現代日本に転生したけど、何かおかしくない? 作:匿名のななし
永瀬の運転する営業車に乗り込み、記念すべき一件目の物件へとやってきた。
エレベーターで三十五階まで上がり、重厚な扉を開けて室内へ足を踏み入れる。
一面ガラス張りの窓からは都心のビル群が一望でき、大理石のアイランドキッチンが太陽の光を反射して輝いていた。
「わあ……! すごい景色! ねえ八雲、見てよ、キッチンが大理石でピカピカじゃない!」
目を輝かせて窓辺へと駆け寄る二乃。
だが、俺の足は玄関のところで鉛のように重くなっていた。
「……なあ、二乃。ここに来る途中の道路標識で、すごく見覚えのある漢字三文字を見たんだけど」
「え? 漢字三文字?」
「あそこに見える先っちょが欠けたビル、俺たちが前にワイヤーで飛び移ったツインタワーの隣じゃないか? つまりここは──」
「いかがですか、奥様!」
俺の言葉を遮るように、永瀬が両手を広げてリビングの中央へ進み出た。
「こちら、『米花町』に新築されたばかりの最高級タワーマンションでございます! オートロックは三重、二十四時間体制でコンシェルジュが常駐しており、セキュリティはまさに鉄壁──」
流暢なセールストークを繰り広げながら、換気のつもりか、バルコニーへ続く大きな窓をガラリと開ける永瀬。
ヒュオォォォッ!
高層階特有の強いビル風が室内に吹き込み、永瀬のネクタイと前髪を激しく煽った。
「うっ……! く、くそっ、また風が……!」
自分の口元を両手で必死に押さえ込む永瀬。
額から滝のような汗が噴き出し、顔面が奇妙にひきつる。
なのに、必死に塞いだはずの指の隙間から、メガホンでも仕込んでいるみたいな大声が勝手に飛び出してきた。
「──ただし!! この米花町エリアは、週に三回のペースで近隣のビルや商業施設が爆弾魔によって吹き飛ばされます!!」
「なっ……!?」
二乃がギョッとして足を止める。
永瀬の絶叫は止まらない。
「それだけではありません! 密室殺人、青酸カリによる毒殺、ライフルによる狙撃事件の発生率は世界トップクラス! ぶっちゃけ、どの損害保険会社もこの町だけは火災保険と生命保険の引き受けを全力で拒否する、呪われた無法地帯です! オートロックが三重だろうが、この町の犯人は戦闘ヘリや爆弾で外から直接ビルを破壊してくるので何の意味もありません! 買ったら最後、資産価値は爆風と共に木っ端微塵に吹き飛びます!!」
「な、永瀬先輩ーっ!? ストップ、ストップですってばーっ!!」
月下さんが涙目で飛びつき、必死に口を塞ごうとする。
数秒後、風が止むと同時に、永瀬は「ハッ!? 私は今、なんてことを……!」と顔を真っ青にして膝から崩れ落ちた。
「……ちょっと八雲。この人、いきなり何を叫び出してるの?」
「いや、あのお兄さん、めちゃくちゃいいこと言ってるぞ」
(ブラボーだ、永瀬さん! この世界で育ってから、ここまで米花町の異常性を的確かつ論理的に言語化した人間に初めて出会ったぞ!)
