現代日本に転生したけど、何かおかしくない? 作:匿名のななし
ピチョン。
冷たい水滴が、眉間のど真ん中に直撃した。
うーん、と唸りながら毛布を頭まで引き上げ、寝返りを打つ。
まだ朝の八時だ。
巨大企業『テコット』の島耕作会長を三人の美しき暗殺者から守り抜くという、寿命がゴリゴリ削れる仕事を終えてから数日。
今の俺には、昼過ぎまで泥のように眠る権利があるはずだった。
ピチョン、ピチョン。
カラン、コロン、ポタポタポタッ。
耳障りな音が止まらない。
それどころか、部屋のあちこちから違う音色の水音が重なり合って、下手くそな打楽器の演奏会みたいになっている。
薄く目を開けると、見慣れた事務所の天井にある黒いシミが、昨日よりもひと回り大きく広がっていた。
そこから数秒おきに雫が垂れ落ち、ソファのすぐ横に置かれたアルミの雪平鍋にぶつかって「カラン」と高い音を立てている。
テレビの前には青いプラスチックのバケツ。
ローテーブルの上にはサラダ用のガラスボウル。
部屋の隅には、フライパンまで動員されていた。
「……アートだねぇ」
毛布から顔だけを出してボヤく。
昨夜から降り始めた嵐が、この築四十年を超えるボロ雑居ビルの屋根にトドメを刺したらしい。
もともと隙間風が吹くわ、水道管からは謎の異音がするわで限界だったのだが、ついに天井がザルになったか。
(これじゃあ事務所じゃなくて鍾乳洞だ。数年もすれば、ソファの横から立派な石筍が生えてくるんじゃねえか?)
バンッ!
控えめな雨漏りの演奏会を吹き飛ばす勢いで、奥のドアが開け放たれた。
「情緒を感じてる場合じゃないわよ、この大バカヤクモっ!!」
カツカツと小気味よいヒールの音を響かせて乗り込んできたのは、うちの優秀すぎる相棒だ。
寝ぼけ眼をこすりながら見上げて、一気に目が覚めた。
今日の二乃は、柔らかなラベンダー色のシフォンブラウスに、脚のラインが綺麗に出る白のタイトスカート。
ピンク色の長い髪は、トレードマークの黒いリボンを編み込んだ華やかなハーフアップにまとめられ、いつも通りの隙のないお洒落な装いだ。
動くたびに、ふわっと甘いフローラル系の香水の匂いが鼻をくすぐる。
「……おはよ。朝からずいぶんオシャレじゃん。どっかに出かけるの?」
「出かけるのよ。あんたも一緒にね!」
「俺も? いや、俺は今日、この毛布と一体化して過ごす予定なんだけど」
「却下よ。そんなジメジメした毛布にくるまってたら、あんたまでカビが生えるわ」
ローテーブルのガラスボウルをひょいっと脇へどかし、抱えていたものをドスンと置く二乃。
テーブルの脚がミシッと悲鳴を上げる。
置かれたのは、電話帳みたいにぶ厚い不動産情報誌が三冊。
ページの隙間から、赤や黄色の付箋がハリネズミの針みたいにびっしりと飛び出している。
さらにその上に、見慣れた銀行の通帳がビシッと叩きつけられた。
「ほら、これを見なさい!」
「んー……? 通帳じゃん。残高がどうかした?」
「いいから一番下の行をちゃんと見なさいってば」
言われるがままに半身を起こし、ページを覗き込む。
印字された数字を見て、目をこすった。
ゼロが多い。
一、十、百、千、万……。
この間からの高額報酬による依頼料。そこへ昨日、島耕作会長から振り込まれた破格の特別謝礼金が合算され、地方に豪邸が建ちそうな金額が並んでいる。
「ふふん、すごいでしょ。私がコツコツやりくりして貯めた分と合わせれば、都内の一等地でも現金一括でお釣りがくるわ!」
「いや、すごいけどさ。これ、俺が銃弾を弾いたり暗殺者とチャンバラしたりして稼いだ、血と汗の結晶だよね?」
「私の完璧なスケジュール管理と経理、それに毎日の栄養満点のご飯がなかったら、あんた今頃とっくに野垂れ死んでるでしょ。つまり二人の共同資産よ」
胸を張って得意げに鼻を鳴らす二乃。
それから、天井から落ちてくる水滴を忌々しそうに睨みつけた。
「もう限界なの! コンロは二口しかなくて火力は弱いし、お風呂は追い焚きができないし、トドメにこの雨漏り! 私のお気に入りの雪平鍋まで水受けに使わされるなんて我慢ならないわ! 今日という今日は、新しくて広い家を買いに行くわよ!」
