現代日本に転生したけど、何かおかしくない? 作:匿名のななし
『新宿駅東口 伝言板 XYZ』
震えるインクで書かれたその三文字を見た瞬間、俺の脳内を最悪の走馬灯が駆け巡った。
(……嘘だろ? おいおい、冗談だと言ってくれ)
呼吸が止まり、全身の毛穴という毛穴から一気に嫌な汗が吹き出した。
XYZ。後がない。助けてくれ。
新宿という街において、そのアルファベットが持つ意味を知らない裏社会の人間はいない。一発の銃弾でヘリコプターのローターを撃ち落とし、ビル越しにターゲットを狙撃する、あの伝説の始末屋(スイーパー)を呼び出すための呪文だ。
なんでよりによって、そんな特大の死亡フラグが俺のところに持ち込まれている?
あんな歩くトラブル発生装置みたいなマグナム使いの主人公と案件がバッティングするなんて、平穏を愛するモブの揉め事処理屋としては、何が何でも回避しなければいけない最悪のルートじゃないか。
「……ちょっと、なに固まってんのよ」
「……いや。なんでもない。ちょっと脳の処理が追いつかなくてな」
不審そうに眉をひそめる二乃に、俺は顔面を引きつらせながら適当に相槌を打った。
現実逃避している場合じゃない。目の前のソファでは、仕立ての良いブラウスを泥だらけにした女性──沙織が、ガタガタと小刻みに震え続けている。
「とりあえず、温かいものでも飲んで落ち着きなさい。熱いから気をつけてね」
「あ……ありがとうございます……っ」
二乃が手早くキッチンからマグカップを運び、沙織の両手に握らせる。
さっきまで俺に膝枕を要求して甘えていた顔とは打って変わり、テキパキと場を仕切る「相棒」としての頼もしい横顔だった。カモミールの香りが湯気と共に立ち上るが、部屋に充満した冷たい恐怖の匂いを上書きするには至らない。
「で? 追われているって言ったな。その不正な帳簿データってのは、どこにある?」
俺が面倒くささを隠しきれない声で尋ねると、沙織は震える指先で自分の胸元──ブラウスの谷間に隠していた小さなUSBメモリを引きずり出した。
「こ、これです……。私、経理部で……見てはいけない裏帳簿のデータを見つけてしまって……っ」
ガチガチと歯を鳴らし、沙織は涙声で早口にまくしたてる。
「私が勤めている会社、表向きは貿易会社なんです。でも、裏では麻薬の密輸や、武器取引の資金洗浄をしていて……っ! コピーを取ったのがバレて、もう警察にも……!」
沙織の瞳から、ポロポロと大粒の涙が溢れ落ちる。
はい、出ました。テンプレの極み。巨大組織の暗部を知ってしまった一般人の逃走劇。
警察にも内通者がいるかもしれないと疑心暗鬼になるのも、この狂った融合世界なら大いにあり得る話だ。
(だけどなぁ……俺はそういうハードボイルドな探偵でも、正義の味方でもないんだよ……)
俺は大きくため息をつき、首の後ろをボリボリと掻いた。
相手はただのチンピラや半グレじゃない。大企業のダミー会社を隠れ蓑にするような組織が放つのは、プロのヒットマンだ。
痛いのは嫌だ。面倒なのも嫌だ。さっきまでの、極上の平和なマッサージ時間はどこに行ったんだ。
「あんた。何を渋い顔してるわけ?」
低い、ドスの効いた声が俺の耳を打った。
見ると、二乃が腕を組み、冷ややかな目で俺を見下ろしている。
「……引き受けないなんて、一言も言ってないだろ」
「よろしい。で、どうするの。このままここに匿うの?」
「いや……それは無理だ」
俺は即答し、ソファに座る沙織の顔を見据えた。
「あんた、ここへ来る直前に新宿駅の伝言板にその『XYZ』を書いてきたんだよな?」
「は、はい……。都市伝説だとは思ったんですけど、もう他に頼るあてがなくて……。でも、誰も来てくれなくて、それで……以前耳にした『揉め事処理屋』の噂を思い出して、ここまで走って……っ」
