念能力者が行く多重クロス世界 作:匿名のななし
ドアが叩かれている。
ただ叩かれているだけじゃない。
バンバンバン!
という音とともに、薄い木の板がミシミシと嫌な音を立てている。
俺は息を潜めた。
居留守だ。これはもう、絶対に居留守に限る。
こんな昼下がりから、ドアを壊す勢いで叩いてくる客なんて、まともなわけがない。
それに、聞こえてきたのは若い女の子の悲鳴みたいな声だ。
「開けて! 誰か、開けてよっ!」
切羽詰まった声。
ドアノブがガチャガチャと乱暴に回されている。鍵をかけておいて本当に良かった。
普通なら、正義感に燃えて「どうしました!」って飛び出すところかもしれない。
テレビドラマの主人公なら、迷わずドアを開けて女の子を庇い、悪者を華麗に撃退するだろう。
でも、ここは俺が知っている、あの安全で平和な日本じゃない。
この世界は、常識のタガが外れきったイカれた世界だ。
か弱そうな女の子が助けを求めてきたからといって、本当にただの被害者だとは限らない。
ドアを開けた瞬間、その女の子が突然ニヤリと笑って、服の下からマシンガンを取り出して乱射してくるかもしれない。
あるいは、その後ろからチェーンソーを持った大男が乱入してきて、「ヒャッハー!」とか言いながら部屋の中をめちゃくちゃにするかもしれない。
そういうことが、平然と起こり得るのがこの世界なのだ。
だから俺は動かない。
買ったばかりのリサイクルショップのソファの後ろにしゃがみ込んで、気配を完全に消す。
呼吸を浅くして、心臓の音すら抑え込むようなイメージで。
頼む、諦めて別のところへ行ってくれ。
俺の事務所は開いたばかりなんだ。まだ依頼を一つもこなしていないのに、ドアの修理代なんて払いたくない。
敷金もギリギリしか払っていないから、大家のばあちゃんに怒られたら最悪追い出されてしまう。
ドンドンッ! バンッ!
「お願い、誰かいないの!? 助けて!」
声はどんどん悲痛になっていく。
女の子の声だ。それも、かなり若い。十代中半から後半くらいだろうか。
俺の頭の中で、二つの思考がぐるぐると回り始める。
『女の子が助けを求めているよ! 早く助けてあげなきゃ!』という真っ当な良心と、『おいおい、やめとけって。どうせ面倒な裏社会のトラブルだろ。関わったら最後、ドラム缶にコンクリート詰めにされて東京湾に沈められるぞ』という生存本能。
どちらが正しいかと言えば、この世界においては圧倒的に後者だ。
関わらないのが一番。見ざる、聞かざる、言わざる。
それが長生きの秘訣だ。
しかし、事態は俺の居留守を許してくれなかった。
ミシッ、バキバキッ。
木のドアの蝶番のあたりから、決定的なダメージを知らせる音が響いた。
あ、これヤバい。
このままじゃ、鍵がかかっていようがいまいが、物理的な衝撃でドアが枠ごと外れる。
いや、待てよ。このアパートのドア、そもそも建付けが悪かったんだよな。
昨日も鍵を閉めるのにコツが必要だったくらいだし。
それが今、外からの全力のタックルを受けている。
ドアが壊れたら、弁償だ。
俺のなけなしの貯金が、ドアの修理代に消えてしまう。
それだけは避けたい。
「ああもう、わかったよ! 壊すな、今開けるから!」
俺は半ばヤケクソになって叫び、ソファの陰から立ち上がった。
足音を立ててドアに向かい、鍵のつまみに手をかける。
ガチャリ、と音を立てて鍵を開け、ノブを回した瞬間だった。
「ひゃっ!」
ドアが外側に開くより早く、外にいた人物が体重をかけて押し込んできた。
俺は慌てて一歩後ろに下がる。
勢い余って部屋の中に転がり込んできたのは、予想通り若い女の子だった。
ピンク色がかった、とても綺麗な長い髪。
