念能力者が行く多重クロス世界 作:匿名のななし
客を降ろしたタクシーが、キュルキュルと雪を噛む嫌な音を立てて走り去っていく。
真っ赤なテールランプが吹雪の向こうに見えなくなると、後には見渡す限りの真っ白な世界だけが残された。
「ねえ八雲、見てよ! すごい雪! 私、こんなに雪が積もってるところに来たの初めてかもしれないわ!」
『蟹月館』と彫られた巨大な木の看板の前で、うちの優秀なアシスタントである中野二乃がはしゃいでいる。
淡いピンク色のフワフワしたコートに身を包んだ彼女は、ヒールの高いブーツで器用に雪を踏みしめ、まるで初めて雪を見た子供のようだ。その瞳はキラキラと輝いていて、いつも事務所で俺に説教をしている時の険しい顔とは大違いだ。
「あー……そうだな。すごい雪だな。すごいっていうか、これ、もう吹雪じゃないか? 帰りの新幹線とか大丈夫なのかよ」
俺はマフラーに顔を深く埋めながら、テンション低めに相槌を打つ。
俺は寒いのが大の苦手なのだ。
オーラを練り上げれば、極寒の地でも裸でやり過ごせるくらいの肉体にはなる。だが、そういうことじゃない。オーラで寒さを防ぐのと、暖かいコタツの中でみかんを食べるのとでは、精神的な幸福度が天と地ほど違う。できれば休日は、暖房の効いた部屋で毛布にくるまりながら、一日中ゲームでもして過ごしたかった。
「何よそのだらしない顔。せっかくの慰安旅行なんだから、もっとシャキッとしなさいよ! あんたが毎日毎日、文句ばっかり言いながら揉め事の処理なんてするから、私が気を使って最高の温泉宿を予約してあげたんじゃない」
二乃がむっとした顔で睨みつけてくる。
「はいはい、わかってますよ。感謝してます。カニのフルコースに極上の温泉、最高のご褒美だよ」
「心がこもってないわね。まあいいわ、中に入ったら、あんたのそのひねくれた根性も温泉で綺麗に洗い流してあげるから覚悟しておきなさい。ほら、早く行きましょ! 荷物は私が半分持ってあげるから!」
二乃は俺のキャリーケースの持ち手を奪い取ると、ズンズンと門の中へと歩いていく。
その後ろ姿を見ながら、俺は小さく息を吐いた。
まあ、なんだかんだ言って、俺もこの旅行を楽しみにしていたのは事実だ。
最近は物騒な依頼ばかりだった。銃を持った連中の相手をしたり、危ない組織とやり合ったり。だからこそ、こういう「ただの平和な旅行」が骨の髄まで染み渡る。
美味しいものを食べて、お湯に浸かって、ゆっくり眠る。それだけでいい。
雪の重みに耐えるような太い柱の門をくぐると、そこには手入れの行き届いた日本庭園が広がっていた。
池の水は半分ほど凍りついていて、雪吊りという縄で縛られた松の木が、なんともいえない風情を醸し出している。玄関の前では、すでに着物姿の従業員が何人も待機していて、俺たちの姿を見るなり深々と頭を下げた。
「ようこそお越しくださいました、蟹月館へ」
上品な笑顔を浮かべる年配の女性。おそらく女将さんだろう。
俺と二乃は靴を脱ぎ、ふかふかのスリッパに履き替えて館内へと足を踏み入れた。
外の地獄のような寒さが嘘みたいに、館内はポカポカと暖かかった。
お香のようないい匂いが漂っていて、遠くの方からかすかに琴の音楽が聞こえてくる。ロビーは信じられないくらい広くて、一面にふかふかの絨毯が敷き詰められていた。壁には見事な掛け軸が飾られ、あちこちにカニをモチーフにした高そうな壺や置物が並んでいる。
「こちらでチェックインの手続きをいたします。どうぞ、お掛けになってお待ちください」
案内されたのは、窓際にある革張りの大きなソファだった。
