現代日本に転生したけど、何かおかしくない? 作:匿名のななし
……なぁ、二乃ちゃん。
俺たちのこのボロ事務所って、いつから経団連の秘密会議室になったんだっけ?
俺は脳内で盛大な現実逃避を繰り広げながら、目の前の光景に引きつった笑いを浮かべるしかなかった。
天井には雨漏りの愛おしいシミ。床のクッションフロアは一部剥がれかけている。
そんなうらぶれた新宿の雑居ビルの一室に、今、明らかに場違いな「漆黒の壁」が出来上がっていた。
耳にクリアチューブのインカムを光らせた、見るからにその道のプロフェッショナルである屈強なエリートSPたち。
彼らがミリ単位の隙もなく全方位を警戒するその中心で、色あせた来客用のパイプ椅子に、一人の初老の紳士が悠然と腰を下ろしていた。
「……なるほど。ここが噂の『揉め事処理屋』か。悪くない」
白髪交じりの整ったオールバック。仕立ての良さが素人目にもわかるスリーピースのスーツ。
そして何より、ただそこに座っているだけで周囲の空気を掌握してしまうような、圧倒的な大人の風格。
巨大コングロマリット企業『テコット』のトップ、島耕作その人である。
(……おいおい、マジで言ってるのか)
前回の情報屋のレインが残していった嫌な予言が、まさかこんな最速で、しかも最悪のスケールで的中するとは。
俺は心の中で盛大に頭を抱えた。
大企業のトップが、なんで裏社会の境界線で細々とやってる自営業者のところに極秘で直接足を運んでくるんだ。
アンタの世界は、派閥争いとか社内恋愛とか、そういうもっと表向きのサラリーマン的な戦場だっただろ。いつから物理的に命のやり取りをするハードボイルドな世界線に足を踏み入れたんだよ。
「突然の訪問を詫びよう、八雲くん。だが、表の警備会社や警察には頼めない『身内の事情』があってね」
島耕作が、深く響くバリトンボイスで淡々と事情を語り始めた。
今夜、都内の超高層ホテルで開催される財界トップのシークレットパーティー。
そこで行われる極秘の提携話を目障りに思う社内外の敵対派閥が、どうやら海外のプロを雇って暗殺を企てているらしい、と。
「……つまり、俺たちにそのパーティーの護衛になれってことですか」
「君たちの界隈での噂は聞いている。いざという時、私の専属SPたちと連携し、確実に脅威を排除できるイレギュラーな人材が必要なんだ。……もちろん、報酬は弾む」
コトリ、と。
島の傍らに控えていた秘書が、ローテーブルの上にアタッシュケースを置き、カチャリと留め金を開いた。
一目見てわかる。札束がレンガのように詰まった、狂った金額の提示だ。
「……お引き受けしますわ、島会長」
俺が「痛いし面倒だからパス」と、喉まで出かかった断りの言葉を口にするより早く、隣で麦茶を出していた相棒が、秒速でそのケースをガッチリとホールドした。
「ちょっ、おま……二乃!」
「なによ。いつまでもこんな雨漏りするボロ事務所に居座るつもり? 私だって、もっと綺麗でオートロックが付いてるお城みたいな新居に引っ越す夢があるの!」
二乃が俺をジロリと睨みつける。
その瞳の奥には、「断ったら、あんたの録画機に溜まってる深夜アニメ、全消去するわよ」という明確な脅迫の光が宿っていた。
……逆らえない。俺の胃袋と生活インフラ、そして娯楽の命綱は、完全にこの女子大生に掌握されているのだ。
「ふふっ。しっかりしたお嬢さんだ。それに……とても美しい」
ふいに、島耕作が目元を優しく細め、二乃を見つめて微笑んだ。
その瞬間、事務所の空気がフワリと変わった。
ただの称賛ではない。数多の修羅場と女性関係を潜り抜けてきた男だけが放つ、無自覚かつ暴力的なまでの大人のフェロモン。
「っ……」
二乃が一瞬、意表を突かれたように頬をサッと赤く染めた。
おい待て。
なんだその反応。俺の相棒が、初老のダンディズムに当てられているだと?