左右に黒いリボンをつけて結んでいる。
着ているのは、どこかのお嬢様学校みたいな、デザインの凝った制服だ。
白いブラウスに、深い色のカーディガン、チェック柄のスカート。
膝までの黒いソックスに、ローファー。
どう見ても、ただの女子高生だ。
チェーンソーもマシンガンも隠し持っていそうにない。
ポケットが不自然に膨らんでいる様子もないし、手には小さなスクールバッグを握りしめているだけだ。
女の子は床に手をついて、肩で大きく息をしている。
「はぁっ、はぁっ……!」
その横顔には、はっきりと恐怖の色が浮かんでいた。
額にはうっすらと汗が滲み、呼吸のたびに小さな肩が上下に揺れている。
俺が「あの、大丈夫ですか」と声をかけようとした、まさにその時だった。
開けっ放しになったドアの外、階段の下から、ドタドタと乱暴な足音が聞こえてきた。
一つや二つじゃない。少なくとも三、四人分の重い足音だ。
階段の鉄板がガンガンと鳴らされ、怒声が響き渡る。
「おいコラァ! どこ逃げた、クソアマ!」
「こっちの階段上がっていきやがったぞ! 逃がすな!」
うわぁ、めっちゃテンプレ。
俺は心の中で頭を抱えた。
聞こえてくるセリフが、昭和の不良漫画かヤクザ映画のそれだ。
令和の時代に「クソアマ」なんて言葉を本気で叫ぶ奴がいるなんて、この世界くらいのものだろう。
普通なら「待て!」とか「そっちだ!」くらいだろうに、わざわざ語彙力を下げて威嚇してくるあたり、知性の低さが窺える。
足音はあっという間に二階の踊り場まで到達し、俺の事務所の開いたドアの前に現れた。
「お、いたぞ! なーに隠れようとしてんだよ!」
現れたのは、三人組の男たちだった。
俺は彼らの姿を見て、思わずため息をつきそうになった。
見事なまでの「チンピラ」ファッションだったのだ。
一人は金髪をツンツンに逆立てて、柄の悪いアロハシャツを着ている。首には太い金のネックレス。いくらするのか知らないが、メッキが剥がれかけているように見える。
もう一人は坊主頭で、ピチピチの黒いTシャツから腕のタトゥーをがっつり見せびらかしている。模様はよくわからないが、たぶん龍か何かだろう。
三人目は少し細身で、サングラスをかけてガムをクチャクチャと噛んでいた。屋内なのにサングラス。視力どうなってんだ。
これ、どこかの劇団の人たちかな?
そう思いたくなるくらい、ステレオタイプな悪役の姿だった。
ハロウィンの仮装パーティーなら優勝できるかもしれない。
でも、彼らが手に持っているものは、決して小道具なんかじゃなかった。
金髪の男は、先が錆びた鉄のパイプを握っている。
坊主頭は、手首にメリケンサックみたいなものをはめている。
サングラスの男は、手の中でカチャカチャと銀色のバタフライナイフを弄っていた。
ガチのやつだ。
本物の、裏社会の末端みたいな連中だ。
たぶん、どこかの半グレ集団の下っ端か何かだろう。
俺は面倒くささで全身の力が抜けそうになった。
なんで俺がこんな目に遭わなきゃいけないんだ。
ただのんびりと、迷子の猫を探したり、浮気の証拠写真を撮ったり、近所のスーパーの特売品を代わりに買ってきたりして小銭を稼ぎたかっただけなのに。
初日からこんなハードコアな展開、聞いていない。
「お兄さんよぉ」
金髪の男が、肩を揺らしながら部屋の中に一歩踏み込んできた。
土足だ。
昨日、俺が百円ショップの雑巾で一生懸命拭き掃除をした床に、泥のついた靴で踏み込んできやがった。
許せない。あの雑巾掛け、腰が痛くなるくらい頑張ったのに。
「その足元に転がってる可愛いお嬢ちゃん、俺たちの連れなんだわ。ちょっと返してもらっていいかな?」
