現代日本に転生したけど、何かおかしくない? 作:匿名のななし
スマホの画面が白く光った。けたたましいアラームの音が、冷たい部屋の空気を震わせた。
俺は毛布を頭からすっぽりと被ったまま、手探りで枕元のスマホを探り当てた。そして、画面を適当にこすって音を止める。
ふう、と息を吐き出す。すると、布団の隙間から漏れた空気が、白く濁って見えた気がした。
朝というのは、どうしてこんなにも布団の中から出るのが辛いのだろうか。
俺の体は、体の中にある『オーラ』を練り上げさえすれば、コンクリートより硬くなる。その気になれば、飛んでくる銃弾だって弾き返せる。けれど、この「布団の温もり」という圧倒的な魔力の前には、どんなバケモノじみた力も無力だった。
ずっとここで丸まっていたい。このまま冬眠するクマみたいに、温かい毛布にすっぽりと包まれたまま、春の訪れを知らせる風が吹くまで眠り続けていたい。
そんな俺のささやかで、切実な願い。それは、ガチャリと乱暴にリビングのドアが開く音によって、あっけなく打ち砕かれた。
「ちょっと! いつまで寝てるのよ! もう出発の時間だって、昨日から何回も言ったでしょ!」
部屋に入ってきたのは、うちの事務所で優秀すぎるアシスタントをしてくれている、中野二乃だ。
声のトーンからして、どうやら彼女のエンジンは朝から全開らしい。
「うぅ……あと五分。いや、三分でいいから……」
「ダメ! 一分もダメ! 新幹線乗り遅れたらどうすんのよ!」
「新幹線なんて……一本遅らせればいいじゃん……」
「指定席取ってあるの! ほら、起きなさい!」
バサッと容赦なく毛布の端を引っ張られた。冷たい外気が、一気に布団の中に侵入してくる。
俺はしぶしぶ毛布を少しだけずらし、薄く目を開けて彼女の姿を見た。
そして、思わずまばたきを二、三回繰り返した。
そこには、いつもの見慣れたラフな部屋着や、料理のときのエプロン姿の彼女はいなかった。まるで冬のファッション雑誌の表紙からそのまま抜け出してきたような、やけに気合の入った女の子が立っていたのだ。
彼女が着ている淡いピンクのコートは、見るからに高級な素材でできていて、触れば指先が沈み込みそうなほど柔らかそうだ。首元には真っ白なマフラーをぐるぐると巻いている。冷たい風を防ぐように、顔の下半分がすっぽりと埋もれていた。そのせいで、彼女の少し強気で大きな瞳が、いつもよりさらに強調されて見えた。
足元には、少しヒールのある黒いショートブーツを履いていて、歩くたびにコツコツと心地よい音を立てる。手には、コートの色に合わせた上品なクリーム色の小さなハンドバッグを提げていた。
ふわりと広がる長いピンク色の髪は、いつもの黒いリボンではなく、少し大人っぽい金の飾りがついたシュシュで綺麗にまとめられている。
そこから漂ってくるのは、ほんのりと甘い、花の香りのような香水の匂いだった。
「……なんだよ、その格好」
俺が寝ぼけ眼をこすりながら言うと、二乃は腕を組み、怒ったように唇を尖らせて俺を見下ろした。
「なによ。変だって言いたいわけ?」
「変っていうか……気合入りすぎだろ。今日から北陸の旅館にカニを食べに行くだけだぞ?」
「『だけ』とは何よ! せっかくの温泉旅行なんだから、それに合わせたちゃんとした服を着てきただけよ! あんたこそ、昨日『早くカニ食べたいなー』なんて言いながら夜中までゲームしてたくせに、まさかそのヨレヨレのスウェットのまま行くつもりじゃないでしょうね」
「そんなわけないだろ。ちゃんと外出用の、万が一醤油やカニ味噌が飛んでも目立たない黒のパーカーを用意してあるよ」
「カニ味噌前提で服選んでんじゃないわよ!」
俺がぶるぶると寒さに震えながらクローゼットを開けようとした。その瞬間、横から二乃の手が伸びてきて、俺の手首をピシャリと叩いた。
