映画館のスクリーンの前には嫌な静寂が漂っていた。
数分前まで人型を保っていなかった歪な「ナニカ」は七海のドス黒い呪力を帯札した鉈とぬえの容赦のない呪力糸によって容赦なく切り刻まれて沈黙していた。
ぬえは指先から細い糸をすっと引き戻し制服の袖を整える。
「……終わり。やっぱり、ただのゴミ」
ぬえにとって目の前に現れた異形は「害悪」でしかなかった。いつものように無感情に淡々とお掃除を完了させたつもりだった。
しかし——
「……少し待ちなさい」
七海が眼鏡の位置を正しながら胸ポケットから携帯電話を取り出した。その表情はいつになく重く険しい。
「家入さんですか。七海です。……ええ、現場の異形を三体処理しました。それで、先ほどお送りしたサンプルの解剖結果ですが……」
七海が受話器の向こうの言葉に耳を傾ける。
横で聞いていた虎杖とぬえは七海の眉間のシワが深くなっていくのを静かに見つめていた。
「……やはり、そうですか。分かりました。ありがとうございます」
通話を終えた七海はゆっくりと二人に向き直り静かな、しかし重い声を投げかけた。
「……結果が出ました。先ほど私たちが祓ったあの怪物たちは……呪霊ではありません」
「え……?」
虎杖が呆然と声を漏らす。七海は眼鏡の奥の瞳を冷たく光らせ事実だけを淡々と告げた。
「無理やり魂の形を書き換えられ、変形させられた『元・人間』です。 死因は呪霊の攻撃によるものではなく……急激な身体構造の改変に耐えきれなかったことによるショック死です」
「っ……!?」
その瞬間、現場の空気が凍りついた。
虎杖の顔から一瞬で血の気が引いていく。
「元……人間……? 俺が……俺がさっき殴って消したやつが……人間だった……!?」
虎杖は自分の両手を引きつった目で見つめた。
少年院でも、それまでの修行で、「人を助けるために呪いを祓う」と心に決めていた。それなのに自分の拳が砕いたのは助けるべきはずの「人間」だったのだ。
「虎杖君。あなたは呪術師として正当な防衛と処理を行ったまでです。落ち込む必要はありません」
七海が静かに声をかける。
「あ……いや! 大丈夫っす!! ナナミン!」
虎杖はハッとしたように顔を上げると無理やり顔の筋肉を引き上げていつものような明るい笑みを作ってみせた。
「そっか! でも、あんな風になっちゃったら苦しかったろうし……楽にしてやれて良かったよな! 俺、全然平気っすから! 次行きましょう!」
努めて明るく振る舞いポンポンと自分の胸を叩く虎杖。
だが、その握りしめた拳は微かに震えており爪が皮膚に食い込むほど強く握りしめられていた。その瞳の奥にはドロリとした重い「人を殺してしまった」という罪の意識が泥のように沈み込んでいる。
ぬえはそんな虎杖の横顔をじっと見つめていた。
(……虎杖)
ぬえ自身には「人を殺してしまった」という罪悪感は一切なかった。
先生から教えられたのは「害悪はお掃除する」ということ。世界を汚すゴミやバケモノを処分することに、何の躊躇も躊躇いもない。
だが——
(……元・人間。誰かの手によって無理やり歪められた姿)
ぬえは自分の指先を見つめた。
先ほど自分の糸があの異形を切り刻んだ感覚。肉を絶つ手応え。
もし……あれが「自らの悪意で怪物になった」のではなく「理不尽な悪意によって無理やり怪物に『させられた』被害者」だったとしたら?
(ぬえがやったことは……ただの『お掃除』? それとも……誇りある死すら奪われた人をさらに踏みにじっただけ……?)
ぬえの胸の奥で冷たい迷いが波紋のように広がっていく。
先生の教えは絶対だ。「正しいもの」を守り「汚いもの」を刈り取る。
けれど、今日切ったものは「汚された被害者」だったのかもしれない。
「……綾瀬?」
虎杖が自分の葛藤を必死に隠しながら心配そうにぬえを覗き込んできた。
「……何でもない」
ぬえは素気なく目を逸らすと制服のポケットの中でぎゅっと拳を握りしめた。手首のラベンダー色の刺繍が冷たい映画館の照明の中でひっそりと揺れている。
「……さっさと次に行くよ。ぬえは……こんな胸くそ悪いことをした奴を、絶対に許さない」
自分の内に生まれた理由のわからない「迷い」と「不快感」を振り払うようにぬえは冷ややかな声で呟き、暗い通路へと歩き出すのだった。
川崎市内の住宅街
湿り気のある風が路地を吹き抜ける中、虎杖とぬえは吉野順平の自宅周辺を調査していた。
「……いた。あいつだ」
ぬえが視線の先をあごで示す。川から流れてきた小さな異形——補助監督・伊地知の仕掛けた低級呪霊を何気ない足取りで追いかける少年の姿があった。吉野順平だ。
虎杖がフランクに声をかけ、路地裏の小さな公園へ順平を連れ出すことに成功する。
ぬえは少し離れたベンチに腰を下ろし、冷たい視線で順平の立ち振る舞いや呪力の残光を観察していた。
「吉野さ、あの映画館にいたんだろ? 何か見なかったか? 変な奴とか、怪しい怪物みたいなやつとか……」
虎杖が探るように尋ねると順平は小さく肩を揺らし、視線を地面へ落とした。
「……えっ。怪物……? いや、何のことか分からないな」
「ほんとか? 映画館のスクリーン前でさ、異形っていうか、人間の形してない変なのが暴れてたはずなんだけど……本当に何も見てないか?」
「……うん。僕はただ、映画を観ていただけだし……」
順平の声は次第に小さくなり、視線は泳ぎ、指先が制服の裾をぎゅっと握りしめている。あからさまに何かを隠そうとしている態度だった。
