどれほど偉大で恐ろしい呪いであろうと彼女の基準では「害悪」以上の何者でもなかった。
『……ククッ、ハハハハハハッ!!』
殺意の引きつった笑い声を上げる宿儺
『良い度胸だ、小娘……! 虎杖という檻から出た時、一番最初に刻んでやるのはお前だ。その生意気な首をな……!』
「勝手に吠えてなよ。……お掃除されるのはあんたの方」
ぬえはフンと鼻で笑うと宿儺から完全に視線を逸らした。
「虎杖。早くそのゴミ引っ込めさせて。不快で吐きそう」
「お、おう……! ごめんな綾瀬! 宿儺、引っこめろ!!」
虎杖が必死に意識を集中させると宿儺の紋様と口は忌々しそうに捨て台詞を残して消えていった。
◆
少年院での凄惨な事態から数日後
高専の空気は重苦しい緊張感と静かな怒りに包まれていた。
高専・学長室
「——で? 一年生だけで『特級になり得る呪胎』の対応に向かわせた件だけど」
校長室の扉を荒々しく開け放ち入ってきたのは五条悟だった。
黒い目隠しの奥から放たれるのは空間そのものを圧迫するような氷点下の怒り。普段のふざけた態度は影を潜め隠しきれない殺気が部屋に充満していた。
「上の老いぼれどもが何を考えてるのかお見通しなんだよ。僕の出張を狙って一年生を放り込み虎杖を合法的に消す。ついでに僕への嫌がらせ……だろ?」
指をポキリと鳴らす五条。
今回の任務は明らかに上層部による企みだった。
宿儺の器である虎杖を処理し、目覚ましい成長を遂げるぬえをも巻き込もうとした意図が透けて見えている。
「落ち着け、悟」
夜蛾正道が静かに制そうとするが五条の冷たい笑みは消えない。
「落ち着いてられるかよ。僕の可愛い生徒たちを政治の道具にして殺そうとしたんだぞ? ……まあ、老害どもの目論見は完全に打ち砕かれたわけだけど」
そこで、五条の唇が不意に楽しそうに歪んだ。
殺伐としていた雰囲気が一変しいつもの不敵で誇らしげな笑みが戻ってくる。
「ぬえがさ、一人で全部『お掃除』しちゃったんだよねぇ」
「……あいつが一人で特級を、か」
「そう! 伏黒も釘崎も無傷。虎杖もピンピンしてる。ぬえが殿を務めて特級を細切れにしちゃったんだって。上層部も今頃、虎杖が死ぬどころか特級が瞬殺された報告を聞いて泡吹いて倒れてんじゃない?」
五条は嬉しそうに肩をすくめた。
自分への嫌がらせや腐った上層部への怒りは消えないものの愛弟子であるぬえが己の陰謀を正面から叩き潰し無事に帰ってきたという事実が五条の機嫌を大いに良くしていた。
「まったく……僕の教え子はどいつもこいつも優秀すぎて困るよ」
医務室・家入硝子の部屋
一方、医務室では——
「はい、どこも異常なし。怪我一つないなんて大したものだね」
家入硝子がカルテにペンを走らせながら煙草の煙をふぅと吐き出した。
診察台にちょこんと座っているぬえはハーフアップの髪を指先で弄りながら、淡々と答える。
「……当然だよ、硝子。あんなゴミ相手にぬえが傷つくわけない」
「ふふ、頼もしいねぇ。でも、伏黒たちからは『宿儺にゴミって言い放ってヒヤヒヤした』って聞いたよ?」
「本当のことだもの。不快だったから追い払っただけ」
ぬえが素っ気なく答えていると勢いよく医務室のドアが開いた。
「ぬ〜〜〜〜え〜〜〜〜っ!!」
「うわ……来た」
大きな体をかがめるようにして飛び込んできた五条がぬえの頭をガシガシと大雑把に撫で回す。
「聞いたよ! 一人で特級倒したんだって? さっすが僕の弟子! 僕の次に強いんじゃない?」
「やめて、五条。髪が崩れる。……あと、ぬえが強いのは先生の教えのおかげ。あんたの弟子じゃない」
「相変わらず手厳しいねぇ! でもまあ、今回は本当にでかしたよ。老いぼれどもの思い通りにならなくて胸がすっとした」
五条は満足そうに口元を緩めるとぬえの視線が手首に向いていることに気づいた。
制服の袖口、そこにあるラベンダー色のワンポイント刺繍。ぬえはそれを愛おしそうに撫でている。
「……先生に見せたかったな。ぬえが一人で特級をお掃除したところ」
ポツリと漏らしたぬえの言葉に医務室の空気がわずかに優しく和らいだ。
五条も目隠しの奥で柔らかく目を細めぬえの肩をポンと叩いた。
「よし! 今日はぬえの大活躍を祝って僕の奢りで最高級のスイーツ食べに行こう! 伏黒たちも呼んでさ!」
「……甘いものは好きだけどうるさいのは嫌」
「まあまあ! 後輩とも仲良くしなよ!」
文句を言いながらもどこか誇らしげでどこか誇らしい表情を浮かべるぬえ。
今日もしずかに、大好きな「先生」の教えを胸に高専での日々を過ごしていくのだった。