「却下。これから乗る新幹線の席、わざわざ高いお金を払って広々としたグリーン車を取ったのよ? そんな、深夜のコンビニにアイス買いに行くような格好で行かせるわけないでしょ。はい、これ着なさい」
二乃が文句を言わせない勢いで俺の胸に押し付けてきたのは、以前、表参道で彼女が選んで買ってくれた服だった。上質なネイビーのジャケットと、肌触りの良い白のカットソーだ。
「ええー……これ、生地がしっかりしてる分、肩が凝るから嫌なんだけど。新幹線の中でゴロゴロできないじゃん」
「誰が新幹線でゴロゴロしろって言ったのよ。大人しく座ってなさい」
「スウェットの方が百倍楽なのに……」
「つべこべ言わない! 着替えないなら、カニのコースは私一人で全部食べてくるからね」
「わかった、わかったよ! 着るから! 俺のカニの権利だけは奪わないでくれ!」
俺はため息をつきながらスウェットを脱ぎ捨てる。冷たい空気に身を縮めながら、しぶしぶ二乃が用意した服に袖を通した。
カットソーのなめらかな生地が肌に触れ、その上に仕立てのいいジャケットを羽織る。それから洗面所に行って、寝癖を水で濡らして適当に整え、玄関の全身鏡の前に立った。
鏡の中には、いつものだらしなく猫背になった俺はいなかった。体にぴったりと合った服のおかげで、少しだけスタイルがまともに見える男が立っていた。
「……うん、悪くないわね。やっぱり私のセンスは完璧だわ」
鏡越しに俺をチェックしていた二乃が、満足そうに腕を組んで頷いた。
「まあ、君のその気合の入った服の横を歩くなら、これくらい着てないとバランスが取れないかもな」
「気合気合ってうるさいわね。普通のお出かけよ」
「似合ってるよ、その服。……すごく可愛いと思う」
俺が鏡から視線を外し、さらりと言うと。
二乃は一瞬だけパチクリと目を丸くした。それから、ふいっと勢いよく顔をそらした。
「な、なに急に……そんなわざとらしいお世辞を言っても、あんたの食べるカニの量は増えないわよ」
「お世辞じゃないって。本音だよ」
「……ほ、ほら! もう五分で出発するわよ! 遅れたら本当に置いていくからね!」
マフラーに顔を深く埋めたまま早口で言い返し、玄関のドアノブに手をかける。
その背中を見送る。白いニットの隙間からのぞく彼女の耳の先が、寒さのせいではなく、真っ赤に染まっているのを俺は見逃さなかった。
*
外に出ると、空気は肌を刺すように冷たかった。
息を吐くたびに、真っ白な煙が目の前でフワリと広がる。そして、すぐに冬の乾いた空気の中に溶けて消えていく。道路の端にはうっすらと霜柱が立っていて、踏みしめるたびにサクサクと心地よい音が鳴った。
俺はジャケットのポケットに両手を深く突っ込み、少し背中を丸めながら駅へと向かって歩く。
隣を歩く二乃は、白いマフラーに顔を埋めながらも、なんだかすごく楽しそうに、弾むような足取りで歩いていた。
「そんなに薄着で寒くないの? いくら良いコートだって、冬の風は冷たいだろ」
「平気よ。オシャレは我慢って言うじゃない」
「我慢して風邪引いたら元も子もないだろ」
「引かないわよ! それに、これから温かい温泉に入って、美味しいカニを食べるんだって思ったら、これくらいの寒さなんて全然気にならないわ」
文句を言いながらも、二乃の横顔は笑っている。
横断歩道を渡りかけたときだった。白線の上で凍りついたアスファルトに、二乃のブーツがツルッと滑った。
「きゃっ」
「っと、危ない」
俺がとっさに右腕を伸ばして彼女の腕を掴む。すると二乃は小さく息をのみ、俺の腕にしがみつくようにしてバランスを立て直した。
ふわりと、コートのやわらかな毛並みと甘い香水の匂いが、すぐ近くに迫った。
