現代日本に転生したけど、何かおかしくない?   作:匿名のななし

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25 閑話⑤

 柔らかな春の日差しが、表参道のケヤキ並木からキラキラと降り注いでいる。

 休日の大通りは、最先端のトレンドに身を包んだ若者や幸せそうなカップルで溢れかえり、楽しげな喧騒に包まれていた。

 

 誰もが穏やかな休日を謳歌する、そのど真ん中で。

 俺は、最高に幸せで、かつ最高に胃の痛い局面に立たされていた。

 

 原因は明白だ。目の前に座る相棒の破壊力が、限界を突破しているからである。

 

「ねぇ。いつまで黙ってる気?」

 

 オープンテラス席の白いテーブル越しに、中野二乃が小悪魔的な笑みを浮かべて首を傾げた。

 今日の彼女は、気合の入り方が尋常じゃない。

 オフホワイトのブラウスに、春風に揺れるペールブルーのプリーツスカート。普段の勝ち気な印象をふわりと和らげるようなハーフアップの髪には、上品なパールピンが光っている。

 いつもより少し大人っぽい桜色のリップが、意志の強そうな瞳と絶妙なギャップを生み出していて──要するに、殺人的に可愛いのだ。

 

「どうなのよ。今日の私のコーデ」

「……いや、見ての通り吟味中だよ」

「吟味って何よ、品定めみたいに言わないでよ」

「ほら、迂闊なこと言うと減点されるだろ? うちの共同経営者様は美意識のハードルがエベレスト並みだからさ」

 

 俺がおどけて肩をすくめると、二乃は組んでいた足を組み替え、頬杖をついて身を乗り出してきた。

 

「減点なんてしないわよ。……あんたが正直に、心の底からの感想を言えばね?」

「その『正直に』が一番トラップっぽいんだよなぁ」

「いいから早く言いなさいよ。せっかくあんたのために……コホン、せっかくの休日の表参道なんだから、相応しい格好してきたんじゃない」

 

 言い直した二乃の耳たぶが、ほんのり赤らんでいる。

 可愛すぎるだろ。マジで。

 早鐘を打つ心臓を無理やり鎮めようと、思わず『絶』を使って全身のオーラをシャットアウトしかけたほどだ。

 だが、ここで露骨にたじろいでは男のメンツが丸潰れになる。

 俺は涼しい顔を作り、飄々とした手つきでエスプレッソのカップを傾けた。

 

「……まあ、悪くないんじゃない? 春っぽくてすごく似合ってるよ。特にそのスカート、爽やかでいいと思う」

「ふふっ。なによ『悪くない』って」

 

 二乃は勝ち誇ったように唇の端を吊り上げ、テーブルに身を乗り出して俺の顔を覗き込んできた。

 

「顔に『最高に可愛い、心臓止まりそう』って書いてあるわよ、所長さん?」

「書いてないね。俺の顔面は純白のキャンバスだよ」

「嘘ばっかり。耳、赤くなってるのバレバレなんだけど?」

「これは……あれだ、エスプレッソのカフェインが急激に回っただけ」

「エスプレッソで耳だけ赤くなる体質なんて聞いたことないわよ!」

 

 ぷっと吹き出す二乃から、フローラル系の香水の甘い匂いがふわりと漂ってくる。

 完全に心もペースも握られている。俺の完敗だ。

 だが、その心地よい敗北感に浸れること自体が、今の俺にはたまらなく贅沢だった。

 

 前回の依頼──悪宇商会の刺客との血生臭い激戦は、俺の嫌いな『痛くて面倒なこと』の最たるものだった。

 鋼鉄の義手を粉砕し、命のやり取りをするような裏社会の狂気。

 そこからなんとか日常へと生還し、こうして話題の有名店で慰労のデートをしている。

 

「お待たせいたしました、ベリーとシトラスのスムージーでございます」

「あ、ありがとうございます!」

 

 店員がグラスを置いた瞬間、二乃はすかさずスマホを取り出した。色鮮やかなグラスを様々な角度から熱心に覗き込み、連写を始める。

 

