念能力者が行く多重クロス世界 作:匿名のななし
窓の外から、けたたましいサイレンの音が遠ざかっていくのが聞こえた。
パトカーか、消防車か、あるいはその両方か。
このイカれた世界において、サイレンの音なんてスズメの鳴き声やカラスの羽音と同じくらい、ただの日常のノイズでしかない。
俺はすり減った革のソファに寝転がりながら、テレビの画面をぼんやりと眺めていた。
お昼のワイドショーでは、綺麗なスーツを着たコメンテーターが眉間に皺を寄せながら、相変わらず物騒なニュースについて語っている。
『……昨夜、新宿の神室町にて、またしても大規模な抗争と思われる騒ぎがありました。現場には多数の薬莢が落ちており……』
「はいはい、また神室町ね。あそこ、週に三回は銃撃戦やってない? 住んでる人たち、よく耳栓なしで眠れるよな」
チャンネルを変える。
『米花町で発生したビル爆破事件から数日が経ちましたが、未だに犯行グループの残党は……』
「うわ、まだやってるよ。コナンくん、絶対にまた別の事件に首突っ込んでるだろ。あの町には絶対近づかないって決めたんだ俺は」
リモコンのボタンを連打して、平和そうな動物のドキュメンタリー番組に変えた。
ライオンがシマウマを追いかけている映像だ。こっちのほうが、日本のニュース番組よりよっぽど平和で心が落ち着く。
サバンナの弱肉強食なんて、このイカれた融合世界の日常に比べれば、幼稚園のお遊戯会みたいなものだ。
「ちょっと八雲。いつまでそこでお尻に根っこ生やしてるつもり?」
頭の上から、チクリと刺すような声が降ってきた。
見上げると、ピンク色の長い髪をシュシュで後ろにまとめた二乃が、スマートフォンを片手に呆れ顔で俺を見下ろしている。
「えー、いいじゃん。俺、今は絶賛お休みモードなんだよ。この間の米花町での大立ち回りで、俺の繊細なメンタルはまだ回復しきってないの。あの爆弾のタイマー音が耳から離れないんだってば」
「甘えたこと言ってないで、さっさと起きなさい。大黒さんから大金が入ったんだから、パーッと温泉旅行の計画でも立てるわよ。ほら、旅館の候補絞ったから一緒に見なさい」
二乃はスマホの画面を、俺の目の前に突きつけてきた。
「うわ、近っ。……温泉? 家でゲームしてる方がメンタル回復するんだけど」
「ダメ。たまには羽を伸ばして、ゆっくりお湯に浸かりたいじゃない。ほら、この高級旅館なんてどう? 源泉掛け流しで、夕食はカニのフルコース付きよ。あんた、カニ好きでしょ?」
「カニ……フルコース……」
俺の脳内に、真っ赤に茹で上がった巨大なタラバガニと、香ばしい匂いを立てるカニ味噌の映像がフラッシュバックする。
「……悪くない。じゃあ、それ予約しといて」
「全く、食い意地ばっかり張って。それなら、まずは洗面所に持っていって、そのマグカップを洗ってきなさい。中にコーヒーの飲み残しがこびりついてるじゃない。旅行に行く前に、部屋が汚いままなのは嫌だからね」
「鬼だ……うちのアシスタントは鬼軍曹だ……」
「文句言わない。ちゃんとピカピカに洗ってくれたら、最高のお部屋を予約してあげるから」
「イエスマム! すぐに洗ってまいります!」
俺は現金なもので、カニのフルコースという報酬をチラつかされると、途端に体が軽く動く。
洗面所に向かい、スポンジに洗剤をつけてマグカップをゴシゴシと洗い始めた。
蛇口から出る水の音が、なんだかとても平和に聞こえる。
そうだ、俺が望んでいたのはこういう生活なんだ。
ヤクザの抗争も、爆弾魔のテロも、異能力者同士のバトルもない、ただの平凡な日常。
昼まで寝て、美味しいご飯を食べて、温泉旅行の計画を立てて、また寝る。
そんなスローライフを、俺はずっと夢見ている。
マグカップを洗い終え、ついでにお風呂場のタイルをブラシで軽くこすっていると、玄関のほうから控えめな音が聞こえた。
コン、コン。
とても小さく、遠慮がちなノックの音。
押し売りや借金取りのような、バンバンと乱暴に叩く音ではない。かといって、近所のおばちゃんが回覧板を持ってきたような気軽な音でもない。