「……ありがとう。ちょっとヒールが高かったかも」
「転んでカニ食えなくなったら泣くに泣けないからな。足元よく見て歩けよ」
「もう、一言多いのよ」
文句を言いながらも、二乃は俺の腕から手を離す瞬間、どこかさみしそうに指先をすべらせた。いつもなら鋭いチョップの一発でも飛んでくるところだが、これから待っているカニの魔力はそれほど偉大らしい。
電車を乗り継いで東京駅に着くと、そこはすでに、ものすごい数の旅行客や仕事へ向かう大人たちであふれかえっていた。
行き交う人々の熱気。キャリーケースの車輪が、タイルを転がるガラガラという音。あちこちから聞こえてくる、さまざまな地方の言葉。巨大な電光掲示板には、絶え間なく全国各地へと向かう新幹線の時刻と行き先が流れるように表示されている。
「うわあ、すごい人ね……迷子になりそう」
二乃が周りをキョロキョロと見渡しながら言う。
「俺は背が高いわけじゃないから、この人混みだとすぐに埋もれちゃうかもしれないな。迷子になっても、案内放送で『中野二乃ちゃん、お連れ様がお待ちです』なんて呼び出すのは勘弁してくれよ」
俺が冗談めかして笑いながら言うと、スッ、と。
俺のジャケットの右袖口が、軽く下に引っ張られた。
視線を落とす。すると、二乃の小さな手が、革の手袋ごしに俺の袖の端っこをキュッと握りしめていた。
「……二乃?」
「はぐれたら、あんたが困るでしょ」
「え?」
「新幹線の切符を持ってるのは私なんだから。置いていかれたら困るでしょって言ってるの」
二乃は前を向いたまま、少しだけ顔をそらしてそんなことを言う。
手を繋いでいるわけではない。ただ布の端をつまんでいるだけだ。けれど、そのわずかな接点から、彼女の不器用な優しさが伝わってきた。人混みの中ではぐれないよう、歩くペースを合わせようとしてくれているのだ。それが俺の右腕にじんわりと響くような気がした。
俺はなんだか少しだけ心臓のあたりがむずがゆくなって、わざとらしく咳払いをした。
「そうだな。君とはぐれたら、俺は一人で駅の立ち食いそばを食べて帰るハメになるからな。しっかり掴まっといてくれ」
「離せって言われても離さないわよ」
俺たちはそのまま、袖を掴まれた状態で人の波をかき分けて進んだ。
新幹線の改札を抜ける前に、俺たちにはどうしても済ませておかなければならない、大切なミッションがある。
駅弁を買うことだ。
これがないと、列車の旅は始まらないと言っても大げさではない。
駅弁屋の巨大なショーケースの中には、まるで宝石箱のように、色とりどりのお弁当が山積みになっていた。
おいしそうな肉がぎっしり敷き詰められた牛肉弁当。イクラやカニの身が輝く海鮮弁当。季節の野菜や煮物が少しずつ上品に詰められた幕の内弁当。
「どれにしようかな……この牛肉のやつもすっごく美味しそうだけど、これからお宿でカニのフルコースを食べるんだから、お昼はあまり重たくない、お魚のほうが胃に優しいかしら。あ、でもこの穴子のお弁当も捨てがたいわね」
二乃が人差し指を顎に当てながら、真剣な顔をして悩んでいる。
「俺はもう決めたぞ。これだ」
俺が指差したのは、大きなおかずがたくさん乗ったお弁当だ。鶏の唐揚げと分厚いハンバーグ、そして太いエビフライがどかんと乗っている。見事なまでに茶色一色の、わんぱくなお弁当だった。
「ちょっと……あんた、小学生の男の子じゃないんだから。もう少し彩りとか、季節の食材とか、栄養バランスを考えなさいよ」
二乃が呆れたようにため息をつく。
「いいんだよ、見た目の彩りなんて。茶色いおかずの組み合わせは、人類の歴史上、絶対に舌を裏切らない最強のチームなんだから。俺は今、圧倒的なカロリーを体に入れたいんだよ」
「胃もたれしても知らないからね」