「あっ、これ絶対インスタ映えするやつ! ねぇ八雲、フォーク持つからちょっとこっち撮って!」

「はいはい、アシスタントの業務ですね。スマホ貸して」

「ちょっと、画角もっと下から! 並木の光が入るように!」

「注文が多いな……よし、はい、チーズ」

「見せて見せて。……うん、まあまあね。じゃあ次、あんたもこっち向いて」

「え、俺も?」

「当たり前でしょ。ほら、仏頂面してないで、少しは笑いなさいよ」

「俺はいつでもスマイル全開なんだけど?」

「目が死んでるのよ、毎回! ほら、口角上げて!」

「こう?」

「変顔しろとは言ってないわよ、バカ!」

 

 呆れ顔で笑いながら、二乃がインカメラのシャッターを切る。

 画面越しに映る、満面の笑みを浮かべる二乃と、情けなく引きつった笑顔の俺。

 周囲からは、楽しげな笑い声と食器の触れ合う軽快な音がBGMのように聞こえてくる。

 その無邪気な姿と平和な喧騒を五感で味わいながら、俺は深い安堵の息を密かに吐き出した。

 

 俺が守りたかったのは、このくだらなくて、最高に尊い日常なんだ。

 弾丸を素手で弾くようなバケモノじみた力は、この平和なカフェの空気の中では全く必要ない。

 今日は裏社会のことなんて完全に忘れて、この平和な休日を骨の髄まで満喫してやる。

 そう、固く決意したはずだった。

 

 

 

 だが、俺の平穏なフラグ建築は、いつだって斜め上の方向から無慈悲にへし折られる運命にあるらしい。

 

 

 

 ──バリッ。サクッ。

 

 爽やかなオープンテラスの空気を切り裂くように、極めて場違いな咀嚼音が響いた。

 ふと視界の端に違和感を覚え、そちらへ視線を向ける。

 いつの間にか、俺たちのテーブルのすぐ脇──わずか一メートルほどの至近距離に、ふらりと一つの影が立ち止まっていた。

 

 ボブカットの髪を揺らす、中学生くらいの少女。

 小柄で、どこか人形のように整った無表情な顔立ち。左目の下には特徴的な黒子がある。

 だが、何よりも異常なのは、表参道のオシャレなカフェというこの空間において、彼女の手には不釣り合い極まりない『うめえ棒』が握られていることだ。

 

 サクッ。バリッ。

 

 少女は無表情のまま、うめえ棒を一口かじり、真っ直ぐに俺を見つめている。

 

「…………」

「…………」

 

 無言のまま視線が交差する。

 ……なんだ、この状況。

 新手のスタンド使いか? それとも得体の知れない駄菓子の匂いで精神攻撃を仕掛けてくる特殊なアサシンか?

 

「……ねぇ、八雲」

 

 不意に、地獄の底から響くような低い声が鼓膜を震わせた。

 恐る恐る視線を戻す。

 さっきまでウキウキでスムージーを撮っていたはずの二乃が、テーブルに両肘をつき、絶対零度のジト目で俺を睨み据えていた。

 

「……はい、なんでしょうか」

「説明、してくれるかしら」

「説明って……何を?」

「とぼけないでよ。なんで見知らぬ中学生の女の子が、至近距離で納豆スナックを食べながらあんたのことをガン見してるわけ?」

「納豆スナックって銘柄まで正確に把握しなくていいから!」

「そこじゃないでしょ!」

 

 二乃の声には、明らかな怒りと疑惑が煮えたぎっていた。眉間のシワが普段の三倍くらい深い。

 

「いや、俺に聞かれても困るんだけど!? マジで心当たりがない!」

「ふーん? 心当たりがないのに、あの子、あんたの目元から一ミリも視線逸らしてないわよ?」

「俺が聞きたいよ! なんで表参道の一等地で納豆味のうめえ棒食いながら俺を見つめてるの!? 何の儀式!?」

「本当に知らないのね? ……まさか、隠し子?」

「俺まだ二十一歳なんだけど!? どう考えても計算合わないだろ! 俺が何歳の時の子だよ!」

「じゃあ、なんなのよ。新手の浮気相手? あんた、まさかそういう幼い子が好みだったわけ? 最低……」

「飛躍の仕方がアクロバティックすぎるだろ! やめてくれ、俺の社会的尊厳が音を立てて消滅していく!」

 

 俺は冷や汗を滝のように流しながら、必死で両手を振って弁明した。

 

「……あのねぇ、八雲。私、あんたの甲斐性なしで出不精なところもひっくるめて面倒見てあげてるつもりだけど、さすがにロリコンの犯罪行為に加担する気はないわよ?」

「誰が犯罪者予備軍だ! よく考えろ二乃ちゃん! 俺、基本的にキミとずっと一緒に事務所にいるだろ!? いつどこで女子中学生と怪しい関係になる隙があるんだよ!」

「……確かに。あんたみたいなヘタレ引きこもりが、私に隠れてそんな器用な浮気できるとは思えないわね」

「納得の仕方がちょっと悲しいけど、事実だからぐうの音も出ない!」

 

 ぐぬぬ、と詰め寄る二乃の気迫に押され、俺は椅子の背もたれに限界までのけぞった。

 誰だ? どこかの事件で遭遇した関係者か?

