現代日本に転生したけど、何かおかしくない?   作:匿名のななし

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02 現状認識と相棒との邂逅、そして現在②

 ドアが叩かれている。

 ただ叩かれているだけじゃない。

 

 バンバンバン! ドンドンドン!

 

 激しい打撃音とともに、薄い木の板がミシミシと悲鳴のような軋み音を立てていた。

 俺は息を潜めた。

 居留守だ。これはもう、絶対に居留守に限る。

 こんな真っ昼間から、蝶番をへし折る勢いでドアを叩いてくる客なんて、まともなわけがない。

 それに、外から聞こえてくるのは──若い女の子の、悲鳴じみた金切り声だった。

 

「開けて! 誰か、お願いだから開けてよっ!」

 

 切羽詰まった声。

 直後、ドアノブがガチャガチャガチャッ! と乱暴に激しく上下された。鍵をかけておいて本当に良かった。

 普通なら、正義感に燃えて「どうしました!」と飛び出すところかもしれない。

 テレビドラマの熱血主人公なら、迷わずドアを開けて女の子を背中に庇い、悪者を華麗に撃退するだろう。

 

 でも、ここは俺が知っている、あの安全で平和な日本じゃない。

 この世界は、常識のタガが外れきったイカれた無法地帯だ。

 か弱そうな女の子が助けを求めてきたからといって、本当にただの被害者だとは限らない。

 ドアを開けた瞬間、その女の子が突然ニヤリと笑って、ブレザーの下からサブマシンガンを取り出して乱射してくるかもしれない。

 あるいは、その後ろからチェーンソーを担いだモヒカンの大男が乱入してきて、「ヒャッハー!」と叫びながら部屋の中を細切れにするかもしれない。

 そういう理不尽が、平然と日常の延長線上で起こり得るのがこの世界なのだ。

 

 だから俺は動かない。

 昨日リサイクルショップで買ってきたばかりの、すり減った革ソファの後ろに縮こまり、気配を完全に殺す。

 呼吸を浅くし、心臓の鼓動すら体内の奥底へ抑え込むイメージで。

 頼むから諦めて別の部屋へ行ってくれ。

 

 俺の事務所は開いてまだ三日目なんだ。一件も依頼をこなしていないのに、ドアの修理代なんて払いたくない。

 敷金もギリギリしか払っていないから、一階に住む大家のばあちゃんに怒鳴り込まれたら最悪即日退去になってしまう。

 

 ドンドンッ! ガンッ!

 

「いるんでしょ!? 足音聞こえたわよ! お願い、助けてってば!」

(聞こえるわけないだろ、俺は音もなく歩いてたぞ……! ハッタリに引っかかるかよ!)

「ちょっと、開けなさいよ! この役立たず! 人殺し!」

(助けを求める態度じゃないだろ! なんで初対面のドア越しに罵倒されてんだ俺は!)

 

 声はどんどん悲痛に、そしてなぜかキレ気味になっていく。

 十代中盤から後半くらいの、かなり若い女の子の声だ。

 俺の頭の中で、二つの思考が激しく火花を散らす。

 

『女の子が追われてるんだぞ! 早く開けてやれよ!』という真っ当な良心と、『おいおい、やめとけって。どうせ面倒な裏社会のトラブルだ。関わったら最後、ドラム缶にコンクリート詰めにされて東京湾に沈められるぞ』という生存本能。

 どちらが正しいかと言えば、この世界においては圧倒的に後者だ。

 関わらないのが一番。見ざる、聞かざる、言わざる。

 それが長生きの鉄則だ。

 しかし、事態は俺の居留守を許してくれなかった。

 

 ミシッ、メキメキッ!

 

 木のドアの蝶番とドア枠の隙間から、決定的なダメージを知らせる破壊音が響いた。

 あ、これヤバい。

 このまま外から体当たりを食らい続けたら、鍵がかかっていようがいまいが、物理的な衝撃でドアが枠ごと壁から外れる。

 ただでさえこのアパートのドアは建付けが悪く、昨日も鍵を閉めるのにガチャガチャとコツが必要だった代物なのだ。

 ドアが壊れたら、全額弁償。

 俺のなけなしの開業資金が、木の扉一枚に消えてしまう──!

 

「ああもう、わかったよ! 壊すな、今開けるから体当たりをやめろ!」

 

 俺は半ばヤケクソになって叫び、ソファの陰から立ち上がった。

 小走りでドアに向かい、鍵のつまみを捻る。

 ガチャリ、と金属音が響き、ノブを回したまさにその瞬間だった。

 

「ひゃっ!?」

 

 外側に引く間もなく、外にいた小柄な身体が全力の体重を預けて雪崩れ込んできた。

「うわ、危なっ!」

 俺は慌ててステップを踏んで後ろへ下がる。

 勢い余ってリノリウムの床に派手に転がり込んできたのは、予想通り若い女の子だった。

 

 ふわりと広がる、春の桜を思わせる艶やかなピンク色の長い髪。

 左右を黒いリボンで可愛らしく結んでいる。

 着ているのは、どこか良家のお嬢様が通う私立校のような、デザインの凝った制服だ。

 白いブラウスに、深い色合いのカーディガン、チェック柄のプリーツスカート。

 引き締まったふくらはぎを包む黒のハイソックスに、ローファー。

 

「いっ……つぅ……!」

「おいおい、大丈夫かよ……」

 

 床に両手をついて激しく肩で息をする姿を、俺は上から観察した。

 どう見ても、ただの女子高生だ。

 チェーンソーもサブマシンガンも持っていない。

 ポケットが不自然に角張っている様子もないし、細い指先には小さなスクールバッグが固く握りしめられているだけだ。

 だが、その横顔には、取り繕いようのない濃密な恐怖の色が張り付いていた。

 額にはびっしりと冷や汗が滲み、荒い呼吸に合わせて細い肩が上下に激しく震えている。

 

「はぁっ、はぁっ……! し、閉めて……! 早く鍵を閉めてよ!」

「え? あ、おい──」

 

 俺が返事をするより早く、開け放たれたドアの向こう、古びた鉄骨階段の下から乱暴な足音が響き渡ってきた。

 ドタドタドタッ! ガンガンガンッ!