ベンチに座っていたぬえはハーフアップの髪を軽く揺らして立ち上がると無表情のまま順平へ近づいた。
「嘘。君、あの場所にいたでしょ。映画館の空気に君の呪力の残穢が残ってた。それに、さっきも小さな呪霊を目で追ってたよね。隠さなくていいよ。ぬえたちには全部見えてるから」
「っ……! じゅ、呪霊……!?」
ぬえの冷徹で確信に満ちた指摘に順平は息を呑んで後退った。虎杖も真面目な表情になり順平の顔を覗き込む。
「吉野、俺たち別に責めたいわけじゃないんだ。あの現場で何があったのか知りたいだけなんだよ。あそこにいた他の客……君の同級生たち、みんないなくなっちまっただろ? 何か覚えていることがあれば詳しく教えてほしいんだ」
「……詳しくって言われても……」
二人から詰問され順平の顔は次第に歪んでいった。同級生たちの名前が出た瞬間、順平の瞳の奥に暗い感情がドロリと浮かび上がる。
「あのさ……二人とも、あいつらのこと心配してるの? ……無駄だよ。あんな奴らのために事件の調査なんてしなくていい」
「え……?」
「正直に言うと……別に悲しくもなんともなかったな。あいつら……学校でも最低な奴らだったし。……あんな奴ら、いなくなってよかったんだ。死んで当然だったんだよ」
言い終えた瞬間、順平はハッと息を呑んだ。
初対面の同世代に向かってあまりにも不穏で過激な本音を漏らしてしまったことに気づき、急いで顔を蒼白にする。
「あ、いや……! 今のは冗談というか、その、言葉のアヤで……っ!」
「——ううん、間違ってないと思うよ」
焦る順平の言葉を遮ったのはぬえだった。
ぬえはハーフアップの髪を軽く揺らしゆっくりと順平に近づいてくる。その瞳には一切の迷いも躊躇もなく静かで冷酷な「絶対の真理」が宿っていた。
「ぬ、ぬえちゃん……?」
「世の中にはね、生きているだけで世界を汚すゴミやバケモノが存在するの。人の形をしていても、害悪でしかない生き物。そういう奴らに『価値』なんてない。死んで当然だしいなくなって当然だよ」
ぬえの口調はあまりにも穏やかでだからこそ狂気的なまでに冷徹だった。制服の袖口からチラリと覗く手首のラベンダー色の刺繍。彼女は自分の指先をそっと見つめながら順平に向かって淡々と告げる。
「ぬえの役割はね、そういうゴミをこの世界から綺麗にお掃除すること。世の中を乱す奴らはぬえの糸で残さず細切りにして処分すればいいだけの話だから。……だから、君が咎められる必要なんてどこにもないよ」
順平は絶句した。
自分が日頃抱いていた暗い憎悪すら生ぬるく思えるほど目の前の少女は「悪意ある人間の排除」を呼吸のように当たり前のこととして肯定してみせたのだ。
「あー! 待て待て待て! 綾瀬、言いすぎ!!」
慌てて割り込んできたのは虎杖だった。虎杖はぬえと順平の間に割り込むとぬえの肩をすかさず叩き、両手を挙げてやんわりと苦笑いを浮かべた。
「吉野、気にすんな! こいつちょっと極端なところがあるっていうか……ほら、世の中いろんな考え方があるけどさ! 人を殺したり処分したりするのはやっぱダメだって! な、綾瀬もそういう意味で言ったんじゃないよなー!?」
「……ぬえは本当のこと——」
「はいはい! それより吉野!」
虎杖はぬえの発言を強引に遮ると話題をまるごと切り替えた。
「さっきさ! 吉野が映画館から出てくるときに抱えてたパンフレット、見えたんだけど……もしかして『タコVSサメ4』見に行ったのか!?」
「え……あ、うん。そうだけど……」
順平が呆気にとられながら答えると虎杖の目がキラリと輝いた。
「マジで!? あれ観たの!? 俺もつい最近観させられたんだけどさ! なんだよあのCG! タコが空飛ぶシーンとか腹抱えて笑ったんだけど!!」
「ふふ……あそこ、ひどいよね。B級映画としても演出が破綻してるし。でも前作の『3』に比べたら脚本のテンポはマシだったよ」
「えっ、あり得なくない!? どこがマシなの!?」
横から冷ややかに口を挟んだのはぬえだった。二人を鋭い目つきで睨みつける。
「あんなの全編通してゴミじゃない! タコが空飛ぶのも意味分からないし、最後なんでサメが爆発して解決するの!? 脈絡なさすぎて頭痛くなったわ!」
「いやいや綾瀬!Z級映画はそこがいいんだよ! あのツッコミどころ満載な雑さが最高じゃん!」
「どこが最高なのバカ! ぬえなんてあれ観せられながら人形に何回も殴られたんだよ!? 楽しむ余裕なんてあるわけないでしょ!」
「それは綾瀬が呪力乱すからだろ」
順平は一瞬あっけにとられたがクスッと口元を緩めた。
「ふふ、確かにあの映画を観せられるのは拷問に近いかもね。でもね、綾瀬さん。あの監督の過去作『シャーク・プラネット』に比べれば、カメラワークもかなり改善されてるんだよ。カット割りに愛を感じるっていうか……」
「カット割りの愛!? どこに愛があるの!? 画面全体が安っぽくて目が腐りそうだったんだけど!?」
「えっ、吉野『シャーク・プラネット』も観てんの!? マジで!? 後でそれについても教えてくれよ!」
ぬえの反論も虚しく、会話はどんどんマニアックなB級映画談義へとシフトしていく。最初は反論していたぬえだったが熱っぽく語り合う二人を見ているうちに、急速に表情の温度が下がっていった。
(……は? 何なのこいつら。あんなクソ映画のどこにそんな語る要素があるわけ……? 映画の話になった途端、急に意気投合しちゃってバカみたい)
胸の奥でムカムカとした不快感が膨れ上がる。
