現代日本に転生したけど、何かおかしくない? 作:匿名のななし
数百キロという致死の質量を持ったクリスタルガラスの塊が、断末魔のような軋み音を立てて崩落してくる。
視界を埋め尽くす、無数の鋭利な破片。
それは逃げ場のない島耕作と、彼を庇うように立ち塞がる中野二乃の頭上へと、容赦のない『ガラスの雨』となって降り注いでいた。
(──くそッ、間に合え!)
俺は心の中で毒づきながら、前傾した体勢から強引に背後へ踏み込もうとした。
だが、どんなに俺の初速が常軌を逸していようと、物理的な距離と重力による落下の速度には、ほんのコンマ数秒だけ届かない。
俺の作り出した絶対の防御網から、二人が外れてしまった絶体絶命の瞬間。
バサァッ!!
パニックに陥る周囲の悲鳴を切り裂くように、力強い布の擦過音が響いた。
視界の端で、漆黒のスーツを着こなした二乃が動いた。
彼女はすぐ傍にあった丸テーブルから、分厚い純白のテーブルクロスを力任せに勢いよく引き剥がすと、そのまま島を背後に庇い込むようにして、自らの頭上へと大きく広げたのだ。
(……布!? ばか、そんなもんじゃ防げな──!)
俺の悲痛な思考が形になるより早く。
二乃の全身から、微弱だが確かな『オーラの熱』が爆発的に立ち昇った。
ただの布切れだったテーブルクロスが、一瞬にしてピンと張り詰め、不自然なほどの硬質さを帯びる。
──念の応用技術、『周』。
自身のオーラを触れている物体に纏わせ、その強度を劇的に引き上げる技術。
俺が護身用にと基礎だけは教えていたものの、まだ実戦で使えるレベルではないはずだった。それを彼女は、この極限の死地において、己の生存本能と『相棒の死角をカバーする』という強烈な意志だけで、強引に成立させてみせたのだ。
直後、数百ものクリスタルガラスの破片が、純白のテーブルクロスへ激突した。
ガギンッ! カカァァァンッ!!
布が裂ける音など、一切しなかった。
響き渡ったのは、まるで分厚い鋼鉄の盾をハンマーで乱打しているかのような、甲高く硬質な金属音の連続。
二乃のオーラを強制的に纏わされたテーブルクロスは、鋭利なガラスの雨をことごとく弾き返し、砕き割り、無害な破片へと変えて床の絨毯へと滑り落としていく。
ガラスの雨が止むまでの、永遠にも似た数秒間。
二乃は歯を食いしばりながらも、一歩も引かずにその『鋼鉄の傘』を支え切り──。
ザザァッ、と。
最後の破片が床に落ち、大広間に再び不気味なほどの静寂が戻った。
「……信じらんねぇ」
俺は前衛で体勢を立て直したまま、呆然と呟いていた。
布の下から、無傷の二乃がゆっくりとテーブルクロスを下ろす。
彼女の後ろには、同じく傷一つ負っていない島耕作の姿があった。
「……素晴らしい。見事な機転と……不思議な力だ」
島耕作が、深く響くバリトンボイスで感嘆の息を漏らす。
周囲のVIPたちがパニックで床に這いつくばり、悲鳴を上げているというのに。この初老の大物は、数百キロのガラスの雨を浴びせられそうになった直後だというのに、その手に持ったミネラルウォーターのグラスから、一滴の水すらこぼしていなかった。
ただ静かに、二乃の超常的な防御力と胆力に、大人の余裕と色気を含んだ視線を送っている。
(……マジで大物すぎるだろ、このオッサン)
俺が内心で盛大に突っ込んでいると、二乃は布をバサリと床に捨て、キリッとした表情で島を振り返った。
「お褒めいただき光栄ですけど、島会長。まだ頭は上げないでくださいね」
「ほう?」
「うちの所長が、あそこの『ゴミ掃除』を完璧に終わらせるまでは、私の後ろに隠れていてください」
二乃は姿勢を崩さず、前衛に立つ俺の背中を見つめたまま、極めて強気な口調で言い放った。
声に、微かな震えもない。
恐怖にすくむどころか、俺への絶対的な信頼をベースにした、完璧な『相棒』としての立ち回り。