ふうっと息をついて腰を下ろすと、すぐに若い仲居さんが温かいおしぼりと抹茶、それにカニの形をした可愛らしいお茶菓子を運んできた。
「はあー、生き返るわぁ……」
二乃がおしぼりで手を拭きながら、とろけるような顔をする。
「お茶菓子も美味しい! 八雲、これ食べてみて。中に上品な甘さの白あんが入ってるわ」
「ああ、うまいな」
抹茶をすすりながら、お菓子を口に放り込む。
冷え切った体に、お茶の温かさとあんこの甘さが染み渡っていく。
ふと視線を横に向けると、俺たちと同じようにロビーでくつろいでいる客が何組か目に入った。
少し離れた席に、やたらと声の大きいオジサンと、その愛人らしき派手な女が座っている。
さらにその奥には、なんだか見覚えのあるような、ないような連中がいた。
一人は、髪を後ろで一つに結んだ、やけに目つきの鋭い高校生くらいの男だ。その隣には、彼を心配そうに見つめる幼馴染っぽい可愛い女の子が寄り添っている。高校生は、なぜかこの平和な温泉宿のロビーで、腕を組んで難しい顔をして考え込んでいる。
そしてもう一組。
やたらと背が高くて、黒いタートルネックを着たひょろ長い男。彼は何かを力説するように腕を振り回している。その横には、黒髪のボサボサ頭をした女がいて、彼女は仲居さんが置いていったお茶菓子を、ものすごいスピードで自分のポケットに回収していた。
「……なんだあいつら。変な客が多いな」
「どうしたの? 誰か知り合い?」
「いや、知らない。ただ、なんというか……関わらないほうがよさそうな気配がする」
「もう、あんたのその職業病、旅行の時くらい忘れなさいよね。ここはただの温泉宿。ヤクザも殺し屋もいない、平和な場所なんだから」
二乃は呆れたように笑って、残りの抹茶を飲み干した。
「お待たせいたしました。お部屋の準備が整いましたので、ご案内いたします」
仲居さんが戻ってきて、俺たちに声をかけた。
俺たちはキャリーケースを引きながら、仲居さんの後ろについて長い廊下を歩き始めた。
案内されたのは、建物の奥の方にある『松の葉』という名前の部屋だった。
重厚なふすまを開けると、いぐさの新しい香りが鼻をくすぐる。踏み込みの先には、十五畳はありそうな広々とした立派な和室が広がっていた。
部屋の真ん中には大きなこたつが置かれ、窓際には雪景色を楽しめる椅子とテーブルのセットがある。その向こうには、冬の荒れ狂う日本海が一望できた。
「うおー! こたつだ!」
俺は上着を脱ぎ捨てるなり、こたつへとダイブした。足を入れた瞬間、じんわりとした温かさが全身を巡る。これだ。俺が求めていたのはこれなのだ。
「ちょっと、あんた行儀悪いわよ。服を脱ぎ散らかさないの」
二乃が呆れたように言いながら、俺の上着をハンガーにかけてくれる。本当にできた相棒だ。俺にはもったいないくらいに。
「いいじゃん、今日は俺たちの慰安の旅なんだから。誰にも気兼ねせず、ダラダラする権利がある」
「はいはい。お茶を淹れるから、少し起きてなさい」
二乃はテーブルにあった急須にお湯を注ぎ、湯呑みにお茶を淹れてくれた。宿が用意してくれたお茶請けの温泉まんじゅうと一緒に、俺の目の前に置かれる。ロビーで甘いものを食べたばかりだというのに、彼女の胃袋は完全に旅行を満喫するモードに入っているらしい。
ずずっ、とお茶をすする。熱いお茶が喉を通るたび、体の芯から冷えが溶けていくのがわかる。まんじゅうの甘さも、疲れた体にはたまらない。
「ふう……最高だ。二乃が淹れてくれるお茶は、世界で一番うまいな」
俺が何気なく言うと、二乃はお茶を飲みながら、視線をすっと横に逸らした。湯呑みの縁で口元を隠すようにしながら、タオルから覗く耳の先をほんのりと朱に染めている。
