現代日本に転生したけど、何かおかしくない? 作:匿名のななし
迫り来る、大木のような太足。
空気を引き裂き、視界を完全に覆い尽くす岩石のような拳。
「アパパパパーッ! 逃げちゃダメー!」
「オラァッ! まだまだこれからだぜ八雲ォ!」
鼓膜を破るような獰猛な雄叫びと、命を刈り取る純度百パーセントの暴力の嵐。
逃げ場はない。受け止めることもできない。
ああ、終わった。俺の平和で怠惰な人生、ここでゲームオーバー──。
「ハッ……!」
息を呑む音と共に、俺は弾かれたように跳び起きた。
「……っ、がはっ! ぐぉっ、い、だだだだだっ!」
跳び起きた直後、全身の筋肉がブチブチと千切れるような凄まじい激痛が走り、俺はそのまま革ソファの上をのたうち回った。
骨がきしむ。関節が悲鳴を上げている。
細胞の一個一個が「動くな」とストライキを起こしているような、圧倒的な疲労感と筋肉痛。
ぜぇ、ぜぇ、と荒い息を吐きながら薄目を開ける。
視界に入ってきたのは、見慣れすぎたボロ事務所の天井だ。黄色く黄ばんだクロスに、昔の雨漏りが作った歪なシミ。
……よかった。帰ってきたんだ、俺の城に。
あそこじゃない。
あの、人間の皮を被った修羅たちが巣食う地獄のテーマパーク『梁山泊』じゃない。
俺は生きて帰ってきたのだ。
「はぁ……はぁ……マジで、寿命がストレスでマッハなんだけど……」
冷や汗でぐっしょりと濡れた前髪をかき上げ、重い息を吐き出す。
梁山泊から命からがら逃げ帰って、丸一日。
いまだに睡眠のたびにあの師匠たちに殺されかける悪夢を見る。フラッシュバックのバーゲンセールだ。労災を申請したい。
パタパタパタ。
俺が毛布にくるまってガタガタ震えていると、キッチンの方から軽快なスリッパの音が近づいてきた。
「もう、相変わらず騒々しいわね。またうなされてたの?」
呆れたような、それでいてどこか甘さを帯びた声。
見上げると、マグカップを手にした二乃が、腰に手を当てて俺を見下ろしていた。
その姿を見て、俺は思わず瞬きを繰り返した。
外出時の隙のない完璧なコーディネートとは違う。
淡いパステルカラーのゆったりとしたロングカーディガンに、部屋着用のショートパンツ。そこからすらりとした白い脚が惜しげもなく伸びている。
長いピンク色の髪は、ゆるいサイドテールにまとめられており、動くたびにふわりと揺れた。
なんというか、こう……。素直にめちゃくちゃ可愛い。
「……二乃ちゃん、なんだか気合が入った部屋着だな」
「なっ……! 変な意味じゃないわよ! 暖かくて動きやすいから着てるだけなんだから!」
俺が指摘すると、二乃は分かりやすく耳まで真っ赤にしてそっぽを向いた。
相変わらず分かりやすい奴だ。
「それで? 体の具合はどうなの。相変わらずボロ雑巾みたいな顔してるけど」
「ボロ雑巾に失礼なレベルで痛いよ。呼吸するだけで全身が千切れそうなんだけど。俺、このままソファと同化して一生を終えたい」
「情けないわね、ホントに」
毒づきながらも、二乃の瞳の奥には、隠しきれない心配の色が滲んでいる。
あの梁山泊から帰ってきて以来、こいつは俺の体調を気遣って、ずっと甲斐甲斐しく世話を焼いてくれているのだ。
「仕方ないわね。ほら、うつ伏せになりなさい」
二乃はマグカップをローテーブルに置くと、どこから取り出したのか、ホカホカと湯気を立てるホットタオルと、小さなガラス瓶を手に持っていた。
「えっ? いや、いいよ別に。寝てれば治るし」
「いいから! あんたのその身体、放っておいたら一生そのままよ。私がほぐしてあげるって言ってるの。感謝しなさい」
半ば強制的に、俺はソファの上にうつ伏せにひっくり返された。
抵抗する気力もない。
「ちょっと熱いわよ」
ぽすん、と。
首から肩甲骨のあたりにかけて、蒸しタオルが乗せられる。
じんわりとした心地よい熱が、強張っていた筋肉の表面を溶かしていく。
「あー……極楽……」
「まだ早いわよ。これからが本番なんだから」
カチャリ、とガラス瓶の蓋が開く音がした。
直後、ふわりと鼻腔をくすぐる、柑橘系とハーブが混ざったような爽やかで甘い香り。
「なにそれ。アロマ?」
