現代日本に転生したけど、何かおかしくない? 作:匿名のななし
階段を駆け下りると、アパートの前に黄色いタクシーが停まっていた。
開け放たれた後部座席。中から二乃が眉を吊り上げ、せわしなく手招きしていた。
「ちょっと、遅いわよ! 早く乗りなさい!」
「はいはい、わかってるって。ちょっと準備に手間取っただけだよ」
「手間取る要素がどこにあるのよ。まさか遺書でも書いてたわけ?」
「縁起でもないこと言わないでくれる!? ちょっと靴紐の結び目を入念に固くしてただけ!」
「……逃げ足の準備だけは完璧ね」
二乃の呆れた視線を背に受けながら、俺は逃げ込むようにシートへ体を滑り込ませた。
──バタンッ。
ドアが閉まる鈍い音。それはまるで、牢獄の鍵をかけられたような絶望の響きだった。
使い込まれた布製シートから、独特の芳香剤の匂いが鼻を突く。
「運転手さん、お待たせしました。米花町の『米花ツインタワー』までお願い」
二乃が行き先を告げた瞬間。
初老の運転手は、まるで電流を浴びたようにビクッと肩を震わせた。
バックミラー越しに目が合う。
運転手はゴクリと生唾を飲み込み、縋るように激しく視線を泳がせた。
「……お客さん。今、米花町って、仰いましたか」
「ええ。急いでるの。高速に乗って飛ばしてちょうだい」
「いや、あの……誠に申し訳ないんですがね。私、あっちの方面はちょっと……その、管轄外と言いますか、ちょっと今日は車の調子もアレでして……」
「わかる! めちゃくちゃわかりますよ運転手さん!」
「ちょっと八雲、あんたは黙ってて」
「いやでも二乃、運転手さんも嫌がってるじゃないか! 無理強いは良くないよ、プロのドライバーの直感を信じるべきだ!」
俺が身を乗り出して擁護すると、運転手も「そうなんですよ!」と大きく頷いた。
このまま「やっぱり無理です」と降ろしてくれれば、俺は正々堂々と依頼を断れる。
だが、俺の共同経営者は甘くなかった。
「あのね、運転手さん。乗車拒否はルール違反じゃないかしら? メーター、まだ空車のままですよね」
二乃が声を低くして、じろりと運転手を睨みつける。
その氷のように冷たい声色は、車内の温度を数度下げたように錯覚させるほどだった。
「い、いや、乗車拒否なんてそんな大層なもんじゃありませんがね……。ただ、あそこは最近、どうも物騒でして。先週も大きなデパートで爆発があったばかりじゃないですか。その前は観覧車から火が吹いたとか、水族館の巨大水槽が割れたとか……」
言い分は百パーセント正しい。
そうだ、もっと言ってやれ。あそこは人間が日常的に近づいていい場所じゃない。
「だから、うちの会社でも『米花町への配車は自己責任で』って通達が出てるくらいでして……」
「そう。大変ね、運転手さんも」
二乃はハンドバッグを開けると、さっき受け取ったばかりの茶封筒を取り出した。
そして福沢諭吉を三枚抜き出し、運転席の隙間からスッと差し出した。
「お釣りはいらないわ。高速料金もここから払ってちょうだい」
「…………えっ」
「まさか、これでも『行けない』なんて言わないわよね?」
メーターと高速代を合わせても、せいぜい一万五千円。残りの一万五千円はすべて破格のチップだ。
初老の運転手は喉を震わせ、吸い寄せられるように札を指先で掴み取った。
「……シートベルトを、お締めください。お客様」
ガチャリ。無情にもメーターが回る。
タクシーは滑るように発進し、俺の淡い期待はコンクリートに叩きつけられて粉々に砕け散った。
「ちょっと二乃! なんで金の力で解決するのさ!」
「お金で動くなら安いものよ。運転手さんもお小遣いがもらえてハッピーじゃない。ウィンウィンよ」
「命の危険と一万五千円を天秤にかけてるんだぞ! 俺の命も同じくらい軽く見られてる気がするんだけど!」
「あんたの命は百万円以上の価値があるから大丈夫。さあ、高速を降りるまでに資料の残り、ちゃんと頭に入れておいて」
二乃は有無を言わさず、クリアファイルを俺の膝に押し付けた。
タクシーは料金所を抜け、高速道路の本線へ。
窓ガラスを、パラパラと小さな雨粒が叩き始める。
