現代日本に転生したけど、何かおかしくない? 作:匿名のななし
柔らかな日差しが、表参道のケヤキ並木からキラキラと降り注いでいる。
休日の大通りは、最先端のファッションに身を包んだ若者や幸せそうなカップルで溢れかえり、楽しげな喧騒に包まれていた。
誰もが穏やかな休日を謳歌する、そのど真ん中で。
俺──八雲は、最高に幸せで、かつ最高に胃の痛い局面に立たされていた。
原因は明白だ。目の前に座る相棒の破壊力が、限界を突破しているからである。
「どう? 今日のコーデ」
オープンテラス席の白いテーブル越しに、中野二乃が小悪魔的な笑みを浮かべて首を傾げた。
今日の彼女は、気合の入り方が尋常じゃない。
オフホワイトのブラウスに、春風に揺れるペールブルーのスカート。普段の強気な印象を和らげるようなハーフアップの髪には、上品なパールが光っている。
いつもより少し大人っぽい桜色のリップが、勝ち気な瞳と絶妙なギャップを生み出していて──要するに、殺人的に可愛いのだ。
可愛すぎるだろ。マジで。
早鐘を打つ心臓を無理やり鎮めようと、思わず『絶』を使いかけたほどだ。
だが、ここでたじろいでは男のメンツが丸潰れになる。
俺は涼しい顔を作り、飄々とした態度でエスプレッソのカップを手に取った。
「……まあ、悪くないんじゃない? 春っぽくて似合ってるよ」
「ふふっ。素直じゃないわね、所長さんは。顔に『最高に可愛い』って書いてあるわよ?」
勝ち誇ったように笑う二乃から、フローラル系の香水の甘い匂いがふわりと漂ってくる。
完全に心もペースも握られている。俺の完敗だ。
だが、その敗北感すら今は心地よかった。
前回の依頼──悪宇商会の刺客との血生臭い激戦は、俺の嫌いな『痛くて面倒なこと』の最たるものだった。
鋼鉄の義手を粉砕し、命のやり取りをするような裏社会の狂気。
そこから依頼を終え、こうして話題の有名パンケーキ店で慰労のデートをしている。
二乃はスマホを取り出し、運ばれてきたばかりの色鮮やかなスムージーを色々な角度から熱心に撮影し始めた。
「あっ、これ絶対インスタ映えするやつ! ねぇ八雲、フォーク持つからちょっとこっち撮って!」
「はいはい、アシスタントの業務ですね。……はい、チーズ」
「ほら、八雲もこっち向いて。仏頂面してないで、少しは笑いなさいよ」
「俺はいつでもスマイル全開なんだけど?」
「もう、全然笑ってないじゃない。まあいいわ、これも記念ね」
画面越しに映る、満面の笑みを浮かべる二乃。
周囲からは、楽しげな笑い声と食器の触れ合う軽快な音がBGMのように聞こえてくる。
その無邪気な姿と平和な喧騒を五感で味わいながら、俺は深い安堵の息を密かに吐き出した。
俺が守りたかったのは、このくだらなくて、最高に尊い日常なんだ。
弾丸を素手で弾くようなバケモノじみた力は、この平和なカフェの空気の中では全く必要ない。
今日は裏社会のことなんて完全に忘れて、この平和な休日を骨の髄まで満喫してやる。
そう、固く決意したはずだった。
だが、俺の平穏なフラグ建築は、いつだって斜め上の方向から無慈悲にへし折られる運命にあるらしい。
──バリッ。サクッ。
爽やかなオープンテラスの空気を切り裂くように、極めて場違いな咀嚼音が響いた。
ふと視界の端に違和感を覚え、そちらへ視線を向ける。
いつの間にか、俺たちのテーブルのすぐ脇に、ふらりと一つの影が立ち止まっていた。
ボブカットの髪を揺らす、中学生くらいの少女。
小柄で、どこか人形のように整った無表情な顔立ち。左目の下には特徴的な黒子がある。
だが、何よりも異常なのは、表参道のオシャレなカフェというこの空間において、彼女の手には不釣り合い極まりない『うめえ棒』が握られていることだ。
サクッ。バリッ。
少女は無表情のまま、うめえ棒を一口かじり、真っ直ぐに俺を見つめている。
「…………」
「…………」
無言のまま視線が交差する。
……なんだ、この状況。
新手のスタンド使いか? それとも得体の知れない駄菓子の匂いで精神攻撃を仕掛けてくる特殊なアサシンか?
