念能力者が行く多重クロス世界 作:匿名のななし
スマホの画面が白く光り、けたたましいアラームの音が冷たい部屋の空気を震わせた。
俺は毛布を頭からすっぽりと被ったまま、手探りで枕元のスマホを探り当て、画面を適当にこすってアラームの音を止める。
ふう、と息を吐き出すと、布団の隙間から漏れた空気が白く濁って見えた気がした。
朝というのは、どうしてこうも布団の中から出るのが辛いのだろうか。
俺の体は、体内の『オーラ』を練り上げさえすればコンクリートより硬くなるし、その気になれば飛んでくる銃弾だって弾き返せる。けれど、この「布団の温もり」という圧倒的な魔力の前には、どんなバケモノじみた力も無力だった。
ずっとここで丸まっていたい。このまま冬眠するクマのように、温かい毛布の繭に包まれたまま、春の訪れを知らせる風が吹くまで眠り続けていたい。
そんな俺のささやかな、そして切実な願いは、ガチャリと乱暴にリビングのドアが開く音によって無残にも打ち砕かれた。
「ちょっと、いつまで寝てるのよ! もう出発の時間だって、昨日から何回も言ったでしょ!」
部屋に入ってきたのは、うちの事務所で優秀すぎるアシスタントをしてくれている、中野二乃だ。
声のトーンからして、すでに彼女のエンジンは朝から全開らしい。俺は渋々毛布を少しだけずらし、薄く目を開けて彼女の姿を見た。
そして、思わずまばたきを二、三回繰り返した。
そこには、いつもの見慣れたラフな部屋着や、料理の時のエプロン姿の彼女はいなかった。まるで、冬のファッション雑誌の表紙からそのまま抜け出してきたかのような、やけに気合の入った女の子が立っていたのだ。
彼女が羽織っている淡いピンク色のコートは、見た目からして上質なアンゴラか何かのブレンドらしく、触ったら指が沈み込むほどフワフワしていそうな柔らかい生地だった。首元には真っ白なマフラーをぐるぐると巻き、冷たい風を防ぐように顔の下半分がすっぽりと埋もれている。そのせいで、彼女の少し強気で大きな瞳が、いつもよりさらに強調されて見えた。
足元には、歩くたびにコツコツと小気味良い音を立てる少しヒールのある黒いショートブーツ。手には、コートの色に合わせた上品なアイボリーの小さなハンドバッグを提げている。
ふわりと広がる長いピンク色の髪は、いつものトレードマークである黒いリボンではなく、少し大人っぽい、金の飾りがついたシュシュで綺麗にまとめられていた。
そこから漂ってくるのは、ほんのりと甘い、フローラル系の香水の匂い。
「なんだよ……その、やたらと気合の入った格好は」
俺が寝ぼけ眼をこすりながら言うと、二乃はふんっと鼻を鳴らし、腕を組んで俺を見下ろした。
「気合が入ってるって何よ。今日から北陸の旅館にカニを食べに行くんでしょ? だから、それに合わせたちゃんとした服を着てきただけよ。あんたこそ、昨日『旅行楽しみだなー、早くカニ食べたいなー』なんて言いながら夜中までゲームしてたくせに、まさかそのヨレヨレのスウェットのまま行くつもりじゃないでしょうね」
「そんなわけないだろ。俺だってちゃんと外出用の、動きやすくて、万が一汚れてもいい無地のパーカーを用意してあるよ」
俺が渋々布団から這い出し、ぶるぶると寒さに震えながらクローゼットを開けようとした瞬間、横から二乃の白い手が伸びてきて、俺の腕をピシャリと叩いた。
「却下。これから乗る新幹線の席だって、わざわざ高いお金を払って広々としたグリーン車を取ったのよ? そんな、近所のコンビニに深夜アイスを買いに行くような格好で行かせるわけないでしょ。はい、これ着なさい」