俺の胸の奥で、言語化できないモヤモヤとした焦りがチクリと跳ねた。
だが、次の瞬間。
「……お褒めいただき光栄ですけど」
二乃はすぐにいつもの強気な笑みを取り戻すと、スッと俺の隣にすり寄り、俺のジャケットの袖口をこれ見よがしにキュッと引っ張った。
「残念ながら、私の趣味は……こういう、手のかかるヘタレ男なんで」
俺を見上げて、小悪魔のように微笑む二乃。
その強烈な牽制と、真っ直ぐな好意の表明。
(……あー、もう。マジで心臓に悪い)
俺はわざとらしくため息をつきながら、前髪をガシガシと掻きむしって顔の熱をごまかした。
「はははっ! これは一本取られたな。実に……素晴らしい相棒だ」
島耕作が、不快になるどころか本当に楽しそうに肩を揺らして笑う。
その粋な振る舞いに、俺は盛大なため息をもう一つ追加するしかなかった。
……やれやれ。これだから大物ってやつは苦手なんだ。
* * *
数日後。
都内の一等地、雲を見下ろすような超高層ホテルの最上階。
厳重なセキュリティゲートを抜け、俺と二乃はシークレットパーティーの会場となる大宴会場のバックヤードに立っていた。
「どう? 所長さん。私のスーツ姿」
インカムのイヤーピースを耳に押し込みながら、二乃がくるりとその場でターンしてみせた。
普段の私服の可愛らしさとは打って変わって、身体のラインにぴったりとフィットした漆黒のタイトスーツ。キリッとまとめたポニーテールが、彼女の勝ち気な美貌を一層引き立てている。
完全に「デキるエージェント」のオーラだ。
「……似合いすぎてて怖いよ。どこの凄腕スパイだ」
「ふふん。あんたこそ、だらしない姿勢で立ってないでシャキッとしなさいよね」
二乃が俺のネクタイをキュッと締め直し、襟元を整える。
俺も渋々、用意された黒のスーツに身を包んでいた。
動きにくいことこの上ないが、今日ばかりは裏社会の揉め事処理屋ではなく、表の財界トップを守るSPとしてのフォーメーションに組み込まれているのだ。
『──アルファ、会場へ入られます。各員、配置につけ』
インカムから、島専属のSPチーフの冷徹な声が飛ぶ。
俺と二乃は顔を見合わせ、軽く頷き合った。
日常のラブコメはここまでだ。
俺は深く息を吐き出し、全身の細胞を『仕事モード』へと強制的に切り替える。
皮膚の表面を覆う、極薄の『纏』。
周囲の空気の僅かな揺らぎ、温度、匂い。そのすべてを捉える感覚の網を、ゆっくりと広げていく。
重厚なオーク材のダブルドアが、静かに開け放たれた。
シャンデリアの眩い光。
オーケストラの優雅な生演奏。
そして、高級なシャンパンと香水の匂いが入り混じる、息が詰まるほど豪奢な空間。
日本経済を動かすVIPたちが談笑するその中心へと、島耕作が悠然たる足取りで進み入っていく。
俺たちSP陣は、島の周囲に目立たないよう、しかし絶対の死角を作らない完璧な多角形陣形を構築して随伴した。
誰もが笑顔でグラスを傾ける、平和で華やかな大人の社交界。
だが。
(────ッ!)