 記憶の糸をたぐるが、いまいちピンとこない。

 俺は身を乗り出し、未だ立ち尽くしている少女に向かって、すがるような視線を向けた。

 

「あのさ、キミ。人違いじゃないかな? 見ての通り、俺たち今すっごく大事なデート中……じゃなくて、慰労会中なんだけど」

「ちょっと、今『デート』って言いかけたわよね?」

「今はそっちに食いつかないで二乃ちゃん!」

 

 だが、少女は俺たちの必死の問答を前にしても、ただ淡々と、無表情のままうめえ棒を齧り続けていた。

 

 

 

 ──サクッ。

 

 

 

 ひとしきり咀嚼を終え、袋を丁寧に折りたたんだ後。

 少女は二乃の突き刺さるような視線を受け止めながら、深く、そして丁寧な所作で頭を下げた。

 

「お休みのところ、お二人のデートのお邪魔をしてしまい、誠に申し訳ありません」

 

 少女の口から紡がれたのは、外見の幼さからは想像もつかないほど落ち着き払った、極めて丁寧な謝罪だった。

 その完璧な礼儀正しさに、二乃も「えっ……」と拍子抜けしたように瞬きをする。

 

「あ、いえ……別に、怒ってるわけじゃ……」

「申し訳ありません。不審に思われるのは当然の反応かと」

 

 少女は淡々とそう述べると、真っ直ぐに俺の瞳を見据えた。

 二乃の毒気は完全に抜かれたようだが、俺の皮膚は微かな粟立ちを感じていた。

 

 この子、ただの迷子でも、おかしな変人でもない。

 

「私は、情報屋のレインと申します」

 

 少女──レインは、静かな、しかし確かな意思を持った声で名乗った。

 

「八雲さん。少々有益なお話があるのですが……同席、よろしいですか?」

 

 

 思考が、高速で回転する。

 情報屋? こんな子供が?

 罠か?

 いや、違う。

 彼女の重心の置き方、呼吸、筋肉の弛緩具合。どこを探っても、武術の心得や明確な敵意は感じられない。

 異能の気配もない。

 だが、彼女がただの一般人ではないことだけは確かだ。

 せっかくの平和な休日に、また面倒事の火種が舞い込んできた。

 盛大に頭を抱えたい気分を必死に飲み込み、俺は小さく息を吐き出した。

 張り詰めかけたオーラを、体内の奥底へ押し留める。

 

 無視して済む相手でもなさそうだ。

 俺は脳内の警戒レベルを一気に引き上げ、深呼吸を一つする。

 面倒な厄介事の匂いがプンプンするが、ここで無下にして騒がれるのはもっと面倒だ。

 

「……いいよ」

 

 俺はため息混じりにそう言うと、顎と手を使って、テーブルの脇にある予備の椅子を指し示した。

 

「……まあ、立ち話もなんだ。座ってくれよ」

「ありがとうございます。失礼いたします」

 

 レインはぺこりと小さく頭を下げると、音もなく椅子を引き、背筋をピンと伸ばして腰を下ろした。

 真っ直ぐに切り揃えられたボブカットが、春の微風にふわりと揺れる。

 洗練された表参道のカフェテラスにおいて、彼女の佇まいは異質という言葉すら生ぬるい。

 そして次の瞬間──。

 

 シャカ、シャカ、ビリッ。

 

「……ッ」

「くさっ……!」

 

 向かいの席で、二乃がたまらず顔をしかめ、綺麗な指で鼻をつまんだ。

 俺も思わず喉を詰まらせ、内心で盛大に天を仰ぐ。

 レインの小さな手が慣れた手つきで開封したのは、なんと本日二本目となる『うめえ棒(納豆味)』だった。

 オシャレなオープンテラスに、再び強烈な発酵食品のフレーバーがテロのように充満していく。

 