「……ねぇ、八雲」
不意に、地獄の底から響くような低い声が聞こえた。
恐る恐る視線を戻す。
さっきまでウキウキでパンケーキを待っていたはずの二乃が、絶対零度のジト目で俺を睨みつけていた。
「……はい」
「説明、してくれるかしら」
「説明って……何を?」
「決まってるでしょ。なんで見知らぬ女の子が、至近距離で納豆スナックを食べながらあんたのことをガン見してるわけ?」
二乃の声には、明らかな怒りと疑念が混じっていた。
「いや、俺に聞かれても困るんだけど!? マジで心当たりがない!」
「……ふーん。でも、真っ直ぐあんたのこと見てるわよ?」
「俺が聞きたいよ! なんで表参道で納豆味のうめえ棒食いながら俺を見つめてるの!?」
全身全霊のツッコミだった。
このイカれた世界のことだ、どこからどんな厄介事が降ってくるか分かったもんじゃない。
だが、デートの最中に浮気疑惑をかけられる修羅場だけは、なんとしても回避しなければならない。
「本当に? ……まさか、隠し子?」
「俺まだ二十一歳なんだけど!? 計算合わないだろ!」
「じゃあ、浮気相手? あんた、こういう幼い子が好みだったの? 最低……」
「飛躍しすぎだろ! やめてくれ、俺の社会的尊厳がガンガン削られていく!」
俺は冷や汗をダラダラと流しながら、必死で身振り手振りを交えて弁明した。
「……あのねぇ、八雲。私、あんたのそういうだらしない所もひっくるめて面倒見てあげてるつもりだけど、さすがに犯罪行為に加担する気はないわよ?」
「誰が犯罪者だ! よく考えろ二乃ちゃん! 俺、基本的にキミとずっと一緒にいるだろ!? いつどこで中学生と怪しい関係になる隙があるんだよ!」
「……確かに。あんたみたいな出不精のヘタレが、私に隠れてそんな甲斐性を見せるとは思えないわね」
「納得の仕方がちょっと悲しいけど、事実だからしょうがない!」
ぐぬぬ、と詰め寄る二乃の迫力に、俺は椅子の背もたれに限界まで体重を預けてのけぞった。
誰だ? どこかの事件で遭遇した関係者か?
記憶の糸をたぐるが、いまいちピンとこない。
「キ、キミ。人違いじゃないかな? 見ての通り、俺たち今すっごく大事なデート中なんだけど」
俺は身を乗り出して、少女に必死に語りかけた。
頼むから、俺の大事な慰労デートを修羅場に変えないでくれ。
だが、彼女は俺の必死の形相を前にしても、ただ淡々と、無表情のままうめえ棒を齧り続けている。
──サクッ。
ひとしきり咀嚼を終え、袋を丁寧に折りたたんだ後。
少女は二乃の突き刺さるような視線を受け止めながら、深く、そして丁寧な所作で頭を下げた。
「お休みのところ、お二人のデートのお邪魔をしてしまい、誠に申し訳ありません」
彼女の口から紡がれたのは、中学生とは思えないほど丁寧で、常識的な謝罪の言葉だった。
その礼儀正しさに、二乃も少しだけ毒気を抜かれたように瞬きをする。
だが、俺の皮膚は微かな粟立ちを感じていた。
この子、ただの迷子でも変人でもない。
「私は、情報屋のレインと申します」
少女──レインは、静かな、しかし確かな意思を持った声で名乗った。
「八雲さん。少々有益なお話があるのですが……同席、よろしいですか?」
思考が、高速で回転する。
情報屋? こんな子供が?
罠か?