(……まったく。本当に、頼もしすぎるだろ)
俺は心の中で大きく安堵の息を吐き出すと同時に、首の後ろをガシガシと掻いた。
背後の安全は、二乃が完璧に確保してくれた。
ならば、俺のやるべき仕事はただ一つだ。
「チッ……しぶといネ……!」
土煙の向こう側から、忌々しげな舌打ちが聞こえた。
チャイナドレスの女が、手元の紐を強く引き、空を舞っていた二振りのククリ刀を手元へと引き戻す。
落下物による圧殺という奇策を防がれ、彼女の瞳には明確な苛立ちと、次なる殺意が宿っていた。
俺はネクタイの結び目を少しだけ緩め、深く息を吸い込む。
「さて……。うちの相棒に危ない真似をさせた罪は、高くつくぜ」
極薄の『纏』を皮膚の表面に漂わせたまま、俺はゆっくりと、女へ向かって歩みを進めた。
怒りも、焦りも、そして敵への殺意すらも、意識の奥底へと完全に沈め込む。
俺から発せられる気配が、春のそよ風のように無害で、輪郭の曖昧なものへと変貌する。
「……ハッ! 随分と隙だらけの構えですネ!」
チャイナドレスの女が獰猛な笑みを浮かべ、両手のククリ刀を胸の前で交差させた。
手首のスナップ。そして、全身のバネ。
彼女の細くしなやかな肉体が爆発的に躍動し、二振りの銀刃が猛烈な速度で射出された。
ヒュンッ! ヒュンッ! ヒュンッ!!
空気を切り裂く鋭利な風切り音が、連続して鼓膜を叩く。
ただの投擲ではない。刃の柄に結びつけられた紐を、彼女は手品のような手捌きで操っていた。
鞭のようにしなる紐の張力が、ククリ刀の軌道を空中で不規則に捻じ曲げる。
右から左へ。上から下へ。
巨大な質量を持った刃が、まるで意思を持った銀色の蛇のように、予測不能な角度から俺の急所──首、心臓、手首、足首──を執拗に狙って殺到する。
常人なら、その軌道を追うことすらできずに切り刻まれるだろう。
俺の後方で、二乃が息を呑む気配がした。
だが。
(……見え見えなんだよ、お姉さん)
俺は心の中で盛大なため息をつきながら、飛来する刃の嵐の中を、ゆっくりと歩き出した。
受け止める必要すらない。
視線を刃そのものに向けるのではなく、暗殺者の肩の筋肉の収縮、重心の移動、そして何より、彼女から放たれる『殺気のベクトル』を読む。
右の首筋を狙う一撃。
俺は歩調を変えず、ほんの数センチだけ首を左に傾けた。
ギィンッ、と。
鋭利な刃が、俺の耳の横を風圧と共にすり抜けていく。
間髪入れず、足元をすくうように下から跳ね上がってくる二撃目。
俺は足首を軽く返し、つま先をミリ単位で浮かせる。
靴の裏を擦るようにして、銀刃が空を切る。
首を傾げ、肩を僅かに引き、半歩だけ身体をズラす。
ただそれだけの、極限まで無駄を削ぎ落とした最小限の体捌き。
俺は一切のオーラを防御に回すことなく、女が繰り出す必殺の斬撃の嵐の中を、まるで雨粒の間を縫って歩くように、紙一重でくぐり抜け続けていた。
「ナ、ナニッ!? なぜ当たらないですカ!」
ヒットマンの余裕のあった顔に、明らかな焦燥の色が浮かんだ。
手元の紐を引く速度が上がり、斬撃の密度がさらに増す。
(……そりゃそうさ)
俺は迫り来る刃を顔面スレスレでかわしながら、過去の理不尽極まりないトラウマを思い出していた。
梁山泊の武器の達人・香坂しぐれ。
あの無表情な達人が放つ、殺気すら完全に消し去った神速の刃に比べれば。
あるいは、アパチャイが手加減を忘れて放ってくる、かすっただけで内臓が破裂するような暴風の蹴りに比べれば。
この台湾人ヒットマンの攻撃は、あまりにも『素直』すぎた。
筋肉の連動も、殺気の乗せ方も、次にどこを狙うかが手に取るように分かってしまう。
おまけに、俺の『纏』を容易く貫通できるほどの気も乗っていない、ただの物理的な鉄の塊だ。