心の中でスタンディングオベーションを送りながら、うんうんと深く頷く。
「よく言った、永瀬さん。やっぱりここは人間の住む土地じゃないんだよ」
「もう、あんたまで変なこと言わないでよ! ……でもまあ、確かにこの町で毎回爆発に巻き込まれるのは御免ね。他のところを見ましょう」
「ううっ、申し訳ございません……! 次こそは、決して爆発しない安全な物件をご案内いたします!」
青い顔で立ち上がった永瀬に連れられ、車で二件目へと向かう。
到着したのは、池袋の西口公園からほど近い、打ちっぱなしコンクリートのスタイリッシュな一棟物件だった。
「へえ、ここも都会的でオシャレじゃない。駅も近いし、デパートもすぐそこよ」
「こちらなら爆弾魔の心配はございません!」
エントランスの前で営業スマイルを復活させ、力強く頷く永瀬。
「若者に人気の池袋エリアで、買い物も飲食も徒歩圏内で完結する抜群の利便性を誇って──」
ピューッ。
路地裏から吹き抜けた春風が、永瀬の頬を撫でた。
ピタリ、と笑顔が消える。
「あっ、先輩、息を止めてください!」
月下さんが叫ぶが、遅かった。
「──おりますが、夜になるとこの街は地獄絵図に変わります。黄色や青のバンダナを巻いたカラーギャングどもが毎晩のように何百人規模で抗争を繰り広げ、さらに前の道路では『首なしライダー』と呼ばれる都市伝説の怪物が、馬のいななきのような音を立てる漆黒のバイクで爆走します。それどころか、バーテン服を着た借金取りの男が怒り狂って、自動販売機やガードレールを素手で引っこ抜いて投げ飛ばしてくるため、二重サッシだろうが防音壁だろうが、安眠は百パーセント不可能です」
「ひぃぃぃっ! また全部言っちゃったぁ!」
頭を抱えてしゃがみ込む月下さん。
隣で、二乃が引きつった顔で俺の袖を引っ張った。
「……ねえ、自動販売機が飛んでくるってどういうこと?」
「ああ、池袋にはそういうバケモノが棲みついてるって噂、俺も聞いたことがある。朝起きてベランダに自販機が突き刺さってたら嫌だろ?」
「嫌に決まってるじゃない! なんなのよこの街は! はい却下、次!」
「ううっ……お、お任せください! 三件目はガラリと雰囲気を変えまして、下町情緒あふれる葛飾区・亀有の物件です!」
さらに車を走らせて到着したのは、昔ながらの賑やかな商店街のすぐ裏手にある、広々とした新築の戸建て兼事務所だった。
ここなら高いビルもないし、カラーギャングもいない。平和そのものに見える。
「あら、なんだか落ち着いた街並みね。商店街のお惣菜屋さんも美味しそうだし、こういう下町も悪くないかも」
「左様でございます! 亀有は人情味にあふれ、物価も安く、暮らしやすさは都内でもトップクラス──」
サァァァッ。
商店街の方角から、揚げたてのコロッケの匂いを乗せた風が吹いてきた。
永瀬の目がカッと見開かれ、微かに涙が浮かぶ。
「──ですが! すぐそこの公園前派出所に、人間の皮を被った災害のような繋がり眉毛の警察官が勤務しています!! その男が借金取りやボーナス争奪戦のたびに暴走し、商店街を本物の戦車で踏み潰したり、重火器やミサイルを誤射して町内を物理的に更地にしたりするため、この周辺の建物の平均寿命はわずか三ヶ月です!! 不動産を買うというより、あの警官に破壊されるための標的を買うようなものです!!」
「もうやめてください先輩ーっ!! 課長に怒られますってばーっ!!」
眉間を深く揉み解して、大きなため息をついた。
「……やっぱりか。あのチャリンコでトラックと並走する繋がり眉毛のおまわりさん、地元の不動産価値までゼロにしてやがったんだな」
「警察官が町を更地にするって、意味が分からないわよ……。せっかく可愛いお家なのに、三ヶ月で戦車に踏み潰されたらたまったもんじゃないわ」
「ま、まだです! 最後の四件目! 湾岸エリアのオーシャンビュー物件がございます!」
半ばヤケクソになった永瀬が案内したのは、海を見渡せる湾岸道路沿いの高級マンションだった。
(……うん。もう俺には、彼が口を開く前から結末が見えてるぞ)
「ご覧ください! 窓から広がる夜景はまさに百万ドルの美しさ──」