順平の抱えていた闇に少しだけ親近感を覚えたのも束の間、結局は「あのゴミ映画を楽しめる側の人間」だと分かった瞬間、ぬえの中で順平に対する興味が一気に冷めていった。
「あのさ、虎杖君。もしよかったらこの後、僕の家に来ない? 家に『3』のDVDもあるし映画の話もっとしたいな」
「えっ、マジで!? 行く行く! お邪魔していいのか!?」
「うん、母さんも喜ぶと思う」
楽しそうに約束を交わす二人を見てぬえは小さくため息をついた。
「……ぬえは帰る」
「え? 綾瀬、お前来ないのか? 順平の家でDVD観ようぜ!」
虎杖が振り返るがぬえは蔑むような冷ややかな目で二人を一瞥した。
「嫌。なんでぬえが、プライベートでまであんなゴミ映画を見せられなきゃいけないの。脳みそ腐るわ。……一人で勝手に行けば」
ぬえはくるりと背を向け去り際に順平へ視線だけを向けた。
「……吉野順平」
「え……?」
ぬえの冷たく澄んだ瞳が順平をまっすぐに見据える。
「さっきの君の意見、ぬえは間違ってないと思うよ。ゴミみたいな奴らは死んで当然。……でもね」
ぬえは制服の袖を引き上げ手首のラベンダー色の刺繍をかすかに覗かせながら静かに告げた。
「自分の『正しさ』を押し通したいならそれを叶えるだけの『力』が要るの。力がない奴の主張なんてただの負け犬の遠吠えで終わるから。……無力なまま夢を見ない方がいいよ」
「っ……」
順平はその言葉の重みに息を呑んだ。優しさでも慰めでもない、けれど残酷なまでに真実を突いた少女の警告。
「じゃあね」
ぬえは一切振り返ることなく夕暮れの路地裏を一人で歩み去っていった。
残された虎杖と順平はその小さくも背筋の伸びた後ろ姿をただ呆然と見送るのだった。
夜が更けた高専の一室
蛍光灯の白い光が照らすテーブルを虎杖悠仁、七海建人、そして綾瀬ぬえの三人が囲んでいた。
順平の家で母親の美味しい手料理をご馳走になり、B級映画の話で散々盛り上がって帰ってきた虎杖はどこかわくわくした余韻を残した表情で席についた。
だが隣に座る七海の雰囲気はいつも以上に重苦しく険しい。七海のスーツの裾には微かに焦げ跡のような汚れが残り額にはうっすらと汗がにじんでいた。
そしてぬえはハーフアップの髪を軽く整えながら肘を突いて二人を冷ややかな視線で見つめていた。
「——では、各自の報告を行います」
七海が静かに切り出した。
「まず、私の方から。……地下道にて映画館の事件を引き起こしたと思われる呪霊と交戦しました。名は『真人』。人型ですが魂の形を自在に変形・改変させる極めて厄介な術式を使用します。映画館の改造人間も奴の術式によるものです」
「ナナミン、一人で戦ったのか!?」
虎杖が驚きで身を乗り出す。七海は淡々と眼鏡の位置を正した。
「ええ。奴の術式は一触即死に近い。直接手に触れられると魂の形を壊されて即座に改造人間に変えられます。肉体の防御や通常の呪力防御はほぼ意味をなしません。今回は一度撤退しましたが……極めて危険な相手です」
その言葉を聞いた瞬間、ぬえのラベンダー色の瞳がスッと細くなった。
「……触れられたら終わり。なるほどね」
ぬえは自分の指先を滑らせるように動かし微かな呪力糸の感触を確かめた。
「近付かせなければいいだけでしょ。ぬえの糸なら、奴の攻撃間合いの外から切り刻める。触れられる前に四肢を切り落としてダルマにすれば終わりじゃない」
「……論理上はそうですが、相手は知性を持つ特級です。油断は禁物ですよ、綾瀬さん」
七海はぬえの頼もしい強気に小さく頷きつつも釘を刺すのを忘れなかった。そして視線を虎杖へと向ける。
「では、虎杖君と綾瀬さん。吉野順平についての報告をお願いします」
「おう! 吉野だけどさ、めっちゃいい奴だったぞ!」
虎杖はパッと表情を明るくし語り始めた。
「映画の趣味もバッチリ合うし家に呼ばれて行ったんだけど順平のおふくろさんもすごく優しくてさ! ご飯までご馳走になっちゃったよ。事件のことについては直接怪しい奴を見たとかは言わなかったけど……あいつ自身は悪い奴じゃない。絶対に事件の犯人とかじゃないと思う!」
嬉しそうに語る虎杖の横で、ぬえはあからさまに「はあ……」と大きなため息をついた。
「……虎杖、相変わらず脳みそお花畑ね。あんなゴミ映画で意気投合して浮かれてんじゃないわよ」
「ゴミ映画って言うな! 順平と『3』観たけど最高だったぞ!」
「うるさい。……七海、ぬえからの補足」
ぬえは虎杖を冷たく一蹴すると七海に向かって真っ直ぐに視線を向けた。
「吉野順平はあの現場にいた。映画館には奴の呪力の残穢が残ってたし、低級呪霊を認識して目で追ってた。間違いなく呪霊やその特級と何らかの接点がある。それに……あいつ、学校で酷いいじめを受けてる」
ぬえの口調が少しだけ低くなる。
「いじめてた同級生が死んだことに対して『死んで当然だ』ってハッキリ言った。……自分で手を下す力がないから踏みとどまってるだけでもし『力』を与えられたらいつ爆発してもおかしくない状態」
「……っ、綾瀬、お前……」
虎杖が息を呑む。順平の明るい側面しか見ようとしていなかった虎杖に対しぬえは順平の底にある「危うさ」を正確に見抜いていたのだ。
七海は深くため息をつき手帳を閉じた。
「……なるほど。二人の報告を合わせると吉野順平は特級呪霊・真人に利用されている可能性が極めて高いですね。孤独と憎悪に付け込まれ誘導されている」
「そんな……! 順平が利用されてる……!?」
虎杖の顔から一気に血の気が引いていく。