男はヘラヘラと笑いながら言うが、目は全く笑っていない。
むしろ、獲物を前にしたハイエナのような、ギラギラとした嫌な光を放っていた。
俺は床に座り込んでいる女の子を見下ろした。
女の子は、恐怖で体を震わせながらも、俺のズボンの裾をギュッと掴んでいた。
見上げた大きな瞳が、俺を捉える。
普通の女の子なら、ここで泣き叫んで「助けて」とすがるだろう。
「お願い、殺される!」とか言って、パニックになるのが普通だ。
でも、この子は違った。
震える唇をきつく結び、その瞳には、恐怖を塗り潰すほどの強い光が宿っていた。
俺に助けを求めるというより、「こいつらには絶対に屈しない」という意地みたいなものを感じた。
涙ぐんではいるが、決して涙をこぼそうとしない。
気が強い子だな、と俺は素直に感心した。
こういう瞳をする人間は、嫌いじゃない。
泣き喚いて人に全部丸投げするやつより、よっぽど好感が持てる。
「連れ、ねぇ」
俺は頭を掻きながら、男たちに向き直った。
「なんか、彼女はそうは思ってないみたいなんだけど。どう見ても嫌がってるよね? それとも最近のカップルは、鉄パイプとナイフで追いかけっこするようなハードなデートを楽しんでるのかな」
俺の言葉を聞いて、男たちの顔つきが変わった。
薄っぺらい愛想笑いが消え、凶悪な怒りが顔を出す。
「あ? なんだてめえ。俺たちに説教垂れようってのか?」
坊主頭の男が、凄みを利かせて前に出てくる。
「すっこんでろや、優男が。怪我したくなかったら、そのアマから手ェ離して向こう向いてな。それとも、てめえも一緒に痛い目見たいのか?」
優男。
まあ、確かに俺はマッチョでもないし、身長も普通だ。
着ているのもヨレヨレのTシャツと、薄手の安いジャケット。
どう見ても喧嘩が強そうには見えないだろう。
ジムで鍛えているようなムキムキの筋肉もないし、格闘技の経験を匂わせるようなオーラも出していないつもりだ。
でも、そういう見た目で人を判断するのは、この世界では一番やってはいけないミスだ。
見た目だけで強さを測れるなら、あの亀有の交番のおまわりさんが最強なわけがない。
俺はもう一度、大きなため息をついた。
「怪我したくないのはお互い様だと思うんだけど。ここ、俺の事務所なんだよね。勝手に入ってこられて、土足で床を汚されて、おまけに物騒なものチラつかされて。これ以上騒がれると、近所迷惑だし、俺も困るんだよね。大家さん、結構口うるさい人だからさ」
「はっ、何言ってんだこいつ。頭おかしいんじゃねえの?」
サングラスの男が、ナイフの刃を俺に向けてニヤニヤと笑う。
「お前、自分が今どういう状況にいるか分かってねえだろ。俺たちは本気なんだぜ? ちょっと刺されたくらいじゃ、警察も動かねえような底辺のクズなんだよ、俺たちは。お前みたいな平和ボケしたヤツが、口出ししていい問題じゃねえんだわ」
自分たちを底辺のクズって自覚してるのは偉いけど、それを免罪符みたいに使うのはどうかと思う。
俺はズボンのポケットに両手を突っ込んで、面倒くさそうに首を鳴らした。
ポキッ、ポキッという音が部屋に響く。
「あのさ、俺は君たちと揉めたくないんだよ。だから、今すぐ帰ってくれないかな。そうすれば、床の泥汚れのことは水に流してあげるから」
俺なりの、最大限の譲歩だった。
平和的解決。話し合いで終わらせるのが一番いい。
血を見るのも、骨が折れる音を聞くのも、俺の趣味じゃない。
ここで彼らが「チッ、今日はこのくらいにしといてやる」と捨て台詞を吐いて帰ってくれれば、それで万事解決なのだ。
だが、男たちは俺の言葉を完全に舐め腐った挑発と受け取ったらしい。
金髪の男が、顔を真っ赤にして青筋を立てた。