 一つや二つじゃない。重い革靴が鉄板を踏み鳴らす、少なくとも三人以上の足音。

 続いて、暴力的な怒声が二階の踊り場へと吹き上がってきた。

 

「おいコラァ! どこ逃げやがったクソアマ!」

「こっちの階段上がっていったぞ! 逃がすんじゃねえぞオラァ!」

 

 うわぁ……めっちゃテンプレ。

 俺は心の中で盛大に頭を抱えた。

 聞こえてくるセリフの語彙が、昭和の不良漫画か実録ヤクザ映画のそれだ。

 令和の世の中に「クソアマ」なんて単語を腹から叫ぶ奴がいるなんて、このカオスな世界くらいのものだろう。

 足音はあっという間に二階の踊り場を駆け抜け、開け放たれた俺の事務所の入り口を塞ぐように現れた。

 

「お、いたぞ! なーに人の事務所に逃げ込んでんだよ、おい!」

 

 姿を現したのは、絵に描いたような三人組の男たちだった。

 俺は彼らの風貌を見て、今度は本気で深いため息をつきそうになった。

 見事なまでの「チンピラ」フル装備である。

 先頭の男は金髪をツンツンに逆立て、派手で趣味の悪いアロハシャツ。首には太い金のネックレスを下げているが、よく見るとメッキが剥げかけて地金が露出している。

 二人目は筋骨隆々の坊主頭で、ピチピチの黒いTシャツの袖から腕のタトゥーを見せびらかしている。模様は潰れていてよくわからないが、龍のつもりだろうか。

 三人目は少し痩せ型で、薄暗い屋内だというのに真っ黒なサングラスをかけ、クチャクチャと下品にガムを噛んでいた。

 

 ハロウィンの仮装パーティーなら間違いなく参加賞くらいは貰えそうなステレオタイプだ。

 だが、彼らが手に提げている得物は、決してプラスチックの小道具ではなかった。

 金髪の男は、先端が赤茶色に錆びついた水道用の鉄パイプ。

 坊主頭は、指の関節に無骨な鉄製のメリケンサック。

 サングラスの男は、手の中でカチャカチャと銀色のバタフライナイフを弄んでいる。

 

 ガチの裏社会の末端だ。

 どこかの半グレ組織か、暴力団のチンピラに違いない。

 俺は全身の関節から一気に力が抜けそうになった。

 なんで俺がこんな目に遭わなきゃいけないんだ。

 ただのんびりと、迷子の猫を探したり、浮気調査でカメラを構えたり、近所のスーパーのタイムセールに並んだりして小銭を稼ぎたかっただけなのに。

 開業三日目でこのハードコア展開は、いくらなんでも胃に悪すぎる。

 

「お兄さんよぉ」

 

 金髪の男が、肩を大袈裟に揺らしながら事務所の中へと踏み込んできた。

 キュッ、と嫌なスキール音が鳴る。

 土足だ。

 昨日、俺が百円ショップの雑巾を握りしめ、腰が痛くなるまで一生懸命水拭きした床の上に、泥と油のついたスニーカーで上がり込んできやがった。

 許せない。あの雑巾掛け、三時間もかかったのに。

 

「その足元で震えてる可愛いお嬢ちゃん、俺たちの連れなんだわ。ちょっと返してもらっていいかな?」

 

 男はニヤニヤと口端を歪めて言ったが、その瞳の奥には獲物をいたぶるハイエナのような嗜虐的な光がギラついていた。

 俺は足元に視線を落とした。

 女の子は、恐怖で全身を小刻みに震わせながらも、俺の履いているチノパンの裾を小さな手でギュッと握りしめていた。

 見上げてくる大きな瞳。

 普通の女子高生なら、ここで完全に腰を抜かして「助けて!」と泣き喚くだろう。

 だが、この子は違った。

 震える唇を血が滲むほど強く噛み締め、その瞳の奥には、恐怖を力ずくでねじ伏せるような、猛烈な「拒絶」と「敵意」の炎が宿っていた。

 涙で潤んではいるが、決してポロポロと零そうとはしない。

 助けを乞うているというより、「あんたたちなんかに絶対に屈しない」という意地が、その小さな身体を支えているのが分かった。

 

(……へえ。めちゃくちゃ気が強いな)

 

 泣き叫んでパニックを起こされるより、よっぽど話が早いし、好感が持てる。

 俺は後頭部をガシガシと掻きながら、男たちに向き直った。

 

「連れ、ねぇ。……本人、全力で嫌がってるように見えるけど?」

「ああん? カップルの痴話喧嘩に外野が口挟んでんじゃねえよ」

「最近のカップルは、鉄パイプとバタフライナイフを振り回して追いかけっこするのがトレンドなのか? ずいぶん前衛的でスリリングなデートだな」

「……てめえ、誰に向かって口利いてんだ?」

 

