念能力者が行く多重クロス世界 作:匿名のななし
鳥栖という名の、くたびれたサラリーマンが帰っていった後のドアを、俺はしばらくの間、無言で見つめていた。
閉まったドアの向こう側には、もう彼の気配はない。
けれど、彼が座っていたソファの端っこや、両手で包み込むようにして飲んでいた麦茶のグラスには、あの男が抱えていたドロドロとした重たい感情がまだべっとりと張り付いているような気がした。
「……なぁ、二乃」
ソファにどっかりと腰を下ろし、天井のシミを見上げながら口を開く。
「なんだか、すげえものを見ちゃった気分だよ。映画とか漫画の作り話じゃない、本物の狂気ってやつをさ」
キッチンでグラスを洗っていた二乃が、水道の水を止めてこちらを振り返った。
彼女の顔も、いつもの強気な表情はどこへやら、少しだけ青ざめて疲れているように見える。
無理もない。いくらこのイカれた世界で俺の相棒をやっているとはいえ、彼女はまだ普通の大学生なのだ。人を殺して風呂場でバラバラにしたなんて話を、当の本人の口から世間話でもするようなトーンで聞かされれば、気分だって悪くなる。
「……そうね。私も、背中がゾクゾクしたわ」
二乃はエプロンで手を拭きながら、向かいのソファに座った。
「あのおじさん、本当に娘さんのためだけに、あんな恐ろしいことをやってのけたのよね。手が震えてたし、目にはものすごいクマがあったけど……でも、後悔してるような色だけは、これっぽっちもなかった」
「そこなんだよ。そこが一番怖いところだ」
俺は頭の後ろで両手を組み、大きくため息をついた。
「人を殺すってのはエネルギーがいる。俺みたいに気を練って体を強化し、力任せに相手をぶっ飛ばすのとは次元が違う。あの人は、特別な力なんて何一つ持たない、ただのミステリー小説が好きそうなオッサンだぞ。それなのに、家に転がり込んできたヤバい男を電話のコードで首を絞め、鈍器で頭をかち割った。そして、奥さんと二人で血まみれの死体をノコギリで切り刻んで、骨を砕いてプランターの土に混ぜたんだ」
言葉にして口に出すだけで、胃の奥がせり上がってくる。
俺は血を見るのが趣味じゃない。面倒な争いごとも避けて通りたい。だからこそ、この世界で安全に生きていくために誰も俺に傷をつけられないよう体を鍛え、オーラのコントロールを学んだ。
圧倒的な力があれば無用な争いを避けられるし、いざという時も無傷で完封できるからだ。
でも、あの鳥栖哲雄という男は違った。
自分が傷つくことなんて微塵も恐れていなかった。刑務所に入ることになっても、半グレの連中に捕まってひどい拷問を受けることになっても、娘さえ無事ならそれでいいと本気で思っていた。
それが、彼にとっての愛の形なのだろう。
家族を守るためなら、自分から地獄の底へ飛び込んでいく。俺のような合理性を一番に優先する人間には到底理解できない、そして絶対に真似できない底知れない覚悟だった。
「……家族への愛、ねえ」
二乃がポツリと呟き、自分の膝の上で両手をギュッと握りしめた。
「私にも、大切な姉妹がいるから。もしあの子たちに何か危険が迫ったらって考えたら……あのおじさんの気持ち、少しだけわかるような気がするの」
「おいおい、二乃まで物騒なこと言わないでくれよ」
俺は慌てて体を起こした。
「君は包丁で野菜を切るだけで十分だ。間違っても、風呂場で人間を解体するようなスキルは身につけないでくれよな」
「バカ言わないで。誰がそんなことするもんですか」
二乃はむっとした顔で俺を睨みつけた。