なるほど、そういうことか。
あの始末屋は、美女の依頼しか受けない無類の女好きだ。沙織のような美人が涙ながらに書いたメッセージを、見逃すはずがない。
今頃、新宿のどこかで愛銃のコルトパイソンを手入れしながら、もっこりとした笑顔で彼女を探しているに違いない。
つまり、この依頼の本来の持ち主はあっちなのだ。俺じゃない。
「あのさ、お客さん。その『XYZ』の始末屋は都市伝説じゃない。実在する本物のプロだ」
「えっ……?」
「だから、俺たちの仕事は、あんたをその凄腕の始末屋に引き渡すまでの『一時的な護衛』ってことでいいか? 俺はただの処理屋だからな。巨大組織を根こそぎ潰すような真似は専門外だ」
極力、自分が傷つかないための防衛線を張る。
厄介事は、伝説の主人公に丸投げするのが一番の生存戦略だ。
「は、はい……! 助けてもらえるなら、なんでも……っ!」
沙織が何度も頭を下げる。
交渉成立だ。俺は重い腰を上げ、デスクの上に置きっぱなしになっていた黒のジャケットを手に取った。
だが、その腕を袖に通そうとした瞬間。
俺の首筋を撫でる大気の密度が、わずかに変質した。
(……チッ、もう面倒なのが来やがった)
ぞわり、と首筋の産毛が立ち上がる。
建物の外から階段にかけて、じわじわと近づいてくる黒い殺気。
休日の昼下がりに、土足で部屋に泥を撒き散らされるような、胸がむかつく不快な気配だ。
視線を、薄っぺらい木のドアへ向ける。
耳を澄ますまでもない。『円』のレーダーが、標的を包囲しつつある侵入者たちの動線を克明に描き出していた。
足音は、限りなく小さい。素人には聞こえないレベルに殺されている。
布が擦れる音。そして、微かな金属の触れ合う冷たい音。
一階の入り口を塞がれた。階段を上がってくる気配が三つ。裏口の非常階段の下にも二つ。
(……仕事が早ぇな。もう嗅ぎつけやがったか)
完全にプロの動きだ。
沙織がここまで逃げてくる途中で、監視カメラか何かで足取りを追われていたのだろう。
居留守を使ってやり過ごせるような連中ではない。ドアを蹴り破って、問答無用で蜂の巣にされるのがオチだ。
「八雲?」
俺の顔つきが一瞬にして「仕事モード」に切り替わったのを見て、二乃が小さく息を呑んだ。
「二乃。お客さんを立たせろ。急いで外に出るぞ」
「えっ、今から!? なんで……」
「来てる。五人……いや、七人か。全員、重火器を持ったプロだ。ここでドンパチやったら、事務所が穴だらけになる」
「っ!」
俺の言葉に、二乃は余計な質問を飲み込み、即座に行動に移った。
「ほら、立って! 早く!」
沙織の腕を引き、無理やりソファから立ち上がらせる。
「でも、私、着替えてないわよ……!」
二乃が自分の服装を見下ろして顔をしかめる。
淡いパステルカラーのロングカーディガンに、ショートパンツ。とても冬の裏路地を走るような格好ではない。
「気にするな、死ぬよりマシだ。そこのコート羽織れ」
「ちょっと待って、このルームウェアで路地裏を走るの!? 最悪のタイミングね……っ!」
「せっかくのおうちデートだったのに……っ!」
二乃は舌打ちしながら、ハンガーラックにかかっていた自分のトレンチコートをひったくり、ルームウェアの上からバサリと強引に羽織った。
フロントのボタンを留める暇すらない。だが、彼女の瞳にはすでに怯えの色はなく、腹を括った相棒としての鋭い光が宿っていた。
「正面は塞がれてる。裏の非常階段からだ」
「わかったわ。ほら、私の後ろについてきて!」
二乃が沙織の背中を押し、勝手口のドアノブに手を掛ける。