いや、違う。
彼女の重心の置き方、呼吸、筋肉の弛緩具合。どこを探っても、武術の心得や明確な敵意は感じられない。
異能の気配もない。
だが、彼女がただの一般人ではないことだけは確かだ。
せっかくの平和な休日に、また面倒事の火種が舞い込んできた。
盛大に頭を抱えたい気分を必死に飲み込み、俺は小さく息を吐き出した。
張り詰めかけたオーラを、体内の奥底へ押し留める。
無視して済む相手でもなさそうだ。
俺は脳内の警戒レベルを一気に引き上げ、深呼吸を一つする。
面倒な厄介事の匂いがプンプンするが、ここで無下にして騒がれるのはもっと面倒だ。
「……いいよ」
俺はため息混じりにそう言うと、顎と手を使って、テーブルの脇にある予備の椅子を指し示した。
「……まあ、立ち話もなんだ。座ってくれよ」
「ありがとうございます」
彼女──『情報屋のレイン』と名乗ったその少女は、「失礼します」と小さく頭を下げて俺が勧めた予備の椅子を静かに引いて腰を下ろした。
真っ直ぐに切り揃えられたボブカットが、春の微風にふわりと揺れる。
その洗練された表参道のカフェテラスという空間において、彼女の存在はあまりにも異質だった。
俺の視線は自然と、白いテーブルの上に置かれた彼女の手元へとスライドしていった。
シャカ、シャカ、ビリッ。
「……ッ」
「くさっ……!」
向かいの席で、二乃がたまらず顔をしかめ、綺麗な指で鼻をつまんだ。
俺も思わず息を止め、内心で盛大に顔をしかめる。
レインの小さな手が慣れた手つきで開封したのは、なんと本日二本目となる『うめえ棒(納豆味)』だったからだ。
オシャレなオープンテラスに、再び強烈な発酵食品の匂いがテロのように充満していく。
周囲の席に座るカップルたちが何事かと不審げに周囲を見回し始めているが、当の本人は全く意に介する様子もなく、サクッ、と小気味良い音を立ててそれを齧った。
「改めまして。サンセットレーベンズというクランで情報屋をしております、レインと申します」
口元をハンカチで拭いながら、レインは極めて丁寧な口調で再度自己紹介をした。
クラン。情報屋。
聞き慣れない、しかし確実に表の世界の人間ではない単語が並ぶ。
年齢にそぐわない落ち着きぶりといい、この異様なマイペースさといい、ただの迷子の中学生ではないことだけは確かだ。
ましてや、こんな匂いのキツい駄菓子をオシャレなカフェで堂々と食べる度胸。並大抵の神経ではない。
先ほどの、二乃の突き刺さるような疑念の眼差しを受けても、一切怯むことなく謝罪を口にした胆力も、一般人のそれとは一線を画している。
俺は飲みかけのエスプレッソのカップをソーサーに戻し、椅子の背もたれに深く体重を預けた。
「こんな真っ昼間の表参道で、中学生が納豆味のスナック菓子を齧りながら営業活動かい? 随分と熱心なこった」
「有益な情報と時間は、場所を選びませんから」
レインはサクサクと咀嚼しながら、感情の読めない瞳で俺を真っ直ぐに見据えてくる。
左目の下の黒子。
中学生。
ボブカット。
そして、『情報屋のレイン』。
──おい、待て。
俺の脳細胞が、嫌なフラグを急速に組み立て始める。
ただでさえ俺の生きるこの世界は、ヤクザからプロの殺し屋、果ては裏社会のバケモノどもまでが跳梁跋扈する、カオスでイカれた世界だ。
もし、俺の『前世の記憶』にある、あの理不尽なデスゲームのキャラクターだとしたら。
(まさか……あの、理不尽なスマホアプリのデスゲームか?)