 俺のおどけた返しに、金髪の男の薄笑いがスッと消えた。

 代わりに、坊主頭の巨漢が一歩前へ踏み出し、メリケンサックをはめた拳をバキバキと鳴らして凄んでくる。

 

「すっこんでろや、もやし野郎が。怪我したくなかったら、そのアマをこっちに突き出して部屋の隅で震えてな。それとも、てめえも一緒にミンチにされたいのか?」

 

 もやし野郎。

 まあ、確かに俺はプロレスラーみたいな威圧感はないし、着ているのもヨレヨレの白Tシャツに薄手のジャケットだ。

 どう見ても喧嘩慣れした武闘派には見えないだろう。

 だが、見た目だけで強さを測るというのは、このカオスな世界では一番やってはいけない初歩的なミスだ。

 見た目だけで判断できるなら、亀有の交番にいる眉毛の繋がった警察官が街を壊滅させられるわけがない。

 

「ミンチはちょっと勘弁してほしいかな。消化に悪そうだし」

「茶化してんじゃねえぞガキが!!」

「あのさ、ここ俺の事務所なんだよ。勝手に入り込んで、土足で床を汚して、おまけに物騒な凶器を振り回して。これ以上騒がれると近所迷惑だし、一階の大家さんが怒鳴り込んでくるんだよね。あのばあちゃん、怒るとめちゃくちゃ長いんだよ」

「はっ、何言ってんだこいつ。完全に脳みそ湧いてんな」

 

 サングラスの男が、嘲笑いながらバタフライナイフの切っ先を俺の鼻先へと向けてきた。

 

「おいおい兄ちゃん、自分が今どんな状況に置かれてるか分かってねえだろ? 俺たちは本気なんだぜ? そこらの一般人を一人や二人刺したところで、痛くも痒くもねえんだわ。お前みたいな平和ボケしたカタギが首突っ込んでいい世界じゃねえんだよ」

「自分たちが底辺のチンピラだって自覚があるのは立派だけどさ。それを免罪符に暴れるのは感心しないな」

「あぁ!?」

「俺は平和主義者なんだ。話し合いで解決したい。だから今すぐ回れ右して帰ってくれないかな? そうすれば、その床の泥汚れの清掃代は請求しないでおいてあげるから」

 

 俺なりの、最大限の温情と譲歩だった。

 痛いのも、血を見るのも、骨がきしむ音を聞くのも大嫌いなのだ。

 ここで彼らが「チッ、覚えとけよ」と昭和の捨て台詞を吐いて立ち去ってくれれば、それで万事解決だった。

 

 だが、沸点の低いチンピラたちにとって、俺の飄々とした態度は油に火を注ぐようなものだったらしい。

 金髪の男が顔を真っ赤にして額に青筋を浮かべた。

 

「てめえ……舐めた口利いてんじゃねえぞ! ぶっ殺してやる!!」

 

 男が右腕を振りかぶり、錆びた鉄パイプを一気に振り上げた。

 その瞬間──俺の足元で、裾を掴んでいた手がパッと離れた。

 

「やめてっ!」

 

 甲高い悲鳴とともに、女の子が俺の前に飛び出してきた。

 両手を広げ、震える身体で俺を背中に庇うようにして、振り下ろされる鉄パイプの前に立ちはだかる。

「危ないから逃げて!」

「おいおい、無茶すんなって!」

 

 思わず叫んでしまった。

 女子高生の華奢な腕で、成人男性が全体重を乗せて振り下ろす鉄パイプを止められるわけがない。

 直撃すれば骨折どころか、頭に当たれば即死だ。

 さっきまで恐怖で震えていたくせに、見ず知らずの赤の他人を庇おうとするなんて、どれだけお人好しで向こう見ずなんだ。

 

「邪魔だクソアマ! まとめてくたばれぇッ!」

 

 男は一切躊躇することなく、女の子の頭部めがけて鉄パイプを叩き落としてきた。

 空気を切り裂く、ヒュッという鋭利な風切り音。

 

「あーあ……だから言ったのに」

 

 俺は息を吐き出すと同時に、ポケットから右手を抜いた。

 そして──体内の奥底に眠る『オーラ』の蛇口を、一気に全開にする。

 

 ドクンッ、と心臓が跳ね、全身の毛穴から熱い奔流が吹き出す。

 俺の力は、純度百パーセントの『強化系』だ。

 複雑な異能も、派手な属性攻撃もない。

 ただひたすらに、己の肉体と物質の強度を限界突破させるだけの原始的な力。

 つま先から頭頂部まで、目に見えない強固なエネルギーの膜が、俺の皮膚を覆い尽くしていく。

 練り上げるのに要する時間は、コンマ一秒にも満たない。

 

「っと、おいで」

 

 俺は女の子の細い肩を左手で抱き寄せ、強引に自分の背後へと滑り込ませた。

 入れ替わるように一歩前へ出ると、無造作に右腕を斜め上へと突き出す。

 鉄パイプの軌道上へ、生身の腕をただ置くように。

 

 ガァァァンッッ!!!!