俺はジャケットを羽織りながら、体内のオーラを静かに練り上げた。
皮膚の表面に、目に見えない強靭な膜──『纏』を展開する。全身の筋肉がバネのように引き締まり、視界の解像度が極限まで引き上げられる。
ガチャリ、と。
二乃が裏口の重い鉄扉を開けた。
吹き込んでくる冷たい冬の夜風が、俺の鼻腔をくすぐる。同時に、階下から微かに聞こえたサイレンサー付きの銃をチャキリと構える嫌な音が、鼓膜を打った。
「……さあ、地獄の残業の時間だ」
俺は心の中で誰にともなく愚痴をこぼし、二乃と沙織の背中を守るようにして、暗い非常階段へと足を踏み出した。
目指すは、あの伝説の始末屋が待つ、新宿のネオンの海だ。
*
新宿の裏路地は、いつだって生ゴミとアルコール、それに微かな鉄の匂いが入り混じった不快な空気が淀んでいる。
ネオンの喧騒から一枚壁を隔てただけのこの空間は、表の光が届かない完全な死角だ。
「はぁ……っ、はぁ……っ」
沙織の乱れた呼吸が、冷たい冬の空気に白く溶ける。
トレンチコートを羽織っただけの二乃が、彼女の腕をしっかり支えて走っていた。
カツカツと響くヒールの音。それが暗い路地に響くたび、俺の胃はギリギリと痛んだ。
(……嫌な空気が張り付いてきやがる)
俺は二人の少し前を歩きながら、体内で静かにオーラを練り上げ、皮膚の表面に極薄の『纏』を展開していた。
視覚や聴覚だけでなく、周囲の空間そのものの「圧」を探る。
室外機の駆動音。野良猫がゴミ袋を漁る音。
それらの生活音のノイズの奥に、不自然なほど静かで、氷のように冷たい複数の足音が紛れ込んでいた。
「八雲……」
「シッ。喋るな」
二乃の小さな声を遮り、俺は足を止めた。
路地裏の十字路。前方、ゴミの集積所の陰から、黒いコートを着た男が二人、音もなく姿を現した。
ザッ、と。
振り返るまでもない。背後の路地の入り口側からも、同数の気配が完全に俺たちの退路を塞いでいた。
前後を挟まれた。
見事な手際だ。監視カメラの映像から俺たちの移動ルートを割り出し、最短距離で先回りして網を張ったのだろう。ただの半グレやヤクザじゃない。息をするように人の命を奪うことに慣れきった、本職のヒットマンの動きだ。
「ひっ……!」
沙織が喉の奥で悲鳴を飲み込み、その場にへたり込みそうになる。
二乃がすかさず彼女の肩を抱き寄せ、俺の背中にぴったりと隠れるように位置取った。
恐怖に震えながらも、余計な声は出さない。自分が俺の射線を塞がないよう、完璧に死角へ回る動き。
さすがは伊達にこの狂った街で俺の相棒をやっていない。
「……何の用だ?」
俺は両手をコートのポケットに突っ込んだまま、前方の男たちに向かって面倒くさそうに声をかけた。
返事はない。
代わりに男たちは、懐から黒光りする無機質な金属の塊を引き抜いた。
太いサイレンサーが装着された、オートマチックの拳銃。
その銃口が、躊躇いもなく俺たちの眉間へと向けられる。
(……話し合いの余地はゼロか。マジで勘弁してくれよ)
心の中で特大の舌打ちを響かせる。
銃弾なんて、オーラを込めた手で弾き飛ばせばいい。だが、この至近距離で前後から同時に撃たれれば、後ろの二乃や沙織を庇いきれないリスクがある。
やるしかない。
俺は大きく息を吸い込み、ポケットの中で拳を握り込んだ。
全身の筋肉がバネのように引き絞られ、血管の中を熱いマグマのようなオーラが駆け巡る。
風切り音すら置き去りにする初速で前方の二人の懐に潜り込み、顎先を掌底でかすめて脳を揺らし、即座に意識を刈り取る。
そのまま無音の重心移動で反転し、背後の二人が引き金を引く前に間合いを完全に潰す──。
俺の脳内で、コンマ一秒の制圧プロセスが組み上がった、その瞬間だった。
ズッドォォォンッ!!
