現代日本に転生したけど、何かおかしくない? 作:匿名のななし
……おいおい、マジかよ。
普通のヤクザなんかじゃない。アレは戦闘と殺戮に特化した、イカれたプロの集団だ。
俺は脳内で盛大な舌打ちを響かせた。
さっきまでの、二乃と香さんがキャッキャと盛り上がっていた平和な女子会はどこへ行ったんだ。
俺はただ、温かいコーヒーを飲んで、さっさと厄介事のボールをこの始末屋に押し付けて帰りたかっただけなのに。
「……おい、処理屋の。来るか?」
隣に立つ男の空気が、急激に冷え込んだ。
愛銃のグリップにゆっくりと指を滑らせる。さっきまでのおちゃらけた仮面は完全に剥がれ落ち、そこにあるのは純度百パーセントの『始末屋』の顔だった。
「ああ。最悪の残業の追加だな」
俺は小さく息を吐き、窓の外の集団の中心にいる『それ』に視線を固定した。
派手なアロハシャツを着た黒人の巨漢。
周囲のヒットマンたちですら、そいつから微妙に距離を置いているのがわかる。
一際巨大なプレッシャー。ただ歩いているだけなのに、空間そのものが軋み声を上げているような錯覚すら覚える。
(……冗談だろ。何喰えば、あんな歩く要塞が出来上がるんだ)
関わっちゃいけない。
俺の平穏アラートがレッドゾーンを振り切って鳴り響いている。
だが、現実は無情だ。連中の進行ルートは、間違いなくこの店に向かっている。
「ここでドンパチやる気か?」
「冗談。可愛いレディたちに、硝煙の匂いなんて嗅がせられないね」
横目で視線を交わしただけで、互いの意図は完全に一致した。
店内で暴れれば、一般客が巻き込まれる。
それに、恐怖で震えている依頼人を流れ弾から完全に守り切れる保証はない。
「香! 二乃ちゃん!」
獠が鋭い声で呼んだ。
女子会モードで和んでいた二人も、俺たちの尋常じゃない空気を察して即座に表情を引き締めている。
特に二乃の切り替えの早さは、伊達に俺の相棒をやっていない証拠だ。
ピンクの唇をキュッと引き結び、ルームウェアの上に羽織ったトレンチコートの裾を翻して、沙織の肩に手を置いて立ち上がる。
「どうしたの、八雲」
「外に物騒な連中が集まってきた。裏口から抜けるぞ」
「香さん、沙織さんを挟みましょう! 私たちの後ろに隠して!」
「ええ、任せて! 行くわよ、沙織さん!」
俺の端的な指示一つで、女子会モードだった二乃と香さんが即座に両脇を固める。
本当に、伊達に裏社会で相棒をやっていない。
俺は少しだけ口角を上げ、ジャケットの襟を正した。
「案内頼むぜ、スイーパーさん」
「こっちだ。ついてきな!」
獠が踵を返し、従業員用の扉へと向かって駆け出す。
俺たちはその後を追い、厨房の裏手を抜けて薄暗い通路へと飛び込んだ。
厨房特有の油と洗剤の匂い。
響く足音。沙織の荒い呼吸。
(……頼むから、このまま撒かせてくれよ)
俺のささやかな願いは、大概において裏切られるようにできているらしい。
ギィィッ、と。
獠が重い鉄の裏口扉を押し開けた、その瞬間。
外の冷たい空気に混じって、濃厚な『血と鉄の匂い』が暴力的に鼻腔を殴りつけた。
「……チッ」
獠が舌打ちし、その場で急ブレーキをかける。
俺も即座に二乃たちの前に腕を出し、制止した。
新宿のネオンの光も届かない裏路地。
両側を高いビルに挟まれ、ゴミの集積所とエアコンの室外機が並ぶだけの狭く息苦しい空間だ。
その逃げ道であるはずの路地の両端が、完全に塞がれていた。
「……仕事が早ぇじゃねえか」
俺は面倒くさそうに首の後ろを掻いた。
路地の奥。
街灯の逆光を背にして立つ、数人の黒ずくめの男たち。