文句を言いつつも、二乃は色々な種類のおかずが少しずつ入った、見た目がとても華やかで綺麗なお弁当を選んだ。
温かいお茶も二本買って、俺たちは新幹線がやってくるホームへと向かった。
ホームに出ると、そこには冷たいビル風が吹き抜けていた。
足元のコンクリートから、しんしんと体の芯まで冷え込んでくるような感覚がする。
「っっさむ……早く来ないかな」
俺がポケットの中で手を丸め、体をブルブルと震わせていると、二乃が少しだけ俺のほうにすり寄ってきた。
「本当に、防刃ベストだのなんだの、危ないものは着込むくせに。肝心の寒さ対策が甘すぎるのよ。バカみたい」
「あれは体温が逃げないから、案外あったかいんだぞ」
「そういう問題じゃないでしょ」
言い合いながらも、彼女のコートのフワフワした部分が俺の腕に触れた。そこからじんわりと柔らかな温かさが伝わってくる。
嫌な気はしない。むしろ、この底冷えする待ち時間が、もう少しだけ長く続いてもいいかな。そんな、自分でもらしくないことを思ってしまい、少し驚いた。
やがて、アナウンスのメロディが鳴った。風を切り裂きながら、シュッとしたかっこいい形の新幹線がホームに滑り込んできた。
俺たちが乗るのは、広くて快適なグリーン車の車両だ。
「ほら、八雲、乗るわよ」
二乃に袖を引かれるようにして車内に乗り込んだ。するとそこは、外の寒さが嘘のようにとても暖かく、じゅうたんが敷かれた床が足音を吸収する静かな空間だった。
「おおっ、すげえ。席が広いぞ。シートの生地もふかふかだ」
俺は自分の席を見つけて、どかっと腰を下ろした。
足元には足を置く台まで備え付けられている。手元のボタンを押すと、背もたれが深く倒れた。まるで高級なマッサージチェアに包み込まれるような感覚になった。
「はしゃぎすぎよ。他のお客さんの迷惑になるから、少し静かにして」
二乃が隣の窓際の席に座りながら、俺の腕を軽くつねった。
「だって、こんな豪華な席に座るの、前の人生含めても初めてかもしれないからさ。お金持ちって、いつもこんな快適な移動をしてるんだな。これなら何時間乗ってても腰が痛くならない」
「だからって、声が大きいの。ほら、コートをシワにならないように上の棚に乗せて」
「へいへい、言われた通りに」
俺は立ち上がり、二乃の淡いピンク色のコートをふんわりと畳んで、俺のジャケットと一緒に上の棚に収めた。
かすかなモーター音とともに、新幹線がすべるように静かに走り出す。
窓の外の景色が、ゆっくりと後ろへ流れていく。
最初は灰色のビルばかりの風景だ。けれど、これが少しずつ自然豊かな景色へと変わっていくのを見るのが、列車の旅の一番の楽しみだ。
「ねえ、お弁当、もう食べちゃおっか」
まだ出発して十分も経っていない。けれど、駅弁の匂いに耐えきれなくなった俺は、がまんしきれずに提案した。
「早すぎるわよ。まだ都内も抜けてないじゃない」
「いいじゃないか。俺の胃袋はもう、さっきから唐揚げを迎える準備が完全にできてるんだよ。唐揚げが『早く食べて』って俺を呼んでる」
「呼んでないわよ、気のせいでしょ」
「呼んでるんだって。冷めないうちに食べるのが礼儀だろ?」
「駅弁は最初から冷めてるものでしょ……」
二乃はあきれたように肩をすくめたが、ふっと口元をゆるめた。
「はぁ……本当に子供なんだから。まあいいわ、私も朝からバタバタしてて少しお腹空いてきたし」
二乃は自分の前にある小さなテーブルを引き出し、きれいなお弁当のふたに指をかけた。
俺も茶色一色のお弁当の包みをといて、ふたを外した。
立ち上る揚げ物の香ばしい匂いが、ダイレクトに俺の胃袋を刺激してきた。
「ほら、これ。朝少し早く起きて作ってきたの」
二乃がハンドバッグの中から、小さなタッパーを取り出した。