空気を真っ二つに引き裂くような、鼓膜を殴りつける桁外れの爆音が路地裏に轟いた。
「……っ!?」
俺が踏み込もうとした足が、ピタリと止まる。
火花の散るようなオレンジ色の閃光が、路地の上方から連続して瞬いた。
ガァンッ! キィンッ!
金属と金属が激突する鋭い悲鳴。
前方のヒットマンたちが「ぐぁっ!」と声を上げ、手から何かを弾き飛ばされた。
アスファルトに転がり落ちたのは、先ほどまで俺たちに向けられていたサイレンサー付きの拳銃だ。
銃身が見事にへし曲がり、使い物にならなくなっている。
さらに背後からも、同じように銃を弾き飛ばされた男たちの狼狽える声が聞こえた。
(……なんだ、今の射撃精度は)
俺は驚愕に目を見開いた。
人を撃ったんじゃない。人間の急所より遥かに小さく、しかも夜の闇の中で動いている相手の「銃」だけを、上空から寸分の狂いもなく撃ち抜いたというのか。
オーラによる視力強化も、物理法則をねじ曲げる異能も介在していない。
ただの硝煙と鉛の弾丸を、己の肉体と経験値だけで極限まで制御し切った、人外染みた職人芸の極致。生身の人間が到達していい領域を完全に踏み越えている。
俺はゆっくりと、閃光が放たれた頭上へと視線を向けた。
ビルの三階、錆びついた非常階段の踊り場。
冷たい冬の月明かりを背に受けて、一人の男が立っていた。
長身で、引き締まった体躯。
その手には、まだチリチリと硝煙をくゆらせている大型のリボルバ──―コルトパイソン.357マグナムが握られている。
「美女のピンチと聞いて、飛んできたぜ!」
緊張感の欠片もない、呆れるほどおちゃらけた、明るい声。
だが、その男がまとう空気の奥底には、決して隠しきれない修羅場を潜り抜けてきた本物の「プロの凄み」が同居していた。
(うわ、嘘だろ……。マジで来やがった)
俺の脳内で、メタ的な感動と、規格外の面倒事に巻き込まれた絶望が同時に大爆発を起こした。
間違いない。あのシルエット、あのマグナム、そしてあのふざけた声。
新宿の都市伝説。裏社会のNo.1始末屋(スイーパー)。
冴羽獠、その人だ。
さらに、非常階段の暗がりから、もう一つの影が姿を現す。
ショートヘアにボーイッシュな服装の女性。獠の相棒である槇村香が、呆れたような顔で下を見下ろしていた。
「な、なんだ……!? 銃身だけを抜かれた……!?」
「スナイパーだ! このアングルから当ててきやがった……チィッ、一旦引くぞ!」
マグナムの圧倒的な威嚇射撃と、得体の知れない乱入者にパニックを起こしたヒットマンたちが、暗がりへ向かって蜘蛛の子を散らすように逃げ去っていく。
俺たちを包囲していたヒリヒリとした殺気が、嘘のように霧散した。
「ふぅーっ、間一髪だったな!」
獠が手首をクルリと返し、手品のような手捌きでパイソンをホルスターに収める。
そして、非常階段の手すりにヒラリと手をかけると、三階の高さから重力を無視したように軽やかに路地裏へと飛び降りてきた。
タッ、と足音もなく俺たちの目の前に着地する伝説のスイーパー。
俺は体内のオーラを解き、この「主人公」に対してどう接するべきか、プロとしての距離感を瞬時に計算し始めた。
同業者としての警戒か。それとも、助けてもらった一般人を装うか。
だが、俺のそんなシリアスな思考は、次の瞬間に木端微塵に粉砕されることになる。
「いやぁ〜! お待たせしました美女のお二人さん! 恐怖に震えるかよわい君たちを助けにきた、新宿の種馬こと──もっこりちゃ──んっ!」
さっきまでのプロの凄みはどこへやら。
