念能力者が行く多重クロス世界 作:匿名のななし
茶封筒。
中身が透けないように二重になっている、あの事務用の茶色い封筒だ。
机の上に叩きつけられた衝撃で、封筒の口から少しだけ中身が顔を覗かせている。
見間違いじゃない。
見慣れた福沢さんの顔だ。それが帯で束ねられている。
ざっと見て、厚みは一センチ以上ある。
ということは、百万円は軽く超えているってことだ。
「……ねえ二乃。それ、何?」
俺は引きつった笑顔で尋ねた。
「決まってるでしょ。今日の依頼よ」
二乃は悪魔のように微笑んで答えた。
ハンバーグのデミグラスソースの甘い匂いと、生々しい紙幣の匂いが混ざり合って、俺の脳みそを混乱させる。
普通なら、大金を目にして喜ぶところだろう。
「やったぜ、これでしばらく遊んで暮らせる!」って。
でも、俺は違う。
この狂った世界で、この金額がポンと前金で提示される意味。
それはつまり、「命を賭けてね」というメッセージに他ならない。
安い仕事には安い理由があり、高い仕事には高い理由がある。
百円で買えるジュースには百円の価値しかないように、百万円以上ポンと払う人間は、それ以上の価値がある何かを俺に求めているのだ。
大抵の場合、それは弾除けになることだったり、ヤバい連中のアジトに殴り込むことだったりする。
どっちも俺のやりたいことじゃない。
俺は痛いのが嫌いだし、危ない橋は渡りたくないのだ。
「……とりあえず、飯食っていい?」
俺は茶封筒から目を逸らし、湯気を立てるハンバーグに向き直った。
「冷めないうちにどうぞ。自信作だから」
二乃は腕を組んで、ふふんと鼻を鳴らす。
俺は箸を割って、ハンバーグの中央に突き立てた。
箸の先から伝わってくる、程よい弾力。
そのまま力を込めて割ると、中から透明な肉汁がじゅわっと溢れ出してきた。
鉄板の上でデミグラスソースと肉汁が混ざり合い、小さな音を立てている。
完璧だ。
見た目だけで百点満点を叩き出している。
俺はふうふうと息を吹きかけて熱を逃がし、大きめの一口を口に放り込んだ。
「……んんっ!」
美味い。
めちゃくちゃ美味い。
肉の旨味が口の中いっぱいに広がって、そこに濃厚なソースが絡みつく。
玉ねぎの甘みと、ナツメグかなにかのスパイスの香りが鼻に抜ける。
噛めば噛むほど味が深くなる。
ご飯が無限に進むやつだ。
俺は無言で白飯を掻き込み、再びハンバーグに箸を伸ばした。
あっという間に半分くらい平らげてしまったところで、目の前に座っている二乃が、満足そうに微笑んでいるのに気がついた。
「どう? 美味しいでしょ?」
「……悔しいけど、めちゃくちゃ美味い。洋食屋出せるレベルだよ、これ」
「当然よ。あんたの胃袋を満足させるくらい、朝飯前なんだから」
俺は味噌汁をすすりながら、小さくため息をついた。
二乃がこの事務所に転がり込んできてから、もう数年が経つ。
あの日のことは、今でもはっきりと覚えている。
チンピラに追われて飛び込んできた、生意気な女子高生。
俺の力を見て、「雇って」と強引に押し入ってきたあの日から、俺の平和で怠惰な一人暮らしは終わりを告げた。
最初はすぐに音を上げて帰ると思っていた。
どうせお嬢様の家出遊びみたいなものだろうと。
でも、二乃は本気だった。
家に帰らない代わりに、この事務所の雑用から掃除、洗濯、そして毎日の食事まで、すべてを完璧にこなしてみせたのだ。
特に料理の腕前は異常だった。
冷蔵庫の余り物でプロ顔負けのフレンチを作ったり、安い肉を高級ステーキみたいに焼き上げたり。
俺のような、コンビニ弁当とカップ麺で生き延びていた男にとって、彼女の手料理はあまりにも強力な武器だった。
完全に胃袋を掴まれた。
今では、彼女の作るご飯がないと生きていけない体になってしまっている。
しかも、ただの家政婦として居座っているわけじゃない。