カルシウムが足りていないのか、それとも元々そういう沸点の低い生き物なのか。
「てめえ……舐めてんのか! ぶっ殺してやる!」
男が鉄のパイプを大きく振り上げた。
その瞬間、俺のズボンの裾を掴んでいた女の子が動いた。
「やめてっ!」
女の子は俺の前に飛び出すようにして立ち上がり、男に向かって手を伸ばした。
震える手で、男の腕を止めようとしたのだ。
いやいや、無茶だろ。
女子高生の細い腕で、大人の男が全力で振り下ろす鉄パイプを止められるわけがない。
下手をすれば腕の骨が折れるし、打ち所が悪ければ死ぬ。
自分の身の危険を顧みず、赤の他人である俺を庇おうとするなんて。
「じゃまだ、クソアマ!」
男は女の子の手を乱暴に振り払い、そのまま勢いよく鉄パイプを振り下ろしてきた。
狙いは、女の子の肩口だ。
空気を裂くヒュッという音が聞こえる。
当たればただでは済まない。
「あーあ、しょうがないなぁ」
俺は呟くと同時に、ポケットから右手を抜いた。
そして、体の中を流れる「オーラ」のスイッチを入れる。
心臓の奥から、熱いお湯が全身の血管を一気に駆け巡るような感覚。
俺の念能力は、強化系だ。
何かを具現化したり、他人を操作したりするような複雑なことはできない。
ただひたすらに、自分自身の肉体や、触れているものを強く硬くするだけのシンプルな力。
つま先から頭のてっぺんまで、見えないエネルギーの膜が俺の皮膚を覆っていく。
厚さ数ミリの、どんな衝撃も弾き返す透明な鎧。
気を練るのにかかる時間は、ほんの一瞬だ。
俺は女の子の肩を掴んでぐいっと俺の後ろに引き寄せると同時に、空いた右手を無造作に上へと突き出した。
迎え撃つように、鉄パイプの軌道上に腕を置く。
ガンッ!!
部屋の中に、鈍くて重い音が響き渡った。
それは、金属が硬い岩にぶつかったような音。
いや、金属同士が激突したような、耳障りな音だ。
衝撃波で、部屋の空気がブルッと震えたのがわかった。
「……は?」
金髪の男が、間抜けな声を漏らした。
男の視線の先にあるもの。
それは、俺の右腕だ。
俺の素肌のむき出しになった前腕部分が、男が全力で振り下ろした鉄のパイプを、真正面から受け止めていた。
俺の腕には、傷一つない。
赤くすらなっていないし、骨に響くような痛みも全くない。
逆に、俺の腕にぶつかった鉄パイプの方が、衝撃に耐えきれずに中央から「く」の字にひん曲がっていた。
錆びた鉄の破片がパラパラと床に落ちる。
「え……?」
俺の後ろに引き寄せられた女の子も、息を呑んでその光景を見つめている。
時間が止まったかのような静寂が、数秒間流れた。
男は自分の手に残るひん曲がった鉄パイプの感触が信じられないのか、何度もパイプと俺の腕を交互に見ている。
「えっと……これで、帰ってくれる気になった?」
俺はにっこりと笑って、男に尋ねた。
「な、なんだこいつ……! 鉄パイプが……!」
男は顔面を蒼白にして、一歩後ずさった。
理解が追いついていないらしい。
そりゃそうだ。普通の人間が素手で鉄パイプを受け止めたら、骨が砕けて悲鳴を上げるのが当たり前だ。
でも、俺は普通じゃない。
このイカれた世界で生き残るために、何年もかけて体を鍛え、オーラを練り上げてきたんだ。
ただのチンピラが振り回す鉄パイプくらい、おもちゃの棒で叩かれるようなものだ。
俺にとっては、ハエが止まった程度の感覚しかない。
「おい、どうなってんだよ! マジックか何かか!?」
坊主頭の男が焦ったように叫ぶ。
「腕に鉄板でも仕込んでんだろ! ビビんな! ただのハッタリだ! やっちまえ!」
サングラスの男が無理やり自分を納得させるように叫び、ナイフを構え直して俺に向かって突っ込んできた。