「でも、だからこそ、あんたがしっかりしてよね。あのおじさんがこれ以上手を汚さなくて済むように、そして何より、あの家族が安全に暮らせるように、あんたが悪い奴らを全員叩き出してきなさい」
二乃の目は、まっすぐに俺を射抜いていた。
彼女のこういう、筋を通そうとする部分は出会った頃から変わっていない。ヤクザに追われて俺の部屋に転がり込んできた時も、泣きわめくのではなく「私をここで雇いなさい」と強気で交渉してきた女だ。肝が据わっている。
「了解。手付金として五百万円も預かっちゃったしな。このまま何もしないで逃げたら、あのおじさん、今度は俺の首を電話のコードで絞めにくるかもしれない」
冗談めかして笑い、立ち上がる。
ポケットの中に入っている分厚い茶色い封筒の重みが、ずっしりと伝わってくる。
お金をもらうということは、命のやり取りのステージに立つということだ。平和な日常を守るために、一時的にその平和を手放して血生臭い路地裏へと足を踏み入れる。なんとも矛盾した、割に合わない商売だと思う。
「じゃあ、行ってくるわ。夕ご飯のオムライス、楽しみにしとくからな。デミグラスソースは多めで頼む」
俺がクローゼットを開け、出かける準備を始めると、二乃が立ち上がって背中に声をかけた。
「ねえ、八雲」
「ん?」
「怪我、しないでよね。相手は銃を持ってるかもしれないような、タガが外れた連中なんでしょ?」
彼女の声には、隠しきれない心配の色が滲んでいた。俺のオーラの力や身体能力の異常さを一番近くで見て知っているはずの彼女が、それでもこうして送り出す時に不安そうな顔をする。
「大丈夫だって。ただのゴミ掃除だ。夕飯までに綺麗に片付けてくるさ」
俺は振り返り、防刃ベストの上から薄手のジャケットを羽織りながら、ニヤリと笑ってみせた。
「ちゃんと全部片付けてから帰ってきなさいよ! もし途中で逃げ出したら、夕ご飯は塩をかけただけの白ご飯にするからね!」
「厳しいねぇ。最高に美味しいオムライスを期待してるよ」
背中越しに飛んできた言葉に肩をすくめ、俺は重たい金属のドアを開けて外の空気の中へと飛び出した。
*
外は、見事なまでの晴天だった。
空はどこまでも高く青く澄み渡り、太陽の光がアスファルトを照らしている。こんなに天気が良くて平和な日に、薄暗い地下の事務所に潜り込んで半グレの連中と殴り合いをしに行かなければならないなんて、本当に人生は不条理だ。
俺は駅に向かって歩きながら、スマホを取り出して裏社会の「同業者」へ電話をかけた。
数回のコールの後、低くて威圧感のある不機嫌そうな声が耳に届く。
「あ、もしもし。ご無沙汰。……ああ、金は借りないよ。少し『粗大ゴミ』の回収をお願いしたくてね」
周囲に人がいないことを確認し、声を落として要件を伝える。
「うん、新鮮な半グレが十数人。そっちの地下の仕事で使えそうな、威勢のいいタフな連中だろ?」
電話越しの相手からの返答に、俺は思わず苦笑を漏らした。
「……相変わらずシビアだな。ただでさえ手配料でこっちの利益が削られるってのに、きっちりトゴの金利の分まで搾り取る気かよ。……了解。可愛いウサギの餌代でも稼いでおくんだな。確保したらまた連絡する」
通話を切り、スマホをポケットに放り込む。
手付金の五百万円をもらったはいいが、あの冷徹な金貸しへの引き渡し料で結構な額が飛んでいくな。だが、組織の残党に復讐させないためには、連中を社会から完全に隔離する『闇金』の地下施設へ送り込むのが一番手っ取り早くて確実だ。
新宿行きの電車に乗り込み、ドアの近くのスペースに陣取る。