二乃が有無を言わさず俺の胸に押し付けてきたのは、以前、表参道で彼女が俺のために見立てて買ってくれた、上質なネイビーのジャケットと、肌触りの良い白のカットソーだった。
「ええー……これ、生地がしっかりしてる分、肩が凝るから嫌なんだけど。それに、新幹線の中でくつろげないじゃん」
「四の五の言わない。着替えないなら、カニは私一人で全部食べてくるからね」
「わかった、わかったよ! 着るから、俺のカニの権利だけは奪わないでくれ!」
俺はため息をつきながらスウェットを脱ぎ捨て、冷たい空気に身を縮めながら、しぶしぶ二乃が用意した服に袖を通した。
カットソーの滑らかな生地が肌に触れ、その上に仕立てのいいジャケットを羽織る。洗面所に行って寝癖を水で濡らして適当に整え、玄関の姿見の前に立った。
鏡の中には、いつものだらしなく猫背になった俺ではなく、体にフィットした服のおかげで少しだけシルエットがまともに見える男が立っていた。確かに、だらしない俺の雰囲気を少しだけマシに見せてくれている気がする。
「……うん、悪くないわね。やっぱり私の見立ては完璧だわ」
鏡越しに俺をチェックしていた二乃が、満足そうにこくりと頷いた。
「まあ、君のその気合の入った服の横を歩くなら、これくらい着てないとバランスが取れないかもな。……似合ってるよ、その服。すごく可愛いと思う」
俺が鏡から視線を外し、誤魔化すようにサラッと言うと、二乃は一瞬だけパチクリと目を丸くし、それからふいっと勢いよく顔をそらした。
「な、なに急に。そんな取ってつけたようなお世辞なんて言っても、あんたのカニの割り当て量は増えないわよ。ほら、五分で出発するわよ。遅れたら本当に置いていくからね!」
マフラーに顔を深く埋めたまま、早口でまくしたてて玄関のドアノブに手をかける彼女。その後ろ姿の、マフラーからわずかに覗く耳の先が、寒さのせいではなく少しだけ赤く染まっているのを、俺は見逃さなかった。
*
外に出ると、空気は肌を刺すように冷たかった。
息を吐くたびに、真っ白な煙が目の前でフワリと広がり、すぐに冬の乾いた空気の中に溶けて消えていく。道路の端にはうっすらと霜柱が立っていて、踏みしめるたびにサクサクと小気味良い音が鳴った。
俺はジャケットのポケットに両手を深く突っ込み、少し背中を丸めながら駅へと向かって歩く。
隣を歩く二乃は、白いマフラーに顔を埋めながらも、なんだかすごく楽しそうに、弾むような足取りで歩いている。
「そんなに薄着で寒くないの? いくら良いコートだって、やっぱり冬の風は冷たいだろ」
「平気よ。オシャレは我慢って言うじゃない。それに、これから温かい温泉に入って、美味しいものを食べるんだって思ったら、これくらいの寒さなんて全然気にならないわ」
文句を言いながらも、二乃の顔は笑っている。
横断歩道を渡る際、少し凍結していたアスファルトで二乃のブーツがツルッと滑りかけた。
「っと、危ない」
俺が咄嗟に右腕を伸ばして彼女の二の腕を掴むと、二乃は小さく息を呑み、俺の腕にしがみつくようにしてバランスを立て直した。
「……ありがとう。ちょっとヒールが高かったかも」
「転んでカニ食えなくなったら泣くに泣けないからな。足元よく見て歩けよ」
「もう、一言多いのよ」
憎まれ口を叩きながらも、二乃は俺の腕から手を離す時、少しだけ名残惜しそうに指を滑らせたような気がした。いつもならもっとキツいダメ出しが飛んでくるはずだが、やはりこれから向かう「ご褒美」の力は偉大らしい。
電車を乗り継いで東京駅に着くと、そこはすでにものすごい数の旅行客やビジネスマンでごった返していた。