「ええぇ~……? 家を買うぅ?」
一気に面倒くささが押し寄せてきて、そのまま毛布の中へ逆戻りしようと体を縮める。
「いやいや、ちょっと待ってよ二乃ちゃん。引っ越しって、めちゃくちゃ大変なんだぞ? ダンボールに荷物を詰めて、電気とか水道の手続きをして、役所に行って……。考えただけで知恵熱が出そうなんだけど」
「荷造りなんて業者さんに頼めば一日で終わるわよ」
「でもほら、このボロ部屋にも愛着があるっていうか。雨漏りの音も、聞いてると風情があるじゃん? 鍾乳洞みたいでマイナスイオンが出てそうだし、屋根の穴なら俺が今からガムテープで貼っとくからさ」
「ガムテープで直るわけないでしょ! だいたい、どこからマイナスイオンが出てるのよ、ただのジメジメした湿気じゃない! ほら、潜らない!」
ソファの隙間に逃げ込もうとしたパジャマの襟首を、白い手がガシッと掴んだ。
ミシミシッと布地が悲鳴を上げる。
(ぐえっ、苦しい! 念の基礎を習得した女子大生の握力、そこらの成人男性よりずっと強いんだってば!)
ズルズルと容赦なく引きずり戻され、ソファの真ん中に座らされた。
「あーっ、首が締まる! パジャマが伸びるって!」
「自業自得よ! いいからこれを見なさい! 私がこの間から、睡眠時間を削ってピックアップした候補なんだから!」
すぐ隣にドスンと腰を下ろし、ぶ厚い情報誌を開いて俺の膝の上に広げる二乃。
肩と肩がピタリと触れ合う。
ブラウス越しに伝わってくる彼女の体温と、シャンプーの匂いに、少しだけ背筋がむず痒くなった。
「ほら、ここの物件なんかどう? リビングが二十畳あって、キッチンは憧れのアイランド型! 最新の大型オーブンも食洗機もついてるのよ」
「アイランド型って、あの四方八方から丸見えのやつ?」
「そうよ! これなら、お料理しながらでもリビングのテレビが見えるし、あんたが好きなローストビーフもキッシュも一度にたくさん焼けるわ。食後の面倒なお皿洗いだって、食洗機に放り込めばあんたの当番が楽になるでしょ?」
「おっ、皿洗いが減るのはかなり魅力的だな」
二乃の指先が、カラフルな間取り図の上をトントンと跳ねる。
本当に楽しそうだ。
大きな瞳がキラキラと輝いていて、ページをめくる手つきまで弾んでいる。
「でしょ? それに、こっちのお風呂を見て。足を伸ばしてもまだ余るくらい広いの。シャワーの水圧もバッチリらしいし、浴室乾燥機までついてるから、今日みたいな雨の日でも洗濯物が部屋干しでジメジメしないのよ!」
「へえ……そりゃすごいね。今の風呂、俺が入ると膝を抱えないと肩まで浸かれないもんな」
「そうなのよ。あんた、いつも窮屈そうに丸まって入ってるじゃない。……あ、あとね、それだけじゃないわ。ほら、この奥の六畳の洋室」
図面の端にある部屋をトントンと指さしてから、ふいっと視線を横に逸らす二乃。
頬がほんのりと桜色に染まっている。
「そこ、床が補強されてて防音になってるらしいの。あんた、いつもリビングの隅っこで窮屈そうにストレッチしたり、変なトレーニングしたりしてるでしょ? そこをあんたの専用ルームにしてあげてもいいわよ。ゲームのモニターも置けるし」
「……俺の部屋?」
「な、なによ。あんたがリビングでゴロゴロしてると掃除機の邪魔だから、奥に押し込めておこうと思っただけよ! 勘違いしないでよね!」
「いや、まだ何も言ってないじゃん」
言葉に詰まって、前髪をガシガシと掻きむしる。
自分のキッチンのことばかりかと思いきや、俺の居場所までちゃんと計算に入れているらしい。
横顔を盗み見ると、ピンク色の髪が耳にかかり、キュッと上がった口角からワクワクが抑えきれないみたいに滲み出ていた。
(……ったく。こんな顔を見せられたら、どれだけ面倒くさくても『行かない』なんて言えるわけないだろ)
俺の胃袋と平穏な日常は、この相棒のご機嫌によって成り立っているのだ。
「……わかったよ。まあ、見に行くだけならタダだしな。付き合うよ」
