現代日本に転生したけど、何かおかしくない?   作:匿名のななし

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16 名探偵と天才学者と、雪山密室事件③

「まず、最初の事件から説明しよう」

 少年は、大広間のふすまのほうへ歩いていき、その鍵の部分を指さした。

「最初の被害者が見つかった部屋は、中からしっかりと鍵がかけられていた。外の庭には雪が積もっていて、足跡は一つもなかった。誰も入ることも出ることもできない完全な密室だ。でも、犯人はとても簡単な方法で、外からこの鍵をかけたんだ」

「簡単な方法だと? そんなことができるわけがないだろう!」

 客の一人、神経質そうなメガネをかけた細身の男が、声を荒げた。彼はたしか、被害者の社長の秘書をやっているとかいう男だったはずだ。

 

「ああ、できるさ。この雪山の、凍りつくような寒さを利用すればね」

 探偵の少年は、テーブルの上にあった水の入ったグラスを手に取った。

「犯人は、部屋の暖房をわざと消して、窓を少しだけ開けておいたんだ。そして、鍵のつまみの部分に、濡らしたティッシュペーパーを何枚も巻きつけて、それをドアの枠に固定した。外の冷たい風が入ってくれば、濡れたティッシュはあっという間に凍りついて、鍵のつまみを引っ張るような形に固まる」

「なんだと……?」

「あとは、ドアの外から細い糸でその凍ったティッシュを引っ張れば、鍵は簡単に閉まる。そして、時間が経って部屋の中が暖かくなれば、氷は溶けて水になり、ティッシュはただのゴミとして床に落ちる。糸はドアの隙間から引き抜いてしまえば、何も残らない。これが、誰もいない密室を作り出したトリックだ!」

 

 なるほど。

 俺は素直に感心した。よくそんな面倒くさいことを思いつくもんだ。俺なら絶対にやらない。そんなチマチマした工作をするくらいなら、ターゲットの男を真っ向から殴り飛ばして、そのまま雪山に埋めて終わりにする。証拠なんて残らないくらい深く掘ればいいだけだ。殺人鬼ってのは、どうしてこう、わざわざ自分の首を絞めるような面倒な仕掛けを作りたがるんだろうな。

 

「ナンセンスだ!!!」

 探偵の推理にみんなが息を呑んでいた、その完璧な空気を。

 

 黒いタートルネックを着たひょろ長い男、上田次郎だ。

 彼はさっき頭に掛け軸の棒をぶつけられてできた大きなたんこぶをさすりながら、ズカズカと探偵の横に割り込んできた。

 

「浅い、浅すぎるぞ少年! 君の推理は、まったくもって非科学的だ! 水が凍る時間と溶ける時間を正確に計算するなど、この不安定な天候の中でできるわけがない! 失敗するリスクが高すぎる!」

 上田はドヤ顔で腕を組み、フンッと鼻を鳴らした。

「天才物理学者である私には、もっと論理的で、誰にでもできる科学的な仕掛けがわかっている。犯人は、静電気を使ったのだ!」

「はあ? 静電気?」

 探偵の少年が、心底わけがわからないという顔をする。

 

「そうだ! 犯人は、下敷きのようなプラスチックの板を頭に思い切りこすりつけ、強大な静電気のパワーを生み出した! そして、その静電気の力でドアの鍵を磁石のように引き寄せ、外からガチャリと閉めたのだ! これこそが、科学の力を使った完璧な部屋の作り方だ!」

 上田がバサァッ! と見えないマントを翻すポーズをとる。

 

 静寂。

 大広間にいる全員が、呆れたような、哀れむような目で上田を見ていた。

「……あのさ、おっさん。静電気で金属の鍵は動かないと思うんだけど」

 探偵の少年が、ものすごく気を使った優しい声でツッコミを入れた。

「なっ……! そ、それは君が知らないだけで、私の生み出した特殊な摩擦エネルギーを使えば可能なのだ! どんと来い、超常現象!」

 上田は顔を真っ赤にして叫びながら、ごまかすように謎のポーズを決め続けている。

 本当に、こいつは何をしにきたんだ。

 

 俺が上田のバカバカしさに呆れ返っていると、俺の隣にいた二乃が、急に「ああっ!」と小さな声を上げた。

「おい、どうした二乃」

「八雲、あそこ見て! あの女、またやってるわ!」

 

 二乃が指さした先。

 大広間の奥にある、一番豪華なカニが盛られたメインのテーブル。

 そこには、みんなが上田のバカな発言に気を取られている隙を突いて、四つん這いでこっそりと近づいていく黒髪の女、山田の姿があった。

 