背筋をぞわりと冷たい汗が流れた。
もし彼女が『サンセットレーベンズ』に所属する情報屋のレインだとしたら、ただの中学生ではない。
世界関数(ラプラス)──物理法則すら先読みするチート級の異能(シギル)を持った、正真正銘のバケモノだ。
そんな殺し合いのデスゲームがこの世界線にまで混ざり込んでいるのだとしたら、念能力者として鍛えた俺でさえ……無事ではすまない。
全身の神経を研ぎ澄ます。
視覚、聴覚、そして肌を刺す気の流れ。
目の前の少女の微細な反応を、全身を巡る生体エネルギーの揺らぎを、一切見逃すまいと凝視した。
「……なぁ、あんた」
ドクン、と自分の心臓が跳ねる音を無視し、俺は努めて低い声でカマをかけた。
「『ダーウィンズゲーム』って、知ってるか?」
場に、ピンと張り詰めたような静寂が落ちた。
俺は真っ直ぐにレインの瞳を見据えたまま、その特定の単語を口にした。
同時に、両目にオーラを集中させる。
念の応用技『凝』。
視力を極限まで引き上げ、対象の微細な変化を読み取る技術だ。
俺は彼女の瞳孔の開き具合、表情筋の微細な強張り、首筋の脈拍、そして全身を巡る生体エネルギーの揺らぎを、一ミリの狂いもなく凝視した。
嘘をついたり、動揺を隠そうとしたりすれば、必ずどこかに綻びが出る。
レインは、うめえ棒を口に運ぼうとした手をピタリと止めた。
そして。
「……ダーウィンズ、ゲーム?」
純粋な疑問符を顔に浮かべ、パチクリと瞬きをした。
「ダーウィンの進化論をモチーフにした、ボードゲームか何かですか? すみません、私の知識の中には該当する名称が存在しませんね」
俺は、彼女の全身から発せられる情報を脳内で高速処理した。
視線の泳ぎ、ゼロ。
心拍数の乱れ、ゼロ。
発汗や筋肉の強張り、ゼロ。
何より、不気味に歪んだオーラの気配が一切ない。
(────ッッしゃあ!! 違う! デスゲームが存在する世界線じゃない!!)
俺はテーブルの下で、見えないガッツポーズをキメた。
危ないところだった。もしここで「なぜそれを?」なんて凄みのある声で返されていたら、俺は二乃を小脇に抱えて音速でこのテラス席から逃亡していただろう。
「あ、いや。ただのマイナーなゲームの話だよ。気にしないでくれ」
俺は心底ホッとしたように大きく息を吐き出し、全身の強張りを解いた。
異能を持たない、ただの超優秀な頭脳を持つ中学生の情報屋。
それならまだ、対処のしようはある。
「何か、警戒を解くための試金石でしたか?」
レインが、少しだけ面白そうに目を細めた。
「まあな。得体の知れないガキに背中は預けられないだろ」
「妥当な判断です。八雲さんのような慎重な方は、ビジネスパートナーとして信頼できます」
俺の僅かな態度の軟化を察したのか、レインはうめえ棒をモニュモニュと咀嚼しながら言葉を紡ぐ。
二乃の刺さるような視線を受けても全く動じないその胆力は、やはり一朝一夕で身についたものではない。
「それで? 有益な話ってなんだよ。俺たち、見ての通り休日のパンケーキデートを満喫中なんだけど。あんまり無粋な邪魔をすると、そこのおっかないお姉さんに怒られるよ?」
「ちょっと、誰がおっかないお姉さんよ」
俺の軽口に、二乃がテーブルの下で俺の脛を軽く蹴り飛ばしてきた。
痛い。
だが、そのやり取りを見たレインは、かすかに口角を上げて「ふふ」と笑った。
「お二人の仲の良さは、裏社会でも少し噂になっていますよ。揉め事処理屋の所長と、その優秀な右腕、と」
「……へえ」
二乃の目が、スッと細められた。
自分のことを隠し子か何かと疑っていた先程までのラブコメ的な空気は、完全に消え失せている。
「ですが、私はあくまで情報屋。ビジネスの種を探しているだけです。……本日は初対面の記念として、一つ無料のサービスをご提供しようかと」
「へぇ、無料ね。タダより高いものはないって言うけど?」
「情報屋としての、私の能力のデモンストレーションとでも思っていただければ」
レインは淡々と返し、まっすぐな視線を俺に向けてくる。
「何について知りたいですか? 揉め事処理屋の八雲さん」
俺の素性を完全に把握している上での接触。
なるほど、面白い。
俺は少しだけ姿勢を正し、値踏みするように彼女を見つめた。
「じゃあ、せっかくだ。最近ちょっと気になってる連中の動向について、教えてもらおうかな」
俺がそう切り出した瞬間。
テーブルの空気が、ふわりと香る甘さから、血と硝煙が混じる裏仕事のそれに一変した。
