春の日の午後、本丸内の池の傍の東屋に連れ出した主は、大人しく本を読んでいる。といっても、鶴丸は顕現されてから、主が本を読んでいる以外の姿を見ていない気もするが。
昨日、新人の務めだと近侍を任されたところから、鶴丸の驚きは始まった。
「この本丸の近侍の仕事は、主に仕事をさせることだよ」
苦笑と共に燭台切に告げられ、そういうタイプかと思った。世に聞く仕事嫌いなのかと。
だが、大間違いだった。
「主くん、鶴さんを連れてきたよ」
燭台切が声をかけたとき、丁度主は読書中のようで、こちらの声は耳に入っていないようだった。
「……主くん!」
急に大声を出した燭台切に驚いたが、それでも主はページをめくる手を止めない。
近づいた燭台切の影が本に落ちる。それで、やっと主の顔があがった。
「……?」
首をかしげる主に燭台切が、深く息を吐く。
「近侍交代って言ったでしょ」
「………………ああ」
反応がものすごく鈍い。大丈夫か、この娘。
「よろしくな、主」
「よろしくお願いします」
こちらを真っすぐに見た主が、何の感情もなく、ただ頭を下げる。
その視線はすぐに本に戻った。
「て、それだけなのか?」
「鶴さん、これ」
燭台切が壁に貼られた紙を指し示す。そこには「主の一日」という張り紙があった。
「とりあえず、今日はあと風呂と夕食と就寝だけだから。……頑張って」
「あ、ああ」
「この通りなら、読書の邪魔をしてもいいことになってるから」
「読書が最優先なのか?」
「……主にとってはね」
主を見た燭台切は、少し疲れた様子だ。
「じゃあ、僕はやることがあるから」
そういって、燭台切はそそくさと出て行った。
鶴丸は改めて、主を見る。
微動だにせずに、ページを規則的に捲っていく。そのそばには何冊もの本が積みあがっている。
そういえば、この本丸は至るところに本棚があり、本が置いてある。流石に廊下にはないが、壁という壁が本棚になり、ぎゅうぎゅうと本が詰まっている。エリアごとに一応ジャンルが分かれていたように見える。好きに読んで良いと言われたのは顕現してすぐのことだ。
主は実に楽しそうに本を読んでいる。
「なあ、それ、そんなに面白いのかい?」
返事は返らない。ただページをめくる音だけが、静かな部屋に流れている。
覗きこむと、ページに落ちる影で気づいたのか、主が顔を上げた。
「何ですか?」
「それ、何の本だい?」
「この間政府から送られてきた時代小説ですね」
「面白い?」
「はい!」
瞬間の笑顔は、驚くほどに晴れやかだった。
「鶴さんもお好きに読んで良いですよ。この本丸にはたくさんありますから」
そしてまた、視線は本に落ちた。
もう話は終わったと思ったのだろう。
あまりにあっさりとした反応だった。
「鶴さん、だって?」
自然に呼ばれた略称は、燭台切の影響だろうか。何の照れも計算もない。知っている呼称というだけの言い方が気に入った。
「楽しくなりそうだ」
口角をあげて笑っていた鶴丸は、わかっていなかった。
夕食の時間になっても読むのを止めない主。
風呂に入ったら、なかなか出てこない主。
そして、読書を止めなければ、ずっと就寝しないで読み続ける主。
昨日時点で、頑張って、の意味を思い知らされた。
読書以外の生活が本気で破綻している主だった。
ちなみに、今朝も朝早くに行けば、すでに読書中だった。寝巻のままで。
着替えさせ、朝食を取らせ、日課をさせる。その合間も隙があれば、すぐに本を開いている。
手元に本があるからだろうと庭に連れ出したが、読書をし続けている。
こんなにいい天気だというのに、もったいない。
パラ、パラと規則的に捲られるページ。時折吹いてくる風は池の上を通るためか、すこしばかり湿っている。
その姿をそっと鶴丸は眺める。
黒い癖毛の髪を、雑に木製の簪でまとめ、大き目の眼鏡の奥に覗くのは墨色の瞳。
本を持つ手は微動だにせず、姿勢はほんの少し前傾で、肩が内巻きになっている。猫背気味なのは読書家ゆえか。
着古した紺色のジャージに、藍色の羽織を羽織っている。この本丸内の誰の持ち物にも見えないから、私物だろう。
どう見ても驚きのない、普通の人間の女性だ。
近侍になるまではそう思っていた。
(とんだ驚きだぜ)
朝からの苦労を思い出して、遠い目をしつつ、鶴丸は池に目を向ける。ちょうど飛び降りてきたカワセミが池に突っ込んで、何も取れずに飛び立ったところだった。
「主、読書よりこっちのが楽しいぞ」
声をかけてもやはり反応がない。
(……いや、無さすぎないか?)