俺は頭の中でこれから相手にする連中の情報を整理し始めた。
相手はヤクザではなく「半グレ」だ。
半グレの厄介なところは、ヤクザのような古いしきたりや、メンツを保つための暗黙のルールが一切存在しないことだ。自分たちの利益を邪魔する者に対しては容赦がなく、一般人を巻き込むことにもためらいがない。法律や警察なんて、自分たちを縛るものではないと本気で思っている。ブレーキの壊れた車が猛スピードで暴走しているような集団。
彼らを止める唯一の方法は、彼らの手足を物理的に折り、組織としての機能を完全に破壊し、心底から「こいつに関わったら自分たちが死ぬ」という圧倒的な恐怖を植え付けることだけだ。
新宿駅の改札を抜けると、そこはもう別世界だった。
人の波をかき分けるようにして東口から外に出る。鳥栖さんのメモにあった住所は、ここから歩いて十五分ほどの場所だ。
大通りを外れ、少しずつ路地裏へと入っていく。華やかなネオンや綺麗な店舗の並びが途切れ、だんだんと街の空気が淀んでいくのが肌で感じられた。
道の端にはいつから放置されているのかわからないゴミ袋の山があり、壁には赤や黒のスプレーで落書きが乱雑に描かれている。
古い油とタバコの煙、下水の臭いが混ざったような悪臭の中を進み、ついに俺はその建物の前にたどり着いた。
そこは、五階建ての古ぼけた雑居ビルだった。
「キャバクラ・アゲハ」「ガールズバー・ルージュ」と胡散臭い看板が掛けられた入り口の前に、スウェットの上下を着た若い男が二人、地べたに座り込んでタバコを吹かしていた。いかにも「見張りです」と言わんばかりの態度だ。
隠れてコソコソ動くのは俺の性に合わない。
覚悟を決め、堂々と歩み出る。足音に気づいた見張りの男たちが顔を上げた。
「あ? なんだおっさん。この店は夜からだぞ。帰れ帰れ」
タバコの煙を吐き出しながら、面倒くさそうに手をシッシッと振る。
「いや、店に飲みに来たわけじゃないんだ。ちょっとこのビルの地下に用事があってさ」
俺がニコニコと笑って答えると、男たちの顔つきが一瞬で険しくなった。
「あぁ? 地下だぁ? てめえ、誰の差し金で来た。ここが誰のシマかわかってて言ってんのか?」
もう一人の男が立ち上がり、俺の胸ぐらを掴もうと手を伸ばしてきた。
その手が俺の服に触れるより早く、俺は体の中のエネルギーのスイッチを入れた。
『纏』。オーラを体の表面に留め、見えない鎧を作り出す技術。
心臓の奥から熱い塊が爆発し、血液と一緒に全身の毛細血管の隅々まで一気に駆け巡る。俺の皮膚は、一瞬にして鋼鉄をもしのぐ硬度を持った鎧へと変貌した。
俺は、男が伸ばしてきた腕の手首を左手で軽く掴んだ。
「痛っ……! な、なんだてめえ、離せ!」
「ごめんな。俺、急いでるんだ。夕飯までに帰らないと、オムライスが食べられなくなっちゃうからさ」
微笑みかけながら、右手の手刀を男の首筋のツボへ軽く振り下ろした。
「ぐふっ……」
たったそれだけで男は白目を剥き、崩れ落ちて地面にうつ伏せに倒れ込んだ。数時間は目を覚まさないだろう。
「なっ……! お前、何しやがった!」
残されたもう一人がパニックになり、腰の後ろから折りたたみ式のナイフを取り出してカチャッと刃を広げた。
「ナイフは危ないよ。怪我したらどうするの」
男が顔を引きつらせながら、ナイフを俺のお腹に向かって突き出してきた。
素人丸出しの大振りの突き。
俺は最小限の動きで半歩身をかわしてその刃をやり過ごすと、すかさず男の肘関節の外側へ掌底を叩き込んだ。