それを肌で感じ取った二乃が、楽しげに操作していたスマホの画面を完全に伏せ、テーブルの上にコトリと置く。
彼女の眼差しから休日のウキウキとした浮かれ気分が消え去り、揉め事処理屋の『相棒』としての真剣な光が宿った。
ただの女子大生でありながら、裏社会の空気に臆することなく真っ直ぐに向き合うその頼もしい横顔に内心で深く感謝しつつ、俺は探るような視線をレインに送る。
「『悪宇商会』。こいつらの今の動き、何か知ってる?」
前回の依頼で激突した、裏社会の巨大組織。
その名前を出した途端、レインの無表情な顔の奥底で、情報屋としての鋭い知性の光がキラリと瞬いた。
「悪宇商会、ですか。……ああ、なるほど、合点がいきました」
サクッ。
レインはうめえ棒を一口齧り、まるで天気の話でもするかのような淡々とした口調で語り始める。
「最近、裏社会のネットワークで、ある奇妙な噂が駆け巡っていました。悪宇商会に所属する『鉄腕』という異名を持つ凄腕の戦闘屋が、何者かによって完膚なきまでに粉砕された、と」
「……」
「その戦闘屋は、両腕を特殊な合金製の義手に改造していた巨漢だそうです。裏社会でも名の知れた彼を、武装した部下ごと一網打尽にした謎の存在。……噂では、一切の火器を使わず、素手でその鋼鉄の義手をスクラップに変えたと囁かれていますが」
そこで言葉を区切り、レインは真っ直ぐに俺の目を見据えた。
左目の下の黒子が、どこかミステリアスな凄みを醸し出している。
「あの鉄腕を病院送りにするなんて、普通では考えられません。……あの義手を粉砕するようなデタラメな真似をやったのは、貴方ですか? 八雲さん」
確信めいた視線。
俺の正体を、この中学生は完全に割り出している。
まあ、新宿のど真ん中で派手に立ち回ったんだ。優秀な情報屋の耳に入らないわけがないか。
それにしても、この短期間で点と点を繋ぎ合わせる情報収集能力の高さは本物らしい。
「さぁね。俺はただの平和を愛する一般市民だよ。鉄屑の解体業なんてやってないね。人違いじゃないの?」
俺はわざとらしく肩をすくめ、とぼけてみせる。
二乃も隣で「そうよ、この男は休みの日にゲームばっかりしてるただの引きこもりよ」と口裏を合わせてくれたが、レインは全く意に介さず、話を続けた。
「ご安心を。悪宇商会側は、現状この件を大きな問題にはしていません。彼らは極めてドライなビジネス組織ですから、末端の戦闘屋が負けたところで、すぐに大掛かりな報復の部隊を差し向けるような真似はしないでしょう。費用対効果が合わないと判断したのだと思われます」
その言葉に、俺は少しだけ胸をなでおろした。
ヤクザ映画のように、次から次へと刺客が送られてくるような面倒な展開は御免だ。
俺の目的は、美味しいご飯を食べて、二乃と平和な日常を過ごすことだけなのだから。
これ以上、血生臭い連中に絡まれるのは真っ平だ。
しかし、レインの次の言葉が、俺の淡い期待を無慈悲に打ち砕いた。
「ですが、裏を返せば、それは貴方の『実力』が裏社会で高く評価されつつある証拠でもあります」
「……は?」
「圧倒的な暴力は、それ自体が高い商品価値を持ちます。八雲さん、貴方がそのデタラメな実力を示し続ければ、いずれ必ず……強大な企業から『スカウト』の手が伸びるはずです」
スカウト。
つまり、「うちの組織に入って一緒に暴れようぜ!」という、最高に面倒くさいお誘いが来るということだ。
その単語が耳に届いた瞬間、俺の胃袋がギュルリと嫌な音を立てた。
これから食べるはずの休日のパンケーキの味が、胃酸でドロドロに焼けつくような最悪の感覚。
強大な組織からのスカウトだと?
ふざけんな。俺は揉め事処理屋だぞ。誰かの下について、命令されて命のやり取りをするなんて真っ平ごめんだ。
朝決まった時間に起きるのも嫌なのに、裏社会の企業戦士になれっていうのか?
冗談じゃない。絶対に嫌だ。断固拒否する。
俺は自分のペースで生きたいんだ。面倒な派閥争いや企業抗争なんて、真っ向からお断りだ。
俺が眉間を深く揉み解し、露骨に、それはもうこの世の終わりかのような嫌そうな顔を見せたその瞬間。
レインは、これまでの淡々とした空気を一変させた。
彼女はテーブル越しにスッと身を乗り出し、周囲の表参道の喧騒から切り離されたような、一段階落とした低い声で本題を切り出してきた。
「現在、国内の巨大企業……例えば、『テコット』のようなトップ企業が、水面下で有能な護衛や戦闘員をかき集めるために、我々のような情報屋と頻繁に接触を図っています」
……は? テコット?