 彼女は床を這うようにしてテーブルの下に潜り込み、そこからスッと腕を伸ばして、テーブルの真ん中に飾られていた巨大なカニの甲羅に手を伸ばしている。

「エヘヘヘ……今度こそ、この一番大きくて美味しそうなカニの王様を、私のカバンの中に招待してやるぞ。上田がバカなことを言って注目を集めている今が、絶好のチャンスだ」

 山田はニチャアと笑いながら、自分の大きなカバンを広げている。

 

「ちょっと! あんた、いい加減にしなさいよ!」

 二乃が我慢の限界を超えたらしく、ズカズカと足音を立てて山田のほうへ歩いていった。

「また盗み食いしようとしてるでしょ! その一番大きなカニは、あとで私が食べるんだから絶対に触らないでよね!」

「ひっ!?」

 

 背後から突然二乃に怒鳴られた山田は、ビクッと肩を震わせて飛び上がった。

 その拍子に、彼女の伸ばしていた手が、テーブルの上にあった巨大なカニの甲羅の飾りにガチャン! とぶつかってしまったのだ。

 

「ああっ、しまった!」

 山田が叫ぶ。

 バランスを崩した巨大なカニの甲羅が、テーブルの上からゴロンと転がり落ちる。そして、畳の上に落ちた瞬間。

 その甲羅の裏側から、何かがカラン、と鈍い音を立てて転がり出てきた。

 

 それは、金属の塊だった。

 カニの硬い殻を割るための、専用のハサミのような道具。

 だが、それはただの道具じゃなかった。刃の部分が鋭く削られており、さらに、その刃の先には、赤黒く乾いた血のようなものがべっとりとこびりついていたのだ。

 

「きゃあああっ!」

 それを見た客の女が悲鳴を上げる。

「おい、あれは……!」

「血がついてるぞ!」

 

 大広間が再び騒然となる中、探偵の少年はハッとして、その道具のそばに駆け寄った。

「やっぱりだ……! 犯人は、あの社長の首を切った凶器を、この部屋のどこかに隠してるはずだと探してたんだ! まさか、この大きなカニの飾りの裏側にテープで貼り付けて隠してたなんて!」

 

 少年は、床にへたり込んでいる山田のほうを向き、パァッと顔を輝かせた。

「すげーよ、お姉さん! ずっとこのカニの飾りが怪しいって疑って、わざとぶつかって証拠を落としてくれたんだな! おかげで決定的な証拠が見つかったぜ!」

 

「えっ?」

 

 山田は、カバンを開けたままポカーンとしている。自分が怒られたせいでぶつかっただけなのに、なぜか名探偵の助手みたいな扱いを受けて戸惑っているらしい。

「ふ、ふふん! 当たり前だ! 私のこのすべてを見通す目にかかれば、どこに凶器が隠されているかなんてお見通しだ! エヘヘヘ……」

 山田はすぐに調子に乗り、いばったようにふんぞり返った。

 

「ちょっと、あんたはただカニを盗もうとしただけでしょ!」

 二乃が呆れたようにツッコミを入れるが、探偵の少年はもう山田のことなど気にしていない。彼は見つかった血まみれの凶器をペンライトで照らしながら、ゆっくりと立ち上がった。

 

「この道具を使えば、人間の首を両側から挟み込んで、あんなに深い傷をつけることができる。これが決定的な証拠だ。そして、この凶器に触ることができたのは、夕食の準備の時に大広間に一番乗りしてきて、一人でこのテーブルの前に座ってた人物だけだ」

 

 少年の鋭い指先が、まっすぐに一人の中年男に向けられた。

 さっき、探偵の推理にケチをつけていた、細身でメガネをかけた秘書の男だ。

 

「高橋さん。社長と甥っ子さんを殺した犯人は、あんただ!」

 

 大広間の空気が、ピシッと凍りついた。

 名指しされた高橋という秘書の男は、ビクッと肩を震わせ、顔から一気に血の気が引いていくのがわかった。

「な、何を言っているんだ! 私が犯人だという証拠がどこにある!」

「証拠なら、その凶器についてる血と、あんたの指紋を調べればすぐにわかる。それに、二番目の甥っ子さんが殺された時、あんたには誰も証明できるアリバイがない。あんたは社長にひどいパワハラを受けていて、ずっと恨んでたんじゃないのか? そして、次の社長になろうとしていた甥っ子さんのことも」

 