わざとらしく大きなため息をついて背もたれにダラリと体重を預けると、二乃の顔がパッと花が咲いたように明るくなった。
「そうこなくっちゃ! じゃあ、五分で着替えて顔洗ってきなさい! 駅前の不動産屋さんに、十時に予約を入れてあるんだから!」
「ちょっと待て、もう予約までしてんのかよ!」
「当たり前でしょ。あんたが絶対に最初はゴネると思って、先手を打っておいたの」
「俺に拒否権は最初からなかったんじゃん……!」
「ほら、あと四分三十秒よ! 遅れたら朝ご飯抜きにするからね!」
文句を飛ばしつつも、不思議と足取りは重くなかった。
手早く白のカットソーと黒のジャケットに着替え、ボロ事務所を出る。
外はしとしとと春の雨が降っていた。
開いた大きめの黒い傘の中に、ベージュのトレンチコートを羽織った二乃が当たり前のように滑り込んでくる。
「ちょっと、八雲。傘をそっちばっかりに傾けないでよ。あんたの左肩、濡れてるじゃない」
「これくらい平気だって。俺のジャケットは撥水みたいなもんだし。二乃のせっかくの巻き髪が湿気で広がったら、後で俺が八つ当たりされるだろ」
「なっ……! 誰が八つ当たりなんてするのよ、失礼ね!」
「えー? 先月、雨の日に前髪のカールが取れたって、一日中プンプンしてたのはどこの誰だっけ?」
「あ、あれは湿気のせいじゃなくて、あんたが私の大事なヘアスプレーを勝手に虫除け代わりに使ったからでしょ!」
「あれ、いい匂いするからハエも逃げるかと思ってさ」
「逃げるわけないでしょ、バカ!」
ツンと唇を尖らせながらも、傘の下でさらに半歩、こちらへと身を寄せてくる二乃。
コートの袖と腕がピタリと触れ合う。
「……ほら、これだけくっついて歩けば、あんたの肩も濡れないでしょ」
「あ、ああ。そうだな」
雨粒がビニールを叩くポツポツという音をBGMに、駅前の通りを並んで歩く。
「ねえ、新しいお家の近くには、焼きたてのクロワッサンが買えるパン屋さんがあるといいわね」
「俺はどっちかというと、深夜まで開いてるコンビニと弁当屋が近いほうが嬉しいんだけど」
「ダメよ、引っ越したらコンビニ弁当は全面禁止! せっかく広いキッチンになるんだから、毎日私がちゃんとしたご飯を作るわ。だから、新鮮なお野菜とお肉が安いスーパーが最低でも二軒はハシゴできる立地が絶対条件ね」
「はいはい、うちの料理長のおっしゃる通りにいたしますよ」
軽口を叩き合いながら大通りへと出ると、目の前の立派なビルの一階に、青と白の清潔感あふれる看板が掲げられていた。
『登坂不動産』
傘を閉じて水滴を払い、二乃と並んで自動ドアのセンサーの前へと足を踏み入れた。
*
ウィーン、と静かな音を立てて自動ドアが開く。
一歩中に入った瞬間、外の湿った空気とはまるで違う、空調の効いた快適で明るい空間が広がっていた。
観葉植物の緑が綺麗に配置され、床はピカピカに磨かれている。
(うちの水浸しの鍾乳洞とは、同じ地球上の建物とは思えないな……)
「いらっしゃいませ! 本日は足元の悪い中、ご来店ありがとうございます!」
ハリのある爽やかな声が響いた。
カウンターの奥から、二人の社員が小走りで出迎えにやってくる。
先頭に立つのは、仕立ての良いスーツをパリッと着こなした三十代前半くらいの男性だ。
前髪をスッキリと上げ、絵に描いたような完璧な営業スマイルを浮かべている。
その後ろから、少し幼さの残る黒髪の女性社員が「どうぞこちらへ!」と人懐っこい笑顔でパタパタとついてきた。
「十時にご予約いただいておりました、中野様ですね。私、本日担当させていただきます、登坂不動産の永瀬財地と申します」
「同じく、アシスタントの月下咲良です! よろしくお願いしまーす!」
名刺を差し出す永瀬という男の動きには、一切の無駄がなかった。
背筋の伸び方、お辞儀の角度、視線の配り方。
裏社会の連中とは違う意味で、自分の武器を熟知しているプロフェッショナルの佇まいだ。
奥の落ち着いた応接ブースに案内され、並んでソファに腰を下ろす。
月下さんが、湯気を立てる緑茶をテーブルに置いてくれた。