「なによ、おだてても何も出ないわよ。あんたのご機嫌取りなんて慣れてるんだから」
「ご機嫌取りじゃないって。本当にそう思ってるんだ。いつも俺の世話を焼いてくれて、ありがとうな」
「……別に。私がやりたくてやってるだけだから、気にしないで。それより、せっかくの温泉なんだから、早くお風呂に行きましょうよ」
二乃は誤魔化すようにパタパタと足音を立てて立ち上がると、部屋の隅にあるクローゼットを開けた。そこには、女性客向けのサービスである色鮮やかな浴衣がいくつか用意されていた。
「ねえ、どれがいいと思う? ピンクと、薄い水色と、黄色」
二乃が三着の浴衣を自分の体に合わせて、俺の方を振り返る。
「うーん……二乃は何を着ても似合うから迷うけど、ピンクがいいんじゃないか? 顔が明るく見えるし」
「そう? じゃあ、これにするわ」
二乃は嬉しそうにピンクの浴衣を抱え、ふすまの向こうの着替えのスペースへと向かった。
「ちょっと、覗いたら本当にぶっ飛ばすからね」
「覗かねーよ! 俺をなんだと思ってるんだ!」
俺はこたつに入ったまま、ふすまの向こうから聞こえる衣擦れの音に耳を傾けた。
いや、わざと聞いてるわけじゃない。部屋が静かだから聞こえてしまうだけだ。布が擦れる音。二乃の小さなため息。それだけで、なんだか無駄に心臓の音が早くなるのを感じる。
俺と二乃が出会ってから、もう三年以上が経つ。
ヤバい仕事から逃げ出してきた彼女を助け、なりゆきで一緒に暮らすようになった。今では俺の仕事のアシスタントであり、俺の胃袋を完全に支配する料理人であり、俺にとって一番大切な存在だ。
でも、こうやって二人きりで、しかも泊まりの旅に来るなんて、よく考えたらヤバくないか? これって世間一般で言うところの、あれだ。そういうやつだ。
「よし、着替えたわよ」
ふすまが開き、二乃が姿を現した。
俺は思わず息を呑んだ。
ピンク色の浴衣が、彼女の白い肌にとてもよく似合っている。髪は邪魔にならないように上でまとめられており、普段は見えない綺麗なのど元とうなじがあらわになっていた。
「どう? 変じゃない?」
二乃が落ち着かない様子で浴衣の裾をきゅっと握りしめ、上目遣いでこちらを窺ってくる。
「……めっちゃくちゃ似合ってる。可愛いよ」
俺は素直な感想を口にした。こういう時は、茶化さずに本当のことを言うのが正解だと、これまでの経験で学んでいる。
二乃は一瞬だけ花が咲いたように表情を緩ませた後、すぐにコホンと咳払いをして顎をツンと反らせた。
「あ、当たり前でしょ。私が着てるんだから。ほら、あんたも早く着替えなさいよ。お風呂に行くわよ」
俺も渋々こたつから這い出し、男性用の地味な紺色の浴衣に着替えた。タオルを持ち、二人で部屋を出る。
廊下を歩いていると、すれ違う他の客たちがちらちらと二乃の方を見るのがわかった。そりゃそうだ。こんなに可愛い子が浴衣を着て歩いていれば、誰だって見る。俺は少しだけ胸を張り、二乃の隣を歩いた。俺の相棒だぞ、と心の中で見せびらかしながら。
男湯と女湯の暖簾の前で立ち止まる。
「じゃあ、一時間後にあの休憩の場所で待ち合わせね」
二乃が指差す先には、自販機やマッサージの椅子が並ぶ広いスペースがあった。
「了解。ゆっくり温まってこいよ」
「あんたもね。湯冷めしないようにちゃんと拭くのよ」
俺たちは別れ、それぞれの風呂へと向かった。
男湯ののれんをくぐると、脱衣所には誰もいなかった。貸し切り状態だ。
服を脱ぎ、カゴに放り込んで、浴室のドアを開ける。むわっとした熱気と、強い硫黄の匂いが押し寄せてきた。
かけ湯をして汚れを落とし、内湯に足を踏み入れる。
「あっっっつ!」