 探偵の言葉が、男をどんどん壁際へと追い詰めていく。

 高橋は唇を震わせ、滝のように冷や汗を流しながら、後ずさりした。

「ち、違う……私はやっていない! あんなカニのバケモノみたいな殺し方、私がするわけないだろう!」

「もう逃げられないぜ、高橋さん。あんたが社長たちを殺したんだ!」

 

 少年が強く言い放った、次の瞬間だった。

 

「うおおおおおおおおおおっ!!!!」

 高橋が、突然獣のような叫び声を上げた。

 彼の目には、もう完全に理性の光がなくなっていた。恐怖と絶望が混ざり合ったような、狂気の目。

「うるさい、うるさい、うるさい! なぜだ、なぜお前みたいなガキに私の計画が邪魔されなきゃならないんだ!」

 

 男は上着のポケットに手を突っ込み、そこからギラリと光るものを取り出した。

 折りたたみ式の、サバイバルナイフだ。彼はそれをカチャリと開くと、狂ったように刃を振り回し始めた。

 

「近づくな! 誰か一歩でも動いたら、こいつの首をかっ切るぞ!」

 高橋がナイフを突き出しながら、ものすごいスピードで横に飛び込んだ。彼が狙ったのは、探偵の少年ではない。そのすぐ後ろで、不安そうに成り行きを見守っていた幼馴染の女の子、美雪だった。

 

「きゃあっ!」

 美雪が悲鳴を上げる。高橋は彼女の背後に回り込み、その細い首に、鋭いナイフの刃をピタリと押し当てた。彼女の体を盾にするようにして、探偵や他の客たちを威嚇している。

 

「美雪っ!!」

 探偵の少年が、顔を青ざめて叫んだ。

「来るな! 来るなと言っているだろうが! お前が全部ぶち壊したんだ! お前さえいなければ、私は復讐を果たして、誰にもバレずにここから逃げられたのに!」

 高橋は涙と鼻水を流しながら、ギャーギャーとわめき散らしている。

「邪魔をするな! このままこの女と一緒に、外の吹雪の中に逃げてやる! 追ってきたら、こいつを殺す!」

 

 大広間は、完全なパニック状態に陥った。

「だ、誰か助けて!」

「ナイフを持ってるぞ!」

 客たちは悲鳴を上げて壁際に逃げ惑う。

 

 高橋は美雪の首に刃を当てたまま、もう片方の手でポケットから小さなリモコンのようなものを取り出した。

「お前たちには、ここで永遠に恐怖を味わってもらおう! 私を笑った罰だ!」

 

 彼が親指でボタンを押し込んだ瞬間。

 バツンッ!!

 重い破裂音と共に、大広間のすべての照明が落ちた。彼があらかじめ配電盤にでも仕掛けていた細工だろう。窓の外の吹雪の音だけが響く、完全な漆黒の闇が空間を支配した。

 

「きゃあああああっ!」

「真っ暗だ!」

「誰か灯りを!」

 

 視界を奪われた大人たちのパニックが、怒号と悲鳴となって暗闇を飛び交う。

 

「ひえええっ! 科学の光よ戻れ! 山田、私を守れ!」

「バカヤロウ、私を盾にするな! お前が自発光しろ!」

 闇に紛れて、ドタバタと間抜けな争いをする二人組の声も聞こえる。

 

「きゃっ……!」

 その混乱の最中、俺の横で短く息を呑む音がした。

 俺は瞬時に腕を伸ばし、恐怖で固まっていた二乃の肩を抱き寄せた。彼女の華奢な体がドンと胸にぶつかり、二乃の両手が、すがるように俺の服の胸元を強く握りしめる。

 

「八雲……」

 震える声に、俺は彼女の耳元で静かに囁いた。

「大丈夫だ。ここでじっとしてろ。三秒で終わらせる」

「……うん」

 

 俺は二乃を左腕で庇いながら、自分の体の中にあるエネルギーの蛇口を回した。

 心臓の奥から湧き上がるオーラを、体表にとどめず、周囲の空間へと薄く、広く展開していく。

 

 索敵の技術、『円』。

 

 暗闇というキャンバスの上に、俺のオーラが完璧な精密図を描き出していく。

 逃げ惑う客たちの心拍。震える上田と山田の体温。

 そして──出入り口に向かって、美雪を引きずりながら強引に進もうとしている高橋の焦燥感と、彼が握りしめているナイフの切っ先のミリ単位の位置までが、俺の脳内に鮮明にマッピングされた。

 

 闇の中で、視覚を頼りにする必要など一切ない。

 

 俺は右足の筋肉にだけオーラを集中させ、音もなく床を蹴った。

 距離は十メートル。

 だが、暗闇の中で高橋が瞬きを一度終えるよりも早く、俺は彼の真横に立っていた。

 