会場に足を踏み入れたその瞬間。
俺の『纏』の表面が、チリチリと焼け焦げるような強烈な不快感を捉えた。
狂っている。
この空間は、異常だ。
数百人がひしめく巨大なホール。その華やかな喧騒の裏側に、完全に質の異なる『三つの殺気』が渦巻いている。
一つ。
音もなく、匂いもなく、這い寄る毒蛇のように冷たく研ぎ澄まされた、純度百パーセントの『暗殺者』の気配。
二つ。
むせ返るような妖艶な香りを纏いながら、獲物の死角を舐め回すように狙う、狡猾な『泥棒』の気配。
三つ。
隠す気すらない。ただ標的の首を刎ね飛ばすことだけを目的とした、剥き出しの『ヒットマン』の気配。
──冗談じゃない。
どこのどいつだ。この鉄壁のセキュリティを抜け、映画のロケでもやってるのかってレベルのカオスな刺客どもを同時に送り込んできたバカは。
「……二乃。チーフ」
俺は唇をほとんど動かさず、インカム越しに極めて低い声で警告を発した。
『どうした、遊撃(ヤクモ)』
「ヤバいのが三匹、いや三組入り込んでる。……しかも、互いに連携してるわけじゃない。バラバラの組織が、最悪のタイミングで一斉に動き出そうとしてるぞ」
俺の言葉に、インカムの向こうでSPチーフが鋭く息を呑む気配がした。
隣を歩く二乃も、即座に表情を引き締め、視線だけを鋭く巡らせる。
島耕作が、ある大物政治家と笑顔で握手を交わし、談笑を始めた。
その、一瞬の気の緩み。
スッ、と。
群衆の中から、二つの影が動いた。
一人は、右前方から。
仕立ての良さそうなドレスに身を包んだ、金髪の重役夫人。
その所作には一切の不自然さがなく、周囲のSPたちの警戒網すらもスリ抜けるように、滑らかに島のグラスへと接近してくる。
だが、俺の目は騙されない。その完璧な変装の奥に潜む、冷酷な魔女の笑みを。
もう一人は、左後方から。
こちらは隠す気すらゼロだ。背中が大きく開いた真紅のドレスを着こなす、暴力的なまでのプロポーションを誇る美女。
むせ返るような妖艶な香水を漂わせながら、男たちの視線を釘付けにし、優雅な足取りで島へと接近してくる。
──来る。
俺の脳内で、警鐘がレッドゾーンを振り切って鳴り響いた。
「あら、島会長。素晴らしい夜ですわね」
先に仕掛けたのは、右前方から接近していた金髪の女だった。
重役夫人としての完璧な所作。だが、そのミステリアスな微笑みの奥には、千の顔を持つ魔女のような冷酷さが潜んでいる。
ふわりと上品な笑みを浮かべ、島耕作の正面へと滑り込む。
その手には、自身のシャンパングラス。
乾杯を促すようにグラスを掲げた、その刹那。
彼女の指先に仕込まれた精巧な細工から、無色透明の液体が一滴、弧を描いて島のグラスへと落下しようとした。
遅効性の、猛毒。
それも、最新鋭の科学技術で作られた検死すら困難な代物だろう。
しかし。
女の指先からその一滴が放たれるより、ほんのコンマ数秒、早く。
「会長。少し、お酒のペースが早すぎますわ」
スッ、と。
島耕作の隣に控えていた漆黒のスーツ姿の二乃が、流れるような動作で島の腕に手を添え、そのグラスを引いたのだ。
「……ん?」
「明日の朝の会議に響いては困ります。こちらのお水に切り替えてくださいな」
二乃は完璧な秘書の笑みを浮かべたまま、島のグラスを自身のトレイへと移し、代わりにミネラルウォーターのグラスを持たせた。
落ちるはずだった毒の一滴は、空を切って床の絨毯へと吸い込まれ、微かな変色を残して消え去る。
(……ナイスだ、二乃!)
俺は心の中で相棒に盛大な拍手を送った。
料理の達人である二乃の卓越した嗅覚と、念の修行によって培われた『微かなオーラの揺らぎ』を察知する感覚。
暗殺者が放った致死性の匂いを、彼女は瞬時に看破し、極めて自然な所作で島の命を救ったのだ。
だが、安堵している暇はない。
右の毒牙を二乃が防いだ、まさにその直後。
左後方から接近していた真紅のドレスの美女が、島の背中へと妖艶に身を擦り寄せていた。
「うふふ……島会長。私、あなたにどうしてもお見せしたいものがあって……」
甘く、鼓膜を直接撫で回すような蕩ける声。
彼女の豊満な胸元が島の腕に触れる。並の男なら、その一瞬で思考がショートして完全に骨抜きにされるだろう。
だが、彼女の本当の狙いは色仕掛けではない。
島の背中に回された彼女の左手に、超小型のデバイスが握られているのを俺の目は確かに捉えていた。さらに、妖艶に微笑む唇の端から、微かに危険な化学物質の匂い──至近距離で対象の意識を刈り取るための、催眠ガスの気配を察知する。
機密データの奪取と、ターゲットの無力化を同時に狙う気か。
息を吐くように同時並行で行われる、超一流の泥棒の仕事。
──チッ。
俺は瞬時に『絶』へと切り替え、周囲の空間から完全に自身の気配を消し去った。
摩擦を無視した、無音の踏み込み。
妖艶なピンク色のルージュを引いた唇がわずかに開き、カチッ、と微かな仕掛けの起動音が鳴る。
同時に、美女の左手が島の懐へデバイスを忍ばせようとした、その瞬間。
「……ッ!?」
真紅のドレスの美女が、微かに息を呑んだ。
彼女の視界の死角。
いつの間にか、俺は女の背後へとゴーストのように張り付いていた。
「……お姉さん。香水がキツすぎるよ。悪酔いしそうだ」
俺の左手が、デバイスを握った細い手首を、蛇のように滑らかに下から絡め取る。
ギリッ。
力任せではない。関節の可動域をミリ単位で計算し、最小限の力で腱を極める『活人拳』の体捌き。
その激痛に、しなやかな指先からカチャリと小さなデバイスが零れ落ちる。
俺はそれを器用に靴の爪先で受け止め、絨毯の上へ音もなく滑らせた。
そのまま、俺の右手は彼女の顎を下から跳ね上げるように、ピタリと添えられている。
プシュウゥゥッ!