行き交う人々の熱気、キャリーケースの車輪がタイルを転がるガラガラという音、あちこちから聞こえてくる様々な地方の方言。巨大な電光掲示板には、絶え間なく全国各地へと向かう新幹線の時刻と行き先がスクロール表示されている。
「うわあ、すごい人ね。迷子にならないようにしないと」
二乃が周りをキョロキョロと見渡しながら言う。
「俺は背が高いわけじゃないから、この人混みだとすぐに埋もれちゃうかもしれないな。迷子になっても、案内放送で『中野二乃ちゃん、お連れ様がお待ちです』なんて呼び出すのは勘弁してくれよ」
俺が冗談めかして笑いながら言うと、スッ、と。
俺のジャケットの袖口が、軽く下に引っ張られた。
視線を落とすと、二乃の小さな手が、レザーの手袋越しに俺の袖の端っこをキュッと握りしめていた。
「……はぐれたら、あんたが困るでしょ。新幹線の切符を持ってるのは私なんだから」
二乃は前を向いたまま、少しだけ顔をそらしてそんなことを言う。
手を繋いでいるわけではない。ただ布の端をつまんでいるだけだ。けれど、そのわずかな接点から、人混みではぐれないように歩調を合わせようとする彼女の不器用な気遣いが、俺の右腕にじんわりと伝わってくるような気がした。
俺はなんだか少しだけ心臓のあたりがむず痒くなって、わざとらしく咳払いをした。
「そうだな。君とはぐれたら、俺は一人で駅の立ち食いそばを食べて帰るハメになるからな。しっかり掴まっといてくれ」
俺たちはそのまま、袖を掴まれた状態で人の波をかき分けて進んだ。
新幹線の改札を抜ける前に、俺たちにはどうしても済ませておかなければならない、重要な儀式がある。
駅弁の調達だ。
これがないと、列車の旅は始まらないと言っても過言ではない。
駅弁屋の巨大なショーケースの中には、まるで宝石箱のように色とりどりのお弁当が山積みになっていた。
霜降り肉がぎっしり敷き詰められた牛肉弁当、イクラやカニの身が輝く海鮮弁当、季節の野菜や煮物が少しずつ上品に詰められた幕の内弁当。
旅行客の熱気がこもる店内で、俺と二乃はショーケースの前に並んで立ち、真剣な顔で品定めを始めた。
「どれにしようかな……。この牛肉のやつもすっごく美味しそうだけど、これからお宿でカニのフルコースを食べるんだから、お昼はあまり重たくない、お肉よりお魚のほうが胃に優しいかしら。あ、でもこの穴子のお弁当も捨てがたいわね」
二乃が人差し指を口元に当てながら、真剣な顔をして悩んでいる。
「俺はもう決めたぞ。これだ」
俺が指差したのは、大きな鶏の唐揚げと、分厚いハンバーグ、そして太いエビフライがどかんと乗った、見事なまでに茶色一色のわんぱくなお弁当だ。
「ちょっと……あんた、小学生の男の子じゃないんだから。もう少し彩りとか、季節の食材とか、栄養バランスを考えなさいよ」
二乃が呆れたようにため息をつく。
「いいんだよ、彩りなんて。俺は今、圧倒的なカロリーを摂取したいんだ。それに、この茶色いおかずたちの組み合わせは、人類の歴史上、絶対に舌を裏切らない最強の布陣だからな」
結局、二乃は色々な種類のおかずが少しずつ入った、見た目がとても華やかで綺麗なお弁当を選んだ。
温かいお茶も二本買い込み、俺たちは新幹線がやってくるホームへと向かった。
ホームに出ると、そこには冷たいビル風が吹き抜けていた。
足元のコンクリートから、シンシンと骨の髄まで冷え込んでくるような感覚がする。
「っっさむ……早く来ないかな」
俺がポケットの中で手を丸め、体をブルブルと震わせていると、二乃が少しだけ俺のほうにすり寄ってきた。
「本当に、防刃ベストだのなんだの物騒なものは着込むくせに、肝心の防寒対策が甘すぎるのよ。バカみたい」