「虎杖君、あなたは明日も吉野順平の監視を継続してください。彼を救いたいと思うならなおさら冷静になりなさい。情に流されればあなたも彼も救われません」
「……っス」
虎杖は悔しそうに拳を握りしめた。
「綾瀬さん」
七海がぬえを見る。
「あなたの言う通り彼の憎悪と『力』のバランスは危険です。真人が彼をどう利用するつもりなのか……最悪のシナリオも想定して動く必要があります。あなたはこの任務の要になります。明日も頼みますよ」
ぬえはハーフアップの髪を指先で軽く払いフンと鼻を鳴らした。
「言われなくても。ぬえは自分の仕事をこなすだけ。……もしその『真人』とかいう特級がぬえの前に現れたらあのヘラヘラした顔を糸でズタズタにして、二度と笑えないようにしてやるわ」
冷たくも確かな殺気を孕んだぬえの言葉に七海は「頼もしい限りです」と静かに頷くのだった。
◆
里桜高校の体育館の重い扉を開けるとそこには常軌を逸した光景が広がっていた。
湿った空気の中に漂う刺すような異臭。
床には泡を吹いて倒れ伏す無数の生徒たち。
その中心でクラゲのような異形の式神を従えた吉野順平が毒に侵された同級生を見下ろしていた。
惨劇の始まりは前日の夜だった。
順平の母親が自宅で何者かに惨殺されその傍らには特級呪物「宿儺の指」が転がっていた。
悲痛と絶望に暮れる順平の前に現れた真人は甘い毒のように囁いたのだ。
「母さんを殺したのはお前をいじめていた学校の奴らだよ。力をあげよう、復讐しなさい」
絶望を悪意で塗たくられた順平は真人に与えられた術式と式神を手に母の仇を討つべく学校を襲撃。体育館を毒の空間へと変え奉ったのだ。
「……順平!!」
虎杖が叫び、絶句する。
その隣でぬえはハーフアップの髪を微かに揺らし静かに惨状を見回した。
「……虎杖君、綾瀬さん」
順平はゆっくりと振り返った。その瞳には光がなくドロリとした深い憎悪とどこか冷め切った狂気が宿っていた。
「見ただろ……? こいつらのせいで、母さんが死んだんだ。母さんを殺した……! だから、復讐は正当だ。こいつらは死んで当然なんだよ」
順平は式神の触手をゆらりと揺らしぬえに向かって歪んだ笑みを向けた。
「ねえ、綾瀬さん。君が言ってくれたよね? 『正しさを押し通すなら力が要る』って。『無力なまま夢を見るな』って。……だから僕は、手に入れたんだ。この力を! 君の言う通り力があれば僕はこいつらを処分できる! 母さんの無念を晴らせるんだ!!」
順平の言葉はかつてぬえが与えた教訓を歪んだ形で肯定するものだった。
しかし——ぬえの表情はどこまでも冷ややかだった。
ラベンダー色の瞳に宿るのは、共感でも哀れみでもない。過酷なまでに澄み切った「冷酷な拒絶」だった。
「……バカじゃないの」
ぬえの低く静かな声が静まり返った体育館に響く。
「ぬえが言ったのは『正しい力』のことだよ。呪霊っていう歪んだ害悪から与えられた力に溺れて、悪意のままに振る舞うことが『力を手に入れた』ってこと? そんなのただのゴミの操り人形になっただけじゃない」
ぬえは制服の袖口をゆっくりと引き上げ手首の刺繍を露わにした。
「正しく育んだ力じゃないものは、ただの『害悪』。そして……歪んだ力で世界を汚す者はどんな理由があろうとお掃除の対象。……吉野順平、今の君はもう『人間』じゃない。駆除すべき害虫だよ」
ぬえの全身から立ち上る呪力が一瞬で鋭利な刃となって空間を刺した。ぬえにとって順平の悲劇や背景は関係ない。世界を乱す害悪と化した以上それは冷酷に処断すべき「ゴミ」でしかないのだ。
「待て! 待てよ綾瀬!!」
虎杖が慌ててぬえの前に立ち塞がった。
「順平は騙されてるんだ! 母親を殺されたショックであの変な呪霊に利用されてるだけなんだよ! まだ話せば分かる! 駆除なんて言うな!!」
だが、ぬえは一歩も引かなかった。
冷たい瞳で虎杖を射射る。
「邪魔、虎杖。害悪を目の前にして甘いことを言ってる暇はないの。退きなさい」
「退かねぇよ! 俺は順平を助けたいんだ!!」
「……はぁ。本当に脳みそまで筋肉ね」
ぬえは小さくため息をつくと冷徹な判断を下した。
「分かったわよ。面倒くさいから殺すのはやめてあげる。……重要参考人として生け捕りにする。 これなら文句ないでしょ」
「あ、それなら……!」
「ただし!」
ぬえの声が一段と低くなり、虎杖を制した。
「アンタはあそこに倒れてる生徒たちの救助をしなさい。呼吸が浅くなってる。急がないと死ぬわよ。……吉野順平の相手は、ぬえがやる」
「……っ、分かった! 頼んだぞ、綾瀬!」
虎杖が倒れている生徒たちのもとへ走り出すのと同時にぬえの佇まいが一変した。
すっ、と両手を広げる。
制服の袖口から目視すら困難なほど細く研ぎ澄まされたラベンダー色の「呪力糸」が百本以上、一気に空間へ展開された。
シュー……と微かな音を立てて紡がれる糸は体育館の天井や壁、床へと網の目のように張り巡らされ、まるで巨大な蜘蛛の巣のような絶対領域を作り上げていく。
ぬえのハーフアップの髪が呪力の風でふわりと舞い上がる。
その表情には一切の迷いも情けもない。
——数々の害悪を屠ってきた「凛とした処刑人」としての圧倒的な美しさと佇まいがそこにあった。
「……来なさい、吉野順平。アンタの歪んだ力ごと、手足を縛ってお掃除してあげる」
指先一つで空間を切り裂く準備を整えぬえは冷徹な眼光で順平を見据えるのだった。
「行かせない」
順平が毒針を宿した式神・澱月を前傾させ体育館の壁を突き破って外へ飛び出そうとした瞬間。
シュンッ——!!