ルージュから放たれた無色透明の催眠ガスは、島耕作の顔面ではなく、真上のシャンデリアへ向かって虚しく噴射された。
「……あら」
「……坊や、随分と乱暴な真似をしてくれるじゃない」
毒殺を阻まれた金髪の魔女と、ハッキングとガスを完封された真紅のドレスの泥棒。
互いの存在を知らぬまま仕掛けた二つの凶牙は、俺と二乃の阿吽の呼吸によって、完全に無力化されていた。
島耕作は、両脇で起きている高度な暗殺の攻防に全く気づいていない──ように見える。
いや、もしかしたら気づいていて、あえて乗っているのか。彼はただ「やれやれ、美しい女性に囲まれるのは悪い気はしないがね」とでも言いたげに、無自覚な大人のフェロモンを漂わせて苦笑しているだけだ。
(……大物すぎるだろ、このオッサン)
俺は内心で盛大に突っ込みながら、女の手首を極めたまま、冷徹な視線を両方の刺客へと送った。
これ以上の実力行使に出るなら、ここで叩き潰す。
俺の目から放たれた静かな殺気を受け、二人のプロフェッショナルは、即座に「想定外の脅威」の存在を正確に測り切った。
「……ふふっ。A Secret makes a woman woman.」
金髪の女が、妖艶な笑みを深くした。
俺と二乃が放つ、ただのSPではない特異な空気感。
これ以上の固執は無意味にして危険。そう判断した彼女は、グラスを掲げる優雅な所作を崩すことなく、ふわりと後ろへ下がる。
そして、周囲のVIPたちの会話の輪の中へ、文字通り影のように溶け込んで消え去っていった。
(……マジで気配が消えた。大した女傑だよ)
俺は心の中で忌々しく毒づきながら、手元の真紅のドレスの女へ意識を戻す。
腕を極められている彼女だが、その瞳には恐怖の色など微塵もない。
「ごめんなさいね。私、こういう痛いのは趣味じゃないの」
「奇遇だね。俺も痛いのは大嫌いなんだよ」
「ふふっ。じゃあ……お別れね」
謎の美女が、魅惑的なウインクを投げた。
次の瞬間、彼女はピンヒールの踵で、自身のドレスの裾に隠されていた小さなボール状の物体を踏み砕いた。
カァァァァァァァァンッ!!
目と耳を同時に焼き焦がすような、強烈な閃光と爆音がパーティー会場を包み込んだ。
軍用のフラッシュバン。
「きゃあぁぁっ!」
「な、なんだ!?」
会場にひしめくVIPたちが一斉に悲鳴を上げ、目を押さえてしゃがみ込む。
俺は咄嗟にオーラを網膜に集中させて視力を保護したが、その一瞬の空白で十分だった。
スルリと、女の腕が俺の関節技から信じられない柔軟さで抜け出す。
「バイバァイ! 次は二人きりの時に遊んであげるわ!」
閃光の中で、真紅のドレスが夜の蝶のように舞う。
彼女はテラスへ向かって一直線に駆け出し、巨大なガラス扉をヒールで蹴り破った。
パリンッ! という派手な破砕音と共に、東京の夜景が広がるテラスへ飛び出す。
彼女の背中から小型のパラグライダーがシュバッと展開し、そのまま夜の闇の中へ華麗に滑空していく姿が、残像のように目に焼き付いた。
「八雲! 大丈夫!?」
「ああ、こっちは無傷だ! 二乃、島会長を──」
目をシパシパとさせながら駆け寄ってきた二乃に、俺は手短に安全確認を行う。
あの女泥棒が残していったフラッシュバンの強烈な残像が、まだ網膜に焼き付いてチカチカと明滅している。
毒殺の魔女に、色仕掛けの泥棒。
互いの存在すら知らずに同時多発した二つの凶牙を、俺と二乃のコンビネーションでどうにか無傷で退けた。
これで一息つける。そう安堵の息を吐き出そうとした、まさにその時だった。
俺の『纏』の表面を、ヤスリで直接削り取られるような、ザラついた不快な殺気が撫でた。
先程までのスマートな暗殺や、華麗なスパイ活動とは全く違う。
ただ純粋な、剥き出しの「暴力」の気配。
ドゴォォォォォォォンッ!!!