パカッと半透明の蓋を開ける。すると中には、黄色く輝く出汁巻き卵と、丁寧に切れ目が入れられたタコのかたちをしたウインナーが綺麗に並んでいた。
「おっ! マジで!? やった!」
「声が大きいのよ、もう……」
二乃は呆れたように眉を下げたが、その口元は嬉しそうに緩んでいる。
二乃の作るご飯は、この世で一番うまい。それはもう、俺の細胞の隅々にまで完全に刻み込まれている揺るぎない事実だ。
駅で買ったお弁当も間違いなく美味しいだろう。けれど、この手作りのおかずが追加されることで、この食事の幸福度は一気に限界突破する。
「そんなに喜ばれると、早起きして作った甲斐があるわね。……ほら、卵焼き食べる?」
「食べる食べる。一番に食べる」
「ふふっ。じゃあ──」
二乃が自分のお箸で、厚みのある卵焼きを一つ摘まんだ。ほんのりと焦げ目のついたそれを、俺の目の前までスッと持ってきた。
「あ、ああ。もらうよ」
俺は少しだけドキッとして、身を乗り出そうと口を開けた。
しかし──二乃はふいっと意地悪く腕を引っ込めた。そして、自分の口の中にその卵焼きをポンと放り込んだ。
「……ん、美味しい。お弁当用だから、少しだけ甘めの味付けにして正解だったわ」
「おい! 今のは完全に俺にくれる流れだっただろ!」
「自分で取って食べなさいよ、お箸あるでしょ?」
「君が目の前に突き出してきたから口開けたんじゃないか!」
俺が文句を言うと、二乃はクスクスと喉を鳴らして笑いながら、もう一つの卵焼きを摘まみ直した。
「冗談よ。そんなにムキにならないの。……ほら、口開けて」
「またフェイントかける気だろ」
「かけないわよ。ほら、あ・あ・ん」
今度は本当に、湯気を立てない程度に冷めた卵焼きが、俺の口元へと運ばれてきた。
周りの乗客の目が一瞬気になったが、ここで引き下がるのも男としてのメンツが潰れる。
俺は思い切って、パクリと口に入れた。
噛み締めた瞬間、上品な出汁の香りがじゅわっと口いっぱいに広がった。優しい卵の甘みと、奥にある絶妙な塩気のバランスが最高だ。
「……うまい。冷めてるのに、なんでこんなにふんわりしてんだよ」
「でしょ? あんたの好みに合わせて、お出汁とお砂糖のバランスを微調整してあげたんだから。感謝しなさいよね」
「感謝しかありません。二乃様、一生ついていきます」
「調子のいいことばっかり言って」
二乃は満足そうに胸を張り、自分のお弁当のおかずへと箸を伸ばした。
俺も負けじと、茶色い弁当の主役である鶏の唐揚げにかぶりつく。冷めているのに衣がザクッとしている。中からはしっかりと下味のついた、ジューシーな肉汁が染み出してきた。
ハンバーグもエビフライも、期待通りの濃い味付けで、白いご飯が文字通り無限に吸い込まれていく。
「ねえ、八雲」
「ん? もぐ……なに?」
「あんたのそれ、一口ちょうだい」
二乃が俺の唐揚げを、獲物を狙う猫のような目で見つめてきた。
「いいよ。じゃあ、君のその、サワラの西京焼きとトレードな」
「いいわよ。はい、どうぞ」
「サンキュー。はい、唐揚げ」
お互いのお弁当のおかずを交換し合う。手作りのタコさんウインナーを奪い合うようにして食べているうちに、二つの弁当箱はあっという間に空っぽになってしまった。
食後には、タイミングよく車内を回ってきたワゴンを押す販売員さんから、ホットコーヒー二杯と、カチカチに凍ったバニラアイスクリームを買った。
「ん……固っ! 全然スプーンが入らないじゃない、これ!」
二乃がプラスチックのスプーンを両手で握りしめ、眉間にシワを寄せている。
「新幹線名物の『シンカンセンスゴイカタイアイス』だからな。無理に刺そうとするとスプーン折れるぞ」
「名前長くない!? ちょっと、オーラで温めて溶かしてよ」