あの日、俺がチンピラを追い払った力に興味を持った二乃は、「私もそれができるようになりたい」と言い出したのだ。
最初は適当にごまかしていた。
そもそも、俺の使う念能力は『転生特典』として手に入れた完全に先天的な代物だ。後天的な修行で発現するようなものだとは到底思えなかった。
事実、これまでたくさんの人間を見てきたが、自力で念能力に目覚めている奴なんてただの一人も見たことがない。
だから、完全に「駄目で元々」のつもりだったのだ。適当に教えれば、どうせすぐに音を上げて諦めるだろうと。
でも、俺は彼女の根性を舐めていたらしい。
「私だって、自分の身くらい自分で守れるようになりたいの。ずっとあんたの後ろに隠れてるなんて、性に合わないわ」
そう言って、二乃は俺が教えた基礎の基礎、体の中のエネルギーを感じる訓練を、毎日欠かさず続けるようになった。
最初は目に見える変化なんて何もなかった。
でも、半年が過ぎた頃から、彼女の周りの空気が少しずつ変わり始めたのだ。
あり得ないことだが、二乃は血を吐くような努力だけで念のコツを掴んでしまった。もしかすると、俺の転生特典に何かしらの隠し仕様でもあったのかもしれないが……。
ともかく、今の彼女は手のひらに薄くオーラを纏うことができるようになり、自分の気配を消すコツを覚え、ちょっとしたナイフの突きなら、腕に気を集中させて弾き返せるくらいにはなっている。
基礎的な身体強化。
俺のように鉄パイプをへし折るようなデタラメなことはできないが、街のチンピラに絡まれたくらいなら、一人で相手をボコボコにして帰ってくるくらいの実力は身につけてしまった。
「あんたの教え方が悪いのよ。もっとスパルタでいいのに」なんて文句を言いながら、メキメキと腕を上げている。
おかげで、今では立派な相棒だ。
交渉の場では彼女の強気な態度が役に立つし、何より見た目が可愛いから、相手の警戒心を解くためのカモフラージュ役としても重宝している。
でも、それとこれとは話が別だ。
俺は残りのハンバーグを平らげ、お茶を飲んで一息ついた。
そして、机の上の茶封筒を指差した。
「で? 美味しいご飯をごちそうになったところで聞くけど。そのお金、どういう案件?」
「護衛よ。簡単なボディーガード」
二乃は事もなげに言った。
「簡単ねぇ。簡単なボディーガードに、こんな分厚い束を出す物好きがいるのかい?」
俺は封筒を指先でツンツンと小突いた。
「これ、どう見ても前金だろ? 全額じゃないよね」
「ええ。無事に仕事が終わったら、さらに倍の額が振り込まれる手はずになってるわ」
「……高すぎる。絶対におかしい。断ろう」
俺は即座に首を横に振った。
「ちょっと、話くらい聞きなさいよ!」
二乃が机をバンッと叩いて身を乗り出してくる。
「あのね、うちは今、火の車なのよ! あんたが先月、面倒くさいからって仕事を三つも断ったせいで、今月の家賃もギリギリなんだからね! 光熱費だってタダじゃないのよ!」
「いやいや、火の車って言うけどさ。俺たちの生活レベルからしたら、そこまで困ってないでしょ? 毎日こんな美味しいハンバーグ食べられてるんだから」
「これは特売のひき肉と、私の腕でなんとかしてるの! スーパーのタイムセールで、あのおばちゃんたちと戦って勝ち取ってきたお肉なのよ! あんたもたまには買い出し手伝いなさいよね!」
二乃の剣幕に、俺は思わずのけぞった。
スーパーの特売戦争。
この世界におけるスーパーのタイムセールは、ただの買い物ではない。
主婦の皮を被った戦士たちや、なぜかエプロン姿で参戦してくる元極道のヤバいおっさんたちが、割引シールを巡って血で血を洗う争いを繰り広げる戦場だ。
そんな場所に、二乃は丸腰で(いや、念で強化してはいるが)飛び込んでいって、俺たちの食卓を守ってくれているのだ。
頭が上がらない。
でも、だからといって命を危険に晒すわけにはいかない。