「チョコマカと……! いい加減に、死ねェッ!!」
苛立ちを爆発させた女が、大きく踏み込み、両手のククリ刀を同時にクロスさせて投擲した。
逃げ場のない、ハサミのような挟撃。
完璧なタイミング。彼女にとって、必殺の間合い。
──だが、それこそが俺の待っていた『隙』だった。
刃が俺の首を挟み切る直前。
俺は摩擦を無視した異常な初速で、前傾姿勢のまま一気に距離を詰めた。
一歩、いや、半歩の無音の踏み込み。
俺の身体が前へ出たことで、女の計算していた刃の交差点が、俺の背後へとズレる。
同時に。
ピンと張り詰めていた二本の紐のテンションが、一瞬だけ、フワリと緩んだ。
「……!」
「悪いな。こういう大振りな武器は、懐に入られると脆いんだよ」
驚愕に見開かれた暗殺者の視界。
俺の両手が、蛇のような滑らかさで下から跳ね上がった。
カキィィンッ!!
正確無比な手刀の双撃。
俺の手首が、テンションの緩んだククリ刀の『持ち手の基部』を的確に叩き上げた。
指先を弾き飛ばされるような強烈な衝撃に、女の口から短い悲鳴が漏れる。
彼女の手からすっぽ抜けた二振りのククリ刀が、紐を引きずりながら、無力な鉄の塊となって後方の絨毯へと転がっていった。
「アタシの、武器が……ッ!?」
絶対の自信を持っていた凶刃を完全に無力化され、暗殺者の動きが、ほんのコンマ一秒だけ硬直した。
その一瞬があれば、俺にはお釣りがくる。
俺は一切の殺気を持たず、まるで散歩でもしているかのような自然な歩調で、武器を失って無防備になった彼女の懐へと潜り込んだ。
チャイナドレスの胸元。
俺は右手のひらを、彼女の鳩尾の少し上、胸骨の中央にピタリと添える。
「あいつにデカい覚悟を背負わせたんだ。……タダで済むと思うなよ」
──トンッ。
まるで肩の埃を払うかのような、極めて静かな掌打。
だが、胸骨に接触した手のひらから、針のように細く鋭い気が彼女の体内に直接撃ち込まれていた。
巨漢の装甲ごと内臓を揺らす『浸透打撃』とは違う。
梁山泊の柔術家から「外科手術より精密」と教え込まれた、自律神経の結節点をピンポイントでショートさせる『柔』の絶技。
鞭のようにしなやかな彼女の肉体をあえて逆利用し、オーラの微振動を背骨まで波及させ、一瞬にして脳髄のスイッチを強制的に切ったのだ。
「……あ、ガ……ッ」
女の口から、空気が漏れるような音がこぼれた。
切れ長の瞳が焦点を見失い、白目を剥く。
膝から力が抜け、彼女の細身の身体が糸の切れた操り人形のように、その場にぐらりと崩れ落ちた。
絨毯の上に倒れ伏し、ピクリとも動かなくなる。
完全な気絶だ。
──チリン、と。
遠くで落ちたグラスの破片が鳴るような、静かな音がした。
阿鼻叫喚のパニックに陥っていた大広間に、水を打ったような不気味な静寂が降り立つ。
「……ふぅ。おやすみなさいってね」
俺は深く息を吐き出し、乱れたネクタイを締め直しながら、ボロ雑巾のように倒れた台湾人ヒットマンを見下ろした。
殺してはいない。数時間もすれば目を覚ますだろうが、その頃には警察の厄介になっているはずだ。
「八雲……!」
背後から、二乃の安堵に満ちた声が聞こえた。
振り返ると、彼女は島耕作を庇っていたテーブルクロスを下ろし、緊張の糸が切れたように深く息を吐き出しているところだった。
島耕作もまた、グラスを片手に持ったまま、「ほう……見事な手際だ」と、感心しきった様子で俺を見つめている。
「怪我はないか、二乃」
「当たり前でしょ。あんたこそ、大丈夫なんでしょうね?」
「大丈夫だ。避けるのだけは得意だからな」
軽口を叩き合いながら、俺は周囲の空気に張り巡らせていた感覚の網を、ゆっくりと広げていった。
まだ終わっていない。
この会場周辺には、あと二匹、桁違いに厄介な狐が潜んでいる可能性があった。
(……どう出た?)