そして、その中央で路地を塞ぐ壁のように立ち塞がる、アロハシャツの巨漢。
さっき店の正面から近づいてきていたはずの男だ。
どういうルートを通ったのか知らないが、先回りして完全に退路を断ち切るように配置を完了していた。
「Hey! 逃げ足の速いネズミども。パーティーの途中で帰るなんて、無作法だぜ?」
巨漢が、白い歯を剥き出して獰猛な笑みを浮かべた。
流暢な日本語のイントネーションだが、その奥底に潜む粘り気のある狂暴性が、空気をビリビリと震わせている。
「おいおい、こんな日にアロハとはご機嫌なヤツだな」
獠がパイソンのグリップに手をかけたまま、おちゃらけたトーンで挑発する。
だが、その目は全く笑っていない。
「HAHAHA! 俺は代謝がいいんでね。それに、これからうんと熱くなるゲームが始まるんだ。薄着くらいがちょうどいい」
巨漢が一歩、前へ踏み出す。
ズンッ、と。
ただ歩を進めただけだというのに、足元のアスファルトが微かに陥没したような重低音が響いた。
(……なんだ、あいつの腕)
俺の研ぎ澄まされた視覚は、巨漢の両腕に装着された『異物』をはっきりと捉えていた。
袖口から覗く、異常な太さの腕。
いや、違う。生身じゃない。
鈍い光を放つ、鋼鉄。
両腕そのものが、異様な質量を誇る戦闘用の『義手』に改造されている。
ギギギ……ッ!
巨漢が、路地の脇にあるコンクリートの壁に、無造作に右手を押し当てた。
そのまま歩を進めると、削岩機でも押し当てたかのように、強固なコンクリートの壁がボロボロと砕け散り、火花と共に粉塵となって舞い落ちる。
「ハッ! ……思う存分、ミンチにしていいわけだァ!」
狂気。
それ以外の何物でもない。
人を殺すためだけに造り上げられた、純度百パーセントの殺戮兵器。
背後で、沙織がヒッと短い悲鳴を漏らし、二乃が息を呑む気配がした。
「……二乃。沙織さんから離れるな」
「分かってる」
背後から、震えを必死に押し殺した声が届く。
「あんたも……無茶しないでよ」
震えを必死に押し殺した二乃の返事。
それだけで十分だ。
俺はポケットから両手を抜き、体内のオーラのバルブを一気に解放した。
細胞が熱を帯び、極薄の『纏』が俺の皮膚を覆う。
「やれやれ……。今日の残業代は、高くつくぜ」
路地裏の淀んだ空気が、一瞬にして弾け飛んだ。
コンクリートの壁をボロボロと削り取りながら、アロハシャツの巨漢が獰猛な笑みを浮かべて間合いを詰めてくる。
その背後には、サイレンサー付きの拳銃を構えた数人の部下たち。
逃げ場のない一直線の路地。後方には、二乃と香に守られた沙織がいる。
(……マジで冗談じゃない。この狭さでドンパチやられたら、確実に後ろに流れ弾が飛ぶぞ)
俺が舌打ちをし、全身のオーラの出力を一段階引き上げようとした、その瞬間だった。
隣に立つ男の動線が、俺の動体視力すら置き去りにする速度でブレた。
バサァッ!
ロングコートが翻る乾いた音。
ズッドォォォォンッ!!
夜の新宿を揺るがすような、マグナム特有の桁外れの爆音が連続して轟いた。
冴羽獠の神速のドロウ。
一瞬の予備動作すらなく抜き放たれたコルト・パイソン.357マグナムが、オレンジ色の閃光を立て続けに吐き出す。
「ぐぁぁっ!」
「あがっ……!」
前方で銃を構えていた部下たちのうち、三人が同時に膝から崩れ落ちた。
太ももやふくらはぎ。命に関わらない下半身の急所だけを、この暗がりの中で正確無比に撃ち抜いたのだ。
なんという理不尽な射撃精度。
だが、俺がメタ的な感心を抱いたのはそこまでだった。
ガァンッ! ゴフッ!