「二乃の苦労はわかってるよ。いつも美味しいご飯ありがとう。でもさ、お金っていうのは命あってのものだろ? この金額を出すってことは、相手はプロの殺し屋とか、ヤバい組織に狙われてるってことだ。俺、そういうのは専門外なんだよね」
俺は両手を広げて、やれやれというポーズをとった。
「俺の仕事は、迷子の犬を探したり、浮気の証拠を写真に撮ったり、あとはせいぜい、タチの悪い借金取りから逃げる手伝いをするくらいのもんだ。ドンパチやるのは御免だよ」
「あんたなら、ドンパチやっても勝てるでしょ。鉄砲の弾だって素手で弾き返せるんだから」
「弾き返せるけど、痛いんだよ! 当たったら『いっ!』ってなるの! 蚊に刺されたくらいには痒くなるんだよ!」
「蚊に刺された程度で文句言わないの! 男でしょ!」
二乃は呆れたように大きなため息をついた。
俺の能力の異常さを一番身近で見ている彼女からすれば、俺が過剰に怖がっているように見えるらしい。
確かに、俺の肉体は普通の人間からすればバグみたいな硬さを誇っている。
機関銃で撃たれようが、バズーカを撃ち込まれようが、気を集中させれば無傷で耐え切る自信はある。
でも、それは結果として死なないというだけで、精神的なストレスは半端じゃないのだ。
俺は痛いのが嫌いだし、怖いのも嫌いなのだ。
平和な布団の中で、ぬくぬくと眠っていたい。
「とにかく、俺はパス。もっと安全で、割のいい仕事を探してきてよ」
俺がそう言って立ち上がろうとすると、二乃はニヤリと笑って、最後の手札を切ってきた。
「そう? 残念ね。じゃあ、今日の夜ご飯はナシ。明日からのご飯も、全部塩おにぎりだけにするわ。おかずは沢庵一枚ね」
ピタリ、と俺の動きが止まった。
背筋に冷たい汗が流れるのを感じる。
「……マジで言ってる?」
「マジよ。稼ぎがないんだから、食費を削るしかないじゃない。私が毎日工夫して作ってるご飯が食べたいなら、しっかり働いてお金を入れなさい」
二乃の目は本気だった。
彼女はこういう時、絶対に妥協しない。
一度言い出したら、本当に一週間でも一ヶ月でも塩おにぎりを出し続けるだろう。
あの美味しいハンバーグや、肉じゃがや、カレーライスが食べられなくなる。
そんな生活、俺に耐えられるだろうか。
いや、無理だ。
完全に胃袋の主導権を握られている俺に、彼女の提案を拒否する力は残されていなかった。
「……わかった。わかったよ。話だけは聞く。でも、本当にヤバそうだと思ったら、その時は絶対に断るからな」
俺がしぶしぶ席に座り直すと、二乃は満足そうに頷いた。
「それでこそ私の相棒ね。じゃあ、さっそく仕事の説明をするわ」
二乃は茶封筒の下から、一枚のクリアファイルを取り出した。
中には、依頼人の情報と思われる書類が数枚入っている。
俺は眉間を揉みながら、説明を促した。
「で、依頼人は? 何から逃げてるの?」
「依頼人は、とある資産家の男性よ。最近、何者かに命を狙われているらしくて、どうしても外出しないといけない用事があるから、その間の護衛を頼みたいってことみたい」
「資産家ねぇ……まあ、お金持ってるやつは敵も多いからな。それで、どこに行くの? 都内の高級ホテル? それとも海沿いの別荘?」
俺が適当に尋ねると、二乃は書類から目を上げて、俺の顔をまっすぐに見た。
「米花町よ」
その名前を聞いた瞬間。
俺の脳内で、危険を知らせるサイレンがけたたましく鳴り響いた。
「は?」
俺は間抜けな声を出した。
「だから、米花町。指定された場所は、米花町に新しくできた高層ビルよ」
「ちょっと待って。今、米花町って言った?」
「ええ、言ったわ」
「……」
俺は机の上に突っ伏した。
嘘だろ。
この世で一番、行きたくない場所だ。
いや、この世界には行きたくない場所がたくさんある。
カラスが飛び交う不良だらけの高校の周辺とか、毎晩ヤクザがドンパチやっている新宿の神室町とか、負けたら指を切り落とされるような地下カジノとか。