夜の校庭に一閃の可視化されたラベンダー色の光線が走った。
「っ……!?」
順平の頬を掠め、背後の体育館の外壁がまるで豆腐でも切るかのように寸分狂わず水平に一直線に切断される。崩れ落ちるコンクリートの粉塵の中、ぬえは月明かりを浴びながら校庭の真ん中に軽やかに舞い降りていた。
「体育館の中で暴れられたら虎杖の救助の邪魔になる。……外で遊んであげるから、こっちに来なさい」
ハーフアップの髪を夜風に揺らしぬえは冷ややかに言い放つ。制服の手首にあるラベンダー色の刺繍が溢れ出す呪力に反応して怪しく光っていた。
「綾瀬さん……! 僕の邪魔をするなあっ!!」
絶叫とともに順平は澱月を振るった。
巨大な透明のクラゲから数千本もの微細な触手が一斉に突き出される。触手の先端には触れれば一瞬で神経を麻痺させ内臓を溶かす強力な毒液が滴っていた。
「沈め……っ!!」
校庭の砂煙を巻き上げて迫る毒の触手群。
しかし、ぬえの表情には欠片の揺らぎもなかった。
(……浅い)
ぬえはすっと右手の指先を前に掲げた。
シャアアアンッ!!!
空気が悲鳴を上げるような高音。
ぬえの指先から放たれたのは髪の毛よりも細く、研ぎ澄まされた百本以上の呪力糸。それが瞬時に空間に網の目のような『結界』を描き出す。
ドカバキキキッ!!
順平の放った毒触手がぬえに届く直前、まるで目に見えない刃の壁にぶつかったかのようにすべてミリ単位で細切れに刻まれ空中で青い液体となって弾け飛んだ。
「な……触手が……一瞬で!?」
目を見開く順平に対し、ぬえは一歩、また一歩と優雅に間合いを詰めていく。その足取りには一切の隙がない。
「言ったでしょ。正しく育んだ力じゃないものは、ただの『害悪』だって」
ぬえが指先を僅かに上に捻る。
ッツ——!!
順平の足元、校庭の砂利の中に張り巡らされていた見えない糸が一斉に跳ね上がった。
「うわああっ!?」
順平の腕と足をラベンダー色の糸が寸分の狂いもなく巻き付く。肉体を深く傷つけない絶妙な加減でありながら関節の可動域を完全にロックする超精密な呪力操作。順平は身動き一つ取れなくなり校庭の真ん中で崩れ落ちた。
「っ……くそっ……外せ! 外してくれ……っ! 母さんの仇を……仇を撃たせてくれよ……っ!!」
ぬえはその目の前に立ち止まり見下ろした。
その瞳には情けも冷酷さもなくただ淡々と「役割」を果たした者の静寂だけがあった。
「仇を撃ちたいなら正しい力を身につけるべきだったの。歪んだゴミにすがりついて手に入れた力で誰かを救えるわけがないでしょ」
ぬえは右手の糸をキュッと指に巻き直し完全に順平の動きを封じ込めた。
「約束通り、命は取らない。……重要参考人として高専でお掃除されたあとのゴミについての情報を全部吐いてもらうから」
凛とした立ち姿で勝利を確定させたぬえ。
しかし、その夜の冷たい風に乗ってぬえの背後から——不快極まりない薄笑いを浮かべた声が響き渡った。
「へぇ〜……。すごいねぇ、君。まさか順平の術式を傷一つ負わずに完封しちゃうなんてさ」
「綾瀬!! 順平!!」
生徒たちの救助と伊地知への引き渡しを終えた虎杖が息を荒らげて校庭へ駆け込んできた。倒れている順平とその傍らで凛と立つぬえの姿を認め、安堵の表情を浮かべる。
「よかった……無事だったか……!」
「虎杖、遅い。……こっちは捕獲完了したわ」
ぬえが冷ややかに応じた、その時だった。
「やあやあ、お疲れ様。君たち、本当に優秀だねぇ」
ぬえの背後、暗闇の中からぬらりと影が滲み出た。
ツギハギだらけの顔に悪意を煮詰めたような歪んだ笑み。特級呪霊・真人がまるで散歩でもするように歩み寄ってくる。
ぬえのハーフアップの髪が一瞬で逆立ち、ラベンダー色の瞳が絶対零度まで冷え切った。直感的に理解する。これが七海の言っていた「触れられたら終わりのゴミ」、人を弄ぶ醜悪な害悪だと。
ぬえは右手の指先を向け今すぐ真人を貫こうと呪力糸を張り詰めた。
しかし——
「真……人さん……っ!」
糸で縛られ地面に伏していた順平が必死に顔を上げた。その瞳には、未だに真人を「自分を理解してくれた唯一の味方」と信じ切っている愚かで痛々しい光が宿っていた。
「逃げて……! こいつら……強いんだ……! 僕のことはいいから、君だけでも……っ!」
縛られた身でありながら自分を庇おうとする順平。
それを見た真人は心底楽しそうに「くすくす」と不気味な笑い声を漏らした。
「あはは! 優しいねぇ、順平は。本当、君ってば最高に『バカ』だよ」
「……え?」
真人がゆっくりと腰を落とし順平の頭へすっと手を伸ばす。
ぬえの目が細められた。その瞳にはゴミを見るような蔑みと人間の愚かさに対する底知れない不快感が渦巻いていた。
(……救いようがない。あんな害悪を庇うなんて……)
「ダメだ、順平!! そいつから離れろーーーーっ!!」
虎杖が叫び必死に手を伸ばして走り出す。
ぬえも瞬時に指先を弾き、順平に触れようとする真人の腕を切り落とさんと目にも留まらぬ速度で糸を走らせた。
シュッ——!!