部下たちを撃ち抜いた直後、獠の放ったマグナムの弾丸は、先頭を歩く巨漢の両肩と太ももにも正確に着弾していた。
常人なら、その衝撃だけで肉が吹き飛び、手足が千切れてもおかしくない大口径の凶弾。
しかし。
「──HAHAッ! なんだ、この豆鉄砲はよォ!」
巨漢は、痛みを意に介する素振りすら見せなかった。
金属同士が激突する甲高い火花が連続して散った。
アロハシャツの巨漢は両腕の義手を信じられない速度で交差させ、部下を撃ち抜いた直後の凶弾──自身の両肩と太ももを捉えたはずの死角からの連射を、ことごとく弾き飛ばしていた。
至近距離からのマグナムの直撃を受けてなお、義手の装甲にはわずかな跳弾の痕が刻まれただけだ。
「チッ……分厚い装甲だな。軍用のサイボーグでも引っ張り出してきたのか?」
獠が忌々しそうに舌打ちをする。
マグナムの直撃を物理的に耐え凌ぐ人間など、あの伝説の始末屋の長い経歴の中でもそうそうお目にかかれるものではないはずだ。
「香! 沙織ちゃんを連れて下がれ!」
「わかってるわよ!」
獠が一歩下がり、後方の女性陣を庇うように立ち塞がる。
残った部下たちが、倒れた仲間の隙間を縫って一斉に銃口をこちらへ向けた。
あの巨漢が前に出ている以上、獠の射線はどうしても限定される。
(……なら、俺のやるべき仕事は一つだ)
俺と獠の視線が、コンマ一秒だけ交差した。
言葉など必要ない。互いの重心と射線の把握だけで、プロ同士の意思疎通は完了する。
俺は深く息を吐き出し、全身を覆う『纏』の密度を極限まで研ぎ澄ませた。
「……残業代、たっぷりふんだくってやる」
ボソリと愚痴をこぼした、次の瞬間。
俺は摩擦を無視した異常な初速で、自ら敵の懐へと飛び込んでいた。
アロハシャツの巨漢が獰猛に目を剥き、空気を切り裂くような横薙ぎの鉄腕を振るう。
だが、俺はその下を紙一重で滑り抜けた。
巨漢の巨体が空振りによってわずかに前傾し、その背後にいた先頭の部下の視界と射線を完全に塞ぐ。
俺はその死角を利用し、無音で男の右側へと回り込んだ。
「こ、こっちだ! 撃て!」
「くそがっ! チョコマカと!」
見事に釣られた。
敵の視線──ヘイトが、完全に俺という規格外の異物へと吸い寄せられる。
部下たちがパニックに陥り、俺を追って銃口をデタラメに振り回す。
敵の陣形が崩れ、そこに「ミリ単位の射線」が生まれた。
その背後で。
チャキッ──。
極めて硬質で精密な金属音が鳴った。
瞬き一つの間に、スピードローダーで全弾のリロードを完了させる気配。
ズッドォォォォンッ!!