俺はオーラを『円』の形に薄く広げ、崩落したシャンデリアの暗がりや、遠方の別ビルの屋上など、視界の外へ向けて神経を研ぎ澄ませた。
──スッ、と。
ほんの微かな、気配の消失。
遠くのビル風に乗って届いた妖艶な香水の匂いと、群衆の波に消えたはずの冷酷な魔女の気配。
様子を窺っていたその二つの異質な殺気が、潮が引くように、完全にこのエリアから消え去っていくのを俺の感覚が捉えた。
(……なるほど。これ以上の介入は『割に合わない』って判断したか)
俺の圧倒的な暴力と、二乃の鉄壁の防御。
そして何より、正面切って強襲を仕掛けたヒットマンが、一滴の血も流させずに秒殺されたという事実。
それらを冷静に天秤にかけ、彼女たちのような一流のプロフェッショナルは、潔く撤退を選択したらしい。
──助かった。
俺は内心で、安堵の冷や汗を拭った。
あんな一筋縄ではいかない一流どもを三人も同時に相手にするなんて、いくら大金を積まれていようと割に合わない。
今回は、相手が互いに連携していなかったことが最大の幸運だった。
「よし……これで、ゴミ掃除は終わりだ」
俺は全身の筋肉の強張りを解き、身体をほぐした。
パニック状態のVIPたちが、事態の収束を察して、ようやくホッとしたようなざわめきを取り戻し始める。
俺たちの仕事は、盾になること。
島耕作の命は守り抜いた。
あとは、表の警察なり、島専属のSPたちなりに、面倒な事後処理を丸投げして帰るだけだ。
……そう、思っていた。
思っていたのだが。
「──そこまでよ! 全員、動かないで!」
大広間の入り口から、凛とした、しかしどこかで聞き覚えのある女性の声が響き渡った。
ビクッ、と。
俺の肩が不自然に跳ねた。
振り返ると、粉砕されたダブルドアの向こう側から、数人の制服警官を引き連れた、二人の人物が踏み込んでくるところだった。
一人は、グレーのスーツを着こなした、ショートカットの勝気そうな美人刑事。
もう一人は、少し頼りなさそうにその後ろをついてくる、くたびれたスーツの若手刑事。
警視庁捜査一課、佐藤美和子刑事と、高木渉刑事。
(……なんで、よりによってあんたらが来るんだよ!)