 

 狭い事務所の中に、耳を劈くような金属打撃音が炸裂した。

 それは生身の肉を打つ音では断じてない。

 分厚い戦車の装甲に、砲弾が直撃して弾け飛んだかのような衝撃音。

 衝撃波が室内の空気をビリビリと震わせ、壁の手描きポスターがパタパタと激しく煽られた。

 

「…………は?」

 

 金髪の男の口から、間抜けな空気の抜ける音が漏れた。

 男の視線の先。

 俺のまくり上げたシャツから露出した前腕に、全力で振り下ろされた鉄パイプが直撃していた。

 だが──俺の肌には、赤み一つ、傷一つついていない。

 逆に、激突した鉄パイプの方が、衝撃に耐えきれず中央から綺麗な『く』の字に圧壊し、へし曲がっていた。

 パラパラと、剥がれ落ちた赤錆の粉が床に散る。

 

「え……? うそ……?」

 

 俺の背中に隠れた女の子が、息を呑んで目を見張っているのが気配で分かった。

 静寂。

 部屋の中の時間が完全に凍りついた。

 金髪の男は、腕に伝わった凄まじい反動で痺れた手を押さえ、曲がった鉄パイプと俺の顔を狂ったように何度も見比べている。

 

「……ねえ。これで、大人しく帰る気になってくれた?」

 

 俺がにっこりと愛想笑いを浮かべると、男は泡を食ったように顔面を蒼白にして後ずさった。

 

「な、なんだてめえ……!? 鉄パイプが……曲がっ……!?」

「手品? それとも最新の科学技術に見える? ただの骨密度だよ」

「ふ、ふざけんな! 腕に鉄板仕込んでやがったなテメエ!」

 坊主頭が狼狽えながら怒鳴り散らす。

「ビビるな! ただの仕掛けだ! ブッ殺せぇッ!」

 

 自らを奮い立たせるように叫び、今度はサングラスの男がバタフライナイフを逆手に構えて突っ込んできた。

 狙いは俺の喉笛ではなく、服の上から狙える脇腹。

 下から斜め上へ、体重を乗せて抉り込むような手慣れた刺突だ。

 何人も脅し、傷つけてきた手慣れた動き。

 普通の人間なら、刃のきらめきを見ただけで竦み上がって終わりだろう。

 

 だが、オーラで神経伝達速度まで引き上げた俺の視界では──男の動きは、水の中を泳ぐ亀のようにノロく見えていた。

 ナイフが空気を切り裂く角度、男の重心の傾き、踏み込む足の筋肉の緊張。

 すべてが手に取るようにわかる。

 

「危ないっ!」

 背後で女の子が叫ぶ。

「大丈夫、見てて」

 

 俺は女の子を背中で庇ったまま、左手の手刀で男の手首をペチンと軽く払った。

 軌道が外れ、空を切る切っ先。

 バランスを崩した男の眼前で、俺は空いた右手の親指と中指を交差させ──ナイフの鋼の刀身に向けて、軽くデコピンを放った。

 

 パキィィィンッ!

 

 甲高いガラスが割れるような音が響き渡る。

 分厚い特殊鋼のブレードが、根元から粉々にへし折れた。

 折れた切っ先が宙をクルクルと回転し、床のリノリウムにカランと虚しく転がる。

 

「……は……? え……?」

 

 サングラスの男は、刃の消失したナイフの柄を握りしめたまま、完全に思考を停止させていた。

 デコピンで鋼鉄のナイフを折られた男の顔面は、もはや恐怖を通り越して真っ白に干からびている。

 

「さてと」

 

 俺が一歩前に出ると、三人組は「ヒィッ!」と短い悲鳴を上げて一斉に後ずさった。

 彼らの目に映る俺は、もはやただの優男ではない。

 人の皮を被った、得体の知れない化け物だ。

 

「ば、バケモノだ……! 逃げろォッ!」

「待てよ。散々暴れて床を汚しておいて、タダで帰れるわけないだろ?」

 

 背中を向けてドアへ殺到しようとした三人の視界から、俺の姿がかき消えた。

 床を軽く蹴る。

 常人の動体視力を置き去りにする速度で彼らの正面──ドアの前に回り込み、逃げ場を塞ぐ。

「ひっ!?」

「はい、おやすみ」

 

 みぞおち、顎先、そして首筋の急所へ。

 オーラを極限までセーブした手刀と掌底を、流れるような連打でポン、ポン、ポンと叩き込む。

 ドスッ、バキッ、ゴッ!

「がはっ……!」

「あべっ……!」

「ごふぅっ……!」

 

 くぐもった蛙の潰れるような声を漏らし、大の大人の男三人が、折り重なるようにして床へ崩れ落ちた。

 白目を剥いてピクピクと痙攣している。

 

「ふう……開業準備で鈍ってたかと思ったけど、案外動けるもんだな」

 

 俺は軽く首を回して骨を鳴らし、心の中で昔を思い出して愚痴をこぼした。

 あの狂気の師匠がいた道場で、死に物狂いで受けた地獄のシゴキに比べれば、こいつらの攻撃なんて止まっている綿毛を叩くようなものだ。

 死ぬ気で生き延びておいて本当によかった。

 

 俺は床に倒れて呻く金髪男の前にしゃがみ込み、その胸ポケットと尻ポケットを容赦なく探った。

 出てきたのは、パンパンに膨らんだ蛇革の長財布。

「おっ、結構入ってんじゃん」

「う……ぅ……て、めえ……」

「はいはい、喋らなくていいよ。このアパートのドアの修理代、それから土足で汚された床の清掃代、ついでに平和を愛する俺のメンタルへの精神的慰謝料として、これ全部徴収しとくから」

 長財布から分厚い万札の束を抜き取り、空っぽになった財布を男の顔面にペシッと放り投げる。

 ついでに残りの二人の財布からも、ありったけの現金をきれいに抜き取った。

 

「慰謝料はこれで手打ちにしてやる。三秒で起き上がって消えろ。二度とこの界隈にツラ見せるなよ? 次来たら、今度はその曲がったパイプを喉に突っ込んでやるから」

「ヒィィィッ!」

 