「さて、お電話では『住居兼オフィス』をお探しとのことでしたが」
革張りのバインダーを開き、俺と二乃の顔を交互に見ながら柔和な笑顔でペンを構える永瀬。
「まずはご希望のエリアや、住宅ローンのお借り入れのご予定、ご予算感などをお伺いできればと──」
「ローンは組まないわ。現金一括で買うから」
湯呑みに軽く口をつけ、涼しい顔で永瀬の言葉を遮る二乃。
バッグから取り出したメモ用紙にサラサラと数字を書き、テーブルの中央へ滑らせた。
「予算は、とりあえずこれくらいまでなら今日すぐに出せるわよ」
「「えっ……!?」」
永瀬と月下さんの声が綺麗にハモった。
月下さんに至っては、メモ用紙の数字と二乃の顔を何度も見比べ、お盆を落としそうになってわたわたしている。
「い、いち、じゅう、ひゃく、せん……えええっ!? キャッシュでですか!? 宝くじの一等でも当たったんですか!?」
「宝くじなんかじゃないわよ。ねえ、八雲?」
肘でつつかれ、お茶を一口飲んでから曖昧に笑って見せた。
「まあ、ちょっとしたコンサル業みたいなことをやってまして。ここ最近、命がけの残業が続いたもんですから」
「命がけの残業……! なんだか分かりませんが、ITベンチャーの若き社長さんとかですか!? すごいです!」
無邪気に目を輝かせる月下さんの横で、永瀬は一瞬だけ目を見開いたものの、コンマ一秒でさらに深い、極上の営業スマイルへと顔を作り変えた。
(うわ、目の奥が『超特大の太客が来たぞ!』ってギラリと光ったのが丸わかりだぞ、この人)
「さ、さすがでございますね! お若いのにお仕事が大成功されているようで、素晴らしい限りです! このご予算であれば、都内のあらゆる極上物件が選択肢に入ってまいります!」
永瀬の手つきが、先ほどよりも三割増しで丁寧かつスピーディになる。
分厚いクリアファイルから、厳選されたカラー印刷の物件資料が次々とテーブルに並べられた。
「お二人のような美男美女のご夫婦には、やはり最新の設備が整ったデザイナーズ物件や、セキュリティ万全のタワーマンションがよろしいかと!」
「あっ、いいですね永瀬先輩!」
月下さんが身を乗り出し、俺たちを交互に見てうっとりと頬を染める。
「お二人が並んで歩いてたら、それだけでファッション誌のグラビアみたいですもん! お仕事も一緒で、お家も一緒なんて、新しい愛の巣、すっごくワクワクしますねぇ!」
「い、いや、ちょっと待ってください月下さん。愛の巣って、俺たちは別に夫婦じゃなくて──」
「ねえ八雲、これ見て! この間取り、すごく動線が良さそうじゃない?」
訂正を挟むより早く、二乃が資料の一枚を引き抜いて、グイッと顔の近くに寄せてきた。
距離が近い。
ハーフアップにした彼女の毛先が、頬にチリッと触れる。
「え、あ、ああ……どれだよ?」
「ここよ、ここ。玄関から入ってすぐの手前に十畳のオフィススペースがあって、奥の鍵付きの扉を抜けると二十五畳のLDKになってるの。これなら、変なお客さんが事務所に来ても、私たちのプライベートな空間を見られずに済むわ」
細い指が、図面の上をスルスルと辿っていく。
「でね、リビングのこの大きな窓際には、ふかふかのL字ソファを置くの。あんた、どうせ仕事がない日はそこで一日中ゴロゴロしてゲームするんでしょ?」
「いや、一応オフィススペースの社長デスクに座るつもりなんだけど」
「どうせ三十分で腰が痛いとか言ってソファに逃げてくるに決まってるじゃない。もう三年も一緒に暮らしてるんだから、あんたの行動パターンくらい全部お見通しよ」
「ぐっ……反論できない」
「でしょ? だから、キッチンからリビングが真っ直ぐ見渡せるこの配置がいいの。あんたがサボって寝転がってたら、私がキッチンからすぐにお玉を投げつけられるわ」
「物騒な動線を作るなよ! 少しは俺がくつろげる配置にしてくれ」
「くつろげるようにしてあげてるじゃない。あ、それとこの洗面所! ボウルが二つ並んでるダブルボウルタイプよ! これ、絶対条件ね」
「なんで洗面台にボウルが二つもいるんだよ? 俺たちの顔は一つずつしかないぞ」