バルコニーから吹き込んだ潮風が、永瀬の顔を直撃する。
「──ですが、目の前の首都高湾岸線を、深夜になると『悪魔のZ』と呼ばれる古い青いフェアレディZと黒いポルシェが時速三百キロ超えで暴走します。鼓膜が破れそうなエンジン音で窓ガラスが毎晩ガタガタと共振し、いつガードレールを突き破ってリビングに突っ込んでくるか分からない、スリル満点の物件です!!」
潮風が通り過ぎる。
「……ハァ、ハァ……もう、私を殺してくれ……」
ついに永瀬が壁に手をついてうなだれた。
俺もその隣で、同じように壁に手をついてうなだれる。
「……なあ、二乃。どうなってんだよ、この国は」
「私に聞かないでよ……。爆弾魔の巣窟か、自販機が飛ぶ街か、戦車が走る下町か、時速三百キロの暴走道路しかないじゃない」
「普通に働いて、美味しいご飯を食べて、静かに眠れる土地は、この国のどこにも残されてないのかよ……やっぱりあのボロ事務所の屋根にブルーシートを被せて住むしか……」
「それは絶対に嫌ってば!」
ピシャリと言い放ち、手元に抱えていた永瀬のクリアファイルをパラパラとめくり始める二乃。
そして、一番下に挟まっていた一枚の紙に目を止め、スッと引き抜いた。
「……ちょっと、永瀬さん。さっきから説明してくれてないけど、この物件はどうなの?」
壁から離れ、二乃が差し出した図面を横から覗き込む。
場所は、今のボロ事務所から電車で二駅ほど離れた、閑静な住宅街とオシャレな商業エリアのちょうど境目あたり。
写真は、赤茶色のレンガ調の外壁が目を引く、三階建てのスタイリッシュな一棟ビルだった。
一階が独立したエントランス付きのオフィススペース。
二階が二十畳を超える広々としたリビングダイニングと、巨大なアイランドキッチン。
三階には複数の居室と、緑が植えられたルーフバルコニーまでついている。
しかも、提示されている売却価格が、他の物件と比べて不自然なほど安かった。
「ここ、すごくいいじゃない! 外観もレンガ調で可愛いし、キッチンはレストランみたいに広いし、日当たりも最高よ! ねえ八雲、見て、三階に防音のトレーニングルームになりそうな部屋もあるわ!」
「おっ、本当だ。しかもこのエリアなら、俺が知る限りヤバい組織や異常者どもの縄張りからも綺麗に外れてるぞ」
「でしょ!? もう、最初からこれを出してくれればよかったのに! 永瀬さん、私ここがいいわ!」
一目で恋に落ちたように、図面を胸に抱きしめて目を輝かせる二乃。
ところが、その図面を見た永瀬の顔は、風が吹いていないにもかかわらず、苦虫を噛み潰したように険しく歪んでいた。
「……申し訳ございません、奥様。その資料は、手違いでファイルに紛れ込んでしまったものです。そのビルだけは、絶対におすすめできません」
「えっ、どうしてよ? まさかここも、夜中にミサイルが飛んでくるとか言うんじゃないでしょうね?」
「いえ、治安も周辺環境も抜群ですし、建物自体も築浅で最高の状態です。ですが……」
言葉を濁し、重苦しいため息をつく永瀬。
「実はそのビル……我が社の悪質なライバル企業である『ミネルヴァ不動産』が裏で手を回している、いわくつきの物件なのです」
ちょうどその時。
換気口の隙間から、またしてもスッと風が吹き抜けた。
永瀬の背筋がピンと伸び、滑らかな口調で裏事情をぶちまけ始める。
「元のオーナー様は優しくて人の良いご老夫婦なのですが、ミネルヴァ不動産の甘い言葉に騙されて不利な契約を結ばされてしまいました。さらに連中は、物件の競売価格を不当に暴落させて二束三文で買い叩くために、タチの悪い反社グループを『占有屋』として一階のオフィスに不法に居座らせているのです! 警察も民事不介入を盾にすぐには動けず、オーナー様は毎日脅されて泣き寝入り寸前! まともなお客様が手を出せば、あの狂暴な占有屋どもにどんな嫌がらせを受けるか分かりません!」
「せんぱーいっ! 他社の黒い手口まで全部バラしちゃってますーっ!」
わたわたと手を振る月下さん。
風が止み、永瀬が「またやってしまった……」と頭を抱えた、その瞬間だった。
バシッ!