「ちょっと! あんた、人の席に座るなり何開封してんのよ!」

「申し訳ありません。頭脳労働には適度な糖分と塩分、そして咀嚼による脳血流の促進が必要不可欠ですので」

「だからってなんでオープンテラスで納豆なのよ! 周りの目を見なさい、周りの目を!」

 

 二乃の至極真っ当な怒声に、周囲のカップルたちが「なんだあの匂い……」とざわつき始めている。

 だが、当の本人は一切動じる様子もなく、サクッ、と小気味良い音を立ててそれを齧った。

 

「改めまして。サンセットレーベンズというクランで情報屋をしております、レインと申します」

 

 口元を小さなハンカチで上品に拭いながら、レインは極めて事務的な口調で再度名乗った。

 

「クラン……? 情報屋って、あんた本当に中学生なの?」

「戸籍上の年齢は、情報の信憑性とは無関係かと」

「なっ……生意気な口利くじゃないの」

 

 カチンときた二乃が腕を組み、眉を吊り上げる。

 並大抵の胆力ではない。この年頃の少女が、女子大生である二乃の鋭い威圧感を前にして、ここまで平然としていられるはずがないのだ。

 

 俺は飲みかけのエスプレッソのカップをソーサーに戻し、椅子の背もたれに深く体重を預けた。

 

「こんな真っ昼間の表参道で、中学生が納豆スナックを齧りながら営業活動かい? 随分と熱心なこった」

「有益な情報と時間は、場所を選びませんから」

「こっちには場所を選ぶ権利があるんだけどね。それで? 俺の名前を知ってるってことは、ただの道案内を頼みに来たわけじゃなさそうだ」

「ええ。裏社会で『揉め事処理屋』を営む八雲さん。貴方に、ぜひ耳に入れておいていただきたい情報がございまして」

 

 レインは淡々と咀嚼を続けながら、感情の読めない瞳で俺を真っ直ぐに見つめてくる。

 左目の下の黒子。

 中学生。

 ボブカット。

 そして、『情報屋のレイン』──。

 

 ──おい、待て。

 俺の脳細胞が、嫌なフラグを猛烈な勢いで組み立て始める。

 

 ただでさえ俺の生きるこの世界は、ヤクザからプロの殺し屋、果ては裏社会のバケモノどもまでが跳梁跋扈する、カオスでイカれた世界だ。

 もし、俺の『記憶』にある、あの理不尽なデスゲームのキャラクターだとしたら。

 

(まさか……あの、スマホアプリを介した殺し合いのデスゲームか……!?)

 

 背筋をぞわりと冷たい汗が伝った。

 もし彼女が『サンセットレーベンズ』に所属する情報屋のレインだとしたら、ただの子供ではない。

 世界関数(ラプラス)──物理法則や確率すら先読みするチート級の異能(シギル)を持った、正真正銘のバケモノだ。

 そんなデスゲームの狂気までこの世界線に混ざり込んでいるのだとしたら、念能力者として鍛えた俺でさえ……平穏無事では済まない。

 

 全身の神経を極限まで研ぎ澄ます。

 俺は両目にオーラを集中させた。

 念の応用技『凝』。

 彼女の瞳孔の開き具合、表情筋の微細な強張り、首筋の脈拍、そして全身を巡る生体エネルギーの揺らぎを、一ミリの狂いもなく凝視する。

 

「……なぁ、あんた」

 

 ドクン、と自分の心臓が跳ねる音を無視し、俺は努めて冷徹な声でカマをかけた。

 

 

「『ダーウィンズゲーム』って、知ってるか?」

 

 

 場に、ピンと張り詰めたような静寂が落ちた。

 隣で二乃が「……え?」と怪訝な声を漏らす。

 俺はレインの表情筋の動きを、まばたき一つ許さず捉え続けた。

 もし彼女がプレイヤーなら、この単語を聞いて無反応でいられるはずがない。

 

 レインは、うめえ棒を口に運ぼうとした手をピタリと止めた。

 そして。

 

「……ダーウィンズ、ゲーム?」

 

 パチクリと、純粋な疑問符を顔に浮かべて首を傾げた。

 

「ダーウィンの進化論をモチーフにした、ボードゲームか何かですか?」

「……」

「すみません、私のデータベースの中には該当する名称が存在しませんね。最近裏社会で流行している賭博の類でしょうか?」

 

 俺は、彼女の全身から発せられる生体反応を脳内で高速解析した。

 視線の泳ぎ、ゼロ。

 心拍数の乱れ、ゼロ。

 発汗や筋肉の緊張、ゼロ。

 何より、不気味に歪んだオーラの気配が一切ない。完全に、ただの無知な反応だ。

 

(────ッッしゃあ!! 違う! デスゲームが存在する世界線じゃない!!)