獠の顔がみるみるうちにデロデロの鼻の下を伸ばしただらしない表情へと変貌し、両手をワキワキと動かしながら、沙織と二乃に向かってロケットのように飛びかかってきたのだ。
「えっ? は? ちょ、ちょっと何あんた!」
突然のセクハラダイブに、二乃が素っ頓狂な声を上げてドン引きする。
その瞬間。
上空から、凄まじい風切り音が降ってきた。
「この大バカもっこりぃぃぃっ!!」
ドゴォォォォォォォンッ!!!
獠の後を追って飛び降りてきた香の手には、空間の歪みと共に四次元ポケットから取り出されたような、物理法則を完全に無視した巨大な『100tハンマー』が握られていた。
それが、もっこりダイブをかまそうとしていた獠の脳天に、隕石のような勢いで直撃する。
「あべしっ!」
アスファルトが砕け、凄まじい土煙が舞い上がる。
伝説のスイーパーは、頭から見事に地面にめり込み、ピクピクと痙攣していた。
「……」
「…………なに、これ」
あまりの光景に、俺と二乃は完全に言葉を失い、ぽかんと口を開けたまま立ち尽くした。
さっきまでのハードボイルドな銃撃戦はどこに行った。なぜこの街の連中は、息を吐くようにジャンルを反復横跳びするんだ。
「もうっ! ごめんなさいね、うちのバカが失礼なことして!」
肩で息をしながらハンマーを肩に担ぎ直した香が、地面にめり込んだ相棒を足で踏みつけながら、俺たちに向かってペコッと頭を下げた。
「怪我はなかった? 依頼人の沙織さんよね。伝言板、ちゃんと見たわよ」
「あ、は、はい……! 助けていただいて、ありがとうございます……っ」
沙織がまだ状況に追いつけていない様子で、震える声で礼を言う。
「とりあえず、ここもいつまでも安全じゃないわ。詳しい話は、落ち着ける場所へ移動してからにしましょ」
香が周囲を警戒しながら、テキパキと場を仕切る。
俺は地面で「美女が……」と呻いている凄腕のスイーパーを見下ろし、この規格外の厄介事(クロスオーバー)に巻き込まれた自分の不運を呪いながら、深く、ひたすらに深い特大のため息をついた。
*
カランコロン、と。
レトロで上品なドアベルの音が鳴り響く。
新宿の喧騒から一歩足を踏み入れたそこは、焙煎された珈琲豆の深い香りが漂う、落ち着いた大人の空間だった。
喫茶『キャッツアイ』。
先ほどの血生臭い路地裏でのドンパチが嘘のように、店内には静かで穏やかな時間が流れている。
店の奥にある、周囲の視線を遮るように配置された広めのボックス席。
俺と二乃は、泥だらけのブラウスを着た沙織を真ん中に挟むようにしてソファに腰を下ろしていた。
そしてテーブルを挟んだ向かい側には、新宿の生ける都市伝説こと冴羽獠と、その相棒である槇村香が座っている。
「……なるほどね。伝言板に書き込んだ後、不安になって処理屋(そっち)にも駆け込んだってわけか」
出されたブレンドコーヒーに口をつけながら、香が呆れたように息を吐いた。
沙織は縮こまりながら「すみません、誰も来てくれないかと……」と、消え入りそうな声で謝罪している。
「いやいや、謝ることはないさ! 美女からのSOSを見逃すなんて、俺の美学が許さないからね!」
獠がニカッと白い歯を見せて笑う。
さっき路地裏でヒットマンたちの銃をピンポイントで弾き飛ばした、あの神業のようなマグナム使いと同一人物だとは到底思えない、気の抜けた表情だ。
(……まいったな。まさか本当に案件が丸被りするとは)
俺は暖房の効いた店内で、心の中に特大の愚痴をこぼしていた。
外の凍えるような寒さを忘れさせる珈琲の香気すら、いまの俺には胃薬の匂いに思えてくる。
