現代日本に転生したけど、何かおかしくない? 作:匿名のななし
茶封筒。
中身が透けないように二重になっている、あの事務用の茶色い封筒だ。
机の上にドサリと叩きつけられた衝撃で、糊付けされていない口から中身が少しだけ顔を覗かせている。
見間違いじゃない。
見慣れた福沢さんの顔。それが几帳面に帯で束ねられている。
ざっと見て、厚みは一センチ以上。
ということは──百万円は軽く超えているってことだ。
「……ねえ、二乃ちゃん」
「何かしら、八雲所長」
俺が引きつった笑顔で尋ねると、二乃は小首を傾げ、蠱惑的で、それでいて凄みを孕んだ笑みを浮かべた。
「あのさ、このやたらと分厚い、生々しい物体は……何かな?」
「決まってるでしょ。今日の依頼の前金よ」
「前金……これ全部?」
「ええ。ポンと気前よく置いていってくれたわ」
ハンバーグのデミグラスソースの甘い匂いと、生々しいインクと紙幣の匂いが混ざり合う。
俺はハンバーグへ伸ばしかけた手を空中でピタリと止めたまま、目の前の札束を凝視することしかできなかった。
普通なら、大金を目にして手放しで喜ぶところだろう。
「やったぜ、これでしばらく遊んで暮らせる!」って。
だが、俺は違う。
この狂った無法地帯のような世界で、この金額がポンと『前金』で提示される意味とは何か?
答えは一つ。
「命を賭けてね」という死のメッセージに他ならない。
安い仕事には安い理由があり、高い仕事には高い理由があるのだ。
百万円以上ポンと払う人間は、それ以上の価値──大抵の場合は血の代償──を俺に求めている。
「……あのさ。俺、今からすごく大事な話をするけど」
「逃げる気なら聞かないわよ」
「逃げるっていうか、戦略的撤退の提案なんだけど」
「却下。さっさと食べなさいよ、ハンバーグ冷めちゃうわよ」
二乃は腕を組み、ふふんと鼻を鳴らした。
逃げ場はないらしい。
俺は茶封筒から無理やり目を逸らし、湯気を立てるハンバーグに向き直った。
「……とりあえず、飯食っていい?」
「どうぞ。今日のデミグラスは私の自信作だから、味わって食べてね」
パチン、と箸を割って、極厚のハンバーグの中央に突き立てる。
箸の先から伝わってくる、程よい弾力。
そのまま力を込めて割ると、中から透明な肉汁がじゅわぁっ、と滝のように溢れ出してきた。
鉄板の上でデミグラスソースと肉汁が混ざり合い、グツグツと小さな音を立てている。
完璧だ。
見た目だけで百点満点を叩き出している。
俺はふうふうと息を吹きかけて熱を逃がし、大きめの一口を口に放り込んだ。
「……んんっ!」
「どう? 美味しいでしょ?」
「……悔しいけど、めちゃくちゃ美味い。肉の旨味が爆発してる」
「ふふっ。赤ワインでじっくり煮込んだんだから当然よ」
玉ねぎの甘みと、ナツメグのスパイスの香りが鼻に抜けていく。
噛めば噛むほど味が深くなる。
間違いない。ご飯が無限に進むやつだ。
「これ、マジで洋食屋出せるレベルだよ。揉め事処理屋なんて畳んで、一階でレストランやろうよ」
「バカ言わないで。あんたの胃袋を満足させるくらい朝飯前なだけよ。私は所長のマネージャーであって、専属シェフじゃないんだからね」
呆れたように笑う二乃を前に、俺は無言で白飯を掻き込み、再びハンバーグに箸を伸ばす。
あっという間に半分くらい平らげてしまったところで、俺は味噌汁をすすりながら、小さくため息をついた。
二乃がこの事務所に転がり込んできてから、もう数年が経つ。
あの日のことは、今でもはっきりと覚えている。
チンピラに追われて飛び込んできた、生意気な女子高生。
俺の力を見て、「雇って」と強引に押し入ってきたあの日から、俺の平和で怠惰な一人暮らしは終わりを告げた。
最初はすぐに音を上げて帰ると思っていた。どうせお嬢様の家出遊びみたいなものだろう、と。
しかし、二乃は本気だった。
この事務所の雑用から掃除、洗濯、そして毎日の食事まで、すべてを完璧にこなしてみせたのだ。
特に料理の腕前は異常で、今では彼女の作るご飯がないと生きていけない体になってしまっている。
しかも、ただの家政婦として居座っているわけじゃない。
あの日、俺がチンピラを追い払った力に興味を持った二乃は、「私もそれができるようになりたい」と言い出し、俺が適当に教えた基礎訓練を血を吐くような努力でモノにしてしまった。
今では手のひらに薄くオーラを留める『纏』や、気配を消す『絶』の真似事ができ、街のチンピラに絡まれた程度なら無傷でボコボコにして帰ってくる。
「……本当、立派なバケモノに育ちやがって」