閃光と硝煙が漂う大広間の入り口。
何重ものロックがかかっていたはずの重厚なオーク材のダブルドアが、内側から砲弾でも撃ち込まれたかのように、物理的に粉砕されて吹き飛んだのだ。
「ひぃっ!?」
「な、なんだ!? テロか!?」
会場にひしめく財界のVIPたちが、弾け飛んだ木端と轟音に悲鳴を上げ、蜘蛛の子を散らすようにパニックに陥る。
オーケストラの生演奏は完全に止まり、シャンパンのグラスが床に落ちて砕ける音が連続して響き渡った。
(……おいおい。マジで勘弁してくれよ)
俺は心の中で、今日一番の深いため息をついた。
胃の裏側がキリキリと痛む。
粉砕された扉の向こう、立ち込める硝煙と粉塵の中から、カツン、カツンとヒールの音が響いてくる。
深いスリットの入った、妖艶なチャイナドレス。
長い黒髪を束ね、切れ長の瞳には獲物をいたぶるような冷酷な光が宿っている。
しかし、何よりも異様なのはその両手だ。
彼女の両手には、それぞれ長い紐が結びつけられた、湾曲した分厚い刃──銀色に鈍く光る『ククリ刀』が握られていた。
「──テコットの会長サマ、ご臨終の時間ですヨ」
たどたどしく、独特なイントネーションの日本語。
隠密? 変装? 毒?
そんなものはハナから知ったことではないと言わんばかりの、堂々たる死の宣告。
純度百パーセントの、真っ当な『ヒットマン』のお出ましだ。
「……冗談じゃない。一体どこからこんなバケモノどもを引っ張ってきたんだよ、敵対派閥の連中は」
俺はネクタイを乱暴に引き緩めながら、ボヤいた。
変装の魔女に、神出鬼没の女泥棒、そして今度はイカれた台湾人ヒットマンか。
どいつもこいつも、一国を傾けかねないレベルの規格外の女狐ばかりじゃないか。島耕作の命の値段はどう計算したらこんなオールスター戦になるんだ。
『各員、対象を保護しろ! 撃て! 撃てェッ!』
インカムからチーフの怒声が響く。
島を取り囲んでいたエリートSPたちが、一斉にジャケットから拳銃を抜き放ち、チャイナドレスの女へ向けて発砲した。
パンッ! パパンッ!
乾いた発砲音が会場に響く。
だが。
「ハッ。そんな玩具、アタシには当たらないネ」
チャイナドレスの女の身体が、物理法則を無視したような異常な柔軟さでブレた。
風に舞う柳のように。あるいは、踊り狂う刃の独楽のように。
彼女は両手のククリ刀を猛烈な速度で旋回させながら、放たれた銃弾の雨を紙一重で、いとも容易く躱してのける。
そして、一気に間合いを詰めてきた。
「じゃあ、死ぬですヨ!!」
ヒュンッ!!
空気を切り裂く鋭い風切り音。
女の両手から、二振りのククリ刀が猛烈な速度で投擲された。
刃の尻に結びつけられた紐が蛇のようにうねり、予測不能な軌道を描きながら、一直線に島耕作の首へと迫る。
並の動体視力では、刃の煌めきを捉えることすら不可能な神速の一撃。
SPたちには、全く反応できていない。
「……島会長! 頭を!」
「……!」
背後で二乃が鋭く叫び、島を庇おうとする気配がした。
だが、俺は振り返らない。
体内のオーラのバルブを全開にし、両足の筋肉に爆発的なエネルギーを注ぎ込む。
──無音の踏み込み。
俺は摩擦を無視した異常な初速で、島耕作の斜め前へと躍り出た。
迫り来る二つの凶刃。
交差して首を刈り取ろうとするその冷たい鉄の塊に対し、俺はオーラを極限まで高密度に圧縮した両手の手刀を、下から上へと振り抜いた。
ガァァンッ!!