思わず声が出た。かなり温度が高い。だが、それがいい。冷え切った足先から、ジンジンと熱が全身に回っていくのがわかる。
俺は肩までお湯に浸かり、ほうっと長い息を吐き出した。
俺の体は、生まれつき持っている『オーラ』というエネルギーのおかげで、普通の人間よりはるかに頑丈だ。その気になれば銃弾を弾き返すこともできる。だが、その力を使う時は、常に神経を尖らせていなければならない。裏社会の揉め事に首を突っ込む日常から離れて、こうして何の警戒もせず無防備にお湯に浸かれる時間が、どれだけ貴重か。
露天風呂の刺すような冷気と熱いお湯の温度差を堪能し、しっかりと温まった俺は、お湯から上がって浴衣に袖を通した。
自動販売機で冷たいコーヒー牛乳を買い、待ち合わせの休憩スペースのベンチに腰を下ろす。腰に手を当てて、一気に喉に流し込む。
「くぅーっ! うまい!」
温泉上がりのこれに勝る飲み物は、この世に存在しない。
「ふう、さっぱりしたぁ!」
少し遅れて、女湯ののれんから二乃が姿を現した。
俺は、思わずコーヒー牛乳の瓶を口に当てたまま固まってしまった。
温泉の熱でほんのりと桜色に染まった頬。タオルで無造作にまとめられた濡れ髪。そこから、石鹸と彼女自身の甘い匂いが混ざったような香りが、ふわりと漂ってくる。
さっき部屋で浴衣に着替えた時とは違う、火照った肌の艶っぽさに、俺は危うくコーヒー牛乳を吹き出しそうになった。
「なによ、人の顔をジロジロ見て」
「いや、なんでもない。部屋に戻ろうぜ」
俺たちは並んで廊下を歩き、自分たちの部屋に戻った。
ふすまを開けて中に入ると、窓ガラスがガタガタと悲鳴のような音を立てて震えているのに気がついた。
外を見ると、到着した時よりも明らかに風が強くなっている。雪の降る量も尋常じゃなく、下のほうの景色は完全に真っ白に塗りつぶされていた。
「こりゃあ、完全に吹雪だな。明日の朝には、宿の周りが雪に埋もれてるかもしれないぞ」
「ええー、帰りの新幹線止まっちゃうかしら。まあでも、お宿の中は暖かいし、ご飯もいっぱいあるから、閉じ込められても別に困らないけどね」
二乃はのんきなことを言っている。
だが、俺の心の中では、嫌な『警報』が小さく鳴り始めていた。
外界から完全に孤立した、雪山の旅館。逃げ場のない空間。そして、ロビーで見かけた、あのどこか不穏な空気を持った客たち。
「なあ二乃。部屋にあるお宿の案内の冊子、ちょっと見ていいか?」
俺はテーブルの上にあった立派な冊子を手に取った。パラパラとページをめくっていくと、一番最後のページに、古ぼけた絵と一緒に奇妙な文章が載っているのを見つけた。
「どうしたの? 『蟹神様の言い伝え』……?」
横から覗き込んでくる二乃に構わず、俺はそこに書かれた文章を声に出して読んだ。
『むかしむかし、この地がひどい飢饉に襲われた冬のこと。欲深い村の長は、神聖な入り江に住むという巨大な蟹神様を捕らえ、その身を貪り食いました。
しかし翌朝、村の長の姿が消えました。
村人たちが探すと、長は入り江の岩場で死んでいました。
その遺体は、両腕と両足を、まるで蟹の足のように無残にへし折られ、首は巨大なハサミで挟まれたかのように切断されていたのです。
それ以来、この地では猛吹雪の夜になると、欲深き者のもとへ蟹神様がやってきて、その手足をバラバラにするという伝承が残っています──』
読み終わった瞬間、部屋の空気が少しだけ冷たくなったような気がした。
「……ちょっと、なによその気味の悪い話! なんでこれからカニを食べようって時に、そんな怖い言い伝えを読まなきゃいけないのよ!」
二乃がブルッと身を震わせて、腕をさすった。