「ん? 何か言ったかしら?」
「いや、二乃の手料理が五臓六腑に染み渡るなって」
「そう。ならしっかり働いて、食費を稼いでもらわないとね」
笑顔のまま放たれた鋭い一言に、俺はコトリ、と湯呑みを置いた。
机の上の茶封筒を指差す。
「で? 美味しいご飯をごちそうになったところで聞くけど。そのお金、どういう案件?」
「護衛よ。簡単なボディーガード」
二乃は事もなげに言った。
「簡単ねぇ……簡単なボディーガードに、こんな分厚い束をポンと出す物好きがいるのかい?」
「世の中にはお金が有り余ってる人もいるのよ」
「これ、どう見ても前金だろ? 全額じゃないよね」
「ええ。無事に仕事が終わったら、さらに倍の額が振り込まれる手はずになってるわ」
「……高すぎる。絶対におかしい。断ろう」
俺が即座に首を横に振ると、二乃はバンッ! と両手で机を叩き、身を乗り出してきた。
「ちょっと、話くらい最後まで聞きなさいよ!」
「聞くまでもない! 命の危険がメガ盛り定食になってる!」
「あのね、うちは今、火の車なのよ! あんたが先月、『暑くて外に出たくない』とか『アニメの一挙放送があるから』って理由で面倒くさそうな仕事を三つも断ったせいで、今月の家賃もギリギリなんだからね!」
「いやいや、火の車って言うけどさ。俺たちの生活レベルからしたら、そこまで困ってないでしょ? 現に毎日こんな美味しい特製ハンバーグ食べられてるんだから」
「これは特売のひき肉と、私の腕でなんとかしてるの!」
二乃はビシッと俺を指差した。
「スーパーのタイムセールで、あのおばちゃんたちの肘打ちを躱して、たまに混ざってる元極道みたいなおっさんと競り合って勝ち取ってきたお肉なのよ! あんたもたまには買い出し手伝いなさいよね!」
「い、いや、俺があの戦場に行ったら、うっかりオーラで反撃しちゃいそうだからさ……」
「言い訳しない! とにかく、この仕事は絶対に受けるわよ!」
「二乃の苦労はわかってるよ。いつも美味しいご飯ありがとう。でもさ、お金っていうのは命あってのものだろ?」
俺は大げさに肩をすくめ、両方の手のひらを上に向けてみせた。
「この金額を出すってことは、相手はプロの殺し屋とか、ヤバい組織に狙われてるってことだ。俺、そういうのは専門外なんだよね。俺の仕事は、迷子の犬を探したり、浮気の証拠を写真に撮ったり、タチの悪い借金取りから逃げる手伝いをするくらいのもんだ。ドンパチやるのは御免だよ」
「あんたなら、ドンパチやっても勝てるでしょ。鉄砲の弾だって素手で弾き返せるんだから」
「弾き返せるけど、痛いんだよ! 当たったら『いっ!』ってなるの! 蚊に刺されたくらいには痒くなるんだよ!」
「蚊に刺された程度で文句言わないの! 男でしょ! 少しはシャキッとしなさい!」
二乃は呆れたように大きなため息をついた。
俺の肉体は普通の人間からすればバグみたいな硬さを誇っているが、それは結果として死なないというだけで、精神的なストレスは半端じゃないのだ。
俺は痛いのが嫌いだし、怖いのも嫌い。平和な布団の中で、ぬくぬくと眠っていたい。
「とにかく、俺はパス。もっと安全で、割のいい仕事を探してきてよ。猫探しとかないの?」
「……そう? 残念ね」
俺がそう言って立ち上がろうとすると──二乃はニヤリと笑い、最後の手札を切ってきた。
「じゃあ、今日の夜ご飯はナシ。明日からのご飯も、全部塩おにぎりだけにするわ。おかずは沢庵一枚ね」
ピタリ。
俺の動きが、不自然な角度で完全に止まる。
シャツの下で、嫌な汗がじわっと滲むのがわかった。
「……二乃ちゃん、嘘だよね? マジで言ってる?」
「マジよ。稼ぎがないんだから、食費を極限まで削るしかないじゃない。私が毎日工夫して作ってる美味しいご飯が食べたいなら、しっかり働いてお金を入れなさい」
スッと目を細めた彼女の瞳に、冗談の色は微塵もない。
完全に胃袋の主導権を握られている俺に、彼女の提案を拒否する力は残されていなかった。
「……わ、わかった。わかったよ! 話だけは聞く! でも、本当にヤバそうだと思ったら、その時は絶対に断るからな!」
「ふふっ、それでこそ私の相棒ね」
俺がしぶしぶ席に座り直すと、二乃は満足そうに頷き、茶封筒の下から一枚のクリアファイルを取り出した。
「それで? 依頼人は誰で、何から逃げてるの?」
「依頼人は、とある資産家の男性よ。最近、何者かに命を狙われているらしくて、どうしても外出しないといけない用事があるから、その間の護衛を頼みたいってことみたい」