なんだろう、この、ドアの向こう側で躊躇しているような、神経をすり減らしているような音は。
「はーい、ちょっとお待ちくださーい」
リビングにいた二乃が、明るい声で応対に行くのが聞こえた。
ガチャリ、とドアが開く音。
俺はブラシを置き、手をタオルで拭きながら洗面所から顔を出した。
「あの……こちら、揉め事処理屋さんの事務所で、間違いないでしょうか……?」
ドアの隙間から聞こえてきたのは、ひどくかすれて、震えている中年の男の声だった。
俺は首を傾げた。
うちの事務所の看板は、階段の下に手書きで小さく出しているだけだ。よっぽど切羽詰まった人間か、あるいはよっぽど胡散臭い情報を信じ込む人間じゃないと、こんな怪しい雑居ビルの二階まで上がってこない。
「ええ、そうですけど。何かご相談ですか?」
二乃が少し警戒したトーンで返す。彼女も、この数年で怪しい客の気配を察知するスキルが上がっている。
「よかった……。あの、ぜひ、ここの所長さんにお会いしたいんですが。どうしても、お願いしたいことがありまして……」
「所長なら、今は……」
二乃が俺のほうを振り返る。
俺は洗面所の入り口から、ドアの向こうに立つ男の姿を観察した。
年齢は四十代後半から五十代くらいだろうか。着ているのは、どこにでも売っていそうな量販店のグレーのスーツ。少しヨレヨレで、肩のあたりにフケのような白い糸くずがついている。
髪はボサボサで、メガネの奥の目は、信じられないくらい深いクマに覆われていた。まるで、何日もまともに眠っていないような、ギリギリの精神状態で立っているような風貌だ。
手には、少し古びたビジネスバッグを、指の関節が白くなるくらい強く握りしめている。
その姿を見た瞬間。
俺の脳内で、けたたましい警報が鳴り響いた。
あ、これアカンやつだ。
俺の、このイカれた世界を生き抜くための第六感が、全力で逃げろと叫んでいる。
見た目は、ただのしがないサラリーマン。どこにでもいる、電車の中でスマホゲームをしながら通勤しているような、普通のおじさんだ。
だが、この世界において、一番警戒しなきゃいけないのは、こういう「普通」の皮を被った人間なのだ。
モヒカン頭で肩パッドをつけているような奴や、黒ずくめのコートを着て不敵に笑っているような奴は、見た目からして危険だから避けやすい。
でも、こういう「家族を愛する普通のサラリーマン」が、何かの拍子でタガが外れてしまった時、裏社会の連中なんか目じゃないくらいの狂気を見せることがある。
俺の前の人生の記憶、つまり「原作知識」の引き出しが、カチャカチャと音を立てて開き始めた。
ヨレヨレのスーツ、神経質そうなメガネ、深いクマ、そして「揉め事処理屋」という裏の看板を頼ってくる切羽詰まった状況。
いくつかのピースが組み合わさり、俺の脳裏に一つの作品のタイトルと、ある男の名前が浮かび上がった。
嘘だろ。
よりによって、あのおじさんかよ。
「……あ、八雲。お客さんみたいなんだけど。どうする?」
二乃が俺の顔を見て、目で問いかけてくる。
俺は「居留守を使え」と喉まで出かかった言葉を飲み込んだ。
もう顔を合わせちゃってるし、このおじさん、たぶん断ってもドアの前で座り込みそうな執念を持ってる。それに、もし本当に俺の予想通りの人物だとしたら、ここで無下に追い返すのは逆に危険だ。
彼の敵は、本職のヤバい連中だ。俺たちが関わりを拒絶したことで、その連中が俺の事務所まで嗅ぎ回りに来るフラグが立ちかねない。
「……わかった。とりあえず、中に入ってもらって。俺もすぐ行くから」
俺は大きくため息をつき、手を洗い直してリビングへと向かった。
「失礼します……。お休みのところ、突然申し訳ありません」
男はペコペコと何度も頭を下げながら、部屋の中に入ってきた。靴を脱ぐ動作も、どこかぎこちなくて、おどおどしている。
二乃が彼をソファに案内し、キッチンへお茶を淹れに向かった。
俺は男の対面に座り、なるべくリラックスした、飄々とした態度を作ることにした。相手のペースに飲まれたら負けだ。