下から上へ、俺の腹を切り裂こうとする鋭い動き。
チンピラにしては、なかなか手慣れている。
何度もこうやって人を脅してきたんだろう。
素人が相手なら、この一撃で腰を抜かして終わりだ。
でも、遅い。
オーラを練り上げた俺の目には、男の動きがまるでスローモーションのように見える。
ナイフの刃が空気を切り裂く軌道、男の筋肉の動き、重心の移動。
すべてがはっきりと予測できる。
俺は避けることすらしなかった。
ただ、腹の筋肉に少しだけ気を開放して、力を込める。
皮膚の表面に、見えない硬質なオーラを集中させる。
カチンッ。
ナイフの切っ先が、俺のTシャツを突き破り、腹の皮膚に触れた。
その瞬間、乾いた音が鳴った。
ナイフの刃は俺の皮膚を少しも切り裂くことなく、まるで分厚い鉄板に突き立てられたかのように、先端からポッキリと折れてしまったのだ。
折れた刃がくるくると宙を舞い、床にカランと落ちる。
「うそ……だろ……?」
サングラスの男は、刃の半分が消えたナイフの柄を握りしめたまま、完全にフリーズした。
自分の手で何が起きたのか、脳が処理しきれていない顔だ。
いくら鉄板を仕込んでいると思い込もうとしても、服の上から刺して刃が折れるなんて物理的におかしい。
俺は腹に刺さって床に落ちたナイフの破片をチラリと見て、少しだけ不機嫌になった。
「あー、最悪。このTシャツ、結構気に入ってたんだけどな。駅前のスーパーで安売りしてたやつだけど、着心地良くてさ」
俺はTシャツに開いた小さな穴を指でなぞりながら、ため息をついた。
「ねえ、これ弁償してくれる? それとも、俺が君たちの服に同じように穴を開けようか? ナイフは使わないけど、指で突けば同じくらいの穴は開くと思うよ」
俺がそう言って一歩前に出ると、三人組の男たちは「ヒィッ」と短い悲鳴を上げて後ずさりした。
彼らの目に映る俺は、もはや優男なんかじゃない。
正体不明の、得体の知れない化け物だ。
人間が本能的に感じる恐怖。
それが彼らの顔を歪ませていた。
これ以上近づいたら殺される。彼らの細胞がそう叫んでいるのが、手に取るようにわかる。
「ば、化け物……!」
金髪の男が、ひん曲がった鉄パイプを放り出して叫んだ。
それを合図にしたかのように、三人は我先にとドアに向かって駆け出した。
「おぼえてろよ!」
なんていう三流の捨て台詞すら吐く余裕もなく、彼らは階段を転げ落ちるようにして逃げていった。
誰かが足を踏み外したのか、「痛ってえ!」というくぐもった声が聞こえた。
外から車のドアがバンバンと閉まる音がして、すぐにタイヤを擦るけたたましい音が遠ざかっていく。
嵐のような数分間が終わった。
開けっ放しのドアから、生ぬるい風が部屋の中に入ってくる。
俺は体の中を巡っていた気をすーっと静め、元のリラックスした状態に戻した。
肩を回し、首を鳴らす。
「はぁ……開業してすぐこれかよ。先が思いやられるな。揉め事処理屋なんて看板、下ろした方がいいかもしれない」
床に落ちている鉄パイプと折れたナイフを拾い上げ、部屋の隅にある小さなゴミ箱に突っ込もうとした。
当然、長い鉄パイプがゴミ箱に収まるわけもなく、はみ出して不恰好に突き立っている。
まあいいか。後で粗大ゴミにでも出そう。
俺が一人でそんなことを考えていると、背後から衣擦れの音がした。
振り返ると、ピンク色の髪の女の子が、床にへたり込んだまま俺をじっと見つめていた。
さっきまでの恐怖に満ちた表情は消え、代わりに深い驚きと、探るような警戒心が入り混じった顔をしている。
大きな瞳が、俺の顔と、何ともない俺の腕を交互に見つめている。