「ええ。リラックス効果の高い特製ブレンドよ。少し強めにいくから、歯を食いしばりなさい」
次の瞬間。
「──っ!?」
肩甲骨の隙間に、二乃の親指が容赦なく、そして的確にめり込んだ。
ただ押しているだけじゃない。絶妙な角度でツボの奥底を捉え、全体重をかけて凝りの芯を粉砕しにきている。
「ぐぉっ……!? い、痛い! ストップ、骨が折れるって!」
「うるさい、動かないの!」
「痛い痛い痛い! タイム! 一旦タイム!」
「ダメ! 逃がさないわよ!」
「ひぎぃッ!?」
絶叫しながらソファの上で暴れる俺を、二乃は容赦なく体圧で押しつぶしてくる。
俺はソファの上でジタバタと溺れる魚のように暴れた。
こいつ、美容と健康の知識がプロ級なのは知ってたけど、指圧の力加減まで殺人的じゃないか。
日頃の恨みでも込めてるのかというくらい、ゴリッ、ゴリッ、と容赦なく凝りの塊をすり潰していく。
「暴れないの! ほら、ここが一番固まってるんじゃない! 全く、無茶ばかりするんだから……っ」
痛みに悶絶しながらも、俺の背中を押す二乃の息遣いが、少しだけ荒くなっているのが分かる。
怒っているような口調の裏に、ボロボロになって帰ってきた俺への本気の怒りと焦りが混じっていた。
「いっ、たたた……分かった、分かったから! もう少し手加減を……」
「ダメよ。中途半端が一番良くないの。いくわよ!」
「ひぎぃっ!」
首筋から肩、そして背中へと。
二乃の手のひらから伝わる温かい体温と、アロマオイルの滑らかな感触。
激痛の波が押し寄せては引いていく。
だが。
五分ほどその地獄のツボ押しに耐え続けていると、俺の身体に明らかな変化が訪れた。
「あれ……?」
痛くない。
いや、痛いことは痛いのだが、その痛みの奥底から、じわじわと痺れるような快感が全身に広がっていくのだ。
鉛のように重かった背中の筋肉が、嘘みたいに柔らかく解きほぐされていく。
血流が一気に良くなり、指先までドクドクと温かい血が巡っていくのが分かった。
「……どう? 少しは楽になったでしょ」
「…………」
言葉が出なかった。
柑橘系の爽やかな香りと、ハーブの深い匂い。
俺の背中を的確に押し流す、二乃の柔らかくて力強い手のひら。
痛みが完全に極上の心地よさへと反転し、俺の脳髄をガンガンと揺らして麻痺させていく。
「ちょ、ちょっと八雲? 生きてる?」
「……」
「な、なんか言いなさいよ……気味が悪いわね……」
文句を言う気力すら、完全に蒸発していた。
俺の思考は停止し、抵抗を放棄して、スライムのようにソファへと深く、深く沈み込んでいく。
ただひたすらに、背中から伝わる熱と癒やしに身を委ねる完全な脱力。
「……ふふっ。ま、素直に受けてるならいいわ」
完全に骨抜きにされた無抵抗な様子を見て、二乃が頭上で満足げに小さく笑う気配がした。
「よし、上半身はこれくらいにしてあげる。ちょっと待ってて。身体を拭くタオルと、温かいハーブティーでも淹れてくるから」
背中からふっと重みが消える。
パタパタというスリッパの音が遠ざかり、キッチンの方でカチャカチャと食器の鳴る音が聞こえ始めた。
全身を包み込むアロマの香りと、溶けてしまいそうなほどの至福の余韻。
俺はソファに顔を埋めたまま、ただ静かに、この極上の平和な時間を噛み締めていた。
*
カチャリ、とローテーブルにマグカップが二つ並べられる。
白く立ち上る湯気をふーふーと吹き消しながら、二乃が俺の隣へスッと腰を下ろした。柑橘とカモミールを混ぜた甘い香りが、鼻腔を心地よくくすぐる。
「ほら、冷めないうちに飲みなさい。水分摂らないと揉み返しがひどくなるわよ」
「……ん、サンキュ」
熱々のカップを両手で包み込み、一口すする。じんわりとした熱が五臓六腑に染み渡っていく。
先ほどまでの「細胞レベルのストライキ」が嘘のように、全身が羽でも生えたように軽くなっていた。
関節の軋みはない。鉛のように重かった肩は、滑らかに回る。
マグカップを受け取り、温かいハーブティーを一口すする。
じんわりとした熱と香りが五臓六腑に染み渡り、俺は大きく息を吐き出した。
「すげぇ……あの地獄の筋肉痛が完全に消えてる。二乃ちゃん、マジでゴッドハンドだな」