「気をつけろよ、二乃。カニを欲張って食べすぎると、夜中に蟹神様がやってきて、君のその細い腕をポキッとな……」
わざとおどろおどろしい声で言うと、二乃の顔がサッと青ざめた。
「や、やめなさいよ! バカなこと言ってないで、早く夕食の時間にならないかしら! 私は絶対にカニの足を十本は食べるんだから!」
「おいおい、十本も食べたら完全に蟹神様のターゲットになるぞ」
「うるさい! あんたが守ってくれるんでしょ! 揉め事処理屋なんだから、カニの化け物くらいオーラでぶっ飛ばしなさいよね!」
そんなふうに冗談を言い合いながら、俺たちは夕食の時間を待った。
外の吹雪はさらに激しさを増し、窓ガラスを叩き割るんじゃないかというほどの勢いで風が吹き荒れている。
そして、時計の針が午後十八時を回ろうとした、その時だった。
「キャアアアアアアアアアアアアアアアッ!!!!!!」
鼓膜を突き破るような、女性の甲高い悲鳴が、廊下のずっと奥の方から響き渡った。
俺の心臓が、ドクンと大きく跳ねた。冗談で言っていたことが、最悪の形で現実になった瞬間だった。
「や、八雲……! 今の……悲鳴……」
二乃が顔面を蒼白にして、俺の袖をギュッと掴んできた。その手は小刻みに震えている。
「部屋から出るな、二乃。ここで待ってろ」
俺は二乃の手を優しく解き、立ち上がった。瞬時に体内のオーラを練り上げ、臨戦態勢に入る。
「ダメよ! 私も行く! 一人にしないで!」
必死な顔で背中にしがみついてくる。ここで一人にしておくのも逆に危険か。
「わかった。俺の背中から絶対に離れるなよ」
俺はふすまを勢いよく開け、廊下へと飛び出した。
悲鳴が聞こえたのは、ロビーを抜けた先にある大広間のほうだ。すでに廊下には、他の客たちや仲居さんが慌てた様子で飛び出してきていた。
俺は人をかき分けながら、大広間の入り口へと急いだ。ふすまは大きく開け放たれていて、その手前で、一人の若い仲居さんがへたり込んでガタガタと震えていた。
「どうした! 何があった!」
声をかけると、仲居さんは言葉にならない悲鳴を上げながら、広間の中を指さした。
俺は息を呑んで広間の中を覗き込んだ。
夕食のための豪華なカニ料理が並べられたテーブル。その一番奥の席。
そこに、男が倒れていた。ロビーで愛人を連れて大きな声で文句を言っていた、あの横柄なオジサンだ。
だが、その姿は、あまりにも異常だった。
男の体は、仰向けの状態で畳の上に倒れている。しかし、その首元から上が、ありえないことになっていた。
首の左右から、まるで巨大な刃物に挟み込まれたかのように、深く、えぐれるような傷が刻まれていたのだ。大量の血が畳を黒く染め、男の目は見開かれたまま、天井の虚空を見つめている。
その傷の形は、どう見ても人間の手によるものとは思えなかった。
そう、まるで──巨大なカニのハサミで、首を両側から力任せに挟み切られたかのような、異様で残酷な傷跡。
「ひっ……!」
背後から覗き込んだ二乃が、短い悲鳴を上げて両手で口を覆った。
周囲の客たちからも、悲鳴とどよめきが巻き起こる。
「誰か、救急車! 警察を呼べ!」
「電話が……フロントの電話が通じないんです! 吹雪で線が切れたみたいで……!」
完全に孤立した雪山の旅館。通信手段の遮断。そして、伝説をなぞるような奇妙な死体。
俺の脳内で、これ以上ないほど最悪なフラグが完全に成立した。
「みんな、下がって! 現場を荒らさないでくれ!」
パニックになる群衆を押し退けて、前に出てきた人物がいた。ロビーで見かけた、あの目つきの鋭い、髪を後ろで結んだ高校生だ。彼は血だまりのそばまで進み出ると、眉間に深いシワを寄せて死体を観察し始めた。