近づいて、本に影が落ちると、主は顔を上げた。
「主、さっき……」
主が首を傾げる。それから、手を打った。
耳を差し、本を差し。
「き」
「こ」
「え」
「ま」
「せ」
「ん」
と一文字ずつ指す。
そして、頷いて、読書に戻った。
どういう意味だ、と鶴丸は首を傾げる。
「聞こえないって……」
主の手元の本を見る。
今は、時の政府から来た本を確認している。普通に仕事中だったはず。
主は満足そうにページをめくり続けている。
「鶴丸ーっ、と主もここか」
「獅子王?」
肩に鵺を乗せた太刀、獅子王が軽い足取りで東屋に入ってきた。
「よく主を連れ出せたなー?」
「は?」
「主、読み始めると動かねぇだろ」
「ああ、だから、読み始める前に連れ出した」
「それが出来るのがすげーんだって」
主の読書狂いは、本丸共通認識らしい。
「しかし、今日はいつも以上に集中してんなー」
「ああ。……なあ、獅子王、さっき主が、きこえません、ってこう本の文字を指してたんだが……」
さっきの出来事を報せると、獅子王が顔色を変えた。
「は!? それ、石切丸案件じゃん!!」
「は?」
「俺、呼んでくる!!」
こうして騒いでいても主は、通常通りにページを捲り続けている。
これは通常運転なのかと思っていた。
だが。
「……鶴丸さん、政府から来た本は、先に私たちに通すことになっているんだ」
「そうなのか?」
「呪いのかかる本が紛れているんだ……」
どうやら、主は呪いを受けて、耳が聞こえなくなっていたらしい。
(いや、全然動じていなかったんだが?)
普通、そのまま読み進めないだろう。
石切丸により、呪いを解除した主に問うと、機嫌よく返された。
「いつも以上に読書に没頭できました! こんな呪いは大歓迎です!!」
あまりに、あまりにも、呪いに慣れ過ぎていないだろうか。
「主、いつも言っているように、呪われた本を勝手に読んではいけない」
「少しだけのつもりだったんですよ。ただ、面白くて」
「まず開いてはいけない」
「見たことのない装丁でタイトルだったので」
「主……っ」
石切丸とのやり取りでわかるのは、まったく懲りていない証拠だ。
「……主、時に呪いは死に至ることだってあると、以前も説明したはずだよ」
「わかってますけど、読み始めると面白いから仕方ないですよね」
「主!!」
いや、本当に懲りてない。
どうなっているんだ、この主は。
「本の内容が面白ければ、死んでもいいのかい?」
「いいえ、私の夢は世界中の本を読みつくすことなので。死んでも読み続けます!!」
片手で作った小さな握り拳で、主が堂々と宣言する。
「それが出来なくなるんだと言っているんだが!?」
主は石切丸の言葉に頷きながら、その袖を軽く叩いた。
「皆さんが解呪してくれますから、大丈夫ですよ」
頼りにしていると言われ、石切丸は一瞬固まってから、深く息を吐く。
「……鶴丸さん、主を頼む……」
よろよろと退出していく背中を見送って、鶴丸は主に視線を戻した。
「主、次からは俺が荷物を開けるからな」
「はい、よろしくお願いします」
しっかりと頷いた後、主は本を開いて、また読書に戻った。
鶴丸も、その傍で息を吐く。
近侍とは、こんな仕事だっただろうか。聞いたことのある話とはかけ離れていないだろうか。
ぱたん、と本を閉じる音に顔を上げる。主は満足そうに口角を上げている。
「……そんなに面白かったのかねぇ」
「知らないことを知るのは楽しいですよ」
返ってきた返事に、鶴丸は目を丸くした。すぐに次の本に向かうと思っていたから。
「たまには外で読書もいいですね」
照れた様子で話す様に、真顔になる。
「その結果が呪いなんだが」
「だって、部屋にいたら、きっと鶴さんは気づかなかったでしょう?」
確かにそうだ。獅子王から指摘されなければ、鶴丸には意味が分からなかった。
「そうだ、な」
まさか、そこまで考えていたわけではないだろうが。
「だから、良かったんです。鶴さんが今日の近侍になってくださったことも」
鶴丸を真っすぐに見つめる墨色の瞳が、楽し気な光を放つ。
「次の驚きも楽しみにしてますね」
「今日のは俺の仕掛けじゃないんだが?」
「あはは」
「笑い事じゃないっ」
「まあまあ」
「ああ、もう~……」
なんなんだ、この主は。
苛立ちのままに主の頭をぐしゃぐしゃに撫でると、主は年相応の娘の顔で楽しそうに笑っていた。
これから、こんな毎日が続くことを予感させる笑顔だった。