図面を片手に、二乃がすごい勢いで俺の背中を引っ叩いた。
「痛っ! な、なんだよ急に!」
「聞いたでしょ、八雲! そんな汚いやり方で、優しいおじいちゃんとおばあちゃんを泣かせてる連中がいるのよ! しかも、よりによって私が一目惚れした、私たちの新しいお家をゴミ溜めみたいに占拠してるなんて……絶対に許せないわ!」
二乃の美しい眉がキリッと吊り上がる。
その大きな瞳には正義の炎──いや、『私の理想のアイランドキッチンを汚すな』という猛烈な怒りの炎がメラメラと燃え上がっていた。
「いや、怒るのは分かるけどさ。わざわざそんなトラブル物件に首を突っ込まなくても、もう一回別の不動産屋に行けば……」
「他にこんな完璧な間取りはないの! それに、あんたもこれ以上、爆弾が飛んでくる街や戦車が走る街を何十件も連れ回されたくないでしょ!?」
「うっ……それは確かに嫌だけど」
「そもそも、うちの看板が何だったか忘れたの? 『揉め事処理屋』でしょ! あんたがパパッとその占有屋を掃除してあげれば、オーナーさんも助かるし、私たちは最高のビルを安く手に入れられるし、正直でいい人な永瀬さんの成績にもなる! 全員ハッピーで一石三鳥じゃない!」
(一石三鳥って、働くのは俺だけじゃん……!)
「文句言わない! そのビルが手に入ったら、新しいキッチンでの記念すべき最初のディナーは、あんたが一番好きな特大ハンバーグと濃厚ビーフシチューのダブルメインにしてあげるから!」
ぐっ、と喉が鳴った。
ハンバーグとビーフシチューのダブルメイン。
しかも、二乃がここまで目を輝かせて「ここがいい」と言っているのだ。
少しくらいのゴミ掃除なら、引っ越しの手間賃代わりと思えば安いものか。
「……わかったよ。永瀬さん、今からそのビルを見に行ってもいいかな?」
向き直って声をかけると、永瀬はギョッとして首を横に振った。
「えっ!? い、いや、旦那様! ですからあそこには、柄の悪い男たちが十人以上もたむろしておりまして、近づくだけでも危険です!」
「大丈夫、外からちょっと様子を見るだけですよ。もし危なそうだったらすぐに逃げますから。ね、行きましょう」
ニッコリと笑って背中を押すと、永瀬は二乃の「絶対に行くわよ」という無言の圧力にも押され、渋々といった様子で車をそのビルへと向かわせた。
*
静かな通り沿いに見えてきた三階建てのレンガ調ビルは、写真で見るよりもずっと素敵だった。
日当たりも抜群で、二階の大きな窓からは、二乃が欲しがっていた広々としたキッチンスペースがちらりと見えている。
だが、一階のガラス張りのエントランス前には、異様な光景が広がっていた。
「立ち入り禁止」のテープが雑に貼られ、その内側や入り口の階段に、金髪やサングラス、ジャージ姿の柄の悪い男たちが十数人、パイプ椅子を並べて我が物顔でたむろしている。
幸い、まだ居座り始めたばかりなのか、建物の壁や床には傷も汚れもついていない。
「……ねえ八雲、見て。お家自体はすっごく綺麗よ。まだ汚されてないみたい」
「ああ。ここなら、二乃が言ってたパン屋も駅前にあったし、文句なしだな」
「おいおい、誰だてめえら!」
ビルの前で話していると、リーダー格らしい頬に傷がある大男が立ち上がった。
食べていたカップ麺の空き容器を床に放り投げようとしながら、ドスの利いた声で凄んでみせる。
「ここは今、俺たちが正式に借りてんだ。見学だか何だか知らねえが、用がねえならとっとと失せろや!」
その瞬間。
隣にいる二乃のこめかみが、ピキッと音を立てたのが分かった。
「……ちょっと。その汚いカップ麺の容器、私の玄関タイルに捨てたら承知しないわよ」
「あぁん!? なんだこのアマ、誰の玄関だって!?」
大男が一歩踏み出そうとした、まさにその時。
春一番のような強い風が、通りを一気に吹き抜けた。
バサァッ!