「はじめちゃん……気をつけて」
後ろから、幼馴染らしき女の子が不安そうに声をかける。
「大丈夫だ、美雪。……しかし、なんだこの傷は。刃物じゃない。何か巨大なもので強い圧力をかけて挟み込んだような……」
はじめと呼ばれた少年は、死体の首元の傷をじっと見つめ、ゆっくりと立ち上がった。そして、周囲の客たちを見渡し、重々しい声で言った。
「これは……この地に伝わる『蟹神様の見立て殺人』だ」
その言葉に、広間はシンと静まり返った。
見立て殺人。つまり、これは事故でも化け物の仕業でもなく、人間の意志によって行われた明確な殺人事件だということだ。しかも、伝説の呪いを装って。
高校生探偵のシリアスな推理が始まり、場が凍りつくような緊張感に包まれた、まさにその時だった。
「ナンセンス!!!」
突如、広間の入り口から、空気を読まないにもほどがある、胡散臭い高笑いが響き渡った。
全員が一斉に振り返る。そこに立っていたのは、あの黒いタートルネックを着たひょろ長い男だった。彼は腕を組んで、やたらと自信満々なドヤ顔で仁王立ちしている。
「浅い、浅すぎるぞ少年! 蟹神の祟りだと? ばかばかしい! この世に超常現象など存在しない! どんな不可解な事件も、通信教育で鍛え上げた私の空手と、この天才物理学者である私、上田次郎の頭脳をもってすれば、すべて科学的に証明してみせる!」
上田と名乗った男は、バサァッ! と見えないマントを翻すような大げさなポーズをとった。
シリアスなミステリーの空気が、一瞬にして砕け散った。高校生探偵のはじめも、「は?」という顔で上田を見ている。
さらに、上田の足元から、黒髪ボサボサの女が這うようにして姿を現した。彼女は周囲の騒ぎなど全く気にする様子もなく、テーブルの上に並べられた豪華なカニの皿へと一直線に近づいていく。
「エヘヘヘ……上田、見ろ。みんな死体に夢中で、この極上のカニには誰も手をつけていないぞ。もったいない、実にもったいない。これは私が、責任を持って保護してやらねばなるまい」
女はニチャアと笑いながら、自分の着ている変な柄のセーターの袖の中に、カニの足を次々と滑り込ませていく。
「おい山田! お前は何をやっているんだ! 今は私の天才的な頭脳を披露する見せ場だろうが!」
上田が慌てて女──山田を止めようとするが、山田はカニを袖に隠したまま、「お前のやったことは全部お見通しだ!」となぜか上田に向かって指を突きつけた。
死体。深刻な顔で推理をする高校生探偵。的外れなことを叫ぶ自称天才学者。ドサクサに紛れてカニを泥棒する手品師の女。
本格ミステリーと不条理なギャグが入り乱れた、完全にカオスな空間。
俺は頭を抱えた。なんでだ。なんで俺の周りは、いつもこうなるんだ。ただカニを食って温泉に入りたかっただけなのに。
「ちょっと……!」
俺の隣で、ずっと黙っていた二乃が、プルプルと震えながら低い声を漏らした。
「ちょっと、なんなのよこれ……」
二乃の顔は、恐怖ではなく、完全にブチギレのそれだった。彼女の周りから、目に見えない怒りのオーラが立ち上っているのが俺にはわかった。
「せっかく……せっかく私が、八雲と一緒にゆっくりするための旅行だったのに! お高いカニのフルコースを食べて、いいムードになろうと思ってたのに!!」
二乃は、大広間の中心で騒ぐ変人たちを完全に無視して、天井の虚空──この館のどこかに潜んでいるであろう『見えざる犯人』に向けて、ヒステリックな声を張り上げた。
「どこかに隠れてる犯人! 聞いてるんでしょ!? あんた、私の慰安旅行を台無しにして、タダで済むと思わないでよね!!」