「いらっしゃい。俺がこの事務所の所長の八雲だ。見ての通り、立派なオフィスとは言えないけど、まあ座ってよ」
「あ、はい。ありがとうございます」
男はソファの端っこに、まるでお尻の半分しか乗せていないような窮屈な座り方をした。膝の上に置いたビジネスバッグを、抱きしめるように両手で押さえている。
「で? 名前はなんと言うのかな。ここには誰の紹介で?」
俺が尋ねると、男はメガネの位置を中指でクイッと押し上げ、かすれた声で答えた。
「鳥栖……鳥栖哲雄、と申します。おもちゃメーカーで、営業をやっております」
ビンゴだ。
俺の脳内のデータベースが、完全に一致を知らせるランプを点灯させた。
鳥栖哲雄。
愛する娘を守るため、娘の彼氏である半グレの男を殺害し、その事実を隠蔽するために一人で犯罪組織と渡り合うことになった、ただのミステリー小説オタクのサラリーマン。
俺は心の中で、頭を抱えてしゃがみ込んだ。
なんで俺のところには、こういうハードコアな展開を引き連れた主人公キャラばかりがやってくるんだ。米花町のメガネ少年に続いて、今度はただのサラリーマンが半グレ組織を丸ごと引き連れてやってきたってわけか。
俺の平和なカニのフルコースはどうなるんだ。
「鳥栖さん、ね。紹介は?」
「いえ、紹介ではありません。ネットの、その……裏の掲示板のようなところで、ここの住所を見つけまして。どんな厄介事でも、警察沙汰にできないことでも、内密に処理してくれる『本物』がいると」
あー、なるほど。
米花町での一件がどこかの情報屋の口から漏れて、都市伝説みたいにネットの海を漂っていたのか。面倒なことになった。
「お待たせしました。冷たい麦茶でいいですか?」
二乃がお盆にグラスを二つ乗せてやってきた。氷がカランと涼しげな音を立てている。
「あ、どうも。お気遣い痛み入ります」
鳥栖さんは慌てて立ち上がりそうになりながら、グラスを受け取った。
その手が、小刻みに震えているのが見えた。グラスの中の水面が波立ち、氷がカチン、カチンとガラスの壁にぶつかっている。
極度の緊張と、恐怖、そして睡眠不足。
普通の人間なら、とっくに心が折れて狂っていてもおかしくない状態だ。それでもこのおじさんがここに座っていられるのは、ただ一つ、「家族を守る」という強烈な執念があるからだ。
俺はそういう、自分を犠牲にしてでも何かを成し遂げようとする人間の目が、少しだけ苦手だった。
眩しすぎるというか、重たすぎるというか。俺みたいな、自分の痛みを一番に避けたがる小者には、到底理解できない種類の強さだからだ。
二乃が俺の隣に座り、鳥栖さんの様子を心配そうに見つめている。
「大丈夫ですか? すごくお疲れのようですが……」
「ええ、はい。少し、寝不足なだけでして。大丈夫です」
鳥栖さんは無理に笑顔を作ろうとしたが、顔の筋肉が引きつって、不気味な表情になってしまっていた。
「それで、鳥栖さん」
俺はわざと明るい声を出して、重苦しい空気を切り裂いた。
「うちに頼みたいことってのは? 奥さんの浮気調査? それとも、会社のパワハラ上司への嫌がらせ? まあ、人探しとか借金取りの真似事くらいなら、お金次第で受けるけど」
わざと小悪党のようなセリフを並べると、鳥栖さんはゴクリと唾を飲み込んだ。
そして、周りに誰もいないのに、声をさらに一段階落として、とんでもないことを口にした。
「……人を、殺してしまいまして」
ピタリ、と。
部屋の空気が凍りついた。
隣に座っていた二乃が、「えっ」と小さく息を呑む音が聞こえた。
俺は、完全に動きを止めた。
「……鳥栖さん。今、なんて?」
わざと聞こえなかったふりをして聞き返す。
「ですから……人を、一人。私の手で、殺めてしまったんです」
鳥栖さんは自分の膝をじっと見つめたまま、まるで「昨日の夜、カレーを作ったんです」と言うような、淡々としたトーンで繰り返した。
「いやいやいや!」
俺は思わず立ち上がり、ツッコミを入れた。
「天気の話みたいに言うね!? なんでそんな重大発表を自己紹介の次くらいにサラッとぶっ込んでくるの!? 普通、もっとこう、『実は深い事情がありまして……』みたいな前置きがあるでしょ!」