だが、一瞬早かった。
真人の細い指先が順平の頭部に触れる。
「『無為転変』」
粘つくような声が響いた瞬間、順平の全身が波打つように歪んだ。
「あ……が……っ、綾瀬……さん……虎……杖……っ!?」
順平の悲痛な苦悶の叫びが異形のものへと変質していく。眼球が飛び出し、皮膚が紫色に腫れ上がり、骨が嫌な音を立てて折れ曲がる。ほんの数秒前まで「人間」だった少年が見るも無惨な小さく醜い怪物の姿へと書き換えられてしまった。
「ひぐっ……あ……っ」
変形させられた順平の塊がボトリと校庭の砂利の上に転がる。その目からはポロポロと血の混じった涙がこぼれ落ちていた。
「あはははは! 見た!? 一瞬だよ! 君が必死に助けようとしてた順平、こんなになっちゃった!」
真人は腹を抱えて爆笑した。
人間の命も、心も、絶望も、ただの玩具として弄び壊して捨てたのだ。
「順……平……?」
虎杖の膝がガクガクと震えその場に膝をついた。
目の前で起きたあまりにも理不尽で凄惨な現実に頭が真っ白になる。
「宿儺……! 頼む、宿儺……!! 何でもする……! 俺の身体をどうしたっていい……!! 順平を……順平を元に戻してくれ……っ!!」
虎杖は己の胸をかきむしり、内に潜む呪いの王へと必死に縋りついた。人を救うために生きてきた少年が誇りも何もかもを捨てて乞い願った。
しかし——
『断る』
虎杖の頬に口が現れ宿儺の冷酷な声が響いた。
『勘違いするなよ、小僧。我とお前の間に主従などない。お前が苦しもうが誰が死のうが、我の知ったことではない』
次の瞬間、宿儺の冷徹な嘲笑と真人のけたたましい爆笑が夜の校庭に不気味に共鳴した。
「ギャハハハハハ! 命乞い断られちゃったねぇ! ダッサい! 超ダサいよ虎杖!!」
二つの「絶対の悪意」が重なり合い空間そのものをドロドロとした醜悪さで満たしていく。人間の尊厳を徹底的に踏みにじり、嘲笑う、胸糞悪い笑い声。
「……ぁ……あ……っ」
虎杖の目から光が消えた。
握りしめた拳から血が滲み、身体中からドス黒い、殺気と怒りの呪力が怒涛のごとく溢れ出す。
「許さねぇ……。殺す……! 殺してやる……真人っ……!!!!」
虎杖が獣のような咆哮をあげた。
そして——その隣
ぬえは、静かだった。
叫ぶことも、取り乱すこともない。
ただ、ハーフアップの髪が夜風に静かに揺れ、制服の袖口から立ち上るラベンダー色の呪力が絶対零度の輝きを放っていた。
(……汚い)
ぬえの瞳は目の前の空間ごと凍りつかせるほど深く、静かに激怒していた。
先生から教えられた「正しい世界」
それを根底から汚し、命を弄び、反吐が出るような笑みを浮かべるツギハギの怪物。ぬえが高専に来てから見たすべての「ゴミ」の中で最も醜く、最も存在を許してはならない害悪。
ラベンダー色のワンポイント刺繍が激しい怒りに反応して血のような赤みを帯びて明滅する。
ぬえはゆっくりと右手を前にかざした。
その指先から伸びる数千本の呪力糸はもはや空気すら切断し空間を歪めるほどの凄まじい密度の殺気を孕んでいた。
「……五条悟より先に、アンタを消す」
低く、静かで、だからこそ死そのもののような声が夜の静寂を切り裂いた。
「……害悪。一片の骨も残さずこの世からお掃除してあげる」
激怒した虎杖の圧倒的な闘志と静かな怒りに燃えるぬえの圧倒的な殺意。
二人の「怒り」が重なり合いツギハギの特級呪霊へと向けられた。
夜の校庭に死そのもののような静寂が落ちていた。
「ハハっ……すごいねぇ、二人とも。そんな目で見つめられたらゾクゾクしちゃうよ」
真人がツギハギの顔を歪めて嘲笑う。その瞬間、ぬえのラベンダー色の瞳が絶対零度に凍りついた。
シュンッ——!!
言葉より早くぬえの指先から放たれた数百本の呪力糸が夜の空気を切り裂いた。髪の毛よりも細く研ぎ澄まされた刃の網が、真人の首、胴体、四肢を寸分狂わず捉え一瞬で細切れに切り刻む。
ドカバキキッ!!
真人の肉体がバラバラの肉片となって校庭に飛び散った。
しかし——ぬえの表情から硬さが消えることはなかった。
散らばった肉片がまるで粘土のようにヌルりと形を変え瞬時に元通りの真人の姿へと再構築されていく。
「あはは! 無駄無駄! 君の糸、すっごく綺麗だし鋭いけどさ……『魂の形』を変えられない攻撃じゃ、僕の肉体をいくら細切りにしたって意味ないんだよ!」
ぬえは薄く唇を噛み締めた。
どれほど精密でどれほど強大な呪力を込めた糸であっても真人の『無為転変』による魂の保持を打ち破れない。切断しても切断しても肉体の形を魂に合わせて復元されてしまうのだ。
(ぬえの糸じゃ、ダメージが通らない……!)
「綾瀬!!」
その時、虎杖が前に飛び出した。ドス黒い殺意の呪力を拳に宿し真人の顔面へ一直線に叩きつける。
ズガアアアンッ!!
「がっ……!?」
真人の顔面が大きく歪み、血と魂の破片が飛び散った。真人の表情から一瞬にして余裕が消え、苦悶の表情が浮かぶ。
「なっ……何だこの小僧……!? こいつの攻撃、直接僕の『魂』に届いて……!?」
自分の肉体ではなく魂を直接殴りつけられたことに驚愕する真人を見てぬえは即座に状況を理解した。
(虎杖の打撃は、奴の魂に届く……!)
「虎杖! 前に出なさい! ぬえが後ろからサポートする!!」
「おうっ!!」
ぬえは瞬時に陣形を切り替えた。
虎杖が重厚な拳で真人に肉迫し真人が「触れれば一撃」の『無為転変』を仕掛けようと手を伸ばす。
その瞬間——
シャアアアンッ!!
「っ……あがっ!?」
ぬえの精密な糸が真人の手首や足首を死角から超高速で掠め、その動きを数ミリ単位で強引にズレさせる。真人の手が虎杖の肌に触れる直前で弾かれ、隙だらけになった真人の胸板へ虎杖の重威の拳が突き刺さる。
「よくも……よくも順平を……っ!!」
ドガアアンッ!!
