皿に並べられたお造りは、光り輝いていた。
華族、目黒侯爵邸。
ここで日々開かれる昼食会では、来客達が様々な料理を持ち寄って、品評をするという楽しみがあった。
酒も出す。それは目黒侯爵家提供のものである。
侯爵は酒問屋を経営していて羽振りが良い。娘は結構な器量良しとの評判であった。
だからこそ、男達が集うのだ。
「ふはははっ! 我が公爵家が釣ってきた旬の秋魚を我輩がお造りとしてやったぞ!」
ここ暫く足繁く通って来ているのが彼、目白公爵殿である。彼は侯爵令嬢の座る卓へとやって来ていた。
「素晴らしいお手前ですわ」
侯爵令嬢は、柔らかにお愛想を浮かべる。
あくまで彼女は侯爵家の娘でしかない。彼女にとって公爵閣下は立場も身分も上の男であった。
「我が手料理を食べてくれ。そして、結婚しよう」
「まぁ、お気の早い。ときに、我が手料理ですか?」
令嬢が微笑みかければ公爵は実に嬉しそうに、我輩が自ら捌いたのだと笑う。お造りは綺麗であった。
「だからなご令嬢。食べてくれ。ならば婚約しよう」
「そんな、お気の早い。私、生魚は少々……」
グイグイと押してくる公爵に、困った顔をして令嬢は答えた。
「なんだと! 実にもったいない。新鮮な魚介は、生に限るぞ!」
そう言ってお造りを、所作だけは上品に口へ運ぶ公爵。令嬢は申し訳なさに俯くしかなかった。
「我ながら、美味いな。君に食べさせられないのが残念だよ。では、式の日取りはいつにしようか? 年末くらいで良いかな?」
「ごめんなさい公爵閣下。あと、お気の早い」
公爵はグイグイと酒も飲む。とても美味そうに。
「なぁに、我輩と君は婚約しただろう?」
公爵は地位があっても事業はなかった。
「あらあら、まぁまぁ」
公爵は押しが強く、令嬢はおとなしい。問答は暫く続いた。
「美しい君よ。我輩がいつかきっと、生魚を美味しく食べさせてやるからな」
情熱的なお誘いに、令嬢とて満更でもなかった。屋敷の奥からは芳しい煙。脂の焼ける、香ばしい匂い。
令嬢の視線はそちらへちらりと向いた。
「あらあら、まぁまぁ」
取られた手に戸惑いながらもおっとりと微笑む令嬢だ。だが彼女の喉もまた、いくらか渇きを覚えていた。喉が鳴る。
遠くでパチパチと、皮が焼ける音がする。
思わず小鼻が蠢いた。公爵は、君は可愛いな。とお世辞を言ってくれていた。
滴る脂が炭火の炎で燃え上がり、美しき流線型を包む画が、令嬢の脳裏に浮かんだ。
「この香り……。——うっ!」
何かというよりも、煙の香りに気付いた公爵であるが、途端に腹を押さえて呻きだす。
「うっ、ぐぉっ、があぁぁぁ!」
「公爵様!? だ、誰か! お、お医者様を早く!」
そして途端に苦しみ始めた。令嬢だって狼狽える。
「おおお!、ぐぅ、あ……、がぁっ! あに、さきすぅ……、おのれぇ……」
「あ、だめ。いや……」
腹を押さえた公爵が暴れ出す。おとなしい侯爵令嬢には恐ろしさに怯える事しかできない。
「あ、公爵さまお待ちになって。そちらは——」
やがて公爵は、のたうちながら目黒侯爵邸の門から走り出た。
キキー、ドーン。
音が響く。騒然とする目黒邸。来客達が騒然とし、ある者は公道へと飛び出した。実に多くの者達が。
キキー、ドーン。
またもや音が轟いた。何度も。
「救急車! 救急車を呼べー!」
混乱の中にいる。だが令嬢は、泰然としたものだった。彼女には外の世界である公道よりも、注視すべきものがある。喧騒の中でも変わらない、パチパチとした火音。
七輪が、運ばれて来ていた。
乗っているのは美しい流線型。そう秋の味覚、秋刀魚であった。
皿が運ばれる。その上には、半切りの緑のすだち。そして、大根おろし。
「お嬢様、お皿をどうぞ」
目黒家の料理人が秋刀魚を皿へと乗せた。
令嬢はすだちを一絞り。そして卓上に置いてある醤油瓶を一差しし、両手を合わせた。
「いただきます」
箸を付ければ、ぷっくりとした身とパリパリとした皮の優しい感触。令嬢は、先に背骨を外す様な不調法はしない、まずは半身から味わってゆくものだ。
小さく分けた旬の味を口へと運び。
「あ、むっ」
舌で味わい口内で楽しみ、やがてコクリと飲み込んだ。湯気の上がる秋刀魚は、優しく匂い立っている。
令嬢はグラスを握る。なみなみと注がれた琥珀色の液体に、白い泡。ビールであった。
「はぁ、やっぱり。秋は焼き秋刀魚でございますわ」
一息に喉を潤した令嬢は、また箸で秋刀魚を毟り始めた。
公道ではサイレンが高く鳴る。群衆の騒めきは変わらない。だがここには、秋刀魚があった。
「残念ですけど、今回の婚約も破棄でございますね」
とても残念そうでなく、はしたないながらも侯爵令嬢は、旬の味覚に舌鼓を打っていた。
目黒の空は青い。立ち昇る煙は、秋刀魚の香りがしている。
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