「す、すみません。私、こういう裏の交渉のようなことは初めてでして、どこから話せばいいのかわからなくて……」
鳥栖さんが縮こまってペコペコと頭を下げる。
「裏の交渉とか以前に、人殺しちゃダメでしょ! あんた、どう見ても普通のサラリーマンだよね!? なんでそんなハードなことしちゃってんの!」
パニックになったふりをして騒いでいると、二乃が俺の服の裾を強く引いた。
「ちょっと八雲、落ち着きなさいよ。近所に聞こえたらどうするの」
二乃の冷静な声に、俺はハッとしてソファに座り直した。
そうだ、俺は原作を知っているんだから、ここで驚く必要はなかった。ただ、あまりにもあっさりと告白されたので、ついノリでツッコミを入れてしまった。
「……ごめん。ちょっとびっくりしただけだ。で? 誰を殺したの? 怨恨? それとも強盗?」
声を落として尋ねると、鳥栖さんは深く息を吐き出し、ゆっくりと語り始めた。
「娘の、彼氏です。延人という名前の、若い男でした」
鳥栖さんは、ぽつりぽつりと、パズルのピースを合わせるように言葉を紡いでいく。
一人暮らしを始めた娘の零花ちゃんの顔に、殴られたようなアザがあったこと。心配になって娘のマンションに忍び込んだら、その彼氏がやってきたこと。クローゼットに隠れて聞いてしまった、彼の恐ろしい電話の内容。
彼が、過去に二人の女性を殴り殺していること。
そして、今度は自分の娘に手をかけ、最終的には自分たち夫婦の財産を奪う計画を立てていたこと。
「クローゼットの中で、私は考えました」
鳥栖さんの声は震えを帯びていたが、不思議とまっすぐだった。
「このまま私がここから出て行けば、警察を呼ぶことはできるかもしれない。でも、もし彼が捕まらなければ? 証拠不十分で釈放されたら? 彼は確実に、私の娘を殺す。そう確信しました」
だから、彼が隙を見せた瞬間に、部屋にあった電話機のコードで首を絞め、フルスイングで鈍器を振り下ろしたのだと。
話を聞き終えて、部屋の中は再び重い沈黙に包まれた。
二乃は口元を両手で覆い、青ざめた顔で鳥栖さんを見つめている。
「そんな……娘さんを守るために、あなたが手を下したっていうの?」
「はい。私は、後悔はしていません。零花が無事なら、それでいいんです。私が地獄に落ちようとも」
鳥栖さんのメガネの奥の目が、ギラリと鈍い光を放った。
ただの気弱なおじさんじゃない。
これは、家族という絶対に守るべきもののために、自分の人間性を捨てる覚悟を決めた「怪物」の目だ。
俺は心の中で大きなため息をついた。
重い。話が重すぎる。俺の望んでいたスローライフからは、一億光年くらい離れたドロドロの愛憎劇だ。
「……それで? 殺しちゃったのはわかったけど、俺にどうしろって言うの? 死体の処理? 山の奥に穴掘って埋めてこいってこと?」
わざとドライなトーンで尋ねると、鳥栖さんは首を横に振った。
「いえ、死体の処理は、すでに私が……妻と協力して、終わらせました」
「は?」
俺はまたしても間抜けな声を出してしまった。
「奥さんと協力して? 終わらせた?」
「はい。お風呂場で、その……細かく切り分けて、茹でて、骨は粉々にしてプランターの土に混ぜました。肉は少しずつ、生ゴミとして捨てています」
「DIYの延長みたいに言うなよ!!」
俺はたまらずテーブルをバンッと叩いてしまった。
「あんたら夫婦、頭おかしいだろ! なんで素人がそんな完璧な隠蔽工作できちゃうわけ!? ミステリー小説の読みすぎじゃないの!?」
「ええ、趣味でミステリー小説を書いておりまして。トリックや死体処理の方法については、色々と知識があったものですから……」
鳥栖さんが照れたように頭を掻く。
照れるところじゃない。完全にサイコパスの領域に入り込んでいる。この世界の一般人は、どうしてこうもネジが飛んでいるんだ。
「………」
二乃が顔をしかめて、少しだけ俺のほうへ体をすり寄せてきた。
無理もない。いくら気が強い彼女でも、バラバラ殺人の詳細を本人から聞かされれば気分も悪くなるだろう。