クロスオーバーのバッティング事故。裏社会の伝説的スイーパーと、ただのモブ処理屋である俺。
本来なら絶対に関わってはいけない、交わらないはずの線が交差してしまったのだ。
「ま、そういうことなら、あとは専門家のアンタたちに任せるよ」
俺はコーヒーカップをソーサーに置き、両手を軽く上げて見せた。
「俺たちはただの『揉め事処理屋』だ。巨大な裏組織の陰謀だの、プロのヒットマンだのってのは手に余る。お客さんを無事に引き継げたんだから、これでミッションコンプリートだ」
極力、無害な一般人を装う。
厄介事のボールは、伝説の主人公に丸投げするのが一番の生存戦略だ。
しかし。
俺のそのセリフを聞いた瞬間。
スッ、と。
獠の瞳の奥から、先ほどまでのふざけたおちゃらけ色が完全に消失した。
「……」
「……」
空気が、急激に重力を増した。
テーブルを挟んだわずか一メートルの距離。
獠は姿勢を崩してソファに深くもたれかかったまま、その視線だけを真っ直ぐに俺の眼球へと突き刺してきた。
硝子玉のように冷徹で、感情の抜け落ちた、純度百パーセントの『プロの殺し屋』の目。
(……まぁ、誤魔化しきれないか)
背筋を冷たい汗が伝う。
俺は顔には薄い愛想笑いを貼り付けたまま、体内で静かにオーラを循環させた。
皮膚の表面に極薄の『纏』を張り巡らせ、細胞の一個一個にまで神経を行き渡らせる。
俺から見た冴羽獠という男は、完全に隙だらけだ。
だが、それが一番恐ろしい。どこから襲いかかろうと、次の瞬間に銃口がこちらの眉間に突きつけられているイメージしか湧かないのだ。
呼吸の深さ、体重のかけ方。そのすべてが、修羅場をくぐり抜けてきた本物の『プロ』のそれだった。
異能の類は一切感じられない。だというのに、呼吸一つで間合いを殺し、意識の死角へ滑り込んでくるような底知れなさがある。
「……あんた、ただの『処理屋さん』じゃないな」
獠が、極めて低く、地を這うような声で呟いた。
「どういう意味かな。ただの小市民だよ、俺は」
「嘘をつけ。さっきの路地裏で、あんた……あの囲まれた状況で、連中を数秒で制圧する算段を立ててただろ。一切の死角がない、立ち姿だったぜ」
獠の目が、俺の肩から胸、そして足元へと滑る。
そして、俺の全身から微かに漏れ出ている高密度の『気』の正体を探るように、わずかに眉をひそめた。
「それに、あんたの周りを覆ってるその奇妙な空気の層……。俺の知ってる気功とも少し違う。厄介なモンを隠し持ってるな?」
「……買い被りだ。俺は痛いのが嫌いだから、護身術を少々嗜んでるだけさ。アンタみたいな『本物』と張り合う気は毛頭ないよ」
俺は両手をテーブルの上に置き、一切の敵対心がないことを行動で示す。
達人同士の、言葉少なな腹の探り合い。
互いに見えない刃を首筋に突きつけ合いながら、ギリギリのところで引き金を引かずに均衡を保つ、ヒリヒリとした時間が流れる。
「……ふっ」
やがて、獠が小さく鼻で笑い、スッと肩の力を抜いた。
「まあいいさ。可愛い依頼人を守ってくれたんだ。感謝するぜ、同業者」
「どういたしまして、スイーパーさん」
俺もまた、安堵の息を密かに吐き出しながら口角を上げた。
これでいい。互いの実力の底をぼかしたまま、ドライな距離感を保つ。プロとしての正しい対応だ。
これでようやく、この重苦しい空気が解ける──。
そう思った、次の瞬間だった。
「さぁて! それじゃあ沙織ちゃぁんっ! 恐怖で震える君の心を、この獠ちゃんが身も心も熱ぅ〜く慰めてあげるからねぇ〜っ!!」
シュババッ!