 

 俺はテーブルの下で、誰にも見えない渾身のガッツポーズをキメた。

 危ないところだった。もしここで「なぜその名を?」なんて凄みのある声で返されていたら、俺は二乃を小脇に抱えて音速でこのテラス席から逃亡していただろう。

 

「あ、いや。ただのマイナーなゲームの話だよ。気にしないでくれ」

「……そうですか」

 

 俺が心底ホッとしたように息を吐き出すと、レインは少しだけ面白そうに目を細めた。

 

「何か、私の正体や危険性を測るための試金石でしたか?」

「まあな。得体の知れない奴に背中は預けられないだろ」

「妥当なご判断です。八雲さんのような慎重な方は、ビジネスパートナーとして極めて信頼がおけます」

 

 レインはうめえ棒をモニュモニュと咀嚼しながら、事も無げに言ってのけた。

 

「それで? 有益な話ってなんだよ。俺たち、見ての通り休日のパンケーキを満喫するんだけど。あんまり無粋な邪魔をすると、そこのおっかないお姉さんに怒られるよ?」

「ちょっと、誰がおっかないお姉さんよ!」

 

 二乃の鋭いローキックが、テーブルの下で俺の弁慶の泣き所をクリーンヒットした。

 痛い。すね毛が散るかと思った。

 だが、そのやり取りを見たレインは、かすかに口角を上げて「ふふ」と小さく笑った。

 

「お二人の仲の良さは、裏社会でも少し噂になっていますよ。『揉め事処理屋の敏腕所長と、その優秀な右腕』と」

「……へえ」

 

 二乃の目がスッと細められた。

 浮気を疑っていた先程までのラブコメ的な空気は完全に消え去り、彼女の眼差しに『相棒』としての怜悧な光が宿る。

 

「私のことまで調べてるわけ。ずいぶんと耳が早いのね」

「優秀なパートナーの存在を把握しておくのは、情報屋として当然の嗜みです。……ですが、私はあくまで情報屋。本日は初対面の記念として、一つ無料のサービスをご提供しようかと」

「無料ねぇ。タダより高いものはないって、うちの所長がいつも口を酸っぱくして言ってるんだけど?」

 

 二乃が俺の顔をチラリと見やりながら牽制する。ナイスだ二乃。完全に事務所の防犯担当である。

 

「情報屋としての、私の能力のデモンストレーションとでも思っていただければ結構です」

 

 レインは淡々と返し、まっすぐな視線を俺に向けてきた。

 

「何について知りたいですか? 八雲さん」

「……じゃあ、せっかくだ」

 

 俺は少しだけ姿勢を正し、値踏みするように彼女を見つめた。

 

「最近ちょっと気になってる連中の動向について、教えてもらおうかな」

 

 俺がそう切り出した瞬間、テーブルの空気がふわりと香る甘さから、血と硝煙が混じる裏仕事のそれに一変した。

 それを肌で感じ取った二乃が、楽しげに操作していたスマホの画面を伏せ、テーブルの上にコトリと置く。

 ただの女子大生でありながら、この手の空気に臆することなく向き合う彼女の頼もしさに内心で感謝しつつ、俺は探るように口を開いた。

 

「『悪宇商会』。こいつらの今の動き、何か知ってる?」

 

 前回の依頼で激突した、裏社会の巨大組織。

 その名前を出した途端、レインの無表情な顔の奥底で、鋭い知性の光がキラリと瞬いた。

 

「悪宇商会、ですか。……ああ、なるほど。合点がいきました」

 

 サクッ。

 レインはうめえ棒を一口齧り、天気の話でもするかのような平坦な口調で語り始める。

 

「最近、裏社会のネットワークで、ある奇妙な噂が駆け巡っていました。悪宇商会に所属する『鉄腕』という異名を持つ凄腕の戦闘屋が、何者かによって完膚なきまでに粉砕された、と」