永瀬のスーツの裾が激しく翻る。
さっきまで「やはり危険です、車に戻りましょう」と腰が引けていた永瀬の目からハイライトが消え、ツカツカと男たちの前へと進み出た。
「──いいえ、失せるのはあなた方のほうです」
「はぁ!? なんだてめえ、不動産屋か!?」
「あなた方が主張している短期賃貸借契約は、ミネルヴァ不動産と通謀して作られた虚偽表示であり、民法第九十四条により完全に無効です! 所有権に基づく明渡しの仮処分が下れば、あなた方のような対抗要件を備えない不法占拠者は言い訳一つできず即座に強制排除されます! そもそも、正当な権原なく他人の不動産を占拠する行為は、刑法第二百三十五条の二『不動産侵奪罪』に該当し、十年以下の懲役に処される重罪です!」
一切の噛みもなく、マシンガンのような早口で法律の条文を叩きつける永瀬。
「ぶっちゃけ申し上げますと、ミネルヴァ不動産は警察が本格的に動く前にあなた方をトカゲの尻尾切りとして見捨てる算段です! わずかな日当のために前科者になりたくなければ、今すぐその汚いパイプ椅子を畳んで出ていくのが、あなた方の人生において最も賢明な判断と言えます!!」
完璧な論破だった。
ぐうの音も出ない正論の嵐に、占有屋の男たちは顔を真っ赤にして言葉を失っている。
直後、ピタリと風が止んだ。
「ハッ!? わ、私はまたなんて命知らずな挑発を……!」
我に返った永瀬が両手で口を押さえて青ざめた時には、もう遅かった。
「てめえ……ゴチャゴチャと賢しい口を利きやがってぇぇっ!!」
「不動産屋ごとミンチにして東京湾に沈めてやるよ、コラァッ!!」
図星を突かれて完全に逆上した男たちが、パイプ椅子を蹴り飛ばして一斉に立ち上がる。
ジャンパーの懐からバタフライナイフを抜き、後ろに隠してあった金属バットや鉄パイプを振り上げた。
「きゃあああっ! せ、先輩、逃げてください!」
月下さんが悲鳴を上げる。
永瀬は「つ、月下、私の後ろに隠れていろ……!」と腕を広げて前に出たものの、その革靴のつま先は生まれたての小鹿みたいにガクガクと震えていた。
「あー、永瀬さん。カッコいいところ悪いですけど、あとは俺に任せてもらっていいですか」
永瀬の肩を軽く叩いて後ろへ下げ、隣で腕組みをしている二乃をチラリと見る。
「二乃、制限時間は?」
「カップ麺の汁が床にこぼれる前よ。あと、ガラスを一枚でも割ったらビーフシチューのお肉を半分に減らすわ」
「厳しいねぇ、うちのオーナー様は」
ポケットに左手を入れたまま、スッと男たちの前に進み出た。
「おいおい、お兄さんたち。永瀬さんの言う通り、大人しく帰ったほうが身のためだぞ。これから俺たちが買う家の壁紙やガラスに、傷一つでもつけたらタダじゃおかないからな」
「はぁ!? なんだこの優男は! てめえも一緒にぶっ潰してやるよ!」
先頭の大男が、金属バットをフルスイングで頭めがけて振り下ろしてくる。
遅い。
あくびが出るほど遅いし、軌道が素直すぎる。
心臓の奥で、スイッチを入れる。
全身の毛細血管に熱いオーラが駆け巡り、皮膚の表面に極薄の『纏』の膜が張る。
建物のタイルを割らないよう、足の裏の力を精密にコントロールし、摩擦を無視した無音の踏み込みで前へと滑り込んだ。
シュンッ。
「なっ……? 消え──」
大男がバットを空振りするより早く、懐のど真ん中に潜り込んでいた。
建物の壁に吹き飛ばして傷をつけないよう、打撃のベクトルをすべて相手の体内の奥へと向ける。
トン、と右の掌底を男のみぞおちに軽く押し込んだ。
「……ッ」
声すら出さず、大男が糸の切れた操り人形みたいにその場でストンと膝から崩れ落ちる。
手から離れたカップ麺の容器を、床に落ちる寸前で左手でひょいっとキャッチした。
一秒。
隣でナイフを構えていた二人目の手首を、すれ違いざまに指先で弾いて刃物を宙に浮かせる。
そのまま右の手刀を首筋の急所へ滑らせた。
三人目と四人目の顎の先を、流れるような最小限の重心移動で連続して下から弾き上げる。
二秒。
後ろで固まっていた残りの十人の間を、ただの散歩でもするようにすり抜けていく。
すれ違いざまに、鳩尾、脇腹、うなじへと、風のような掌底と指弾を置いていくだけ。
誰一人として、俺のジャケットの裾すら掴めない。
壁にぶつかる音も、骨が折れる不快な音も、血が一滴飛び散ることもない。
三秒。
最後の一人の背中を通り過ぎ、エントランスの入り口でくるりと振り返ったのと同時だった。
ドサドサドサドサッ!!