「……あんた、何者?」
女の子の口から出たのは、そんな言葉だった。
声はまだ少し震えているが、しっかりとしたトーンだ。
やっぱり、気が強い。
普通なら「助けてくれてありがとうございます!」とお礼の一つも言うところだろうに、まずは相手の正体を値踏みしようとしている。
俺はそういう可愛げのないところ、嫌いじゃない。
お姫様みたいに守られるだけじゃ、この世界では生きていけないからな。
「何者って言われてもね」
俺はソファの横にあったパイプ椅子を引き寄せて、どっこいしょと座った。
「見ての通り、ただの一般人だよ。ちょっとだけ頑丈なね。骨密度が人の三倍くらいあるのかもしれない」
「嘘ばっかり。一般人が鉄パイプを素手で曲げたり、ナイフを腹で折ったりするわけないでしょ。手品でも使ったの?」
女の子は鋭い目で俺を睨みつけてくる。
その目は、さっき俺を信じられないものを見るように見ていたチンピラたちの目とは違う。
もっと冷静で、理知的な目だ。
俺の力がいわゆる手品やトリックの類なのか、それとも本物の異常な力なのかを見極めようとしている。
「まあ、この世界じゃ何が起きても不思議じゃないでしょ」
俺ははぐらかすように笑った。
「新宿に行けばヤクザがミサイルぶっ放してるし、群馬に行けば車が空飛んでるらしいからね。俺みたいにちょっと肌が硬い人間くらい、誤差の範囲だよ」
「……ふざけないで。私、本気で聞いてるんだけど」
女の子は立ち上がろうとして、足に力が入らなかったのか、再び床に座り込んでしまった。
強がってはいるが、体は正直だ。
極度の緊張から解放されて、足の震えが止まらないのだろう。
いくら気が強くても、やっぱりただの女子高生だ。
俺はため息をついて立ち上がり、部屋の隅にある小さな冷蔵庫を開けた。
中には、俺が買っておいた紙パックの麦茶が入っている。
百円ショップで買ってきた安物のグラスを二つ取り出し、麦茶を注ぐ。
冷えたグラスを一つ持って、女の子の前に差し出した。
「ほら、とりあえずこれ飲んで落ち着きなよ。話はそれから聞くから」
女の子は俺の手の中にあるグラスと、俺の顔を交互に見比べた。
まるで、毒でも入っているんじゃないかと疑っているみたいだ。
「安心しなよ。睡眠薬とか入れてないから。俺、そういう面倒くさいこと嫌いなんだよね。君を眠らせてどうこうする趣味もないし」
俺が苦笑いすると、女の子は少しだけためらった後、両手でグラスを受け取った。
「……ありがとう」
小さな声で呟いて、グラスに口をつける。
コクン、コクンと喉を鳴らして麦茶を飲む姿は、年相応の女の子そのものだった。
俺も自分のグラスの麦茶を一口飲んで、パイプ椅子に座り直した。
「で? 君、名前は? なんであんな柄の悪いお兄さんたちに追いかけられてたの?」
俺が尋ねると、女の子はグラスを両手で包み込むように持ちながら、少しうつむいた。
長い前髪が影になって、表情が読み取れない。
「……中野、二乃」
「なかの、にの。二乃ちゃんね。俺は八雲。この事務所の所長やってる。と言っても、一人しかいないし、オープンしたばかりだけどね」
俺は壁に貼ってある手描きのポスターを指差した。
『八雲 揉め事処理屋 ~浮気調査から探し物まで、なんでも相談乗ります~』
マジックで書かれたその文字を、二乃は胡散臭そうに見つめた。
「揉め事処理屋……探偵みたいなもの?」
「まあ、似たようなもんかな。警察に行けないような事情がある人のための、便利屋みたいな感じ。猫探しからボディーガードまで、金になればなんでもやる予定」
俺は適当に答えて、二乃の顔を見た。