「オーラは電子レンジじゃないんだよ。ほら、コーヒーの紙コップの横に少し当てとけって」
「あ、なるほどね」
少し待って表面が溶け始めたアイスを、二乃は嬉しそうにすくい取って口に運んだ。
「ん〜……! 冬に暖かい車内で食べるアイスって、なんでこんなに美味しいのかしらね」
「わかる。こたつに入ってアイス食うのと同じ贅沢さだな。冷たいアイスの後に、この苦いホットコーヒーを流し込むのが最高なんだよ」
「あんた、そういうところだけは妙に気が合うわよね」
「『そういうところだけ』は余計だろ」
食事が完全に終わると、二乃はハンドバッグの中から、色とりどりの付箋がびっしりと貼られた分厚い旅行雑誌を取り出した。
「ねえ八雲、聞いて。お宿に着いてからのプランなんだけどね」
二乃は雑誌を開き、俺の膝の上にドンと置いた。
「今日はカニのフルコースを食べて温泉に入るでしょ。明日は朝イチでチェックアウトした後に、ここのロープウェイに乗って雪山の絶景を見に行くの。で、その後は近くの温泉街を歩いて、この古民家カフェで限定の抹茶パフェを食べるわ。それから──」
「ちょっと待って。ストップ、タイム」
「なによ、まだ途中よ」
「俺たち、カニを食って骨休めするために旅行に来たんじゃなかったっけ? なんでそんな分刻みの、修学旅行みたいなスケジュールが組まれてるの?」
俺が呆れて突っ込むと、二乃はむっとした顔で言い返してきた。
「せっかく北陸まで来たんだから、観光しないともったいないじゃない! あんたは放っておいたら、どうせ旅館の部屋でこたつに入るでしょ。そして一日中スマホゲームしてるだけなんだから!」
「いいじゃないか、旅館のこたつでゴロゴロ。それこそ現代人に許された最高の贅沢だぞ」
「却下。明日は私がしっかり案内してあげるから、あんたは大人しくついてきなさい」
「案内っていうか、荷物持ちの強制連行だろ……」
二乃は再び雑誌のページをめくり始めた。
「あ、ここも良さそうね。伝統工芸のガラス細工の体験工房だって。八雲、こういう細かい作業苦手そうだけど、たまにはやってみるのも……」
熱心にプランを語る彼女の横顔を、俺はコーヒーを片手にぼんやりと眺めていた。
文句を言いつつも、こうして俺との旅行を楽しそうに計画してくれている彼女の姿を見るのは、なんだか嬉しく思える。
俺たちはいつも、裏社会の血なまぐさいトラブルや、命がけの戦いに巻き込まれてばかりだ。だからこんな風に『ただの旅行の予定』で頭を悩ませる時間が、どれほど貴重で幸せなものか。
お腹もいっぱいになり、グリーン車の座席の快適な暖かさも手伝って、どうしても逆らえない心地よい眠気がまぶたを重くしてくる。
「……ちょっと寝るわ。着く少し前になったら起こしてくれ」
「わかったわ。私も、このページをもう少し読んだら寝るかも」
新幹線の規則正しいガタン、ゴトンという揺れと、低いモーターの音が、最高の子守唄になる。
俺の意識は、あっという間に深い闇の中へと沈んでいった。
どれくらい時間が経っただろうか。
俺は、右肩にズシッという、柔らかくて温かい重みを感じて、ゆっくりと目を覚ました。
首を少しだけ動かして隣を見る。
膝の上に旅行雑誌を広げたままの二乃が、俺の肩に頭をコテンと乗せて、すやすやと寝息を立てていた。
窓から差し込む冬の淡い光が、彼女の長いまつげの影を頬に落としている。
スースーという、規則正しくて小さな寝息。
かすかに開いたピンク色の唇が、普段の勝ち気な態度からは想像もつかないほど無防備だった。
しばらく新幹線に揺られているうちに、コクリ、コクリと舟を漕ぎ始め、やがて車体が大きく揺れた拍子に、頭が乗っかってしまったのだろう。
無理もない。