十数人の大男たちが、まるでドミノ倒しのように一斉に白目を剥いて、静かに床へと沈み込んだ。
「ふう。ほら、カップ麺の汁も一滴もこぼれてないぞ」
左手に持っていた容器をゴミ袋に放り込む。
そのまま気絶している連中の襟首を片手で二人ずつ掴み、ビルの外の道路脇へとポイポイと綺麗に並べて放り出した。
あとは警察に「不審者が勝手に集団で昼寝をしてます」と匿名で通報しておけば、きっちり回収してくれるだろう。
パンパン、と手を払って振り返ると、永瀬と月下さんが、まるで手品でも見たかのように目を点にして固まっていた。
「……えっ? い、今、何が起きたんですか……!? あんなにいた怖い人たちが、全員急に寝ちゃいましたけど……!」
目を白黒させる月下さんに向かって、首の後ろを掻きながら適当な笑みを浮かべる。
「あー、ほら、春って急に暖かくなるから、一斉に貧血でも起こしたんじゃないですかね。見た感じ、野菜とか全然食べてなさそうな人たちだし」
「ひ、貧血で十人も同時に白目を剥きますかね……!? 旦那様、一体何者なんですか……!」
永瀬が震える声で尋ねてくる横を、ヒールの音を鳴らして歩いてきた二乃が通り過ぎ、俺の隣に並んでフッと笑った。
「お疲れ様、八雲。ほこり一つ立てずに三秒で掃除できたわね、百点満点よ」
「だろ? これでお肉倍増のビーフシチューは確定だな」
「ええ、約束通り特上の牛バラ肉をたっぷり煮込んであげるわ。さあ永瀬さん、邪魔なゴミは片付いたんだから、さっそく中を案内してくれるかしら?」
「は、はいっ! ただいま直ちに!」
*
その後の展開は、驚くほどトントン拍子だった。
警察のパトカーが道路脇で昼寝をしていた占有屋たちを回収していくのと入れ違いに、連絡を受けた元の老オーナー夫婦が駆けつけてきたのだ。
綺麗さっぱり片付いたエントランスを見るなり、老夫婦は「まさか本当にあの恐ろしい連中がいなくなるなんて……」とハンカチで目頭を押さえ、俺たちと永瀬の手を握って何度も頭を下げてくれた。
『あなた方のような頼もしいお二人に使っていただけるなら、このビルも浮かばれます。どうか今日から、お二人の城として自由に使ってください』
感激したご夫婦は、当初の安い価格からさらに大幅な値引きを申し出てくれただけでなく、その場で鍵の引き渡しまで快諾してくれた。
風が止んで本来の敏腕営業マンに戻った永瀬も、ここぞとばかりに驚異的な手際を発揮する。
ミネルヴァ不動産との不当な契約の解除手続きから、重要事項説明、ネットバンキングでの即時決済と売買契約書の作成までをノンストップでこなし、夕方にはすべての手続きが正式に完了してしまったのだ。
契約を終え、深々と頭を下げる永瀬と月下さんに見送られて、俺と二乃はもう一度、今度は「自分たちのもの」になったばかりの三階建てビルへと戻ってきた。
雨はいつの間にか止んでいた。
雲の切れ間から差し込むオレンジ色の夕日が、二階の大きな窓から室内を温かく照らし出している。
まだ家具は何も置かれていない、ガランとした広いリビング。