「それで? 君の事情は? あいつら、君のこと『連れ』だって言ってたけど。まさか、あんな連中と付き合ってるわけじゃないよね?」
二乃は顔を上げて、強い口調で反論した。
「冗談じゃないわ! あんな底辺のクズたちと関わりがあるわけないでしょ! 私の趣味を疑わないでよ」
「だよね。君みたいな綺麗なお嬢様が、あんなのと一緒にいる絵面は想像できない。美女と野獣にもほどがある」
俺がさらっと言うと、二乃はほんの少しだけ頬を赤くして、視線を逸らした。
こういうところは、普通の女の子っぽい。
「……ちょっと、バイト先のことで揉めてただけよ」
「バイト先?」
「知り合いに紹介されたバイトなんだけど……行ってみたら、なんか変な店で。ヤバい薬の取引の受け子みたいなことをさせられそうになったから、逃げ出してきたの」
なるほど。
いかにもありそうな話だ。
この世界では、表向きは普通のカフェやバーでも、裏ではマフィアの資金洗浄の場になっていたり、ヤバい薬の取引所になっていたりすることが日常茶飯事だ。
知識のない高校生が、時給の良さに釣られてそういう場所に足を踏み入れてしまうケースは山ほどある。
彼女は運良く逃げ出せたようだが、あいつらは顔を見られたから口封じのために追いかけてきたんだろう。
「それは災難だったね。でも、逃げて正解だよ。あいつら、君が警察に駆け込むのを恐れて追いかけてきたんだろうね」
「警察なんてアテにならないわよ。あいつら、警察の偉い人と繋がってるって自慢げに話してたし。それに……」
二乃は言い淀み、唇を噛んだ。
「それに?」
「……家に帰ったら、家族に迷惑がかかるかもしれないでしょ。あいつら、私がどこの高校に通ってるか知ってるみたいだったし」
家族を巻き込みたくないから、家に逃げ帰ることもできなかったのか。
それで、宛てもなく逃げ回っているうちに、俺の事務所の看板を見つけて飛び込んできたと。
「それで、行き場がなくて俺のところに転がり込んできたってわけか。まあ、看板の『揉め事処理屋』って文字が見えたのかもしれないけど」
俺は残りの麦茶を飲み干して、グラスを机に置いた。
「事情はわかった。で、君はこの後どうしたいの? 家に帰る? それとも、ほとぼりが冷めるまでどこか安全なホテルでも探す? 少しお金はもらうけど、手配くらいはしてあげるよ」
俺の提案に対して、二乃はじっと俺の顔を見つめたまま、動かなかった。
何かを考えているような、値踏みするような視線。
やがて、彼女はグラスを床に置いて、ゆっくりと立ち上がった。
足の震えはもう止まっているようだった。
「あんた……八雲って言ったわね」
「うん、そうだけど」
「その力、本当にあの鉄パイプを曲げたの?」
まだ疑っているのか。
「だから、誤差の範囲だって。ちょっと鍛えれば、誰でもこれくらいは……」
「嘘よ」
二乃は俺の言葉を遮って、一歩前へ出た。
「あんたの力、そんなチャチなものじゃない。さっき、あんたが男の前に出た瞬間……空気が変わった。空気が重くなったっていうか、ビリビリした何かが部屋中に広がったのを感じたわ。肌がヒリヒリするみたいな、変な感覚」
俺は少し驚いて、目を見開いた。
この子、俺の「オーラ」の放出を感じ取ったのか?
普通の人間には見えないし、感じることもできないはずのエネルギー。
それを、肌で感じ取ったというのか。
単なる勘の鋭さなのか、それとも彼女自身にも何か眠っている才能があるのか。
どちらにしても、ただの女子高生じゃないことは確かだ。
「……それで?」
俺は少しだけ声を低くして尋ねた。
二乃は俺の目から視線を逸らさず、まっすぐに言い放った。
「私を、ここで雇って」
「……は?」
俺は自分の耳を疑った。
今、なんて言った?