「へえ。物騒な話だな」

「その戦闘屋は、両腕を特殊な合金製の義手に改造していた巨漢だそうです。裏社会でも名の知れた彼を、武装した部下ごと一網打尽にした謎の存在。……噂では、一切の火器を使わず、素手でその鋼鉄の義手をスクラップに変えたと囁かれていますが」

 

 そこで言葉を区切り、レインは真っ直ぐに俺の目を見据えた。

 左目の下の黒子が、どこかミステリアスな凄みを醸し出す。

 

「あの鉄腕を病院送りにするなんて、普通では考えられません。……あの義手を素手で粉砕するようなデタラメな真似をやったのは、貴方ですね? 八雲さん」

「さぁね。俺はただの平和を愛する一般市民だよ。鉄屑の解体業なんてやってないね。人違いじゃない?」

 

 俺がわざとらしく肩をすくめると、隣の二乃もすかさず援護射撃に入った。

 

「そうよ。この男は休みの日にゲームばっかりしてるただの引きこもりよ? そんなゴリラみたいな怪力、あるわけないじゃない」

「おい二乃ちゃん、援護はありがたいけどゴリラって言った?」

「事実でしょ。あんた腕相撲だって私といい勝負じゃない」

「それはキミに怪我させないように手加減してるからだろ!」

 

 俺たちの漫才じみたやり取りを前にしても、レインは一切眉を動かさず、話を続けた。

 

「ご安心を。悪宇商会側は、現状この件を大きな問題にはしていません。彼らは極めてドライなビジネス組織ですから、末端の戦闘屋が負けたところで、すぐに大掛かりな報復の部隊を差し向けるような真似はしないでしょう。費用対効果が合わないと判断したのだと思われます」

 

 その言葉に、俺は胸を撫で下ろした。

 

「そりゃ重畳。ヤクザ映画みたいに次から次へと刺客が来るなんて、面倒くさくてやってられないからな」

「良かったじゃない、八雲。これで枕を高くして昼寝できるわね」

「おうよ。美味しいパンケーキ食べて昼寝する、これぞ至高の休日──」

「ですが」

 

 レインの無機質な声が、俺の言葉を容赦なく遮った。

 

「裏を返せば、それは貴方の『実力』が裏社会で高く評価されつつある証拠でもあります」

「……は?」

「圧倒的な暴力は、それ自体が高い商品価値を持ちます。八雲さん、貴方がそのデタラメな実力を示し続ければ、いずれ必ず……強大な企業から『スカウト』の手が伸びるはずです」

 

 スカウト。

 つまり、「うちの組織に入って一緒に暴れようぜ!」という、最高に面倒くさいお誘い。

 その単語が耳に届いた瞬間、俺の胃袋がギュルリと嫌な音を立てた。

 

「……ちょっと待って。スカウトって何よ。八雲はうちの事務所の所長なんだけど?」

「ええ。ですが組織の論理とは、個人の意志よりも遥かに強引なものです」

 

 レインはテーブル越しにスッと身を乗り出し、周囲の喧騒から切り離されたような、一段階低い声で本題を切り出してきた。

 

「現在、国内の巨大企業……例えば、『テコット』のようなトップ企業が、水面下で有能な護衛や戦闘員をかき集めるために、我々のような情報屋と頻繁に接触を図っています」

 

 ……は? テコット?

 

 俺の脳味噌が、聞き慣れた単語の処理に強烈なエラーを起こした。

 いや待て。あれは派閥争いや社内恋愛を繰り広げる、ただのサラリーマン漫画じゃなかったか!?

 なんで課長とか部長じゃなくて、巨大企業のトップに君臨して裏社会とコネクション持ってんだよ!

 

「……テコットって、あの家電とか作ってる大企業だろ? なんでそんな表の世界のトップが、裏社会の武闘派を物色してるんだよ。企業戦士って物理的な意味だったのか!?」

「巨大企業間の抗争は、時としてマフィアの縄張り争いよりも血生臭いものです。特に最近は、産業スパイの物理的な排除や、要人警護の需要が跳ね上がっていますから」

「世知辛い世の中ね……大企業も大変なんだ」

 

 なぜか二乃が妙に納得したように頷いている。納得するな、おかしいだろ!