表向きは『揉め事処理屋のアシスタント』だが、実際の彼女の仕事量はとんでもなく多い。俺が無茶な仕事を引き受けて暴れた後のフォローや、事務所のこまごまとしたお金の管理。さらに裏社会との交渉やトラブルのもみ消しまで、彼女は文句を言いながらもこなしてくれている。
俺には見えないところで、彼女の体には相当な疲労が溜まっていたはずだ。
俺は、一瞬だけ全身の筋肉を硬直させた。
少しでも体を動かせば、彼女を起こしてしまうかもしれない。そう思って、俺は右肩を極力動かさないように固定し、呼吸すらも浅く整えた。
ふわりと、彼女の髪から甘いシャンプーの匂いが漂ってくる。
いつもはあんなに口うるさい。俺のことをヘタレだのゴリラだのと遠慮なくバカにしてくる。それなのに、眠っている時は本当に、ただの年相応の可愛い女の子だった。
この無防備な寝顔を、タチの悪い連中や裏社会の恐ろしい世界に晒すわけにはいかない。
俺の持っているデタラメな力のすべてを使ってでも、絶対に守り抜く。
自分でもらしくない熱い決意が、胸の奥底で静かに灯るのを覚えた。
窓の外を見る。景色はいつの間にか、都会のビル群から遠く離れたものに変わっていた。
新幹線が長いトンネルを抜けるたびに、風景は雪深く、白く染まっていく。
一面の銀世界だ。
田んぼも、民家の瓦屋根も、遠くにそびえる連なる山々も、すべてが分厚い雪に覆われている。それが雲間から射す光を反射して、キラキラと眩しく輝いていた。
その光の白さに反応したのか、二乃が「んん……」と小さく身じろぎした。そして、ゆっくりとまぶたを押し上げた。
「あ……」
自分が俺の肩にがっつり寄りかかっていたことに気づき、バネのように背筋を伸ばす二乃。
「ご、ごめんなさい! 私、いつの間にか寝ちゃってて……重かったでしょ!?」
「全然。お前の頭くらい、俺の筋肉なら三日は余裕で支えられるよ」
「三日は長すぎるわよ……!」
「それより、外を見てみろ。すごい雪だぞ」
俺が窓のほうを顎で合図すると、二乃は慌てて窓の外へと視線を向け、目を真ん丸に見開いた。
「うわあ……! 綺麗! 本当に一面真っ白ね!」
二乃は窓ガラスに顔をくっつけるようにして、外の景色に見入っている。
さっきまでの照れ隠しはどこへやら、子供のようにはしゃぐ横顔が、なんだかとても微笑ましかった。
*
目的の駅で新幹線を降りた俺たちを待っていたのは、東京の寒さとは次元が違う世界だった。空気が刃物のように張り詰めた、極寒の雪国だ。
改札を抜けて駅の自動ドアが開いた瞬間、刺すような吹雪が容赦なく顔面を殴りつけてきた。
「っっっさむ!! なにこれ、冷凍庫の中に放り込まれたみたいじゃない!」
「だから言っただろ、寒いって!」
二乃がコートの襟をぎゅっと合わせ、マフラーに顎を埋めて縮こまる。
吐く息は真っ白を通り越して煙のようだ。踏みしめる雪は、キュッキュッと硬い音を立てた。
俺たちはロータリーに停まっていたタクシーに、転がり込むようにして乗り込んだ。
「ふう……助かった。車の中は暖房が効いてて天国だな」
俺がシートに深くもたれかかると、運転手のおじさんがバックミラー越しに愛想よく話しかけてきた。
「お客さんたち、東京からですか? 今日の吹雪はここ最近じゃ格別ですよ。これからお宿ですか?」
「ええ。蟹月館っていうお宿までお願いします」
二乃が宿の名前を告げると、運転手のおじさんは「おお」と感心したような声を漏らした。
「蟹月館ですか! あそこはいいお宿ですよ。料理も最高だし、源泉掛け流しのお風呂も広くて景色がいい。カニを食べに来たんでしょ?」
「ええ、そうです。もう、朝からお腹をペコペコに空かせてきましたからね」
「そりゃあ楽しみだ。今年の越前ガニは身の詰まりが抜群ですから、しっかり堪能してくださいよ」