俺の脳味噌が、聞き慣れた単語の処理に強烈なエラーを起こした。
いや待て。あれは派閥争いや社内恋愛を繰り広げる、ただのサラリーマン漫画じゃなかったか!?
そもそもなんで課長とか部長じゃなくて、巨大企業のトップに君臨して裏社会とコネクション持ってんだよ!
なんで大企業のトップが、情報屋を使って裏社会の武闘派をかき集めてるんだ!
企業戦士って言葉の定義がバグりすぎだろ! この世界じゃ、物理的に命のやり取りをするリアルな戦士になっちまってるのか!?
痛いのが嫌で裏社会の境界線に引きこもってる俺に、なんでそんな巨大企業の影が迫ってきてるんだよ!
「……テコットって、あの家電とか作ってる大企業だろ? なんでそんな表の世界のトップが、裏社会の武闘派を物色してるんだよ」
俺が引きつった笑いを浮かべて尋ねると、レインは感情の読めない無表情のまま、淡々と事実を述べる。
「巨大企業間の抗争は、時としてマフィアの縄張り争いよりも血生臭いものです。特に最近は、産業スパイの物理的な排除や、要人警護の需要が跳ね上がっています」
「…………」
「八雲さん。貴方のように、『圧倒的な暴力で、かつ相手を殺さずに綺麗に制圧できる』人間は、表の企業からすれば喉から手が出るほど欲しい最高の人材です。揉め事処理屋として名を上げつつある貴方の元にも……近いうちに必ず、大型の警護オファーがかかるはずです」
予言。
いや、これはもう確信を持った宣告だった。
俺は両手で顔を覆い、指の隙間から恨みがましく天を仰いだ。
ふざけんな。冗談じゃない。
朝決まった時間に起きるのも嫌で、スーツのネクタイを締めるのも嫌だから、こんな怪しげな自営業をやってるんだぞ。
今更、血で血を洗う大企業の派閥争いに巻き込まれるなんて真っ平ごめんだ。
次から次へと舞い込みそうな面倒事の連鎖に、俺は胃の裏側がギリギリと軋むのを感じながら、盛大に頭を抱えた。
そんな俺の絶望っぷりを見て、レインは初めて、ほんの微かに口角を上げた気がした。
「もちろん、巨大企業に飼い犬として縛られるのが嫌だというのであれば……私から別の提案もあります」
「……提案?」
「ええ。私が所属する『サンセットレーベンズ』というクランも、現在少し厄介な敵対組織との抗争を抱えておりまして」
レインは手元にスッと視線を落とし、懐から小さな手帳を取り出した。
「近いうちに、貴方のお力をお借りしたい。これは、今後のビジネスパートナーとしての関係構築を見据えた打診です」
ビリッ、と破り取られたメモ用紙が、俺の目の前に滑り出された。
そこには、裏回線と思しき電話番号と、暗号化されたメールアドレスが記されている。
なるほど。無料の情報提供の手数料は、この「貸し」というわけか。
本当に、タダより高いものはない。
「……前向きに善処はするけど、期待はしないでくれよ。俺は超絶忙しいからな。主に、録画した深夜アニメの消化とかで」
「ふふっ。わかりました。ご連絡をお待ちしております」
俺の情けない予防線に対し、レインは初めて、年相応の微かな笑みをこぼした。
そして、彼女は静かに椅子から立ち上がる。
「お姉さん。大切なお休みのデートを邪魔してしまい、重ねてお詫び申し上げます。……どうか、彼と良い一日を」
「えっ? あ、うん……」
突然の『デート』という単語と、気遣いに満ちた言葉。
二乃は毒気を抜かれたように瞬きをし、少しだけ頬を朱に染めて曖昧に頷いた。
レインはそのままきびすを返し、表参道の人混みへと歩き出す。
俺は、その小さな背中をジッと目で追った。
……異様だ。
彼女の身体からは『オーラ』の欠片も感じられない。武術の心得があるわけでもない、純度百パーセントの一般人のはずだ。
だというのに、彼女の歩き方には一切の無駄がなかった。
人波の切れ目、周囲の視線の死角、歩調の緩急。