「それで、鳥栖さん。死体の処理が自前で終わってるなら、俺の出番はないんじゃないの? あとは警察から逃げ切るだけだろ」
俺が早く話を終わらせようとすると、鳥栖さんは再び暗い顔になった。
「それが……警察ならまだ良かったんです。問題は、あの延人という男が所属していた組織の連中なんです」
出た。半グレ組織。
「ヤクザの真似事をしてるような半グレのグループなんですが、彼らは延人と連絡が取れなくなったことで、真っ先に娘の部屋を疑ってきました。そして今、私が彼を殺したのではないかと執拗に嗅ぎ回っているんです」
鳥栖さんはビジネスバッグを開け、中から何枚かの写真と手書きのメモを取り出してテーブルの上に置いた。
「私なりに、延人がまだ生きているように見せかける偽装工作はしています。SNSを更新したり、彼の仲間である恭一という男を騙したり。ですが……限界があります。連中はプロの犯罪者です。私の薄っぺらい工作なんて、いずれ見破られる」
鳥栖さんの手が、再び震え始めた。
「もしバレたら、私はもちろん、妻も、何も知らない娘も、連中に捕まって……何をされるかわかりません」
鳥栖さんはテーブルの上に両手をつき、俺に向かって深く頭を下げた。
「お願いします、八雲さん。あなたが裏の世界でどんな厄介事でも力ずくで処理できる『本物』なら……私の家族を守ってください。連中が、二度と私たちに近づかないように……処理してほしいんです」
処理してほしい。
その言葉の裏にある意味は明らかだった。つまり、相手の半グレ組織の拠点を潰すか、主要なメンバーが二度と動けなくなるように、徹底的に叩き潰してこいという依頼だ。
俺はソファの背もたれに深く体を預け、天井を仰いだ。
「……あのさあ、鳥栖さん。あんた、相手がどういう連中かわかってて言ってる?」
俺は少しだけ声のトーンを落とし、冷たい声を出した。
「半グレってのはね、ヤクザよりもタチが悪いんだよ。ヤクザにはまだ『シノギのルール』みたいなのがあるけど、半グレにはそれがない。金のためなら平気で一般人を巻き込むし、ためらいなく銃も撃つ。そういうタガが外れた狂犬の群れなんだよ」
俺は自分の首の後ろをカリカリと掻いた。
「それに、俺は昔通ってた道場で『活人拳』ってやつを叩き込まれててね。どれだけ相手が外道でも、殺しだけは絶対にNGなんだ。それが俺のルールだから、連中の息の根を止めることはできない」
俺の言葉に、鳥栖さんの肩が絶望でビクッと震える。
「勘違いしないでくれ、ボコボコに拠点を潰すことはできる。だが、ヤクザと違って半グレには確固たる組織の掟がない。残党が逆恨みして、またあんたの家族を狙う可能性が高い。復讐のストッパーがないから、リスクがデカすぎるんだよ」
鳥栖さんが顔を青ざめさせる。
「だから、俺が連中を再起不能にした後、そういう『ゴミの清掃』を専門にしてる裏の処理業者に連中を丸ごと引き渡して、物理的に手出しできない環境に放り込む手はずを整えなきゃならない。その手回しにも金と手間がかかるんだ」
俺がそう説明すると、鳥栖さんはビジネスバッグから、茶色い封筒を取り出した。
「お金なら……退職金を前借りして、妻の貯金もすべてかき集めました。これで一千万円あります」
鳥栖さんは、その分厚い封筒を俺の前にスッと押し出した。
「これでも足りないというなら、私の内臓でもなんでも売ります。今後何年かかっても、必ずお支払いします。だから……どうか、どうか娘を……家族を助けてください……!」
テーブルに額をこすりつけるようにして懇願する鳥栖さん。
その背中からは、哀愁と狂気と、底知れないほどの愛の重さが伝わってきた。
彼がどれだけのものを犠牲にして、どれだけの覚悟でここに来たのか、痛いほどに伝わってくる。
「……」
俺は無言で、テーブルの上の封筒を見つめた。
一千万円。大金だ。でも、俺の命と天秤にかければ安いものだ。
断ろう。「お引き取りください」と冷たく突き放せばそれで終わる。あとは彼が原作通りに、一人で知恵を絞って組織と泥沼の戦争を繰り広げればいい。
でも、本当にそうか?