前衛の虎杖が魂を削り後衛のぬえが間合いと動きを完璧にコントロールする。
ダメージは与えられずともぬえの糸は真人の『触れる』という攻撃機会を完全に奪い去る絶対の檻となっていた。
「くそっ……! 鬱陶しいな、あの女……!! 触れに行こうにも糸で軌道を逸らされる……!」
真人が苦し紛れに周囲の土を爆破し間合いを離そうとした。
ドサッ
ビシッと仕立てられたスーツ姿の男が二人と真人の間に割り込んだ。
「遅くなりました。……申し訳ない」
七海建人が七分柄の鉈を構えて立っていた。眼鏡の奥の眼光が冷たく真人を射抜く。
「ナナミン……!」
「七海、遅い。……このゴミ、切り刻んでも再生するわ」
ぬえが冷ややかに短く状況を共有すると七海は短く頷いた。
「ええ、知っています。奴の弱点は『魂への直接打撃』……つまり、虎杖君の攻撃だけです。私と綾瀬さんで奴を拘束し虎杖君に止めを刺させます」
「了解」
戦況は一気に『三対一』へ。そして、圧倒的な絶望の陣形が完成する。
「行くぞ……真人っ!!」
虎杖が疾走する。
真人は焦燥から変形させた触手を大量に解き放とうとしたが——
「させません」
七海の術式『十劃呪法』が発動する。7:3の強制的な弱点部位を打撃された真人の触手が根元から爆破されるように弾け飛んだ。
「なっ……!?」
バランスを崩した真人に対しぬえのラベンダー色の瞳が怪しく光る。
「お掃除の時間よ。……縛られなさい」
シュバババババッ!!!
ぬえが解き放った数千本の呪力糸が真人の四肢、関節、そして首周りに寸分の狂いもなく巻き付き、校庭の地面へと強固に縫い付けた。七海の打撃で体制を崩された真人は回避することも腕を振るって糸を解くことも一切できない。
二人により真人の身体は完全に運動機能を奪われ、無防備な案山子と化した。
「がっ……動か……っ! 離せっ……!!」
身悶えする真人の視界の先。
血と涙を拭い、激怒の呪力を右拳に極限まで練り上げた虎杖悠仁がまっすぐに迫っていた。
「これで……終わりだあああーーーーーっっ!!!!」
逃げ場を完全に塞がれた真人の目の前で虎杖の魂を貫く一撃が夜の暗闇を切り裂いて振り下ろされた。
「死」の気配が激痛とともに真人の全身を突き抜けていた。
(何なんだ……何なんだよ、こいつらは……!?)
虎杖の拳が魂を直接削り取る激痛。七海の7:3の強制弱点付与。そして何より、どこから伸びてくるかも分からないぬえの超精密な呪力糸。
触れれば一撃で殺せるはずの『無為転変』という圧倒的な術式を持ちながら、虎杖には宿儺という絶対不可侵の存在のせいで触れられず、ぬえと七海には間合いの外から完璧に運動機能を潰される。
今まで人間を玩具のように弄び、踏みにじってきた特級呪霊・真人が生まれて初めて味わう感覚。
理不尽なまでの拒絶と抑圧。心臓を直接握り潰されるような強いストレスと死への恐怖が真人の歪んだ魂をドロドロと狂わせそして極限まで加速させた。
「あはっ……あはははははっ!! 素晴らしいよ! 君たち!!」
真人は血を吐きながら狂気混じりの歓喜に顔を歪めた。
「これが『死』か……! 魂のインスピレーションが溢れ出て止まらないや……!!」
真人の口の中から幾つもの小さな手が溢れ出す。
宿儺の魂を内包する虎杖を巻き込めば即座に宿儺の怒りに触れて殺される。
だからこそ、真人が狙うターゲティングはただ二人——七海建人と綾瀬ぬえ。
「『領域展開』——」
ゴボリ、と空間が歪む。
「——『自閉円頓裹』」
真人の背後に巨大な幾つもの掌が組み上がりドロドロとした黒い呪力が巨大な球体となって七海とぬえを一瞬で呑み込もうと膨れ上がった。
一度展開されれば触れられるまでもなく二人の魂は書き換えられ、死に至る絶対の処刑室。
(……領域展開……っ!?)
その黒い異空間が広がる光景を目にした瞬間、ぬえの脳裏に封印していた過去の記憶が静かに甦った。
かつて——大好きな柊木先生とともに戦ったあの悪夢のような日。
格上の呪霊が放った領域展開の前に当時のぬえは何もできなかった。膨張する黒い壁を前にただ呆然と立ち尽くし、柊木先生が自分を庇って領域の中に呑み込まれていくのを無力に見ていることしかできなかったのだ。
あの時、柊木先生はぬえを守るために深手を負い、その結果としてぬえが高専という「正しく導く場所」へ預けられることになった。
(あの時のぬえとは……違う)
胸の奥を焦がすのは二度とあんな無ざまな姿を見せないという激しい怒りと誓い。
しかし、ぬえのラベンダー色の瞳は驚くほど静かで研ぎ澄まされた氷のように冷静だった。
感情に流されれば呪力が乱れる。
呪力が乱れれば精密な操作は潰える。
先生から叩き込まれた基本を愚直なまでに守り、ぬえは深く重い吐息とともに体内の呪力を極限まで「紡いだ」。
「……ぬえの邪魔をしないで」
ぬえが両手を優雅に広げた瞬間、夜の空気が一変する。
シュー……ッ……
指先から放たれたのは数千、数万という次元を超えた極細の「呪力糸」
それは真人の黒い領域が膨張する速度を遥かに上回るスピードで幾重にも、幾重にも空間を美しく編み上げていく。
月明かりを反射しラベンダー色の微かな光を帯びた繊細な糸が夜の校庭に巨大な光の繭を描き出していく。
糸と糸が重なり合い万華鏡のように複雑な幾何学模様を作り出しながら七海とぬえの周りに優美なドームを構築していく光景。
それはおよそ凄惨な戦場には似つかわしくない、息を呑むほどに幻想的で神聖なまでの美しさを纏っていた。
「な……何だ……!? 領域の中で、糸を……!?」
真人は何が起きたのか理解できず、目を見開いた。
真人の『自閉円頓裹』は死線の中で覚醒し生み出したばかりの、いわば「未熟で発展途上の領域」に過ぎない。
領域が完成するためには外殻が完全に成形され、環境が固定化されるまでのほんのわずかなタイムラグが存在する。
ぬえが展開した幻想的な糸のドームは単なる防御の壁ではなかった。
ぬえは超精密な呪力操作によって真人の領域が「完成する前」の空間構造の歪みを冷徹に見抜き、領域の外殻が組み上がるまさにその継ぎ目へ、数万本の糸を寸分狂わず打ち込んでいたのだ。
ドームから放射状に放たれた光の糸が未完成の外殻を内側から均等に引っ張り固定化を阻害する。
その結果——真人の領域は完成の瞬間を迎える前に構造そのものを維持できなくなり内側から自壊を始めた。
パリ……パリパリパリッ……!!