 俺が氷のように冷たい声で囁くと、男たちは折れた肋骨や痺れる顎を押さえながら、転がるようにして部屋から飛び出していった。

 階段をドタドタと転がり落ちるような凄まじい音。

 続いて、階下で車のドアが乱暴に閉まり、タイヤをけたたましく軋ませて急発進していくスキール音が遠ざかっていった。

 

 嵐のような数分間が終わった。

 開け放たれたドアから、生ぬるい春風が吹き込んでくる。

 俺は体内に巡らせていたオーラをスッと静め、リラックスした通常状態へと戻した。

 

「はぁ……開業三日目でこれかよ。先が思いやられるな。揉め事処理屋なんて看板、今すぐへし折って畳んだ方がいいんじゃないか……?」

 

 深く長いため息をつきながら、俺は床に転がっているひん曲がった鉄パイプと折れたナイフの刃を拾い上げた。

 部屋の隅にある小さなプラスチックのゴミ箱に突っ込もうとするが、当然ながら長いパイプが収まるはずもなく、凶器が不格好に斜めに突き刺さる。

 ……後で燃えないゴミの日に出すか。

 

 そんな現実逃避をしていた俺の背後で、カサリ、と制服の布擦れの音がした。

 振り返ると──

 ピンク色の髪の女の子が、床に座り込んだまま、信じられないものを見るような目で俺を凝視していた。

 さっきまでの怯えは消え失せている。

 代わりに、その大きな瞳には強烈な驚愕と、底知れない警戒心が入り混じっていた。

 視線が、俺の顔と、傷一つない前腕の間を何度も往復している。

 

「……あんた、何者?」

 

 最初に彼女の口から零れ落ちたのは、震えを含みつつも、驚くほど芯の通った問い詰めるような声だった。

 俺はパイプ椅子を引き寄せて、どっこいしょと腰を下ろす。

 

「何者って言われてもねぇ。見ての通り、ただの一般人だよ。ちょっとばかし骨密度が人の三倍くらいあって、人より肌が頑丈なだけのね」

「……馬鹿にしてるの? 一般人が素手で鉄パイプをへし曲げて、デコピンでナイフをへし折るわけないでしょ。手品? それとも何かのトリック?」

「手品で鉄パイプ曲げられたら、今すぐラスベガスでショーを開いて大金持ちになってるよ」

「じゃあ何なのよ! 説明しなさいよ!」

 

 女の子はキッと鋭い目で俺を睨みつけてきた。

 普通なら「助けてくれてありがとうございます」と涙ぐんで感謝するところだろう。

 だが、この子は違う。まず相手の正体と安全性を値踏みし、論理的に状況を把握しようとしている。

 気が強い。だが、その警戒心は実に正しい。

 

「まあ、この世界じゃよくあることじゃない? 新宿に行けばヤクザがビルを吹き飛ばしてるし、群馬の峠じゃ車が物理法則を無視して溝を走ってるらしいしね。ちょっと頑丈な人間がいるくらい、誤差の範囲だよ」

「ふざけないで。私、本気で聞いてるんだけど」

 

 女の子は憤慨したように立ち上がろうとしたが──

 カクン、と膝が折れ、再び無様にペタリと床にへたり込んでしまった。

「きゃっ……」

「ほら、無理すんなって」

「う、うるさいわね……! 足が、ちょっと痺れただけよ!」

 

 強がってはいるが、細い太ももが小刻みに震えている。

 極度の緊張と恐怖から急激に解放されたせいで、アドレナリンが切れて身体が言うことを聞かないのだ。

 いくら気が強かろうと、中身は普通の女子高生である。

 

 俺は苦笑しながら立ち上がり、部屋の隅にある小さな一人暮らし用の冷蔵庫を開けた。

 中から取り出したのは、スーパーの安売りで買った紙パックの麦茶。

 百円ショップのガラスコップにトクトクと注ぎ、氷を一つ浮かべて、床に座り込む彼女の前にしゃがんで差し出した。

 

「ほら。とりあえずこれ飲んで落ち着きなよ。話はそれから」

「…………」

 

 彼女は差し出されたコップと、俺の顔を交互に見比べた。

 眉間に深いシワを寄せ、露骨に疑いの目を向けてくる。

 

「何よ、これ。……変な薬とか入ってないでしょうね?」

「入ってない入ってない。六十円の麦茶だよ。俺、そういう面倒くさい犯罪は一番嫌いなんだ。君を眠らせてどうこうする趣味もないし、そんな度胸もないよ」

「……毒見しなさいよ」

「はいはい」

 

 俺は苦笑いしながらコップを受け取り、一口ゴクリと飲んで見せた。

「ほら、無害。冷たくて美味しい麦茶です」

「……ん」

 

 ようやく納得したのか、彼女は小さく手を伸ばし、両手でコップを包み込むように受け取った。

 冷えたガラスに触れた指先が、まだ微かに震えている。

「……ありがと」

 蚊の鳴くような声で小さく呟き、彼女はコップに口をつけた。

 コクン、コクン、と喉を鳴らして麦茶を飲み干していく。

 喉がカラカラだったのだろう。一気に飲み干すと、ふぅ、と小さな吐息が零れた。

 

「落ち着いた?」

「……ええ、おかげさまで」

 

 二乃は少しだけ顔色を取り戻し、制服のスカートの裾を整えながら、膝を揃えて座り直した。

 俺もパイプ椅子に戻り、自分の分のコップを手に取る。

 