文句を言いながらも、彼女のコートのフワフワした部分が俺の腕に触れ、そこからじんわりと柔らかな温かさが伝わってくる。
嫌な気はしない。むしろ、この底冷えする待ち時間がもう少しだけ長く続いてもいいかな、なんて、柄にもないことを思ってしまう自分に驚く。
やがて、アナウンスのメロディとともに、シュッとした顔つきの流線型の新幹線が、風を切り裂きながらホームに滑り込んできた。
俺たちが乗するのは、普通よりも少しお金を多く払って乗る、広くて快適なグリーン車の車両だ。
二乃に引っ張られるようにして車内に乗り込むと、そこは外の寒さが嘘のようにとても暖かく、絨毯敷きの床が足音を吸収する静かな空間だった。
「おおっ、すげえ。席が広いぞ。シートの生地もベロアみたいでふかふかだ」
俺は自分の席を見つけて、どかっと腰を下ろした。
足元にはフットレストという足を乗せる台まで備え付けられており、手元のリクライニングのボタンを押すと、背もたれが深く倒れて、まるで高級なマッサージチェアに包み込まれるような感覚になった。
「はしゃぎすぎよ。他のお客さんの迷惑になるから、少し静かにして」
二乃が隣の窓際の席に座りながら、俺の腕を軽くつねった。
「だって、こんな豪華な席に座るの、前の人生含めても初めてかもしれないからさ。お金持ちって、いつもこんな快適な移動をしてるんだな。これなら何時間乗ってても腰が痛くならない」
「だからって、声が大きいの。ほら、コートをシワにならないように上の棚に乗せて」
俺は言われるがままに立ち上がり、二乃の淡いピンク色のコートをふんわりと畳んで、俺のジャケットと一緒に上の棚に押し込んだ。
微かなモーター音とともに、新幹線が滑るように静かに走り出す。
窓の外の景色が、ゆっくりと後ろへ流れていく。
最初は灰色のビルばかりの風景だが、これが少しずつ自然豊かな景色へと変わっていくのを見るのが、列車の旅の醍醐味だ。
「ねえ、お弁当、もう食べちゃおっか」
まだ出発して十分も経っていないのに、駅弁の匂いに耐えきれなくなった俺は、我慢しきれずに提案した。
「早すぎるわよ。まだ都内も抜けてないじゃない」
「いいじゃないか。俺の胃袋はもう、さっきから唐揚げを迎える準備が完全にできてるんだよ。唐揚げが『早く食べて』って俺を呼んでる」
「はぁ……本当に子供なんだから。まあいいわ、私も朝からバタバタしてて少しお腹空いてきたし」
二乃は自分の前にある小さなテーブルを引き出し、綺麗なお弁当の蓋を開けた。
俺も自分の茶色いお弁当を広げる。
「ほら、これ。朝少し早く起きて作ってきたの」
二乃がハンドバッグの中から、小さなタッパーを取り出した。
パカッと蓋を開けると、中には綺麗に巻かれた出汁巻き卵と、丁寧に切れ目が入れられたタコのかたちをしたウインナーが並んでいた。
「おっ! マジで!? やった!」
俺は思わずテンションが跳ね上がった。
二乃の作るご飯は、この世で一番うまい。それはもう、俺の細胞の隅々にまで完全に刷り込まれている揺るぎない事実だ。
駅で買ったお弁当も間違いなく美味しいだろうが、この手作りのおかずが追加されることで、この食事の幸福度は一気に限界突破する。
「そんなに喜ばれると、早起きして作った甲斐があるわね。ほら、卵焼き、食べる?」
二乃が自分のお箸で、ほんのりと焦げ目のついた卵焼きを一つ摘まんで、俺の目の前まで持ってきた。
「あ、ああ。もらうよ」
俺は少しだけドキッとして、身を乗り出そうとした。
しかし、二乃はふいっと意地悪く腕を引っ込め、自分の口の中にその卵焼きをポンと放り込んだ。
「……ん、美味しい。お弁当用だから、少しだけ甘めの味付けにして正解だったわ」