鋼同士が激突したような、甲高く硬質な金属音が会場に響き渡った。
火花が散る。
俺の手刀と激突した二振りのククリ刀は、その圧倒的な質量と硬度に弾き飛ばされ、悲鳴を上げるように軌道を上空へと逸らされた。
「……ナニッ!?」
ヒットマンの切れ長の瞳が、驚愕に見開かれた。
自慢の必殺の投擲を、素手の手刀で、しかも無傷で弾き落とされるなど、彼女の豊富な殺しの経験の中でも想定外の事態だったはずだ。
「悪いなお姉さん。今日は俺たちが盾なんでね。その物騒な刃物はしまってくれないか」
俺は前衛で両腕を下ろし、極薄の『纏』を漂わせながら、飄々と言い放つ。
だが、目の前のヒットマンは、伊達に裏社会を生き抜いてきたわけではなかった。
「……フンッ。ただの雇われSPじゃないですねェ、アンタ。素手でアタシの刃を弾くなんて、化け物ですヨ」
彼女は舌打ちを一つすると、手元の紐を強く引き、弾き飛ばされたククリ刀を空中で手元へと引き戻す。
その瞬間、彼女の視線が俺の顔面から、スッと「上」へと移動した。
俺の頭上。
いや、正確には俺の背後にいる、島と二乃の頭上。
(──ッ!! しまった!)
俺の研ぎ澄まされた直感が、最悪のシナリオを瞬時に弾き出した。
彼女は、俺という規格外の防壁を「正面から突破するのはリスクが高い」と、コンマ一秒で判断を下したのだ。
「なら……これで潰れるといいですヨ!!」
チャイナドレスの女が、引き戻したククリ刀の軌道を空中で強引に捻じ曲げた。
刃の切っ先が向かったのは、俺でも、島でもない。
俺たちの頭上──天井から吊るされた、総重量数百キロはあろうかという、巨大なクリスタルガラスのシャンデリア。
それを天井と繋ぎ止めている「太い鋼鉄の金具」だった。
ギギィンッ!!
変幻自在、かつ正確無比な一撃。
凄まじい遠心力を乗せた分厚いククリ刀の刃が、シャンデリアを支えていた金具の基部に深く食い込み、完全に砕き割った。
メキッ……バキィィィィンッ!!!
命綱を失った巨大な光の塊が、断末魔のような音を立てて崩落を始める。
数百、数千の鋭利なクリスタルガラス。
それが巨大な質量と化して、逃げ場のない島と二乃の頭上へと、文字通りの『ガラスの雨』となって容赦なく降り注ぐ。
「きゃあぁぁぁぁっ!!」
「会長ォォッ!!」
周囲のVIPたちとSPの絶叫が交錯する。
「くそッ……!!」
俺は悪態を吐いた。
ククリ刀の迎撃のために前衛へ大きく踏み込んでいたため、俺の体勢はわずかに前傾している。
どんなに初速の速い俺のステップでも、背後への即座のカバーには、ほんのコンマ数秒、間に合わない。
俺の絶対の防御範囲から、二乃と島が外れてしまった絶体絶命の瞬間。
シャンデリアの影が、二人の頭上を完全に覆い尽くす。
万事休すか。
そう思った、俺の視界の端で。
「──八雲の掃除が終わるまで、頭を下げてなさい!!」
パニックに陥るどころか、一切の怯えを見せない気丈な怒声が響いた。
見れば、漆黒のスーツを着こなした俺の相棒──二乃が、島耕作を背後に庇うように立ち塞がっている。
その顔には、恐怖の色など微塵もない。
彼女の美しい瞳に宿っているのは、絶対の窮地を切り抜けるための、烈火のような決意の光だった。
二乃は咄嗟に、傍らにあった宴会用の丸テーブルへと手を伸ばし、その上に掛けられていた分厚い純白のテーブルクロスを、力任せに勢いよく引き剥がした。
巨大なガラスの雨が、彼女たちの頭上へと降り注ぐ──その直前。