前方にはどんよりとした灰色の雲。まるで、これから向かう呪われた土地を覆い隠すように広がっていた。
俺は重い溜息とともに、クリアファイルを開いた。
依頼人は『大黒 建造』。六十代半ば。
恰幅が良く、いかにも成金といった顔写真が留められている。不動産やレジャー施設を手広く展開する『大黒グループ』の会長。
「ねえ。この大黒ってオッサン、何をして命を狙われてるわけ?」
「そこまでは詳しく書いてないわ。ただ、最近手がけているリゾート開発の件で、地元の反対派とか競合他社と揉めてるらしいの。警察にも相談してるみたいだけど、あそこの警察は今、別の連続殺人事件で手一杯らしくてね」
「また連続殺人かよ……この前もやってなかった?」
「日常茶飯事よ。だから私たちみたいな民間に回ってきたんでしょ」
俺は両手で顔を覆い、天を仰いだ。
米花署の警察官は、たぶん日本で一番過酷な職業だ。
朝出勤したら人が刺され、昼はレストランで客が毒殺され、夜は怪盗の予告状で駆り出される。おまけに現場には必ず小学生がウロチョロしていて、ドヤ顔で推理を披露し始めるのだ。
俺なら三日で胃に穴を開けて辞表を叩きつける。
「それで、大黒さんはどうしても外せない用事があって、今日の午後二時に米花ツインタワーに行かなきゃいけない。その間の身辺警護をうちの事務所に依頼してきた、と」
「……」
俺は書類の文字を追いながら、眉をひそめた。
おかしい。
大企業の会長なら、プロのSPを何十人も雇えばいい。
なぜだ? なぜわざわざ、今日名前を知ったような個人の弱小事務所に大金を払う?
「……裏があるな、間違いなく」
俺の呟きに、二乃は運転手に聞こえないよう声を落とした。
「私も変だと思ったの。だから知り合いの情報屋に探りを入れてみたんだけど……。この大黒さん、表向きはクリーンだけど、裏ではかなりグレーなことにも手を出してるみたい。地上げにマネーロンダリング。警察や真っ当な警備会社には知られたくない事情があるのよ」
「うわぁ、真っ黒じゃん。依頼人ガチャ大ハズレだよ」
苦い虫を噛み潰したように眉根が寄る。
狙ってくる連中は誰だ? 市民団体? 違う、十中八九、プロの殺し屋だ。
「だから、あんたの出番なのよ。裏の連中が来た時のための『切り札』。それに、私たちみたいな名もなき処理屋なら、万が一の時もトカゲの尻尾切りにしやすいしね」
「サラッと言うけど、トカゲの尻尾切りって、俺たちのことだよね?」
「そうよ。だから切られないように死に物狂いで立ち回りなさい」
二乃は腕を組み、淡々と事実を並べ立てた。
俺たちは、大黒の盾であり、使い捨ての駒。気分が悪いことこの上ない。
「……ねえ二乃。やっぱり帰らない? 俺、急に胃が痛く……」
腹を押さえる俺を、二乃は冷徹な目で見下ろした。
「今日の晩ご飯は、最高のネタを揃えた回らないお寿司。明日の朝は、ふっくら焼いた鮭と出汁巻き卵。夜は……そうね、あんたの好きなビーフシチューを、とろとろの牛すね肉で作ってあげるわ」
「……ぐっ」
「さらに翌日は、特製カツ丼よ。サクサクの衣に半熟卵を絡めて……」
「……行きます。全力でお守りします。米花町だろうが地獄だろうが行かせていただきます」
食欲という最強の人質。完全に俺のウィークポイントを掌握されている。
やがてインターチェンジを降りると、窓の外の空気が変わった。
高いビル群。派手な看板。どこか浮ついた空気。
交差点の歩道橋には、「ようこそ米花町へ」の横断幕。
「ようこそ、じゃないよ……。今すぐ引き返せ、だろ」
見えない結界でも張ってあるんじゃないかと思うほど、空気が重い。
俺はジャケットの下、防刃ベストの感触をトントンと確かめた。
「……ちょっと。あんた、まさかそれ着てきたの?」
二乃が呆れた声を出す。
「着てきたよ! 当たり前だろ!」
「自分の体の硬さ分かってるの? ナイフなんて素肌で折れるくせに、そんなもの着て意味あるの?」
「痛いのが嫌なんだってば! 衝撃をゼロにするわけじゃないし、お気に入りのシャツにナイフや銃弾の穴が開いたら凹むだろ!」
「服の心配……もう好きにしなさい。動きにくくなっても知らないわよ」