タクシーは、雪の積もった山道を進んでいく。チェーンを巻いたタイヤをジャラジャラと軋ませながら、慎重に走る。
窓の外の吹雪は、山に入るにつれて勢いを増した。空は重たい灰色に濁り、視界を真っ白に染め上げていった。雪が全ての音を吸い込んでいるのか、外の景色は不気味なくらいに静まり返っている。
「ねえ、八雲。カニ、どうやって食べるのが一番好き?」
二乃が隣で、待ちきれないといった様子で身を乗り出してきた。
「うーん……やっぱり、シンプルに炭火でじっくり焼いて食べるのが一番香ばしくてうまいんじゃないか? 殻が焼ける匂いだけで白飯三杯いける。あとは、生の刺身も捨てがたいな。氷水でキュッと締めた、あの花が咲いたような甘い身」
「私は絶対に、カニしゃぶね! 黄金色のお出汁にサッとくぐらせて、身がふわっと開いたところを、すだちポン酢でいただくの。……そして、最後の締めはカニの旨味が凝縮されたスープで作るお雑炊よ。溶き卵をとろっと回しかけて、刻み海苔を散らして……」
「うわ、完全にプロの食レポじゃん。想像しただけで腹が鳴ったぞ」
「ふふん、私の胃袋はもう準備万端なんだから」
暖房の効いた車内で、俺たちはまだ見ぬカニ料理のフルコースを想像して大盛り上がりした。
「ほら、見えてきましたよ。あそこが、お客さんたちのお宿です」
運転手のおじさんが前方を指差した。
その瞬間、俺と二乃は同時に口を閉じ、言葉を失った。
フロントガラスの向こう、猛吹雪の真っ白なベールを切り裂くようにして現れた建物。それは、俺が想像していた小綺麗な『温泉旅館』のレベルをはるかに超えていた。まるで大名のお城か、戦国時代の要塞のような巨大な和風建築だった。
重厚な黒塗りの壁に、激しい雪や風を耐え抜いてきた太い柱や梁(はり)。立派な正門から続く石畳の道だけが、職人の手で綺麗に雪かきされている。
圧倒的な歴史と格式、そしてどこか人を寄せ付けない威圧感が漂っていた。
だが、問題は建物の豪華さじゃない。
その『立地』だ。
周囲には民家が一軒も見当たらない。
見渡す限り、真っ白な雪に埋もれた深い針葉樹の森が広がっている。
宿の背後には、天を突き刺すようにそびえ立つ、険しい断崖絶壁の雪山。
そして、ここへ至る道は──さっきタクシーが通ってきた、車が一台やっと通れる細い一本道のみ。
まさに外の世界から完全に切り離された、完璧な『陸の孤島』だ。
俺の脳内にある危険察知センサーが、けたたましくウーウーと警報を鳴らし始めた。前世から培ってきた『ミステリー小説の愛読者』としての直感だ。
「……ねえ、二乃ちゃん」
「なによ」
「なんかこれ、連続見立て殺人が起きるお約束のフラグのど真ん中に来てないか? クローズドサークルってやつだ。絶対にこの後、猛吹雪で唯一の連絡橋か一本道が雪崩で塞がれる。そして、電話線も切られるパターンだぞ」
俺が引きつった顔で本気の危機感を口にすると、二乃は呆れ果てたように大きくため息をついた。
「は? 何バカなこと言ってんの。ただの山奥にある歴史ある高級旅館でしょ。あんた、完全に裏社会に毒されすぎよ、職業病!」
「いやでも、あの背後の崖とか、どう見ても『逃げ場のない惨劇の舞台』──」
「いいから! カニが待ってるの! ほら、もたもたしてたら置いてくわよ!」
タクシーが門の前に停まるや否や、二乃は運賃の支払いを俺に丸投げした。そして、出迎えに出てきた着物姿の仲居さんに案内されて、足早にズンズンと立派な門の中へと入っていった。
俺はタクシーを見送り、舞い散る猛吹雪を恨めしく見上げる。
頼むから俺の不吉な予感が大外れしてくれ。ただ平和にカニを食って、温泉に浸かるだけの旅であってくれ。日本のすべての神様に全力で祈りながら、俺は弾むように進む彼女の背中を慌てて追いかけた。