心からの称賛を送ると、隣に腰掛けた二乃がフンッと誇らしげに鼻を鳴らした。
「当たり前でしょ。誰がこんなに手厚くケアしてあげたと思ってるのよ。あんた、私のこと神様か何かだと崇めた方がいいわよ」
「いや、マジで神様。あるいは天使」
「……は? なに、急に。気持ち悪い」
俺が茶化さずに素直に肯定すると、二乃は目を丸くして少しだけ身を引いた。
淡いパステルカラーのロングカーディガンに包まれた華奢な肩が、かすかに揺れる。
ゆるくまとめられたサイドテールの毛先が、彼女の白い首筋にかかっていた。
いつもの強気な態度はどこへやら、耳の先をほんのりと赤く染めて、マグカップを両手で包み込むように視線を落とす。
だが、その照れたような表情は、ふっと微かな影を帯びた。
マグカップの縁を指先でなぞりながら、二乃が低く、押し殺した声を落とす。
「……あんた、自分が死にかけたって自覚、本当にあるわけ?」
「は?」
「誤魔化さないでよ。あの道場の庭で、ピクリとも動かなくなってたあんたを見た時……私、本当に心臓が止まるかと思ったんだから」
マグカップを両手で握りしめる二乃の指先が、白くなるほど強張っていた。
いつものツンとした強気な視線ではない。
真っ直ぐに俺を射抜く瞳の奥に、消し去れない恐怖の残滓が揺らめいている。
「普段はどんなチンピラ相手でも、欠伸しながらあしらってたじゃない。それなのに……あの時は、息も絶え絶えで、呼んでも返事もしなくて……っ」
「いや……あれはただ、達人たちの猛攻を防ぎ切るためにオーラを限界まで出し切って、ガス欠でぶっ倒れただけでさ。擦り傷一つない完全な無傷だっただろ」
「そういう理屈を聞いてるんじゃないのっ! 意識失って倒れたら同じことでしょ!」
ピシャリと、鋭い拒絶が飛んできた。
二乃の肩が小さく震えている。
強気な語気とは裏腹に、きつく結ばれた唇はかすかに血の気を失っていた。
「あんたが目の前で物言わぬ肉塊になりかけたのよ!? 私がどれだけ生きた心地がしなかったか……少しは想像しなさいよ、バカ!」
「…………」
「私に念の基礎を教えてくれた時、言ったじゃない。『自分の身は自分で守れ』って。……じゃあ、あんたの身は誰が守るのよ?」
二乃は逃げ場を塞ぐように、身を乗り出して俺の目を捉えた。
その瞳には、かつてないほどの熱量と、頑固なまでの覚悟が宿っていた。
「戦うのはあんたの役目かもしれない。私じゃあのお師匠様たちに敵わないことくらい、分かってるわよ。……でもね、だからって全部一人で背負い込んで、ボロ雑巾になって帰ってくるのを黙って見てろなんて、絶対に納得いかない」
二乃の手が伸びてきて、俺のスウェットの袖をぎゅっと握りしめた。
「もっと私を頼りなさい。あんたが一人で無茶してぶっ倒れるくらいなら……私がその無茶を止めてやるし、倒れたなら引きずってでも介抱してあげる。あんたの相棒は、この私なんだから」
真正面からぶつけられる、ストレートすぎる感情。
その熱量に気圧され、俺は思わず視線を逸らしそうになる。
いつもの軽口で「残機が足りないわー」と冗談で逃げてしまいたかった。
だが。
潤んだ真剣な瞳で見つめてくるこの相棒を前に、そんな安い誤魔化しをすべきじゃないと本能が告げていた。
首の後ろをボリボリと掻き、一つ大きなため息をつく。
腹を括るしかない。茶化して逃げるのは、ここでだけはナシだ。
「……二乃」
「なによ」
「お前のケアがないと、俺の体なんてとっくに限界なんだよ。美味い飯があって、帰ってくる場所がある。……二乃がここにいてくれないと、マジで困るんだ」
マグカップをテーブルに置き、逸らしていた視線を正面から合わせる。
「いつも、サンキュな」
「……っ!」
ドクン、と。二乃の肩が大きく跳ねた。
彼女は目を見開き、信じられないものを見るように俺の顔を凝視している。
「な、なによ……っ。急に、そんな……真面目な顔して……っ」
「……本当のこと言っただけだろ。照れるなよ」
それは、俺なりの最大限の感謝と、彼女への本音だった。
言っちまった。柄にもないことを。
どうせまた「気持ち悪い」と一蹴されるだろう。
そう思って身構えていた俺の耳に、震えるような声が届いた。