「なっ……!?」

 高橋が、自分の隣に突然現れた気配に気づき、怯えたように息を呑む。

 俺は下から跳ね上げるように右手を滑らせ、高橋が握っているナイフの手首を正確に叩いた。

 

 パァン! という乾いた音。

 高橋の手からナイフが弾き飛ばされ、闇の中を弧を描いて天井の梁に突き刺さる。

 

 俺はその隙を逃さず、左の拳を軽く握った。

 思い切り殴ったら、こいつの腹に穴が空いてしまう。俺はオーラを抜き、高橋の胸の真ん中、みぞおちのあたりを狙って短いストレートを打ち込んだ。

 

 ドスッ。

 鈍い音がして、俺の拳が高橋の体に食い込む。

「ごふっ……!!」

 暗闇の中で、高橋の目が飛び出しそうに見開かれたのが気配でわかった。彼は胃液を吹き出し、糸の切れた操り人形のように、ドサリと畳の上に崩れ落ちた。

 

 ピクピクと痙攣する高橋を足元に見下ろしながら、俺は静かにオーラを収束させた。

「……終わったぞ」

 

 パチッ、という音と共に、誰かが懐中電灯のスイッチを入れたのか、それとも非常用電源が作動したのか、大広間に薄暗いオレンジ色の光が戻った。

 

 光に照らし出されたのは、白目をむいて気絶している高橋と、腰を抜かしてへたり込んでいる無傷の美雪。

 そして、その傍らに涼しい顔で立っている俺の姿だった。

 

「み、美雪! 大丈夫か!」

 我に返った探偵の少年が、幼馴染のもとへ駆け寄り、彼女の肩を抱きしめた。

「はじめちゃん……怖かった……」

 美雪と呼ばれた女の子が、少年の胸の中で泣き崩れる。ああ、よかった。怪我はないみたいだ。

 

 少年は女の子の無事を確認すると、パッと顔を上げて俺のほうを見た。

 その目には、驚きと、少しの警戒の色が浮かんでいる。

「あ、あの……暗闇の中で、どうやって彼を……? まるで、見えてたみたいに……」

 探偵らしい鋭い目つきで問いかけてくる。

 

 俺は手のひらについた高橋の汗をズボンで拭きながら、懐から一枚の名刺を取り出し、彼に向かって差し出した。

「俺、ちょっと特殊な『揉め事処理屋』をやっててね。まあ、こういう暗闇の荒事は専門分野ってわけ」

「揉め事……処理屋?」

 少年は訝しげな顔をしながらも、おずおずとその名刺を受け取る。

「ああ。君みたいな優秀な探偵は、そのうち警察じゃどうにもならない裏社会のヤバい連中に目をつけられることもあるだろ? もし手に負えない厄介事に巻き込まれたら、そこに連絡してくれ。報酬次第で、大概のことは解決してやるよ」

「は、はあ……」

 

 呆然とする少年の肩をポンと軽く叩き、俺はニヤリと笑ってみせた。

「それにしても、すごい推理だったな、探偵くん! あんな複雑な氷のトリックを見破るなんて、本当に天才だよ。君がいなかったら、俺たちもカニのバケモノに殺されてたかもしれない」

 俺が無理やり話題を変えて褒めちぎると、少年は少し顔を赤くして頭をかいた。

「い、いや。俺はただ、ジッチャンの名にかけて、真実を暴いただけだから」

 

「ふ、ふふふふ……ハッハッハッハッハ!」

 突然、テーブルの下に隠れていた上田が、急に立ち上がって高笑いを始めた。

「見事だ! 暗闇の中で放った私の超念波が、完全に彼の動きを封じたようだな!」

 上田はたんこぶのある頭を撫でつけながら、自信満々に胸を張る。

「犯人がナイフを出した瞬間、私が強力なテレパシーを送って彼の神経を麻痺させたのだ! だからこそ、そこの彼が勘で殴り飛ばすことができたというわけだ! これこそが、天才物理学者である私と、超常現象の融合が生み出した奇跡!」

 

「何をバカなことを言っている! お前はさっき、私の後ろに隠れて『山田守れ』と情けない声を出していただろうが!」

 山田がテーブルの下から這い出してきて、上田の足を蹴り飛ばした。

「私がテーブルの陰から鋭い眼力でプレッシャーを与えていたからこそ、犯人は隙を見せたのだ! つまり、この事件を解決したのは、偉大なる天才マジシャンであるこの山田奈緒子だ! お前のやったことは全部お見通しだ!」