「雇ってって……君を? この事務所で?」
「そうよ。私、帰る場所なんてないの。家に帰ったら姉妹たちに危険が及ぶかもしれない。それに、あいつらが諦めるとも思えないし」
二乃は腕を組んで、ツンと顎を上げた。
「それに、あんたのその力、すごく便利そうじゃない。私、料理も掃除も得意よ。あんたみたいなズボラそうな男の一人暮らしには、私みたいなアシスタントが必要だと思うけど?」
なんだ、この急展開は。
さっきまで怯えて震えていた女の子が、いきなり強気な営業をかけてきた。
俺は唖然として、二乃の顔を見つめた。
その瞳には、さっきチンピラに見せたのと同じ「絶対に引かない」という強い意志が宿っていた。
ここで断っても、絶対に引き下がらないだろうな。
そんな予感がした。
俺の平和で退屈な一人暮らしの計画が、音を立てて崩れ去っていくのを感じた。
でも、なぜだろう。
そんなに嫌な気分じゃない。
このイカれた世界で、たった一人で生き抜くのも悪くないと思っていたが。
こんな気の強い相棒が一人くらいいても、少しは退屈しのぎになるかもしれない。
俺は大きくため息をついて、頭をガシガシと掻いた。
「……給料、安いよ? 依頼が来なきゃ、最悪タダ働きになるかもしれないし」
俺の言葉を聞いて、二乃の表情がパッと明るくなった。
まるで花が咲いたような、見事な笑顔だった。
「大丈夫よ。あんたのお尻を叩いてでも、私が仕事を取ってくるから」
二乃はそう言って、自信たっぷりに胸を張った。
その姿を見て、俺は思わず吹き出してしまった。
「ははっ……わかったよ。よろしく、二乃ちゃん」
「ちゃん付けは止めて。二乃でいいわ」
「はいはい、二乃。じゃあ、まずはその床の泥汚れを掃除してくれるかな。アシスタントの最初の仕事だ」
「……初日から人使いが荒いわね」
二乃は文句を言いながらも、どこか楽しそうに雑巾を探し始めた。
外からは、パトカーのサイレンの音が遠く聞こえてくる。
どこかでまた、爆破事件でも起きたのだろう。
この狂った世界は、今日も平常運転だ。
でも、俺の事務所の中だけは、少しだけ空気が変わったような気がした。
俺はソファにどっかりと座り直し、雑巾掛けをする二乃の背中を眺めながら、これからの面倒くさそうな、でも少しだけ楽しみな日々に思いを馳せた。
そして、この日から始まった俺たちの奇妙な共同生活は、数年の時を経て、現在へと繋がっていくことになる。
*
「ねえ、そこの角のところ、まだ汚れてるよ」
「うるさいわね! 座ってないで手伝いなさいよ!」
怒鳴りながら雑巾を投げつけてくる二乃。
俺はそれをヒラリと躱しながら、悪くないな、と心の中で小さく呟いた。
そんな立ち上げ直後の騒がしい記憶が、ふと脳裏をよぎり——
「——ちょっと八雲! いつまで寝てる気!?」
耳元で炸裂した大声に、俺は現実に引き戻された。
ソファの上で飛び起きると、目の前には数年前と変わらない、いや、少しだけ大人びた顔つきになった二乃が、腰に手を当てて仁王立ちしていた。
ピンク色の長い髪は健在で、今はエプロン姿だ。
手には、湯気を立てるお盆を持っている。
「えぇ……今、すごくいい夢を見てたんだけど……」
「いい夢だか何だか知らないけど、もうお昼よ。ご飯冷めちゃうから、さっさと起きて」
二乃は呆れたように言いながら、お盆を机の上に置いた。
漂ってくるのは、ハンバーグとデミグラスソースの暴力的なまでに食欲をそそる匂い。
相変わらず、こいつの作る飯は美味そうだ。
「おっ、今日の昼はハンバーグか。豪華だねぇ」
俺が寝癖を直しながら身を起こすと、二乃はニヤリと不敵な笑みを浮かべた。
「ええ、とびっきり美味しく作ってあげたわ。……だって、これから大きなお仕事が待ってるんだもの」
二乃はエプロンのポケットから、分厚い茶封筒を取り出して、ハンバーグの横にバンッと叩きつけた。
封筒の厚みからして、中身は相当な額の現金だ。
嫌な予感しかしない。
「……ねえ二乃。それ、何?」
俺が引きつった笑顔で尋ねると、二乃は人を惹きつける悪魔のように微笑んで言った。
「決まってるでしょ。今日の依頼よ」