「資産家ねぇ……まあ、お金持ってるやつは敵も多いからな。それで、どこに行くの? 都内の高級ホテル? それとも海沿いの別荘?」
俺が適当に尋ねると、二乃は書類から目を上げて、俺の顔をまっすぐに見た。
「米花町よ」
その名前を聞いた瞬間。
俺の脳内で、危険を知らせる特大のサイレンがけたたましく鳴り響いた。
「……はぇ?」
俺の口から、素っ頓狂で裏返った声が漏れた。
「だから、米花町。指定された場所は、米花町に新しくできた高層ビルよ」
「ちょっと待って。待って待って。今、米花町って言った?」
「ええ、はっきり言ったわ」
「…………」
俺は両手で顔を覆い、机の上に突っ伏した。
嘘だろ。
この世で一番、行きたくない場所だ。
「……二乃ちゃんさぁ」
俺は突っ伏したまま、呻くような声を出した。
「米花町がどういうところか知ってて言ってんの?」
「知ってるわよ。ニュースでよく爆発してるところでしょ?」
「よく、なんてレベルじゃない! 毎日だよ! 毎日どこかのビルが吹き飛んで、毎日誰かが密室で死んで、毎日ヒゲのおっさんが眠りながら事件を解決してるんだよ!」
俺はガバッと顔を上げて、必死に訴えかけた。
「あそこに行ったら、普通の護衛じゃ済まない! 絶対に爆弾魔に巻き込まれるか、殺人事件の第一発見者にされるか、黒ずくめの怪しい連中に銃で撃たれて、変な薬を飲まされるかのどれかだ! あそこだけ日本の死亡率のケタがおかしいんだよ!」
「大げさね。たまたま事件が多いだけでしょ。それに、あんたなら爆発に巻き込まれても死なないじゃない」
「死なないけど、服は焦げるし、耳はキーンってなるし、熱いんだよ! そのあとの警察の事情聴取だってめちゃくちゃ面倒くさいし! いいことなんて一つもない!」
「でも、このお金があれば、半年は遊んで暮らせるわよ」
二乃は茶封筒をポンポンと叩いた。
「それに、今日は記念日じゃない」
「……記念日? なんの?」
「……あんたが私を助けてくれてから、ちょうど今日で丸三年よ」
二乃は少しだけ照れくさそうに目を伏せ、上目遣いで俺を見た。
「だから、大きなお仕事をして、パーッと美味しいものでもお祝いしようと思って。……ダメ?」
「…………うっ」
そんな顔で、そんなこと言われたら、断りづらいじゃないか。
ズルい。この子は本当に、人の操り方をよくわかっている。
三年。もうそんなに経つのか。
あの日、震えながら俺のズボンの裾を掴んでいた女の子が、今では俺を米花町という死地へ笑顔で送り込もうとしている。
成長したのか、それとも俺の教育が間違っていたのか。たぶん、両方だろう。
「……あーもう、わかった! 行けばいいんだろ、行けば!」
俺は頭をガシガシと掻きむしって、自暴自棄気味に叫んだ。
「その代わり、今日の晩飯は回らない寿司な! それも一番高いやつ! ウニとイクラを腹いっぱい食わせろ!」
「ふふっ、交渉成立ね。任せておいて、お寿司でも焼肉でも、なんでもごちそうしてあげるわ」
二乃は嬉しそうに笑って、クリアファイルを俺の前に押しやった。
「依頼人は、米花町の新名所『米花ツインタワー』の最上階で待ってるわ。時間は今日の午後二時」
「ツインタワー……名前からして嫌な予感しかしない。絶対にどっちかのタワーとタワーを繋ぐ連絡橋が爆破されるやつだろ、これ」
俺はぶつぶつと愚痴をこぼしながら、立ち上がって壁にかかっていたジャケットを羽織る。
「行く準備するから、二乃は下でタクシーでも捕まえておいてくれ。電車で行くのはごめんだ。環状線が爆破されて時速六十キロ以下で走れなくなったら嫌だし」
「わかったわ。あんまりモタモタしないのよ」
二乃が足取り軽く部屋を出ていくのを見送って、俺は大きなため息をついた。
窓の外を見ると、相変わらずどんよりとした曇り空が広がっている。
米花町。
よりによって、一番関わりたくない土地に行くことになるとは。
俺は引き出しを開けて、少し厚手の防刃ベストを取り出した。
自分の体だけで十分に硬いのはわかっているが、気持ちの問題だ。
シャツの下にベストを着込み、手首や足首の関節を念入りに回してストレッチをする。
体の中の「オーラ」の巡りを確認する。
いつもより少しだけ多めに、エネルギーのスイッチを入れておく。何が起きてもすぐに対応できるように。
「さてと……死なない程度に稼いできますかね」
俺は机の上に残されていた茶封筒を無造作にポケットに突っ込み、事務所のドアノブに手をかけた。
ガチャリ。
音を立ててドアを開けると、階段の下から二乃の急かすような声が聞こえてきた。
「ちょっと八雲! タクシー捕まえたわよ! 早く降りてきなさい!」