俺は心の中で盛大に頭を抱え、今日一番の深いため息をついた。
以前、別の厄介な事件で顔を合わせ、俺と二乃の「異常性」をある程度嗅ぎつけている、鋭すぎる警察官たちだ。
佐藤刑事が、惨状と化した大広間を見回し、床で気絶しているチャイナドレスの女の姿を確認する。
そして、その傍らに立つ俺と、その後ろで布を持った二乃の姿に気付いた瞬間。
彼女のキリッとした美しい顔に、呆れと疑念が入り混じった、極めてジトッとした視線が浮かび上がった。
「……また、あなたたちなの?」
冷ややかな声が、大広間に響く。
俺は引きつった笑いを浮かべ、右手で後頭部を掻きながら、最高に胡散臭い営業スマイルを作った。
「いやぁ……奇遇ですね、刑事さん。俺たちはただの不運な一般客ですよ、ええ」
俺の精一杯の営業スマイルと、これ以上ないほど白々しい弁明。
だが、目の前に立つ警視庁捜査一課の佐藤刑事は、ピクリとも表情を変えなかった。
グレーのスーツを着こなした勝気な美人刑事。その切れ長の瞳には、絶対零度のジト目が浮かんでいる。
「不運な一般客、ね。……じゃあ、あっちで不自然にひしゃげた分厚いオーク材の扉と、絨毯の上で白目を剥いて気絶しているプロの殺し屋は、どう説明するのかしら?」
佐藤刑事は腕を組み、コツ、コツとヒールを鳴らしながら俺に歩み寄ってきた。
逃げ場はない。
彼女の鋭い視線が、俺と二乃、そして足元に転がるヒットマンを交互に舐め回す。
「以前遭遇した米花ツインタワーの爆破テロ事件の時もそうだったけど。あなたたちが行く先々で、どうしてこうも規格外の事件ばかり起きるのかしらね。おまけに、プロの殺し屋を相手にして、あなたたち二人には文字通り『かすり傷一つ』ない」
鋭い。鋭すぎる。
伊達に、あの死神メガネの少年がいる米花町で、数々の凶悪事件を最前線で処理している刑事ではない。
俺たちの持つ、常軌を逸した武力と異常性を、彼女は肌感覚で正確に嗅ぎ取っている。
「いやぁ……運が良かったんですよ。彼女、扉を蹴り破って登場したはいいものの、勢い余って自分で転んで頭を打っちゃいましてね。ドジっ子属性ってやつですかね」
「……あなた、私をバカにしてるの?」
ゴゴゴゴ……と、佐藤刑事の背後に怒りのオーラが立ち昇り始める。
まずい。このままでは公務執行妨害か何かで、面倒な事情聴取コースに連行されかねない。
俺が助け舟を求めるように視線を泳がせた、その時だった。
「ま、まあまあ佐藤さん! 彼らは今回、あくまで島会長の臨時SPとして雇われていただけみたいですから!」
背後でオロオロとしていた、くたびれたスーツの若手刑事──高木刑事が、慌てて二人の間に割って入ってくれた。
彼は困り眉を下げながら、俺に向かって「全く、あなたたちは相変わらずですね」と苦笑いを向けてくる。
「高木くん! でも、この状況はどう考えても不自然よ。いくら臨時の雇われSPとはいえ、プロの殺し屋を相手に──」
「いいじゃないですか。結果的に、人質も被害者も一人も出ずに事態が収束したんですから。それに……俺たち、彼らには前に一度、命を助けられてますし」
高木刑事が、小声で佐藤刑事に耳打ちをする。
あのテロ事件の際、俺たちが強引に道を切り開いたことで、彼ら警察官も無事に脱出できた過去がある。
その恩義を、この人の良さそうな刑事はちゃんと覚えていてくれたらしい。
「……はぁ。わかったわよ。高木くんがそう言うなら」
佐藤刑事が、毒気を抜かれたように大きなため息をつき、頭をガシガシと掻いた。
そして、俺たちを鋭く睨み直す。
「事情聴取と現場検証は、そっちのテコット専属のSPたちから聞くわ。あなたたちはもう帰っていいわよ。……ただし、これ以上余計な面倒事は起こさないでよね」
「ええ、もちろん。俺たちは平和を愛する善良な市民ですから。それじゃあ、失礼します」
俺は二乃の腕を引き、足早に警察の包囲網から抜け出そうとした。
深入りされる前に撤退する。揉め事処理屋の鉄則だ。