それらをまるで計算し尽くしたかのように巧みに利用し、スッ……と、雑踏の奥底へと自然に紛れて姿を消してしまったのだ。
「……行ったわね。なんだったのかしら、あの子」
「さあな。裏社会の迷子ってとこじゃないか」
俺はエスプレッソを持ち上げながら、適当に相槌を打つ。
だが、俺の意識はレインの消えた雑踏ではなく、別の方向へと向けられていた。
──スッ、と。
テラス席から少し離れた街路樹の陰と、路地の角。
そこに息を潜めるように控えていた「二つの気配」が、レインの撤退に合わせて静かに動き出したのだ。
レインが席に着いた瞬間から、ずっと俺たちのテーブルを遠巻きにロックオンしていた二つの存在。
片方は、若年ながら芯の通った、鋭い眼差しを持つ少年の気配。
もう片方は、硝煙の匂いと無骨な体格の良さを感じさせる、歴戦の男の気配。
おそらく、あのサンセットレーベンズのメンバーだろう。
彼らは俺たちのテーブルには一切近づかず、ただ遠巻きにレインの安全を確保していただけらしい。
見えざる護衛の存在。
彼らもまた、レインが人混みに消えるのと連動し、一切の足跡を残さずに表参道の雑踏へと溶け込むように離脱していった。
「……なるほどね。優秀な番犬がしっかり張り付いてたってわけだ」
俺は残されたエスプレッソを飲み干し、ふう、と深く息を吐き出した。
怯えや動揺はない。
ただ、とんでもなく厄介な連中に目をつけられちまったという、シニカルな徒労感だけが全身にのしかかっている。
悪宇商会、巨大企業、そしてサンセットレーベンズ。
このカオスな街の裏側で、俺の平穏を脅かす火種は着実に大きくなりつつある。
あーあ。
マジで面倒くさい。全部放り出して、一日中ゲームだけして寝てたい。
「お待たせいたしました! 季節のフルーツと特製クリームのパンケーキでございます!」
その時。
弾むような店員の声と共に、俺たちのテーブルに、見上げるような高さの華やかな皿が置かれた。
「わぁっ……! すっごい美味しそう!」
向かいの席で、二乃が目をキラキラと輝かせ、声を弾ませた。
焼きたての生地から立ち上る熱気。
幾重にも重なったフワフワのパンケーキの上に、雪山のように盛られた純白の生クリーム。その周囲には、イチゴやベリー、色鮮やかなフルーツが宝石のように散りばめられている。
そして、鼻腔をくすぐるメイプルシロップとバターの濃厚で甘い香り。
つい先程までの、血と硝煙の混じった裏社会の空気など、この暴力的なまでの甘い匂いと色彩の前に一瞬で消し飛んでしまった。
「ねぇ八雲! 早く写真撮って! クリームが溶けちゃう!」
「はいはい。ほら、笑って」
スマホを構え、レンズ越しに相棒の姿を捉える。
春風に揺れるペールブルーのスカート。気合の入った桜色のリップ。
何より、目の前のスイーツに心を奪われ、屈託のない眩しい笑顔を浮かべる等身大の女の子の姿。
カシャッ、と。
電子音が響き、最高の一枚が保存される。
「よし、完璧。じゃあ冷めないうちに食おうぜ」
「ふふっ。あーん、してあげようか?」
「別に頼んでないけど」
「相変わらず素直じゃないわね! ほら、口開けなさい!」
二乃は俺の軽口を無視して、フォークにたっぷりのクリームとイチゴを乗せ、強引に俺の口元へ突き出してきた。
有無を言わさぬ圧に負け、俺は渋々口を開ける。
──甘い。
脳髄がとろけるような糖分と、ベリーの爽やかな酸味が口いっぱいに広がり、胃の裏側に溜まっていた厄介事の重圧をフワリと軽くしてくれた。
美味しいものを食べて、他愛のない冗談を言い合う。
ただそれだけの、くだらなくて、ありふれた休日のひととき。
(……どんな厄介な火種が降ってこようが、知ったことか)
俺は甘いパンケーキを咀嚼しながら、目の前で楽しそうに笑う相棒を見つめた。
どんなバケモノが相手だろうと、どれだけ理不尽が押し寄せてこようと。俺は、大切な相棒のこの眩しい笑顔だけは曇らせるわけにはいかない。