ゴキッという嫌な音と共に、男は悲鳴を上げてナイフを取り落とす。そのまま怯んだ男の胸ぐらを掴み、鳩尾に軽く膝蹴りを沈めた。
男は泡を吹いて、その場に崩れ落ちた。
「さてと。まずは入り口の掃除完了、と」
無駄な汚れを一切つけず、俺は倒れた二人の男を跨いでビルの薄暗い入り口へと足を踏み入れた。
カビとアルコールの臭いが混ざり合う地下への階段を、普通のペースで降りていく。
階段を降りきった先には狭い廊下があり、その奥に重厚な鉄の扉があった。扉の横には小さな監視カメラが赤く光っているが、気にする必要はない。
分厚い扉越しに、中から男たちの怒鳴り声が漏れ聞こえてくる。
「……だから! 延人の野郎のスマホの位置情報は、あそこから動いてねえんだよ!」
「鳥栖ってオッサンの家、もう一回徹底的に調べろ! あの家族が何か隠してんのは間違いねえ!」
ビンゴだ。ここが連中の本拠地。
鳥栖さんの読み通り、彼らは延人が消えたことを鳥栖家のせいだと決めつけ、さらなる行動を起こそうとしている。
ここで彼らの手足を折っておかなければ、鳥栖さんの家族は遅かれ早かれ食い殺されてしまうだろう。
「……よし、お仕事の時間だ」
俺は首を左右に振り、深く呼吸をした。体の中を巡るオーラの密度をさらに一段階引き上げる。
血流が加速し、心臓の鼓動がドクン、ドクンと大きく鳴り響く。皮膚を覆う気の膜が、さらに分厚く強固になっていくのを感じた。
ノックをして「失礼します」と入っていくのは、さすがに間抜けすぎる。
俺は少しだけ後ろに下がり、右足の筋肉にオーラを集中させて鋼のバネのように縮み込ませた。
狙うは、鉄の扉のど真ん中。
「お邪魔しまーす!」
大きな声で叫ぶと同時に、右足を全力で前へと蹴り出した。
ドゴォォォォォォン!!!
ビルの中に爆弾が落ちたかのような轟音が、狭い地下の廊下に響き渡った。
重たい鉄の扉は蹴りの威力に耐えきれず、蝶番から引きちぎられて内側へと吹き飛んだ。スチール製のデスクを真っ二つにへし折り、もうもうと粉塵が立ち込める。
突然の破壊に、室内にいた十人以上の男たちは一瞬だけ時が止まったように動きを止めた。
「……なんだ!? 爆発か!?」
「誰だてめえは!! どこから入りやがった!!」
事態を飲み込んだ男たちが次々と立ち上がり、怒号を上げながらこちらを睨みつけてきた。
俺は粉塵を手で払いながら、ひしゃげた扉の跡を越えて堂々と部屋の中へと足を踏み入れた。
「やあやあ、こんにちは。鳥栖ってオッサンの知り合いの者です」
俺はポケットに両手を突っ込んだまま、にっこりと愛想笑いを浮かべた。
「あんたたちが、彼と彼の家族にずいぶんと執着してるって聞いたもんでね。ちょっと、お話し合いをしに来たんだ。手短に済ませるから、よろしく頼むよ」
飄々とした態度と、蹴り破られた分厚い鉄の扉の残骸。
その圧倒的なギャップに戸惑ったのも束の間、タガの外れた狂犬の群れはすぐに暴力への衝動を上回らせ、次々と武器を手に取り始めた。金属バット、特殊警棒、サバイバルナイフ。そして奥の何人かは、黒光りする拳銃を引き抜いていた。
「なめやがって……ぶっ殺してやる!!」
「ハチの巣にしてやるよ、この野郎!!」
殺意に満ちた怒声とともに、十人以上の男たちが一斉に襲いかかってきた。
「だから、お話し合いって言ったのに。君たち、本当に話を聞かない連中だな」
俺は小さくため息をつきながら、右手をポケットからゆっくりと引き抜いた。
さあ、最高に面倒くさくて、最高に痛快な、大掃除の始まりだ。