「で? 君、名前は? なんであんな絵に描いたようなチンピラ連中に追われてたわけ?」

「……名前、聞くならまず自分から名乗るのが礼儀じゃないの?」

「手厳しいねぇ。俺は八雲。この事務所の所長やってるよ」

 

 俺は壁に貼ってある、マジックで殴り書きした紙を指差した。

『八雲 揉め事処理屋 ~浮気調査から探し物、ペット捜索まで~』

 

 彼女はその紙をじーっと胡散臭そうに見つめた。

「揉め事処理屋……? 探偵みたいなもの?」

「まあ、似たようなもんだね。警察に頼めないようなグレーな困り事とか、面倒くさい日常のトラブルを代わりに解決する何でも屋。開業して三日目だけど」

「怪しさ満点ね」

「否定はしないよ。で、君のお名前は?」

「……中野、二乃」

「中野二乃ちゃんね」

「ちゃん付けしないで。『二乃』でいいわよ」

 

 ツンと横を向く二乃。

 やっぱり気が強い。だが、その横顔には年相応の可愛らしさがあった。

 

「それで、二乃。あいつら君のこと『俺たちの連れ』とか抜かしてたけど……まさかあんなのと付き合ってたわけじゃないよね?」

「なっ……! ふざけないでよ! あんな知性も清潔感もない底辺のクズたちと関わりがあるわけないでしょ! 私の趣味を疑わないで!」

 

 二乃は顔を真っ赤にして激昂した。

 怒りで震えるその剣幕に、俺は思わず両手を挙げて降参のポーズをとる。

 

「冗談だよ、怒るなって。君みたいな綺麗なお嬢様があんな連中と並んでたら、美女と野獣どころか捕獲された宇宙人みたいになっちゃうしね」

「……綺麗とか、適当なこと言って誤魔化さないでよ」

 

 二乃はぷいっと視線を逸らしたが、白い耳たぶがほんのり赤らんでいた。

 チョロいというか、素直じゃないというか。

 少しの間を置いて、二乃は膝の上でぎゅっと拳を握りしめ、ぽつりぽつりと重い口を開いた。

 

「……知り合いから、すごく割の良いバイトがあるって紹介されたのよ」

「バイト? 高校生がか?」

「ええ。普通のカフェのホールスタッフだって聞いてたの。時給も高くて、制服も可愛いって……」

 

 二乃はギュッと膝の上のスカートを握りしめた。声が、悔しさと微かな恐怖で震え始める。

 

「でも、行ってみたら全然違ったわ。雑居ビルの奥にある、薄暗い会員制のバーで。奥のVIPルームみたいなところに案内されて……いきなり、変な男たちに囲まれたの」

「……」

「お酒を飲めって強要されて。断ったら、力ずくで服を脱がされそうになって……」

「なるほどね……」

「抵抗して、テーブルにあった灰皿を近くの男の顔面に投げつけてやったわ。それで隙ができたから、死に物狂いで非常階段から逃げ出したの。そしたら……あいつら、ずっと追いかけてきて……」

 

 典型的な悪質スカウトの罠だ。

 無知な女子高生を高時給で釣り、薬物を飲ませて逃げられないように弱みを握り、裏の風俗や愛人ビジネスに沈める。

 このイカれた世界では、掃いて捨てるほど転がっている胸糞の悪い手口だ。

 灰皿を顔面に叩きつけて脱出するあたり、この子の気の強さと行動力は並大抵じゃない。

 

「よく無事で逃げ出せたよ、本当に。……でも、なんで警察に駆け込まなかったの? 駅前に交番があっただろ」

「警察なんて信じられるわけないでしょ!」

 

 二乃は鋭い声で言い放ち、キッと俺を睨みつけた。

 

「あいつら、逃げる私を追いかけながら笑ってたわ。『この街の所轄の幹部は俺たちの身内だ、通報しても無駄だ』って。……それに、もし警察沙汰になったら、学校にも連絡がいくし……実家にも迷惑がかかるかもしれないじゃない」

「実家?」

「私、五つ子なのよ。姉妹がいるの。……あいつら、私がどこの高校に通ってるか知ってるみたいだった。もし私が家に逃げ帰ったら、あいつらが家まで押しかけてきて……姉妹たちに危害が及ぶかもしれないでしょ!?」

 

 瞳に大粒の涙を浮かべながら、二乃は唇を噛み締めた。

 自分の命が危険に晒されていたというのに、この子は真っ先に家族の心配をしていたのだ。

 だから家に帰ることもできず、あてもなく走り回り、逃げ場を失ってこの古びたアパートの階段を駆け上がってきた。

 そして、たまたま目に入った俺の事務所のドアを、壊れる勢いで叩いたと。

 

「なるほどね……」

 俺はため息をつき、頭をガシガシと掻いた。

「そういうことか。……君、めちゃくちゃ偉いな」

「……え?」

「いや、普通ならパニックになって泣き喚くだけだよ。自分の身が一番危ないのに、家族を守るために家に帰らなかったんだろ? 立派だよ」

「な、何よ急に……からかわないでよ」

 

 二乃は面食らったように目をパチクリとさせ、居心地悪そうに身を縮めた。

 

「事情はよく分かったよ。で、この後どうする気? あいつらはボコボコにしたけど、元締めがいるならまだ安心はできない。ほとぼりが冷めるまで、安全なビジネスホテルでも手配してあげようか? さっきあいつらから巻き上げた『慰謝料』があるから、宿泊費くらいは出してあげるよ」

 