でも、それらを全部ひっくるめても、米花町のヤバさには敵わない。
「……二乃ちゃんさぁ」
俺は突っ伏したまま、呻くような声を出した。
「米花町がどういうところか知ってて言ってんの?」
「知ってるわよ。ニュースでよく爆発してる町でしょ」
「よく、なんてレベルじゃない! 毎日だよ! 毎日どこかのビルが吹き飛んで、毎日誰かが毒殺されて、毎日誰かが密室で死んでるんだよ! あそこは呪われてるんだって! 日本中の犯罪者が集まるテーマパークみたいになってるんだから!」
俺は顔を上げて、必死に訴えかけた。
「あそこに行ったら、普通の護衛じゃ済まない。絶対に爆弾魔に巻き込まれるか、殺人事件の第一発見者にされるか、黒ずくめの怪しい連中に銃で撃たれて、変な薬を飲まされるかのどれかだ! 死亡率が異常なんだよ!」
俺の必死の抵抗を、二乃は涼しい顔で聞き流した。
「大げさね。たまたま事件が多いだけでしょ。それに、あんたなら爆発に巻き込まれても死なないじゃない」
「死なないけど、服は焦げるし、耳はキーンってなるし、警察の事情聴取は面倒くさいし! いいことなんて一つもない!」
「でも、このお金があれば、半年は遊んで暮らせるわよ」
二乃は茶封筒をポンポンと叩いた。
「それに、今日は記念日じゃない」
「記念日? なんの?」
俺が聞き返すと、二乃は少しだけ照れくさそうに目を伏せた。
「……あんたが私を助けてくれてから、ちょうど今日で丸三年よ。だから、大きなお仕事をして、パーッと美味しいものでもお祝いしようと思って」
「……」
そんなこと言われたら、断りづらいじゃないか。
ズルい。この子は本当に、人の操り方をよくわかっている。
三年。
もうそんなに経つのか。
あの日、震えながら俺のズボンの裾を掴んでいた女の子が、今では俺を米花町という死地へ送り込もうとしている。
成長したのか、それとも俺の教育が間違っていたのか。
たぶん、両方だろう。
「……あーもう、わかった! 行けばいいんだろ、行けば!」
俺は頭をガシガシと掻きむしって、自暴自棄気味に叫んだ。
「その代わり、今日の晩飯は回らない寿司な! それも一番高いやつ! ウニとイクラを腹いっぱい食わせろ!」
「ふふっ、交渉成立ね。任せておいて、お寿司でも焼肉でも、なんでもごちそうしてあげるわ」
二乃は嬉しそうに笑って、クリアファイルを俺の前に押しやった。
「依頼人は、米花町の新名所『米花ツインタワー』の最上階で待ってるわ。時間は今日の午後二時」
「ツインタワー……名前からして嫌な予感しかしない。絶対にどっちかのタワーとタワーを繋ぐ橋が爆破されるやつだろ、これ」
俺はぶつぶつと愚痴をこぼしながら、立ち上がって壁にかかっていたジャケットを羽織った。
「行く準備するから、二乃は下でタクシーでも捕まえておいてくれ。電車で行くのはごめんだ。駅が爆破されてたら嫌だし」
「わかったわ。あんまりモタモタしないのよ」
二乃が足取り軽く部屋を出ていくのを見送って、俺は大きなため息をついた。
窓の外を見ると、相変わらずどんよりとした曇り空が広がっている。
米花町。
よりによって、一番関わりたくない土地に行くことになるとは。
俺は引き出しを開けて、少し厚手の防刃ベストを取り出した。
自分の体だけで十分に硬いのはわかっているが、気持ちの問題だ。
シャツの下にベストを着込み、手首や足首の関節を念入りに回してストレッチをする。
体の中の「オーラ」の巡りを確認する。
いつもより少しだけ多めに、エネルギーのスイッチを入れておく。
何が起きてもすぐに対応できるように。
「さてと……死なない程度に稼いできますかね」
俺は机の上に残されていた茶封筒を無造作にポケットに突っ込み、事務所のドアノブに手をかけた。
ガチャリ、と音を立ててドアを開けると、階段の下から二乃の急かすような声が聞こえてきた。
「ちょっと八雲! タクシー捕まえたわよ! 早く降りてきなさい!」