突如として、先ほどまでの冷徹なヒットマンがデロデロの鼻の下を伸ばしたエロ猿へと急旋回し、テーブル越しに沙織に向かってダイブをかまそうとした。
「ひゃっ!?」
沙織が悲鳴を上げて身をすくめる。
「この大バカもっこりぃぃぃっ!!」
ドゴォォォォォォォォンッ!!!
凄まじい風切り音と共に、香の背中から取り出された『100t』と書かれた巨大ハンマーが、獠の脳天にクリーンヒットした。
木製のテーブルがへし折れんばかりの衝撃。
伝説のスイーパーは、見事な放物線を描いてボックス席の通路へと吹っ飛んでいき、ピクピクと痙攣して沈黙した。
「……」
「……」
さっきまでの冷徹な殺し屋の凄みはどこに消えた。
いくらなんでもジャンルの反復横跳びが激しすぎるだろ。
俺は口元へ運びかけていたコーヒーカップをソーサーへとそっと戻し、脳天から地面に突き刺さってピクピク痙攣している伝説の始末屋を、ただ呆然と見下ろすしかなかった。
「もうっ! 本当にごめんなさいね! うちのバカが失礼なことして!」
香がハンマーを肩に担ぎ直し、ハァハァと肩で息をしながら俺たちに向かって深々と頭を下げる。
その見事なまでの手綱捌きを見て。
隣に座っていた二乃が、感嘆の息を漏らした。
「……すごいわね。あんた、それ毎日やってるの?」
「えっ? ええ、まあ。放っておくとすぐ手当たり次第に発情するから、気が抜けないのよ」
香が苦笑いしながら、前髪をかき上げる。
すると、二乃はルームウェアのトレンチコートの襟を直し、深く共感したようにウンウンと頷き始めた。
「わかるわ、その苦労。うちの男もうちの男で、普段はソファでゴロゴロしてばっかりの怠惰なダメ男だし。私がご飯作って掃除して、お尻叩いてやらないと何もできないんだから」
「えっ、そっちも!? 凄腕の処理屋って聞いてたから、もっとこう、ビシッとしてるのかと……やっぱり普段はだらしないの!?」
「ええ! 掃除も洗濯も、毎日のご飯だって全部私が作ってあげてるのよ? なのに照れくさいのか、ロクに感謝の言葉も言わないんだから!」
「わかるわーっ! うちなんか、放っておいたらキャバクラ通いとツケの嵐よ! ほんと、男ってなんでこう手がかかるのかしら!」
ガッチリ。
テーブル越しに、二乃と香の手が熱く握り合わされた。
「そうなのよ! ちょっと目を離すとすぐサボろうとするし、口を開けば文句ばっかりで……。でも、そういう手のかかるところも含めて、私がいないと本当にダメになっちゃうから、結局放っておけないのよね」
「ちょ、二乃ちゃん? なんで俺の株まで一緒に下げてんの?」
おい、待て。
なんでこの修羅場のど真ん中で、相棒同士の意気投合イベントが始まってんだ。
しかも俺、ただのダメ男扱いされてるし。確かに家事は全部二乃ちゃんに任せっきりだけど、裏の仕事はちゃんとやってるだろ。
「大変ねぇ。お互い、手のかかる相棒を持つと苦労するわよね」
「ええ、本当に。でも、いざという時はなんだかんだ頼りになるから、憎めないのよね……」