後方から、再び死神の咆哮が轟いた。
俺が敵陣を掻き回して生み出したミリ単位の隙間。
その針の穴を通すような射線を縫って、獠の愛銃が火を吹いたのだ。
「ぐぁっ!」
「ひぎぃっ!」
俺の動きに翻弄され、完全に足を止めていた部下たちの足首や膝関節に、正確無比な弾丸が次々と吸い込まれていく。
倒れ込む部下たちを飛び越え、俺はアスファルトを滑るようにして急ブレーキをかけた。
(……すげぇな、マジで)
俺は心の中で、その神業に呆れ半分で感心していた。
俺がどこに動くか、どう動けば敵の射線が塞がり、どこに空間が空くか。
そのすべてを完璧に読み切らなければ、絶対に成立しないコンビネーションだ。過剰な張り合いも、ライバル気取りの余計な手出しもない。
自分の役割に徹し、相方の作った隙を百パーセントの精度で撃ち抜く。
これぞ本物のプロの仕事というやつだ。
カチャリ、と。
獠が手首のスナップだけでパイソンのシリンダーを振り出し、エジェクターロッドを一瞬で押し込む。
チリン、カラリ──と、熱を帯びた空の薬莢がアスファルトに転がり落ちる乾いた音が、静寂の戻った路地裏に響いた。
ほんの数秒。
たったそれだけの間に、巨漢を取り囲んでいた部下たちは全員がアスファルトへ沈み、苦悶の呻き声を上げていた。
残るは一人。
血と硝煙の立ち込める路地の中央で、狂った笑みを浮かべるアロハシャツの巨漢ただ一人。
シーン、と。
血と火薬の匂いが充満する路地裏に、不気味なほどの静寂が降りた。
「……HAHAHA! こりゃあ驚いた」
巨漢が、倒れた部下たちを一瞥し、腹の底から響くような笑い声を上げた。
焦りや恐怖の感情は一切ない。むしろ、上質な獲物を見つけた猛獣のような、ひどく淀んだ歓喜の色が瞳に宿っている。
「どこの護衛かと思えば、ずいぶんとキレた動きをするじゃねえか。ただのヤクザの用心棒や傭兵崩れのタマじゃねえな」
男は首の骨をゴキリと鳴らし、俺に向かって巨体をゆっくりと振り向けた。
そして、両腕の鋼鉄の義手をガチャリと打ち鳴らす。
火花が飛び散り、異常な質量を誇る金属の駆動音が路地裏に響き渡った。
「俺は、悪宇商会所属『鉄腕』ダニエル・ブランチャードだ。覚えとけよ、冥土の土産にな」
(……悪宇商会、ね)
その血生臭い組織名を聞いて、いつか裏ルートの雑談で耳にした胸糞の悪い噂が脳裏をかすめた。
裏社会の底溜まりで、殺戮や人体実験に手を染める外道どもの互助会。利益のためではなく、ただ暴力を撒き散らすことだけに特化した、正真正銘の狂人集団だ。
「小僧……素手で俺の前に立つ気か?」
ダニエルの濁った瞳が、俺の細身の体躯を舐め回すように見下ろす。
「チョコマカと面白いステップを踏むじゃねえか。だが……その貧相な生身の腕で、俺のパワーを受け止められるとでも思ってんのかァ!?」
ダニエルが獰猛な笑みを深め、俺に真っ直ぐに狙いを定めた。
肌がピリピリと粟立ち、呼吸すら重くなるほどの殺気が路地裏を満たす。
ギィィィン、と。
両腕の油圧シリンダーが軋むような甲高い駆動音を立てた。
「ヒャハッ! 潰れちまえよォ!」
ダニエルが獰猛な雄叫びを上げ、アスファルトを踏み砕きながら突進してくる。
まるでブレーキの壊れたダンプカーだ。
アロハシャツの下で異常に隆起した筋肉が躍動し、両腕に装着された鋼鉄の義手が、街灯の僅かな光を鈍く反射している。
コンクリートの壁を紙のように削り取った、あの質量と破壊力。
まともに食らえば、人体など一溜まりもなくミンチにされるだろう。
「……だから、痛いのは嫌だって言ってんだろ」
俺は極めて不機嫌にボヤきながら、一歩も引かずに正面からそのプレッシャーを迎え撃った。
逃げる気はない。
こんな狭い路地でチョコマカと回避行動を取れば、路地の壁が崩落して余計な面倒事になりかねない。何より、さっさとこの理不尽な鉄の塊をスクラップにしなければ、今夜の平穏は確約されないのだ。
俺は深く息を吸い込み、体内のオーラを操作した。
皮膚の表面を覆っていた極薄の『纏』を一瞬にして解除する。
全身の防御力をゼロに引き下げる代償。
体内を巡る奔流を、右腕の一点のみに強制的に集中させる。
──念の高等技術、『硬』。
俺の右拳に、圧縮された莫大な熱量が収束していく。
「その細腕ごと、挽き肉にしてやるよォ!」
ダニエルが、必殺のストレートを振りかぶった。
鋼鉄の義手が、空気を圧縮しながら俺の顔面へと迫ってくる。
風圧で前髪が激しく煽られ、鉄と油の不快な匂いが鼻腔を殴りつけた。
「……人の休日に泥を塗った罪は、高くつくぞ」
俺は静かに吐き捨て、オーラを極限まで圧縮した右拳を、真っ向から振り抜いた。
小細工なし。回避もなし。
純粋な質量と、規格外のオーラの正面衝突。
ドゴォォォォォォォォンッ!!!