木の新しい匂いがほのかに漂う中、二乃は部屋の中央に据えられた真っ白なアイランドキッチンの前に立ち、ピカピカの調理台を愛おしそうに指先でなぞっていた。
「すごいわね、八雲。ここが今日から、私たちの新しい場所になるのよ」
「ああ。これだけ屋根が分厚くて頑丈なら、どれだけ春の嵐が来ても鍋やバケツを並べずに済むな」
「ほんとよ。私のお鍋は、お料理を作るためだけに使ってあげるんだから」
クスクスと笑い、キッチンの蛇口やコンロのつまみを嬉しそうに確かめる二乃。
「ねえ、引っ越しの荷物が片付いたら、まずは新しいお皿とマグカップを買いに行きましょうよ。あ、あとリビングのカーテンも選ばなきゃ」
「また表参道で荷物持ちか? まあ、あのボロ部屋から抜け出せたと思えば、いくらでも付き合うけどさ」
「ふふん、言ったわね。じゃあ、あんたのトレーニングルームに置くダンベルも、ついでに一番重いやつを買わせてあげるわ」
軽口を叩きながら、二乃がキッチンカウンターの向こう側から、夕日に照らされた顔を上げた。
その大きな瞳が、まっすぐに俺を捉える。
「……ねえ、八雲。ここを綺麗に守ってくれて、ありがとう」
真新しいシルバーの鍵を胸元でギュッと握りしめ、ふわりと柔らかく微笑む二乃。
「このキッチンで、これから毎日、あんたがどこにも行きたくなくなるくらい美味しいご飯をいっぱい作ってあげる。だから……これからも、ずっとよろしくね」
「……ああ。俺の胃袋はもうとっくに、二乃のご飯なしじゃ生きられない仕様になってるからな。いつだって準備万端だよ」
少しだけ熱くなった頬を誤魔化すように顔の向きを変え、夕暮れの光に包まれた新しいリビングを見渡した。
*
三年前のあの日。
チンピラに追われてあのボロ事務所の薄っぺらいドアを叩いた時、こんな未来が待っているなんて夢にも思わなかった。
最初はただ、自分と姉妹たちの身を守るために、あいつを利用してやろうと思っただけだったのに。
狭い二口コンロの前で背を丸めてハンバーグを焼き、すり減ったソファでだらしない寝顔を晒すあいつに毛布をかけてやり、時には銃弾が飛び交う死線を二人でくぐり抜けてきた。
いつの間にか、あの雨漏りする殺風景な部屋が、私にとって世界で一番安心できる居場所になっていた。
そして今、私の手の中には、あいつと二人で選んだ新しいお家の鍵がある。
窓辺に寄りかかって、少し照れくさそうに外を眺めている八雲の横顔を見つめる。
普段はヘタレで、面倒くさがりで、すぐに逃げようとするくせに。
私が望んだものを守るためなら、どんな相手でもすぐに片付けてしまう、私だけの最強の所長さん。
キッチンの前からゆっくりと歩み寄り、八雲の隣に並んで、そのジャケットの袖口を指先でキュッと掴んだ。
「……ん? どうした、二乃」
あいつが驚いたようにこちらを見る。
夕日のせいにして、少しだけ熱くなった顔をグッとあいつの目の前まで近づけ、逃げられないように真っ直ぐに見上げながら言ってやった。
「いい、八雲? 新しいお家になったんだから、これからは家賃の代わりに、今まで以上に私の隣でしっかり働いてもらうわよ。……覚悟しておきなさいよね、私のパートナーさん」