この世界は、あの漫画の中の世界とは違う。カオスな融合世界だ。ちょっとしたバグや運の悪さが重なれば、原作の主人公補正なんて簡単に吹き飛んでしまうかもしれない。
もし俺がここで断ったせいで、彼が組織に捕まり、家族が悲惨な結末を迎えることになったら。俺は、美味しいカニを食べながらそのニュースを平気な顔で見ていられるだろうか。
「八雲」
不意に、隣に座っていた二乃が口を開いた。
彼女の声は、少しだけ震えていたが、はっきりとしたトーンだった。
「受けてあげなさいよ」
「……二乃?」
驚いて振り返ると、二乃はまっすぐな目で俺を見つめ返してきた。
「私、この人のやってることはどう考えてもおかしいと思うし、気持ち悪いとも思う。死体を切り刻むなんて普通の神経じゃないわ。……でも、娘を守るためにおかしくなっちゃう気持ちは、少しだけわかる気がするの。家族を傷つけられるくらいなら自分が手を下すっていうその覚悟だけは、嘘じゃないって思う」
二乃は俺の腕を両手でギュッと掴んだ。
「あんたなら、できるでしょ。弾丸だって弾き返せるし、あんなテロリストの集団だって一人でボコボコにしたじゃない。男なら四の五の言わずに、困ってるお父さんを助けてあげなさい。この仕事が終わったら、約束の温泉旅行、私が全部手配して、カニも一番高いコースにしてあげるから」
カニのフルコース。
その言葉が、俺の背中をポンと押した。
いや、違うな。二乃のまっすぐな目と、鳥栖さんのテーブルにすりつけた額から伝わる必死さが、俺の心の中にある「見過ごせない」という厄介なスイッチを押してしまったのだ。
「……あーあ。わかったよ、わかった」
俺は大きくため息をつきながら、頭をガシガシと掻いた。
「やればいいんだろ、やれば。俺がその組織の拠点に乗り込んで、お兄さんたちに『二度とこの家族に近づくな』って、優しく説教してきてやるよ。その後の掃除業者の手配もな」
俺の言葉に、鳥栖さんが弾かれたように顔を上げた。
「ほ、本当ですか……!? 引き受けてくださるんですか!?」
「ええ、引き受けますよ。ただし、条件が一つ」
俺はテーブルの上の茶色い封筒を指先でツンツンと突いた。
「このお金は、手付金として半分だけもらっておきます。残りの半分と、業者への手配にかかる実費は、すべてが終わって、あんたの家族が完全に安全になったと確認できたらいただきます。それでいいですね?」
「は、はいっ! もちろんです! ありがとうございます、本当に……!」
鳥栖さんは、涙と鼻水でぐしゃぐしゃになった顔で、何度も何度も頭を下げた。
「おいおい、泣くのはまだ早いですよ。俺が失敗して死んだら、その時はあんたが自分で戦うしかないんだから」
俺は立ち上がり、大きく伸びをした。背骨がポキポキと鳴る。
「よし、それじゃあ、さっそく準備に取り掛かるか。鳥栖さん、その半グレ組織の拠点というか、よく連中が集まってる場所、わかりますか?」
鳥栖さんはビジネスバッグから急いで手帳を取り出し、一枚のメモを破って差し出した。
「こ、ここです。新宿の外れにある、古い雑居ビルの地下のようです。彼らが経営している、違法なキャバクラの裏に、事務所があるらしくて……」
「新宿の外れね。了解。いかにもって感じの場所だな」
俺はメモを受け取り、テーブルの上に置いた。
「鳥栖さん。あんたは一旦家に帰って、奥さんと娘さんのそばにいてやってくれ。連中を専門の業者に引き渡す手回しと準備を済ませてから、俺が動く。吉報を待っててくれ」
「わかりました……どうか、どうかよろしくお願いいたします……!」
鳥栖さんは何度も振り返りながら、深々と一礼して事務所を出ていった。
ガチャリ、と重い金属音が響き、ドアが閉まる。
足音が階段を降りて遠ざかっていくのを、俺たちは無言で見送った。
部屋の中には、再び俺と二乃の二人だけが残された。