「──待ちたまえ、八雲くん。二乃くん」
だが、俺の平穏への逃走ルートは、またしても背後からの深く響くバリトンボイスによって阻まれた。
振り返ると、そこには巨大企業のトップ、島耕作が立っていた。
先程までのカオスな暗殺未遂劇。
毒を盛られかけ、催眠ガスを嗅がされかけ、巨大なシャンデリアの下敷きになりかけたというのに。
この初老のダンディは、スーツの皺ひとつ乱さず、グラスの水を一滴もこぼすことなく、悠然とした足取りでこちらへ歩み寄ってきた。
(……だから、大物すぎるだろこのオッサン。肝が据わりすぎている)
俺が内心で盛大に突っ込んでいると、島は俺と二乃の前に立ち、深く、誠意のこもった一礼をした。
「見事な仕事ぶりだった。君たちのイレギュラーな働きがなければ、今頃私はあの世で取締役会を開いていただろうね」
「買い被りですよ。俺たちは契約通り、仕事をしただけです」
俺が適当に謙遜して見せると、島は目元を細め、さらに一歩、距離を詰めてきた。
フワリと、嫌味のない大人の香水の匂いが漂う。
「どうだろう。君たちさえよければ、テコット、あるいは私の専属SPとして、正式に迎え入れたいのだが。……報酬は、今回の数倍は出そう」
提示された、あまりにもスケールの大きなオファー。
日本経済のトップに君臨する大企業からの、直々のスカウトだ。
並の人間なら、その額面と地位を聞いただけで歓喜のあまり卒倒するだろう。
隣に立つ二乃が、ピクッと反応したのがわかった。
彼女は事務所の財務を握っている。数倍の報酬というワードは、確実に彼女の乙女心(家計簿)を直撃したはずだ。
だが。
「……光栄なお誘いですが、謹んで辞退させていただきます」
俺は、一切の未練も迷いもなく、即座に首を横に振った。
島が意外そうに眉を上げる。
「金が足りないかな?」
「いえ、金額の問題じゃないんです。俺は……朝決まった時間に起きて、ネクタイを締めて、あの地獄みたいな満員電車に乗って出社する『勇気』が、どうしても持てないんですよ」
極めて真面目な顔で、極めて俗物的な理由を吐き出す。
スーツを着て、上司の機嫌を伺い、社内の派閥争いに巻き込まれるなんて真っ平ごめんだ。
痛いのも面倒なのも嫌いな俺にとって、企業の歯車になることほど恐ろしい地獄はない。
「……ふふっ。相変わらず、食えない男だ」
島は俺のシニカルな返答に、不快になるどころか本当に楽しそうに肩を揺らして笑った。
そして、視線を隣の二乃へと移す。
「二乃くんは、どうかな? 君のような優秀で美しい女性なら、私の第一秘書として最高の待遇を約束するが」
その言葉に、俺は少しだけ息を止めた。
確かに、二乃にはその能力がある。俺のようなうらぶれた処理屋の相棒でいるより、よっぽど華やかで安定した人生が送れるはずだ。
だが、漆黒のタイトスーツを着こなした俺の相棒は、ふわりと小悪魔的な笑みを浮かべた。
「せっかくのお誘いですが、島会長。……私の『エリート秘書』の座は、今日限りで辞任させていただきますわ」
「ほう。それはまた、なぜ?」
「私、こう見えて結構独占欲が強いんです。私がいないと生活もままならない『うちのヘタレ所長』の世話を焼くのに、毎日忙しいものですから」
二乃はそう言うと、俺の腕にギュッと抱きつくように腕を絡ませ、これ見よがしに見上げてきた。
その瞳には、一億円積まれようと絶対に揺るがない、確固たる『相棒』としての絆と好意が宿っている。
「……はははっ! なるほど、これは完敗だ」
島耕作は惜しそうな態度を見せつつも、二人の選択を完全に尊重するように、満足げに頷いた。
「では、また何か厄介事が起きた時は、頼りにさせてもらうよ。『揉め事処理屋』」
「ええ。前金さえ弾んでくれれば、いつでもどうぞ」
島はそれ以上引き留めることはせず、踵を返した。
周囲のSPたちを引き連れ、パトランプの赤い光が明滅するホテルのロビーを歩き去っていく。