 

「八雲さん。貴方のように、『圧倒的な暴力で、かつ相手を殺さずに綺麗に制圧できる』人間は、表の企業からすれば喉から手が出るほど欲しい最高の人材です。揉め事処理屋として名を上げつつある貴方の元にも……近いうちに必ず、大型の警護オファーがかかるはずです」

 

 予言。

 いや、これはもう確信を持った宣告だった。

 俺は両手で顔を覆い、指の隙間から恨みがましく天を仰いだ。

 

「ふざけんな……朝決まった時間に起きるのも嫌で、スーツのネクタイを締めるのも嫌だから、こんな怪しげな自営業をやってるんだぞ。今更、血で血を洗う大企業の派閥争いに巻き込まれるなんて真っ平ごめんだ」

「あんた、理由が相変わらず情けないわね……」

「情けなくて結構! 俺は痛いのも面倒なのも嫌いなんだよ!」

 

 胃の裏側がギリギリと軋む。

 そんな俺の絶望っぷりを見て、レインは初めて、ほんの微かに口角を上げた。

 

「もちろん、巨大企業に飼い犬として縛られるのが嫌だというのであれば……私から別の提案もあります」

「……提案?」

「ええ。私が所属する『サンセットレーベンズ』というクランも、現在少し厄介な敵対組織との抗争を抱えておりまして」

 

 レインは手元にスッと視線を落とし、懐から小さな手帳を取り出した。

 

「近いうちに、貴方のお力をお借りしたい。これは、今後のビジネスパートナーとしての関係構築を見据えた打診です」

 

 ビリッ、と手帳から破り取られたメモ用紙が、俺の目の前に滑り出された。

 そこには、裏回線と思しき電話番号と、暗号化されたメールアドレスが記されている。

 

「タダより高いものはない、って言ったばかりなのにね」

 二乃が呆れたようにメモを見下ろす。

「情報料のツケを、体で払えってわけだ」

「人聞きの悪い言い方はおやめください。対等な業務提携の提案です」

 

 レインは事も無げに言うと、静かに席を立った。

 

「……前向きに善処はするけど、期待はしないでくれよ。俺は超絶忙しいからな。主に、録画した深夜アニメの消化とかで」

「ふふっ。わかりました。ご連絡をお待ちしております」

 

 俺の情けない予防線に対し、レインは初めて、年相応の微かな笑みをこぼした。

 そして、彼女は二乃に向き直る。

 

「お姉さん。大切なお休みのデートを邪魔してしまい、重ねてお詫び申し上げます。……どうか、彼と良い一日を」

「えっ? あ、うん……」

 

 突然の『デート』という単語と、気遣いに満ちた言葉。

 二乃は毒気を抜かれたように瞬きをし、少しだけ頬を朱に染めて曖昧に頷いた。

 

「では、失礼いたします」

 

 レインはそのままきびすを返し、表参道の人混みへと歩き出す。

 俺は、その小さな背中をジッと目で追った。

 ……異様だ。

 彼女の身体からは『オーラ』の欠片も感じられない。武術の心得があるわけでもない、純度百パーセントの一般人のはずだ。

 だというのに、彼女の歩き方には一切の無駄がなかった。

 人波の切れ目、周囲の視線の死角、歩調の緩急。

 それらをまるで計算し尽くしたかのように巧みに利用し、スッ……と、雑踏の奥底へと自然に紛れて姿を消してしまったのだ。

 

「……行ったわね。なんだったのかしら、あの子」

「さあな。裏社会の迷子ってとこじゃないか」

 

 俺は残っていた冷めたエスプレッソを持ち上げながら、適当に相槌を打つ。

 だが、俺の意識はレインの消えた雑踏ではなく、別の方向へと向けられていた。

 

 ──スッ、と。

 

 テラス席から少し離れた街路樹の陰と、路地の角。

 そこに息を潜めるように控えていた「二つの気配」が、レインの撤退に合わせて静かに動き出したのだ。

 

 レインが席に着いた瞬間から、ずっと俺たちのテーブルを遠巻きにロックオンしていた二つの存在。

 片方は、若年ながら芯の通った、鋭い眼差しを持つ少年の気配。

 もう片方は、硝煙の匂いと無骨な体格の良さを感じさせる、歴戦の男の気配。

 おそらく、あのサンセットレーベンズのメンバーだろう。

 

 彼らは俺たちのテーブルには一切近づかず、ただ遠巻きにレインの安全を確保していただけらしい。

 見えざる護衛の存在。

 彼らもまた、レインが人混みに消えるのと連動し、一切の足跡を残さずに表参道の雑踏へと溶け込むように離脱していった。

 