「あんたのそういうところ、本当にズルい……っ! 普段はクズでヘタレで、私のこと家政婦くらいにしか思ってないくせに……っ!」
二乃はギュッと目を瞑り、耳から首筋までを真っ赤に染め上げていた。
膝の上で握りしめられた小さな拳が、かすかに震えている。
「……私もよ」
ぽつりと、二乃が視線を膝の上に落とした。
「私も……あんたがいない日常なんて、もう考えられないわよ。ぐーたらなあんたに文句言って、世話焼いて……そんなの、今さら手放せるわけないじゃない」
ふん、と顔を背けるように上を向いたが、耳まで真っ赤に染まった横顔は隠せていなかった。
「あんたは最低のバカヤクモだけど……私にとっては、特別なんだから。……わかってる?」
「……あぁ、痛いほど」
俺が素直に頷くと、二乃は「よろしい」と満足げに微笑んだ。
だが、ホッと安堵したのも束の間。
ススッ、と。
二乃がソファの上で身をよじり、俺の隣にぴたりと身体を密着させてきた。
「ちょちょっ……近くない?」
「いいじゃない。減るもんじゃあるまいし」
「いや、肩当たってんだけど」
「文句あるわけ?」
「……ありません」
二乃のロングカーディガン越しに、柔らかい体温が伝わってくる。
シャンプーの甘い匂いと、微かに香る大人びた香水が、俺の理性をゴリゴリと削りにきている。
「そんなに私のマッサージとケアが気に入ったなら……特別に、次は膝枕してあげてもいいわよ?」
二乃が上目遣いで、俺の顔を覗き込んでくる。
「いや、それはさすがに恥ずかしいっていうか……俺にも心の準備が……」
「遠慮しないで。ほら、頭貸しなさいよ」
ぐいぐいと肩を押してくる二乃にタジタジになりながらも、俺は情けなく抵抗を試みる。
なんだこれ。
だけど、悪くない。
悪党の殺意も、達人たちの理不尽な暴力も届かない、ただひたすらに平和で心地よい日常。
俺はこのまま、この極上の幸せに溺れて、一日を終えるはずだった。
ガンガンガンガンガンッ!!!
その瞬間。
事務所の薄っぺらい木のドアが、蝶番が悲鳴を上げるほどの凄まじい勢いで叩かれた。
「っ!」
「……は?」
最高潮に達していた甘い空気が、一瞬にして氷点下まで凍りつく。
二乃が露骨に不機嫌になり、美しく整えられた眉を吊り上げた。
俺は心の中で「命拾いした」と情けない安堵を覚えつつも、同時に、せっかくの平和な時間をぶち壊されたことに盛大な舌打ちをしたくなる。
「ちょっと、どこの誰よ。営業中って札、出してない……はずだけど?」
「……待ってろ。様子を見る」
俺は身だしなみを整え、警戒しながらロックを外し、ドアを半分だけ開ける。
そこに立っていたのは、俺と同年代くらいの若い女性だった。
「た、助けて……っ!」
仕立ての良いブランド物のブラウスは泥で汚れ、肩で激しく息をしている。
顔面は紙のように蒼白で、焦点の定まらない瞳が、縋りつくように俺を捉えた。
「ここが……揉め事処理屋の、事務所ですよね……!? お願い、匿って……!」
「落ち着け。どうした」
「た、助けて……っ! 追われてるんです……っ! このままだと、殺される……っ!」
ガクガクと震える手で、彼女は俺のスウェットの袖を必死に握りしめた。
その指先から伝わるのは、作り物ではない本物の恐怖だ。
「……はぁ」
俺は面倒くさそうに首の後ろを掻きながら、小さくため息をついた。
二乃が俺の背後から顔を出し、女性の切迫した様子を見て、先ほどの不機嫌さを引っ込めて眉をひそめている。
「とりあえず入ってもらいましょうか。立ち話で聞くような内容じゃなさそうだし」
二乃が素早く周囲の気配を窺いながら、女性の背中を支えて事務所内へ招き入れる。
とりあえずソファに座らせ、温かいお茶でも淹れて落ち着かせようとした──その時だった。
女性が震える指先からポロリと落とした、一枚のクシャクシャのメモ用紙。
そこに、掠れた筆跡で走り書きされていた文字を目にした瞬間、俺の思考は完全に凍りついた。
『新宿駅東口 伝言板 XYZ』
(……嘘だろ? おいおい、冗談だと言ってくれ)
XYZ。後がない。助けてくれ。
新宿という街において、そのアルファベットが持つ意味を知らない裏社会の人間はいない。
あの伝説の