その日の朝は、珍しく主が朝から本を読んでいなかった。
「主ー? お、今日は本を読んでないのか」
鶴丸を見た主は、不思議そうな顔をしている。まるで初対面の人間を見る幼子のようだ。
「……主?」
何か嫌な予感がする。
主の前にしゃがんで、鶴丸はもう一度呼ぶ。
「主?」
「あう」
意味をなさない言葉を発して、どこかに指を向ける。布団の傍に置かれた一冊の古びた絵本。表面にあるのは、鶴丸の知る文字ではない。
鶴丸が持っている本に気づいた主が、手を伸ばし。驚くほどに優しく触れた。大切なものに触れる手つきで、慈しむ仕草で。文字の上に指を滑らせ。
一度、鶴丸を見上げて、にぱっと笑う。幼い仕草で。
鶴丸もつられて、笑い返す。
「っう、よむ」
「先に朝飯だ」
「……?」
「ほら、着替えていくぞ」
抱き上げようとしたその時だ。ぐにゃりと主の輪郭が解けた。
「っ!?」
それは黒い猫の姿になって、外へと走り出て行った。
「……は?」
鶴丸は自分の頭を押さえる。
(いやいや)
(待て待て)
(主が猫に)
(あり得る)
だが、新手の呪いとは、どこか違う気がする。
「……猫になる話、猫になる話? だが、あれは外つ国の文字……」
いくら鶴丸でも、外国の物語までは把握していない。
とりあえず、猫を追いかけるか、と鶴丸は部屋を出た。
そこは一面の砂漠で――。
目を覚ました鶴丸を、心配そうに石切丸、燭台切が覗きこんでいた。
「大丈夫かい、鶴丸さん?」
「痛いところとかある、鶴さん?」
布団から身体を起こすと、部屋の中に大倶利伽羅もいたことがわかった。一瞬安堵の表情が見えた。
「……何が、起きたんだ」
「主の読んでいた本に、鶴さんが取り込まれたんだ」
「…………はぁ」
読んでる本人ではなく、周囲に影響する呪い、だと。
ちなみに、部屋を見回しても主の姿はない。
「で、その主は」
全員で黙らないでほしい。
「様子がおかしいんだ」
「一人で食事をして、仕事をしてる」
「臨時で薬研くんがついてくれてるけど」
一切、本を開かない。
立ち上がり、急いで主の元へ駆け込む。
主は鶴丸を見て、一瞬だけ泣きそうな安堵の顔をした。
「読み終わらなくても、呪いって解けるんですね」
直ぐに、残念そうに呟くが。一瞬を見てしまった鶴丸は何も言えず、主に近づき、その頭を軽く叩いた。
「いつ読んだ」
「……夜中に目が覚めてしまったので……」
鶴丸はそのまま、主の頭に手を置いて、全力で力を入れる。
「いたたたた」
「布団に入ったら、朝まで本を読むなと、あれほど!!」
「す、すみま、いたたたた」
「そのうち、そばで見張るぞ!?」
「いたたたた」
痛がる主を文字通り締め上げる鶴丸の傍で、薬研が小さく笑った。
「で、どんな話だったんだ、鶴丸?」
「猫を追いかけて、旅をする冒険譚だよ! なんで、俺が主以外の面倒をみなきゃならねぇっ」
「つまり、主ならいいと」
ぴたりと力を入れるのを止めた鶴丸は、ぎぎぎと音の出そうな様子で、薬研を振り返る。
「ちが、う。違うぞ?」
「わかってるって」
「違うからな!?」
主は痛みから解放されて、さっそく本を開いて読み始めている。
「違うからな!!}
「はいはい」
鶴丸と薬研のやりとりには、まったく興味がないらしい。
だが、あの一瞬の主の表情が瞼の裏にちらついて、鶴丸はしばらく落ち着かない心地だった。