「ねえ、ケーキ頼まない? ここのレアチーズケーキ、絶品なのよ!」
「本当!? 頼む頼む! 私、甘いものには目がないのよ!」
すっかり意気投合した二乃と香が、キャッキャと笑いながらメニューを覗き込んでいる。
沙織も、その平和すぎる空気に毒気を抜かれたのか、少しだけ肩の力を抜いて微笑んでいた。
暗いサスペンスの空気を一掃する、オアシスのような和やかな空気。
「……はぁ。相変わらず、たくましいね。二乃ちゃん」
俺が呆れてため息をついていると、床からむくりと起き上がった獠が、頭のたんこぶをさすりながら隣にやってきた。
「全くだ。女の友情ってやつは、俺たち男には立ち入れない聖域だからな」
「違いない」
伝説の始末屋と、ただの揉め事処理屋。
俺たちは顔を見合わせ、やれやれと肩をすくめて呆れ笑いを交わした。
平和だ。
なんだかんだで、このまま沙織を引き継いで、事なきを得て日常に帰れそうだ。
だが。
この平和なオアシスの時間は、長くは続かなかった
──カラン、と。
グラスの氷が溶け落ちる、微かな音。
その瞬間。
向かいに座る獠の顔つきが、先ほどのふざけた表情から一変し、獲物を狙う鷹のように鋭く研ぎ澄まされた。
いや、俺も同時だった。
女子会で盛り上がる二乃たちに気づかれないよう、俺はゆっくりと背筋を伸ばし、窓の外へと視線を向ける。
喫茶店の外。
夕闇が迫る新宿の大通りから、こちらに向かって歩いてくる複数の気配。
先ほどの路地裏にいた、ヒットマンの殺気じゃない。
もっと重く、粘り気があり、血の臭いが濃い。
純粋な戦闘と破壊を楽しむためだけに調教された、狂犬のような『異質な殺気』。
ゾワリ、と。
全身の産毛が、嫌悪感に総毛立った。
だが、ただのヤクザや半グレが放つような、薄っぺらい怒りや暴力衝動じゃない。
息を吸って吐くように、人の命を削り取るためだけに最適化された、冷たくて、重くて、狂暴なプレッシャー。
(……普通のヤクザじゃない。戦闘専門の、イカれた連中だ)
俺の心臓が、警鐘を鳴らす。
ガラス越しの視界の端。
一般人を装いながらも、完全に退路を塞ぐような陣形で店に近づいてくる複数の男たち。
その中心に、ひときわ巨大で、異質な威圧感を放つ巨漢の姿があった。
真冬だというのに、派手なアロハシャツを着た黒人。まるで歩く装甲車のような分厚い圧力が、ガラス越しにビリビリと伝わってくる。
女子会で盛り上がっていた二乃と香も、俺と獠の異様な空気に気づき、ピタリと会話を止めた。
「……お喋りの時間は終わりのようだな」
「ああ。随分と、しつこい客がお越しのようだぜ」
「……おい、処理屋の。来るか?」
獠が、愛銃のグリップに指を添えながら、低く静かに問う。
「……ああ。最悪の、残業の追加だ」
俺は冷めかけたコーヒーカップをテーブルに置き、頭を抱えて盛大に天を仰いだ。
なんで俺の周りはこう、息をするように厄介事が湧いて出るんだ。
今すぐここから『絶』を使って逃げ出したい衝動を必死に堪えながら、俺は重すぎる腰を上げた。