 俺の提案に、二乃はじっと黙り込んだ。

 何かを深く考え込むように視線を落とし、やがて──すっと顔を上げた。

 その瞳から、迷いや怯えの色が完全に消え失せていた。

 彼女はゆっくりと立ち上がり、乱れた制服のスカートをパンパンと払う。

 

「ねぇ、八雲」

「ん?」

「あんたのその力……さっきの、何なの?」

「だから、骨密度が──」

「嘘ばっかり言わないで!」

 

 二乃はズカズカと俺の前に歩み寄ると、パイプ椅子に座る俺の胸ぐらを掴まんばかりの勢いで身を乗り出してきた。

 ふわりと、汗の匂いに混じって甘いシャンプーの香りが鼻腔をくすぐる。

 

「私、見たわよ。あんたが私の前に出た瞬間……部屋中の空気が、急に重くなったの」

「……」

「肌がビリビリして、息が苦しくなるような……目に見えない何かが、あんたの体から吹き出していた。あんなの、ただの人間じゃないわ。あんた、本当は何者なの?」

 

 俺は内心で舌を巻いた。

 オーラを感知したのか。

 念能力を持たない一般人でも、極限状態の危機に瀕した際、オーラの濃密な圧迫感を肌で感じ取ることがある。

 だが、この短時間の混乱の中で、それを的確に言語化できる観察眼と直感の鋭さは驚異的だ。

 

「……何者でもないよ。ただ、この狂った街で生き残るための知恵と技術を持ってるだけの男さ」

「ふーん……そう」

 

 二乃は俺の目を真っ直ぐに見据えたまま、ふっと不敵な笑みを浮かべた。

 さっきまでの怯えた少女の顔はどこへやら、勝ち気で、小悪魔のような強烈な光を宿した瞳。

 彼女はすっと腕を組み、豊満な胸元を強調するように顎をツンと突き出した。

 

「決めたわ。私を、ここで雇いなさい」

 

「…………は?」

 

 俺の口から、間抜けな声が漏れた。

 思考が完全にフリーズする。

 今、この女子高生は何と言った?

 

「や、雇う……? 誰を? 君を?」

「そうよ。ここにいる誰が中野二乃に見えるわけ? あんたのアシスタントとして、私を雇いなさいって言ってるの」

「いやいやいや! 待て待て待て! 話の飛躍がアクロバティックすぎるだろ! なんでそうなる!?」

「当たり前でしょ!」

 

 二乃は人差し指をビシッと俺の鼻先に突きつけてきた。

 

「私、しばらく家に帰れないのよ。あいつらの組織がどうなってるか分からないのに、実家に戻って姉妹を危険に晒すわけにはいかないわ。それに、ホテルなんて一人でいたら、いつ居場所を突き止められるか分かったもんじゃないでしょ!」

「それはそうかもしれないけどさ……」

「ここなら、あんたがいるじゃない。あんな化け物みたいな強さがあれば、あいつらが何人押し寄せてきても返り討ちにできるでしょ? 私の安全は保障されるわ」

「俺を無料の防犯シェルターか何かと勘違いしてない!?」

「無料とは言ってないでしょ! ちゃんと対価は払うわよ!」

 

 二乃は仁王立ちになり、自信満々に胸を張った。

 

「私、料理はプロ級よ。掃除も洗濯も、家事全般なんでもできるわ。あんた、どうせ自炊なんてろくにしないで、コンビニ弁当とカップ麺ばっかり食べてるんでしょ? さっきから気になってたけど、シンクに洗い物溜まりっぱなしだし、部屋の隅、埃だらけじゃない!」

「うっ……昨日は床掃除で手一杯だったんだよ……」

「それに、あんたみたいな見るからにやる気のなさそうで胡散臭い男が一人で事務所やってたって、まともな依頼人なんて警戒して入ってこないわよ! 私が看板娘兼マネージャーとして、しっかり事務所を切り盛りしてあげるわ!」

「い、いや、うちはまだ開業したばかりで給料なんて払えないし──」

「寝床とご飯代、それにあんたのボディーガード代と相殺でいいわよ! 文句ある!?」

「ぐうの音も出ないくらい強引すぎる……!」

 

 俺は両手で顔を覆い、天を仰いだ。

 なんだこの怒涛の営業トークは。

 さっきまで震えて泣きそうになっていた女の子と同一人物とは到底思えない。

 だが、指の隙間から覗き見た二乃の瞳には、一切の迷いがなかった。

 生き残るために、家族を守るために、目の前にいる俺を死に物狂いで掴み取ろうとする、剥き出しのバイタリティ。

 

 このイカれた世界で、自分の頭で考え、自分の意志で運命を手繰り寄せようとする人間。

 ……嫌いじゃない。

 むしろ、泣いて誰かにすがるだけの人間よりも、百倍信用できる。

 

「……本当に後悔しない?」

「後悔なんてする暇があったら、目の前の状況をなんとかするわよ」

「命の保証はできないよ? 俺の仕事、これからもっとヤバい連中やマフィアと揉めるかもしれないし」

「あんたのそのデタラメな腕力があれば、どうとでもなるでしょ。それに……」

 

 二乃は少しだけ視線を泳がせ、小さな声で呟いた。

 

「あんた、悪い奴じゃなさそうだしね。……見ず知らずの女の子を身を挺して庇うようなお人好しが、極悪人なわけないでしょ」

「買い被りすぎだよ。ただドアの弁償代が嫌だっただけさ」

 俺は視線を逸らし、首の後ろをポリポリと掻いた。

「ふん、素直じゃないわね」

 