その後ろ姿は、どれだけの修羅場を潜り抜けようとも決してブレることのない、圧倒的な男のダンディズムを漂わせていた。
結局、簡単な身元確認などで解放された頃には、すっかり数時間が経過していた。
* * *
超高層ホテルから外へ出ると、夜明け前の冷たい空気が肺の奥を刺した。
東の空が、ほんのりと白み始めている。
数時間前までの、毒婦や泥棒、ヒットマンたちとの死闘が嘘だったかのように、早朝の都心は静寂に包まれていた。
「あー……終わった終わった。マジで疲れた」
俺は大きく伸びをしながら、ネクタイを完全に引き抜き、ポケットへ突っ込んだ。
緊張の糸が切れ、ドッと疲労感が押し寄せてくる。
傷一つない頑丈すぎる肉体とは裏腹に、精神的な摩耗は限界に達していた。
「本当よ。もう、あんな劇薬みたいな女狐たちがいっぺんに襲ってくるなんて、寿命がいくつあっても足りないわ」
隣を歩く二乃も、タイトスーツの襟元を少し緩めながら、深くため息をついた。
だが、その横顔には、大仕事をやり遂げた心地よい疲労感と達成感が滲んでいる。
「でもさ……なんだかんだ言って、あのオッサンが一番底知れない存在だったんじゃないか?」
「島会長のこと?」
「ああ。あの絶体絶命の状況で、一滴もグラスの水をこぼさないんだぞ。それに、あの無自覚に垂れ流す大人のフェロモン……。正直、二乃が絆されやしないかって、ずっと胃が痛かったんだよ」
俺が素直に本音をこぼすと、二乃は一瞬キョトンと目を丸くし、それから吹き出すように笑った。
「なによそれ。あんた、ヤキモチ焼いてたの?」
「……ヤキモチじゃない。優秀なアシスタントを引き抜かれたら、明日から俺が餓死するっていう危機感だ」
「ふふっ、素直じゃないわね。……でも、安心していいわよ」
二乃は俺の横にスッと並び、楽しげに足取りを合わせた。
「私、枯れ専じゃないし。……それに、どれだけ大金を積まれたって関係ないわ。私が隣にいたい男は、世界中で……あんただけなんだから」
「……っ」
真正面からぶつけられたド直球の言葉に、俺の心臓が跳ね上がった。
思わず首の後ろをガシガシと掻きむしり、カッと熱くなった顔を隠すように視線を逸らす。
こういう不意打ちのストレートを平然と放ってくるから、この相棒は心臓に悪い。
「それにしても、驚いたぜ」
俺は照れ隠しに、話題を切り替えた。
「あの巨大シャンデリアが落ちてきた時。まさか、テーブルクロスに『周』を纏わせて防ぐなんてな。教えたのは基礎だけだったのに、大した応用力だ」
俺が素直に称賛すると、二乃は「えっへん」と得意げに胸を張った。
「当たり前でしょ。伊達にあんたのスパルタ特訓を受けてないわ。……でも、正直言うと、無我夢中だったのよね。布が破れなかったのは奇跡みたいなものよ」
「奇跡じゃないさ。お前の、絶対に俺の死角をカバーするって『覚悟』が、オーラを鋼鉄に変えたんだ。……よくやったな、相棒」
俺が少しだけ口角を上げて微笑むと、二乃は分かりやすく頬を赤く染め、そっぽを向いた。
「な、なによ急に。褒めても、今日の晩ご飯のおかずは一品増えないわよ?」
「いや、そこは増やしてくれよ。俺、今日めちゃくちゃ頑張っただろ?」
「ダメ。あんたはちょっと太り気味だから、カロリー制限中なの」
「嘘だろ!? 毎日こんだけ動き回ってんのに!?」
夜明け前の大通りに、俺の情けない抗議と、二乃の明るい笑い声が響く。
巨大な企業抗争。
規格外の暗殺者たち。
そして、プロの始末屋。
このカオスでイカれた世界には、まだまだ俺の平穏を脅かす厄介事が山のように転がっているのだろう。
だが、今はそんなことどうでもいい。
どんな強敵が相手だろうと、どんな理不尽が降りかかろうと。
俺には帰るべき、雨漏りの跡が残るあの愛おしいボロ事務所がある。そして、極上の手料理で俺の胃袋を掌握している、少し口の悪い最高のアシスタントがいる。
「ほら、早く帰るわよ八雲。シャワー浴びて、さっさと寝たいんだから」
「へいへい。お供しますよ、二乃お嬢様」