「おい! 今のは完全に俺にくれる流れだっただろ!」
俺が抗議すると、二乃はクスクスと笑いながら、もう一つの卵焼きを摘まんだ。
「冗談よ。ほら、口開けて」
今度は本当に、俺の口元まで卵焼きを運んできてくれた。
周囲の乗客の目が一瞬気になったが、ここで恥ずかしがって食べないのも変だと思い、俺は思い切ってパクッと口に入れた。
出汁の豊かな香りがふわっと鼻を抜け、噛むと卵の優しい甘さと絶妙な塩気が口いっぱいに広がった。
「……うまい。冷めてるのに、なんでこんなに美味しいんだ」
「でしょ? あんたの好みに合わせて、お出汁とお砂糖のバランスを調整してあげたんだから」
二乃は得意げに笑って、自分のお弁当を食べ始めた。
俺も、負けじと茶色い弁当の主役である唐揚げにかぶりつく。冷めているのに衣がサクサクで、中からはしっかりと下味のついた肉汁がじゅわっと染み出してくる。
ハンバーグもエビフライも、期待通りの濃い味付けで、白いご飯が無限に吸い込まれていく。
「あんたのそれ、一口ちょうだい」
二乃が俺の唐揚げをじっと見つめて言った。
「いいよ。じゃあ、君のその、鰆の西京焼きと交換な」
俺たちは、お互いのお弁当のおかずを交換し合いながら、あっという間に全部を平らげてしまった。
食後には、車内に回ってきたワゴンを押す販売員さんから、ホットコーヒーと、カチカチに凍ったバニラアイスクリームを買った。
「冬に暖かい部屋で食べるアイスって、なんでこんなに美味しいのかしらね」
二乃がプラスチックのスプーンが折れそうになるくらい固いアイスを少しずつ削りながら、幸せそうな顔で言った。
「わかる。こたつに入ってミカンを食べるのと同じ原理だな。冷たいアイスの後に、この苦いホットコーヒーを飲むのが最高なんだよ」
俺もコーヒーをすすりながら、深く頷いた。
食事が終わると、二乃はハンドバッグの中から、色鮮やかな旅行雑誌を取り出した。
「ねえ八雲、聞いて。お宿に着いてからのプランなんだけどね」
二乃は付箋がたくさん貼られたページを開き、俺に見えるようにテーブルに置いた。
「今日はカニのフルコースを食べて温泉に入るとして、明日はチェックアウトした後に、ここのロープウェイに乗って雪山の絶景を見に行くの。で、その後は近くの温泉街を散策して、このカフェで限定の抹茶パフェを食べるわ。それから……」
「ちょっと待って。俺たち、カニを食うために旅行に来たんじゃなかったっけ? なんでそんなに分刻みのスケジュールが組まれてるの?」
俺が呆れてツッコミを入れると、二乃はむっとした顔で言い返した。
「せっかくここまで来たんだから、観光しないともったいないじゃない。あんたは放っておいたら、旅館の部屋でずっとゴロゴロしてるだけでしょ」
「いいじゃないか、旅館でゴロゴロ。それこそ至高の贅沢だぞ」
「却下。明日は私がしっかり案内してあげるから、あんたは大人しくついてきなさい」
そう言って、二乃は再び雑誌のページをめくり始めた。
「あ、ここも良さそうね。ガラス細工の体験工房だって。八雲、こういうの苦手そうだけど、たまにはやってみるのも……」
熱心にプランを語る彼女の横顔を、俺はコーヒーを片手にぼんやりと眺めていた。
文句を言いつつも、こうして俺との旅行を楽しんでくれている彼女の姿を見るのは、満更でもない。裏社会の血生臭いトラブルに巻き込まれてばかりの俺たちにとって、こんな風に『ただの旅行』で頭を悩ませることができる時間が、どれほど貴重なものか。
お腹もいっぱいになり、グリーン車の座席の快適な暖かさも手伝って、抗いがたい心地よい眠気が襲ってくる。