 山田がビシッと上田に向かって指を突きつける。

「うるさい、この貧乳! お前はただ暗闇に紛れてカニをカバンに詰め込もうとしていただけだろうが!」

「なっ、また胸の話をするか! 訴えてやる!」

 

 ギャーギャーと騒ぎ始めた二人の姿を見て、大広間の緊張感はすっかり抜け落ちていた。

 客たちは安堵の溜息をつき、探偵の少年も呆れたように笑っている。

 まったく、最後まで騒がしい連中だ。

 

 俺がため息をついていると、背中側にいた二乃が、俺の服の裾をツンツンと引っ張った。

 振り返ると、彼女はまだ少し青白い顔をしていたが、俺と目が合うとホッとしたように口元を緩めた。

「……あんたって、本当にバカみたいに強いのね。ちょっとだけ見直したわ。暗闇でも迷わないなんて」

「そりゃどうも。これでやっと、ゆっくり眠れそうだな」

「ええ。でも、その前に……」

 二乃は、放置されたまま冷え切っているカニの皿を指さした。

「このお宿の女将さんに文句を言って、一番新しくて大きい焼きガニを部屋に運んでもらうわよ。慰謝料はしっかり請求しないと気が済まないんだから」

 

 その言葉に、俺は思わず声を出して笑ってしまった。

 この状況でまだ食い意地が張っているなんて、さすがは俺の相棒だ。

 

 *

 

 それから数時間が経ち、外の吹雪はようやく収まった。

 夜が明けて、窓の外から眩しい朝の光が差し込んでくる頃には、除雪車が道を切り開き、警察のパトカーや救急車が何台も宿の前に到着していた。

 殺人事件ということで、警察の事情聴取はそれなりに面倒だったが、俺はあくまで「たまたま居合わせた運のいい客」として振る舞い、探偵の少年がほとんどの状況を説明してくれたおかげで、早々に解放された。

 

 ロビーでは、どこから聞きつけたのか、地元のテレビ局のカメラクルーが数人入り込んでいて、なぜか上田がカメラの前で偉そうにインタビューに答えていた。

「ええ、すべては私の物理学的な計算によって解明されました。犯人の仕掛けたトリックなど、私の頭脳の前では赤子同然でしたよ。ハッハッハ!」

「ちょっと待て! 私の活躍をカットするな! 私の超魔術がなければ解決しなかったんだぞ!」

 山田がカメラの前に割り込もうとして、ディレクターらしき男に必死に止められている。

「はいはい、お姉さん達はちょっと下がってね。それより、あの探偵の高校生にも話を聞きたいんだけど……」

 

 そんな騒がしいロビーを横目に、俺と二乃はさっさと自分たちの部屋へと戻った。

 部屋のふすまを開けると、そこには、昨日の夜に見たのと同じくらい、いや、それ以上に豪華なカニのフルコースが、新しく準備されて並んでいた。

 女将さんが泣きながら「大変な目に遭わせて申し訳ありませんでした」と謝罪し、特別に用意してくれたものだ。

 

「わあ……! すごい! 今度はちゃんと湯気が立ってる!」

 二乃が歓声を上げて、テーブルの前に座り込む。

 炭火の入った七輪の上では、太いカニの足がジュージューと香ばしい音を立てて焼かれている。刺身は氷の上に美しく盛られ、カニ味噌は甲羅の中でグツグツと煮立っていた。

 

「やっと、本当にやっと、まともにカニが食えるな」

 俺も座椅子に深く腰を下ろし、熱いお茶をすすった。

 いろいろあったが、終わりよければすべてよしだ。このカニの匂いを嗅いでいるだけで、昨夜の暗闇や血の匂い、面倒な探偵たちのことなんて、頭の中から綺麗に消え去っていく。

 

「ほら、八雲。あんたも早く食べなさいよ」

 二乃が、七輪でこんがりと焼けたカニの足を一つ手に取り、殻を器用にパキッと割った。

 中から、ぷりっぷりの、雪のように白いカニの身が顔を出す。

 二乃はそれをふーふーと少し冷ましてから、ふと動きを止めた。

 彼女はなぜか視線を虚空へ泳がせると、タオルから覗く耳たぶをほんのりと赤く染める。

 

「ほら、あーんして」

「えっ、いや、自分で食べられるから……」

「いいから、あーん!」

 少しだけ震える手で差し出されたそのカニを前に、俺は短く息を吐いた。

 まったく、カニよりもずっと甘いご褒美だ。

 俺は最高の気分で、大きく口を開けた。

「あー」

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