「バカね、朝の時間を考えてみなさいよ。あんたがボサボサの寝癖を直すのに洗面台をずーっと占領してる横で、私がメイクとヘアセットをするの! 今までは狭くて順番待ちだったし、あんたが水しぶきを飛ばすから邪魔だったのよ。二つ並んでれば、朝起きた時に二人で横に並んで準備ができて、すっごくスムーズじゃない」
「……まあ、確かに朝の洗面所争奪戦はなくなるか」
背もたれから身を起こし、二乃が差し出した図面を横から覗き込んだ。
「あと、三階のこの主寝室についてるウォークインクローゼット! これだけ広ければ、左側の壁一面の棚から奥までが私の服とバッグと靴のスペースで、右の端っこのこの一角に、あんたのパーカーとジャケットを吊るせるわね」
「おい、ちょっと待て。今、指で示した範囲がおかしくないか? どう見ても九対一くらいになってるぞ」
「文句言わないの。あんたは同じような黒と白の服ばっかりで荷物なんてほとんどないんだから、端っこのポールが一本あれば十分でしょ」
「せめて八対二にしてくれよ! 俺だってたまには二乃が選んでくれた服とか増えるんだからさ!」
「……っ、そ、そうね。私が見立ててあげた服を大事に着るなら、もうちょっとだけスペースを分けてあげてもいいわよ」
少しだけ口元を緩めて、図面の上の指をほんの数ミリだけ動かす二乃。
そんな小競り合いを繰り広げていると、向かい側から「はわわ……」と息が漏れるような声が聞こえた。
顔を上げると、月下さんが顔を真っ赤にして、両手で口元を押さえてプルプルと震えている。
「……っ、尊いです……! 朝の洗面台の並び方からクローゼットの分け方まで決まってるなんて、もう完全にラブラブな新婚さんの会話じゃないですかぁ……!」
その隣で、永瀬もうんうんと深く頷きながら、極上の笑顔を向けてきた。
「ええ、実に微笑ましい限りですね。お互いの生活リズムを隅々まで熟知されていらっしゃる。これほど相性抜群のご夫婦なら、どの物件を選ばれても温かいご家庭になること間違いなしですよ」
「だ、だからですね永瀬さん! 俺たちはそういう新婚とかじゃなくて、ただの所長とアシスタントで──」
急に背中に変な汗が噴き出して、首の後ろを掻きながら必死に手を振る。
いつも通りに喋っていただけなのに、第三者から見るとそういうふうに映るらしい。
助けを求めようと隣を見ると、二乃もわずかに耳の先を赤くしていた。
だが、なぜか否定はせず、コホンと小さく咳払いをして図面で口元を隠す。
「……べ、別にいちいち訂正しなくてもいいでしょ、八雲。それより永瀬さん! キッチンが広くて、日当たりが良くて、この人が多少ドタバタ暴れても床が抜けない頑丈な物件がいいの! いくつか実際に中を見せてくれるかしら?」
「もちろんでございます、奥様! 本日すぐにご案内できる極上の物件を四件ほどピックアップいたしました!」
パチンと指を鳴らし、自信満々に胸を張る永瀬。
「どれも資産価値、居住性、周辺環境すべてにおいて非の打ち所がない、我が登坂不動産が自信を持っておすすめする一級品ばかりです! さっそく私の車で内見ツアーへと──」
ブォンッ。
その時だった。
天井に埋め込まれた業務用エアコンの吹き出し口が、急にガタガタッと音を立てる。
そこだけ局所的な突風みたいな強い風が吹き下ろしてきた。
風が、永瀬の整えられた前髪をバサバサッと揺らす。
ピタリ。
永瀬の動きが止まった。
顔に貼り付いていた完璧な営業スマイルが、まるで電源を落としたロボットみたいにスッと消え失せる。
「……先輩? あっ、ちょっと待ってください、今のエアコンの風はマズいですって!」
月下さんが慌てて立ち上がり、永瀬の袖を引っ張る。
だが、永瀬は俺たちを真っ直ぐに見据えたまま、まるで何かに取り憑かれたような、低く冷え切った真顔で口を開いた。
「……いえ、非の打ち所がないというのは真っ赤な嘘です。正直に申し上げますと、今から行く物件にはそれぞれ、命に関わるレベルの致命的な欠陥がございます」
「「……は?」」
俺と二乃の間抜けな声が、応接ブースに虚しく響き渡った。