「ちょっと寝るわ。着く少し前になったら起こしてくれ」
「わかったわ。私も、この雑誌をもう少し読んだら寝るかも」
二乃の声が、少し遠くに聞こえた。
新幹線の規則正しいガタン、ゴトンという揺れと、低いモーターの音が、最高の子守唄になる。
俺の意識は、あっという間に深い闇の中へと沈んでいった。
どれくらい時間が経っただろうか。
俺は、右肩にズシッという柔らかな重みを感じて、ゆっくりと目を覚ました。
首を少しだけ動かして隣を見ると、旅行雑誌を膝の上に広げたままの二乃が、俺の肩に頭を乗せて、すやすやと眠っていた。
窓から差し込む冬の淡い光が、彼女の長いまつげの影を頬に落としている。
スースーという、規則正しくて小さな寝息が聞こえてくる。
かすかに開いたピンク色の唇が、とても無防備で可愛らしかった。
しばらく新幹線に揺られているうちに、コクリ、コクリと一定のリズムを刻み始め、やがて大きく車体が揺れた拍子に、頭がコトンと乗ってしまったのだろう。
無理もない。
表向きは「揉め事処理屋のアシスタント」だが、実のところ彼女の業務量は膨大だ。俺が受けた無茶な仕事のスケジューリング、事務所の細々とした経理、パソコンの画面と睨めっこしながらの裏社会との折衝の隠蔽工作。俺が力任せに暴れた後のフォローを、彼女は文句を言いながらも完璧にこなしてくれている。
俺には見えないところで、彼女の体には相当な疲労が溜まっていたのだろう。
俺は、一瞬だけ体を固くした。
動いたら、彼女を起こしてしまうかもしれない。そう思って、俺は右肩を極力動かさないようにして、呼吸すらも浅くした。
彼女の髪から、ほのかに甘いシャンプーの匂いがする。
いつもはあんなに口うるさくて、俺のことをバカだのヘタレだのと遠慮なく言ってくるくせに、寝ている時は本当に、ただの年相応の可愛い女の子だ。
この無防備な姿を、タチの悪い連中や、裏社会の危ない奴らに見せるわけにはいかない。
俺が、俺の持っている力のすべてを使ってでも、絶対に守ってやらなきゃいけないんだ。
そんな、柄にもない使命感みたいなものが、胸の奥から静かに、けれど熱く湧き上がってくるのを感じた。
窓の外を見ると、景色はいつの間にか、都会の喧騒から遠く離れたものに変わっていた。
新幹線が長いトンネルを抜けるたびに、周囲の風景は雪深く、白く染まっていく。
一面の銀世界。
田んぼも、民家の屋根も、遠くにそびえる連峰も、すべてが真っ白な雪に覆われていて、太陽の光を反射してキラキラとまぶしく輝いている。
その光のまぶしさに反応したのか、二乃が「んん……」と小さくうめき声を上げ、ゆっくりと目を覚ました。
「あ……」
自分が俺の肩に寄りかかっていたことに気づき、弾かれたように顔を上げる。
「ご、ごめんなさい! 私、いつの間にか寝ちゃってて……重かったでしょ?」
顔を真っ赤にして、慌てて髪を整えようとする二乃。
「全然。お前の頭くらい、羽みたいなもんさ。それより、外を見てみろよ。すごい雪だぞ」
俺が窓のほうを顎でしゃくると、二乃は窓の外を見て、目を真ん丸に見開いた。
「うわあ……! 綺麗! 本当に真っ白ね!」
二乃は窓ガラスに顔をくっつけるようにして、外の景色に見入っている。
さっきまでの恥ずかしさはどこへやら、子供のようにはしゃぐ横顔が、なんだかとても微笑ましかった。
*
目的の駅で降りた俺たちを待っていたのは、東京の寒さとは次元が違う、空気が刃物のように冷たい極寒の雪国だった。
自動ドアを抜けた瞬間、刺すような冷気が顔を殴りつけてくる。
「っっっさむ!! なにこれ、冷凍庫の中より寒いじゃない!」