路地裏の空間そのものが爆発したかのような、鼓膜を破る凄まじい轟音が響き渡った。
「……ガ、ァ……ッ!?」
衝突の瞬間。
ダニエルの顔に張り付いていた狂暴な笑みが、信じられないものを見るような驚愕へと凍りついた。
俺の右拳は、ミリ単位の後退すらしなかった。
激突した瞬間、ダニエルの鋼鉄の拳から伝わってきたのは、手応えではなく「脆さ」だ。
金剛石の硬度と化した俺のオーラに圧殺され、分厚い装甲ナックルがメキメキと音を立てて逆三角形にひしゃげていく。
耐えきれなくなった油圧シリンダーが破裂し、内部フレームが飴細工のように砕け散った。
バチィィッ! という金属の断末魔とともに、巨漢の右腕の義手が完全に粉砕される。
「バカな……ッ! 俺の、腕が……ッ!」
自慢の兵器を素手で粉々に打ち砕かれ、ダニエルの思考が完全に停止した。
その巨大な体が、衝撃でわずかに後ろへのけぞる。
──その一瞬の硬直を、俺が見逃すはずがない。
「おやすみ」
風切り音すら置き去りにする無音の踏み込み。
俺は義手を失って隙だらけになったダニエルの懐へと、ゴーストのように滑り込んだ。
オーラの集中を右腕から解き、瞬時に全身へと戻す。
そして、ダニエルの分厚い胸板に手のひらをピタリと添え、手首の返しだけで鋭い掌底を打ち込んだ。
ドムッ……!
派手な打撃音はない。
だが、俺の放った衝撃波は、強靭な大胸筋も分厚い肋骨も関係ない。
オーラの衝撃波は肉体を透過し、その奥にある心臓と自律神経の束を的確に撃ち抜く。
梁山泊のイカれた師匠たちに嫌というほど叩き込まれた、殺さずに相手を完全無力化する『浸透打撃』だ。
「……あ、ガ……ッ」
ダニエルの口から、空気が漏れるような音がこぼれた。
白目を剥き、巨木が切り倒されるように、その巨大な体が前方の俺へ向かって崩れ落ちてくる。
俺はスッと横に半歩ずれ、アスファルトにズドォンと沈み込むその巨体を見下ろす。
ピクリとも動かない。完全な気絶だ。
硝煙の匂いだけを残し、路地裏に再び冷たい静寂が降り立つ。
チャキリ、と。
背後で響いた硬質な金属音。
「……ふっ。こりゃあ、噂以上だな」
振り返ると、獠がまだ硝煙をくゆらせているコルト・パイソンを、手品のような手捌きでホルスターへと収めるところだった。
その口元には、呆れ半分、感心半分のシニカルな笑みが浮かんでいる。
「買い被りだよ。ちょっとばかり腕力に自信があるだけさ」
俺は右腕をブラブラと振り、筋肉の強張りをほぐす。
「それに……ここはアンタのシマだろ? 俺はただの揉め事処理屋だ。あとの面倒なゴミ掃除は、スイーパーさんに丸投げさせてもらうぜ」
「やれやれ……。お前さんも、大概いい性格してるな」
獠が呆れたように肩をすくめた。
互いの戦い方に余計な口出しはしない。プロとしての役割分担と、ドライな引き継ぎ。
これ以上の無駄話は不要だ。
俺は踵を返し、路地の奥でこちらを見守っていた女性陣のもとへと歩き出した。
へたり込んで涙を流す沙織の肩を香が優しく抱き、二乃が俺の無傷な姿を見て心底ホッとしたように胸を撫で下ろしている。
「沙織さん、あとはこっちが綺麗に片付けるわ。行きましょ」
香に促され、沙織が俺たちに向かって何度も頭を下げる。
……これで、俺たちの仕事は終わりだ。