「……なるほどね。優秀な番犬がしっかり張り付いてたってわけだ」

「え? 何か言った?」

「いや、こっちの話」

 

 俺はカップをソーサーに戻し、ふう、と深く息を吐き出した。

 怯えや動揺はない。

 ただ、とんでもなく厄介な連中に目をつけられちまったという、シニカルな徒労感だけが全身にのしかかっている。

 悪宇商会、巨大企業、そしてサンセットレーベンズ。

 このカオスな街の裏側で、俺の平穏を脅かす火種は着実に大きくなりつつある。

 

 あーあ。

 マジで面倒くさい。全部放り出して、一日中ゲームだけして寝てたい。

 

 

「お待たせいたしましたー! 季節のフルーツと特製クリームの贅沢パンケーキでございます!」

 

 

 その時。

 弾むような店員の声と共に、俺たちのテーブルに、見上げるような高さの華やかな皿が置かれた。

 

「わぁっ……! すっごい、美味しそう……!」

 

 向かいの席で、二乃が目をキラキラと輝かせ、歓声をあげた。

 焼きたての生地から立ち上る熱気。

 幾重にも重なったフワフワのスフレパンケーキの上に、雪山のように盛られた純白の生クリーム。その周囲には、イチゴやブルーベリー、色鮮やかなフルーツが宝石のように散りばめられている。

 そして、鼻腔をくすぐるメイプルシロップと発酵バターの濃厚で甘い香り。

 つい先程までの、血と硝煙の混じった裏社会の空気や納豆の残り香など、この暴力的なまでの甘い匂いと色彩の前に一瞬で消し飛んでしまった。

 

「ねぇ八雲! 早く撮って! クリームが溶けちゃう前に!」

「はいはい、カメラ構えたよ。二乃ちゃん、フォーク持って」

「こう? ちょっと、可愛く撮れてる!?」

「いつでも可愛いから大丈夫。ほら、笑って──はい、チーズ」

 

 カシャッ、と電子音が鳴り、画面に最高の一枚が収まる。

 春風に揺れるペールブルーのスカート。気合の入った桜色のリップ。

 何より、目の前のスイーツに心を奪われ、屈託のない眩しい笑顔を浮かべる等身大の女の子の姿。

 

「よし、完璧。じゃあ冷めないうちに食おうぜ」

「ふふっ、そうね。……あ、そうだ」

 

 二乃はフォークを手に取ると、パンケーキを一口大に切り分け、たっぷりのクリームと真っ赤なイチゴを絡め取った。

 そして、いたずらっぽく目を細めながら、それをテーブル越しに差し出してくる。

 

「はい、八雲。あーん」

「……は?」

「あ・ら・た・め・て! 前回の依頼の慰労! ほら、あーんしてあげるって言ってるの」

「いや、頼んでないし。ここ表参道のど真ん中のテラス席だぞ? 周りの視線が痛すぎる」

「いいから! 私が食べさせてあげたいの! ほら、口開けなさい!」

「待て待て、クリームが零れそう──」

「恥ずかしがらないで早く! 腕がプルプルしてきちゃうでしょ!」

 

 有無を言わさぬ迫力に押され、俺は観念して口を開けた。

 二乃のフォークが、すっと唇に滑り込んでくる。

 

 ──甘い。

 脳髄がとろけるような濃厚な糖分と、ベリーの爽やかな酸味が口いっぱいに広がる。

 胃の裏側に溜まっていた厄介事の重圧が、フワリと霧散していくようだった。

 

「どう? 美味しい?」

「……うん。悔しいくらい美味い」

「ふふん、でしょ? 素直でよろしい!」

 

 満足そうに笑う二乃を見て、俺は小さく息を漏らした。

 美味しいものを食べて、他愛のない冗談を言い合い、くだらないことで笑い合う。

 ただそれだけの、ありふれた休日のひととき。

 

(……どんな厄介な火種が降ってこようが、知ったことか)

 

 俺は甘いパンケーキを咀嚼しながら、フォークを咥えて幸せそうに目を細める相棒を見つめた。

 どんなバケモノが相手だろうと、どれだけ理不尽な組織が押し寄せてこようと。

 俺は、この眩しい笑顔だけは絶対に誰にも邪魔させない。

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