「え……!? なに……何が起きているんだ……!?」
真人は呆然と叫んだ。
自分の術式が発動したはずなのに黒い領域は球体を保つことすらできずまるで薄いガラスが割れるように脆く崩れ去っていく。
真人の知識と経験では、なぜ自分の領域が発動と同時に崩壊したのか何が起きたのかすら全く理解できていなかった。
「……終わりよ」
光のドームが静かに解け、舞い散るラベンダー色の光粒子の中からぬえが冷徹な一歩を踏み出す。
シュバババババッ!!!
領域が自壊し術式の反動で隙だらけになった真人の全身へ収束された糸が一斉に襲いかかった。
今度は単に四肢を縛るだけではない。首、関節、指の一本一本、果ては肉体の輪郭線に至るまでぬえの糸がミリ単位で皮膚に食い込み、真人の動きはおろか術式を発動するための微細な呪力の巡りすら完全に力ずくで遮断・抑圧した。
「がっ……あ……ぐっ……!!」
糸が深く肉体に食い込み、真人は校庭の地面に磔にされる。
過去の無力を静かな激情とともに乗り越え、完璧な術式操作で特級の領域すら不発に終わらせたぬえ。
彼女のハーフアップの髪が夜風にふわりと舞い上がり、死の糸で完全に真人を固定したまま静かに虎杖と七海へと視線を向けた。
「……虎杖。七海。……ゴミの完全拘束、完了したわ」
絶対の勝利を手繰り寄せたぬえの声が静まり返った校庭に凛と響き渡った。
「……よくやりました、綾瀬さん」
七海が静かに息を吐き出し七分柄の鉈を固く握り直した。
ぬえの超精密な呪力糸によって全身の関節と呪力の巡りを完全に固められ地面に磔にされた真人。術式の反動と領域の自壊ダメージも重なりツギハギの特級呪霊は指一本動かすことすら叶わない。
その目の前に虎杖がゆっくりと歩み寄る。
両拳に宿るドス黒い呪力。
順平を無惨に殺されその尊厳を踏みにじられた虎杖の瞳には一切の迷いも躊躇もなかった。
「これで……最後だ。真人」
虎杖が右拳を大きく引き絞る。
逃げ場のない死の威圧を前に真人は口端を引きつらせ冷や汗を流しながら引きつった笑みを浮かべた。
(嘘だろ……僕が……こんなところで……っ!?)
「お掃除完了」
後ろで冷ややかに腕を組むぬえが引導を渡すように短く呟いた、その時——
ドゴォオオオオンッ!!!!
突如として校庭のコンクリートと砂利が激しく跳ね上がり大地が裂けた。
「っ……!?」
地響きとともに地中から出現したのは無数の足を生やした、悪臭を放つ巨大な黒い影——大蜈蚣の形をした異形の呪霊だった。
「……ッ、蜈蚣の呪霊……!?」
ぬえのラベンダー色の瞳が驚愕に大きく見開かれる。
それはかつて自分が無力だった頃に柊木政宗とともに死闘を繰り広げ、苦戦の末に祓ったはずの害悪と酷似していた。
ムカデの呪霊はぬえが完璧に張り巡らせていた糸の結界を地中という完全な死角から強引に喰い破って出現したのだ。
ギシャアアアアアッ!!!!
鼓膜を突き破るような醜悪な悲鳴を上げながらムカデの巨大な顎が身動きの取れない真人の胴体を丸ごとガブリと咥え込んだ。
「あはっ……! 助かったぁー!」
完全に詰んでいた真人はその乱入劇に狂喜の声を上げる。
「逃がすかああああっ!!」
虎杖が渾身の力で突進し叩きつけるような打撃を放つ。
しかし一瞬早くムカデの呪霊は真人を口に含んだまま凄まじい速度で再び地中の亀裂へと潜り込んでいった。
ズバババババッ!!
「待ちなさい……ッ!!」
ぬえが即座に指先から無数の糸を解き放ち、地中へ潜るムカデの尻尾を切り刻み地面の亀裂ごと緊縛しようと試みる。
しかし、土煙と砕けたコンクリートの粉塵が視界を遮る中、地中を掘り進む振動は一瞬で遠ざかり闇の底へと消えていってしまった。
……静まり返る校庭
あとに残されたのは大きく穿たれた地面の穴と空しく漂う泥と悪臭の匂いだけだった。
「……逃げられた、か」
七海が深く重いため息をつき、構えていた鉈を静かに収めた。
「クソッ……! クソがぁっ……!!」
虎杖は穴の開いた地面を何度も何度も叩きつけ、悔しさに歯を食いしばりながら激しい叫びを上げた。
ぬえは解き放っていた糸を静かに指先へ手繰り寄せ収束させる。
ハーフアップの髪を夜風になびかせながら、ぬえは穿たれた穴を冷ややかな目で見下ろしていた。手首のラベンダー色のワンポイント刺繍が収まりきらない怒りの余韻で微かに光を帯びている。
(……あのムカデ、どこから現れたの? まさか、あのゴミの仕込み……ううん、裏に誰かいる……?)
追撃が叶わなかった悔しさと新たな謎に対する警戒。
ぬえはぎゅっと制服の袖口を握りしめると月を見上げて氷のように静かな声で呟いた。
「……一度取り逃がしたゴミは、次に会った時に跡形もなく滅ぼすだけ。……絶対にあいつらをぬえの糸で細切りにしてやるわ」