 二乃はぷっと吹き出し、勝ち誇ったように笑った。

 その笑顔があまりにも眩しくて、俺は思わず毒気を抜かれてしまう。

 あーあ。

 俺の平穏で怠惰な一人暮らし計画は、開業三日目にして完全に潰えたらしい。

 でも、まあ──退屈しのぎには、ちょうどいいかもしれない。

 

「わかったよ。採用だ、中野二乃さん」

「ふふっ、交渉成立ね! よろしく、八雲所長」

「はいはい。じゃあアシスタント業務の第一弾として、まずはそこの泥だらけの床を雑巾掛けしてくれるかな」

「……初日から容赦なくこき使ってくれるじゃないの!」

 

 文句を言いながらも、二乃はどこか嬉しそうに腕まくりをして、流し台へと向かっていった。

 窓の外からは、遠くパトカーのサイレンが鳴り響いている。

 どこかでまた、爆破事件でも起きたのだろう。

 狂った街の、狂った日常。

 だが、事務所に満ちる空気だけは、どこか少しだけ温かいものに変わり始めていた。

 

 ──そして。

 この日始まった奇妙な共同生活は、数年の月日を経て、かけがえのない日常へと繋がっていくことになる。

 

 ***

 

『ねぇ二乃、そこの角のところ、まだ埃残ってるよ』

『うるさいわね! 口だけ動かしてないで手伝いなさいよ!』

 

 雑巾を投げつけてくる若き日の二乃の残像が、ふと脳裏をよぎり──

 その懐かしい記憶を、鼓膜を直接揺さぶるような鋭い怒声が物理的に粉砕した。

 

「──ちょっと八雲! いつまで寝てんのよ、この怠け者!!」

 

 ビクッとして、俺はガバッと跳ね起きた。

 すり減った革ソファの上。

 視界が明瞭になると、そこには数年前の制服姿ではなく、すっかり大人の女性の魅力を漂わせた二乃が立っていた。

 腰に手を当て、ジト目を向けて仁王立ちしている。

 綺麗なピンク色の髪はハーフアップにまとめられ、胸元にはフリル付きの可愛らしいエプロン。

 両手には、湯気を立てる大きなトレイが握られていた。

 

「うわっ……びっくりした……! なんだよ二乃、耳元で叫ぶなよ……」

「叫びたくもなるわよ! もうお昼の十二時半! せっかく作ったご飯が冷めちゃうでしょ!」

 

 カチャリ、とテーブルの上にトレイが置かれる。

 立ち上る湯気とともに、暴力的なまでに食欲を刺激する濃厚なデミグラスソースと、香ばしく焼き上げられた肉の匂いが鼻腔を直撃した。

 まん丸に膨らんだ極厚の煮込みハンバーグに、ツヤツヤの目玉焼き、彩り豊かな温野菜。

 

「うおっ……! 今日の昼飯、ハンバーグか! しかもデミグラス!」

「ふふん、感謝しなさいよね。あんたが午前中ずっと豚みたいにヨダレ垂らして爆睡してる間に、私がわざわざ合い挽き肉をこねて、ソースも赤ワインからコトコト煮詰めて作ったんだから」

「さすがうちの優秀すぎる共同経営者様だ。一生ついていきます」

「口先だけならなんとでも言えるわよね。ほら、冷めないうちに食べなさい」

 

 二乃は満足そうに口端を吊り上げ、俺の向かいのパイプ椅子に腰掛けた。

 俺は飛び起き、寝癖だらけの頭を掻きながらフォークを手に取る。

 ふっくらとした肉に刃を入れると、中から透明な肉汁がジュワッと溢れ出してきた。

 一口頬張る。

 ──美味い。美味すぎる。

 肉の旨味と玉ねぎの甘み、そこに深みのある特製デミグラスソースが絡み合い、脳髄が痺れるような多幸感が広がる。

 相変わらず、こいつの料理の腕前はそこらの高級レストランを軽く凌駕している。

 

「んぐっ……美味い! マジで世界一美味いよ二乃!」

「当たり前でしょ、誰が作ったと思ってるのよ」

 

 二乃はふんすと得意げに鼻を鳴らした。

 だが、その勝ち誇った笑みが、ふと妖しげな弧を描く。

 細く長い指先が、エプロンのポケットへと滑り込んだ。

 

「美味しく食べて精をつけなさいよね。……だって、これから大きなお仕事が待ってるんだもの」

 

 バサッッ!!

 

 机の上に、重々しい鈍い音を立てて何かが叩きつけられた。

 俺はハンバーグを口に運ぼうとした手をピタリと止めた。

 皿のすぐ隣に鎮座する、分厚い茶封筒。

 封筒の口からはみ出しているのは──見間違いようのない、帯封のついた一万円札の束だった。

 厚みからして、軽く百万円はある。

 

「…………」

「…………」

 

 俺の口から、肉汁の味がスーッと引いていく。

 背筋を冷たい汗がツーッと伝った。

 事務所を開いて数年、俺はこの手の『前金がデカすぎる案件』が運んできた厄介事の数々を、嫌というほど骨身にしみて知っている。

 

「……ねえ、二乃ちゃん?」

「何かしら、八雲所長?」

 

 二乃は至極楽しそうに、首をコテンと傾けて微笑んだ。

 その笑顔は、かつて表参道のカフェで俺を翻弄した時と同じ、悪魔のように魅惑的で、そして恐ろしいものだった。

 

「その、目の前にある分厚い紙の束は……一体何かな?」

「決まってるでしょ。今日の午後一番で入る、大型の依頼よ」

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