家に帰って、ゆっくりと眠りたい。
* * *
──数時間後。
「あー……面倒くさ。マジで気力が一ミリも残ってない……」
俺は、見慣れた事務所の革ソファに、泥の塊のように突っ伏していた。
天井の少し黄ばんだクロスと、雨漏りの跡が残る愛おしいシミ。
新宿の路地裏から、沙織を完全に獠たちに引き渡し、安全を確保してからの帰還。
怪我ひとつない頑丈すぎる肉体とは裏腹に、精神的な疲労と面倒くささの残滓が、鉛のように全身にのしかかってきている。
パタパタパタ。
キッチンの方から、軽快なスリッパの音が近づいてきた。
「もう、帰ってきて早々だらしないわね。ちゃんと手と顔、洗ったの?」
呆れたような声。
見上げると、ルームウェアの上に羽織っていたトレンチコートを脱ぎ捨て、再び淡いパステルカラーのカーディガン姿に戻った二乃が、お盆を持って俺を見下ろしていた。
「洗った洗った……。もう俺、このままソファと同化して一生を終えたい」
「バカなこと言ってないで、ほら、起き上がりなさい」
コトリ、と。
ローテーブルの上に、湯気を立てるお盆が置かれた。
粗挽き胡椒の香りが立ち上る透き通ったコンソメスープと、こんがりと黄金色に焼き上げられた厚切りトースト。その上には、燻製の香ばしい匂いを放つ分厚いベーコンと、黄身が絶妙な半熟に仕上がった目玉焼きが乗せられている。
「……なにこれ」
「見ればわかるでしょ。夜食よ」
二乃が腰に手を当てて、フンッと誇らしげに鼻を鳴らす。
「あんだけ無茶して暴れたんだから、お腹空いてるでしょ。ちゃっちゃと作れるものにしたけど、ちゃんと食べなさいよ」
コンソメの優しい香りと、バターが溶け込んだトーストの暴力的な匂いが、俺の鼻腔をくすぐる。
途端に、胃袋が自己主張を始めた。
戦いの緊張感が完全に解け、極度の空腹感が押し寄せてくる。
「……いただきます」
俺はのろのろと身体を起こし、スープを一口すする。
じんわりとした温かさと、絶妙な塩気が、疲労しきった五臓六腑に染み渡っていく。
美味い。泣きたくなるくらい、美味い。
「どう? 味、薄くない?」
「……完璧。最高に美味い」
俺が素直に絶賛すると、隣に腰掛けた二乃が、分かりやすくホッとしたように表情を綻ばせた。
「当たり前でしょ。誰が作ったと思ってるのよ」
強気な言葉とは裏腹に、その横顔には、俺が無傷で帰還したことへの深い安堵が滲んでいる。
サクサクとトーストをかじりながら、俺は大きく息を吐き出した。
伝説の始末屋との邂逅。イカれた戦闘屋との激突。
命がいくつあっても足りない、最悪の残業だった。
だが、その冷たい暴力の世界から一歩帰ってくれば、ここには温かい飯と、俺の世話を焼いてくれる相棒がいる。
「……なんだかんだ言って、やっぱり二乃がいないと、マジでやってられないな」
俺がぽつりと、柄にもない本音をこぼす。
「な、なによ……っ。急にあんた、そんなこと言って……おだてても、おかわりは作らないわよ」
二乃は顔を真っ赤にしてそっぽを向いたが、その唇の端は、隠しきれないくらい嬉しそうに弧を描いていた。
深夜の事務所に響く、心地よい咀嚼音。
最高に美味い夜食と、少し口の悪い可愛い相棒。
ああ、やっぱりこの平穏な日常だけは──何に代えても、守ってやるさ。