二乃がコートの襟をぎゅっと合わせ、体を縮こまらせた。
吐く息は真っ白で、足元の雪はキュッキュッと硬い音を立てる。
俺たちは急いで駅前のロータリーに停まっていたタクシーに逃げ込むように乗り込んだ。
「ふう、助かった。車の中は暖房が効いてて天国だな」
俺がシートに深く寄りかかると、運転手のおじさんがバックミラー越しに話しかけてきた。
「お客さんたち、東京からですか? 今日の吹雪は格別ですよ。これからお宿ですか?」
「ええ。〇〇っていう、お宿までお願いします」
二乃が宿の名前を告げると、運転手のおじさんは「おお」と感嘆の声を上げた。
「あそこはいいお宿ですよ。料理も最高だし、お風呂も広くて景色がいい。カニを食べに来たんでしょ?」
「ええ、そうです。もう、お腹をペコペコに空かせてきましたからね」
「そりゃあ楽しみだ。しっかり堪能してくださいよ」
タクシーは、雪の積もった道路を、チェーンを巻いたタイヤがジャラジャラと軋む音を立てながらゆっくりと進んでいく。
窓の外の吹雪はどんどん激しさを増し、空は鉛色に淀み、視界を白く染め上げていった。雪が全ての音を吸収しているのか、外の景色は不気味なくらいに静寂に包まれている。
「ねえ、八雲。カニ、どうやって食べるのが一番好き?」
二乃が隣で、楽しそうに聞いてきた。
「うーん……やっぱり、シンプルに炭火で焼いて食べるのが一番香ばしい匂いが立ってうまいんじゃないか? あとは、生の刺身も捨てがたいな。氷水で締めた、あのねっとりとした甘い身」
「私は絶対に、カニしゃぶね! 温かいお出汁にサッとくぐらせて、ポン酢の酸味と一緒に食べるの。あとは、最後のご飯にカニの旨味が溶け込んだお出汁で作るお雑炊。卵でフワッととじたあれが最高なのよ」
「うわ、それも美味そうだな。想像しただけで胃袋が鳴りそうだ」
俺たちは、まだ見ぬカニ料理のフルコースを想像して、暖房の効いた車内で大盛り上がりした。
「ほら、見えてきましたよ。あそこが、お客さんたちのお宿です」
運転手のおじさんが指差した先を見て、俺と二乃は同時に会話を止め、言葉を失った。
そこにあったのは、俺の想像していた「お宿」のレベルを遥かに超えた、まるでどこかの大名のお城のような、巨大な和風建築だった。
重厚な黒光りする太い柱で作られた立派な木の門があり、そこから続く石畳の道は、雪が綺麗に払われている。門の横には、雪吊りをされた松の木が美しく手入れされて植えられており、建物の外壁は落ち着いた色合いで、圧倒的な歴史と格式を感じさせる。
だが、問題はそこじゃない。
周囲には民家一つなく、ただ真っ白な雪と深い森に囲まれている。
背後には切り立った雪山。手前には細い一本道。まさに外界から完全に遮断された、陸の孤島だ。
俺の脳内にある『ミステリー愛読者』としての警報が、けたたましく鳴り響いた。
「……ねえ二乃。なんかこれ、完全にミステリー小説の殺人事件が起きるお約束のフラグのど真ん中に来てないか? クローズドサークルってやつだ。絶対にこの後、吹雪で道が塞がれて、電話線も切られるパターンだぞ」
俺が顔を引きつらせて本気で危惧を口にすると、二乃は呆れたように大きなため息をついた。
「は? 何バカなこと言ってんの。ただの山奥にある高級旅館でしょ、あんたの裏社会に染まった職業病よ。ほら、もたもたしてたら置いてくわよ!」
二乃はタクシーを降りるなり、出迎えに来た洗練された所作の仲居さんに案内され、足早にズンズンと門の中へ入っていく。
俺は舞い散る吹雪を見上げながら、頼むから俺の予想が外れて、平和にカニだけ食わせてくれと、日本の神様に強く祈りながら彼女の背中を追った。