二乃は深くため息をついた。
どんなに体が頑丈でも、心までは鋼じゃない。血を見るのも怖い。できればポップコーンを食べながら、安全な場所でアクション映画として眺めていたいのだ。
俺は目を閉じ、深く呼気を吐き出した。
へその下、丹田の奥底にある熱いエネルギーの塊。
心臓の鼓動に合わせ、その熱を全身の精孔から一気に噴出させる。
指先から足の先まで、不可視のオーラで分厚い膜を張るイメージ。
──『纏』。
今の俺の皮膚は、そこらのコンクリートより遥かに硬い。鉄のハンマーのフルスイングすら弾き返す自信がある。
「二乃。マジの荒事になるかもしれない。お前も絶対に油断するなよ」
真面目なトーンで告げる。
「ヤバいと思ったら、咄嗟に応用の『堅』で全身をガードできるように、常に気を練っておけ。周りの空気の変化に敏感になるんだ」
「わ、わかってるわよ。でも……一瞬で全身にオーラを巡らせるのって、すっごく神経使うし疲れるのよ……」
二乃は不満げに唇を尖らせて、ふいっと視線を逸らした。
無理もない。俺のように先天的なアドバンテージがあるわけじゃない彼女にとって、気の操作はまだ燃費が悪いのだ。
「お客さん、見えてきましたよ。あれが米花ツインタワーです」
フロントガラスの向こう。灰色の雲を突き刺すようにそびえる、二つの巨大なガラス張りのタワー。
そして、その二つのタワーの中腹を、一本の細長い連絡橋が繋いでいる。
俺は頭を抱えて叫びそうになった。
なんだあの構造は。バカなのか。
「ねえ、二乃……見てみろよあれ」
「何よ、立派なビルじゃない」
「立派とかそういう次元の話じゃない! あんな『さあ、ここに爆弾を仕掛けて、橋を真っ二つに折ってください!』って言ってるような構造、誰が設計したんだ!」
アクション映画のクライマックスが、はっきりと脳裏に浮かぶ。
俺の嫌な予感センサーが、かつてない警報を鳴らしている。あの連絡橋は、絶対に渡ってはいけない。
「……ねえ二乃。あの橋、絶対に爆破されるよね」
「縁起でもないこと言わないでよ。ただのオシャレなデザインでしょ?」
「映画じゃない、ここは米花町だ! あんなあからさまな弱点を作って無事で済むわけがない! 逃げようと連絡橋を渡った瞬間にドカーンだ。俺には見える!」
俺が身を乗り出してまくしたてている間に、タクシーは正面エントランスの車寄せに到着した。
黒塗りのセダンやスポーツカーが並び、ドレスアップした男女がタワーへ吸い込まれていく。
「はい、到着しました。お忘れ物なきよう」
運転手がホッとした顔で言う。よほど早く自分の管轄に帰りたかったのだろう。
俺は重い足取りで外に出た。
雨は小降りだが、空気が妙に湿っぽく、肌にまとわりつく。
見上げるツインタワーのガラス窓。鈍い銀色の反射光。
──まるで、天を衝く巨大な墓石だ。
「行くわよ、八雲。シャキッとしなさい」
二乃が俺の背中をバシッと叩く。
「痛っ……わかってる。だけど、一つだけ約束してくれ」
振り返り、彼女の目を真っ直ぐに見据えた。
「もし本当にヤバい事態になったら、依頼人の護衛なんかどうでもいい。俺は迷わずお前を抱えて全力で逃げる。絶対に俺のそばから離れるなよ」
「えっ……」
二乃は一瞬パチクリと目を瞬かせ、みるみるうちに耳の先まで赤く染め上げた。
「……な、なによ急に。仕事放棄する気?」
「仕事よりお前の命の方が大事に決まってるだろ」
「っ……! あ、あんたの逃げ足の速さだけは、これ以上ないくらい信用してるわよ!」
憎まれ口を叩きながらも、ぷいっと向けられたその横顔の口元は、どこかホッとしたように小さく緩んでいた。
エントランスは無駄に天井が高く、大理石の床がピカピカに磨かれている。
「……この大理石、爆発したら破片が飛んできてめちゃくちゃ危ないよね。手榴弾の破片みたいなもんじゃん」
「だから爆発する前提で話を進めないの! 数時間横に立ってるだけ。それでお寿司。いいわね?」
二乃が釘を刺すが、不安は拭えない。
すれ違う人々が、これから悲鳴を上げるためのエキストラに見えてくる。
「待ち合わせは最上階のVIPラウンジね」
二乃が案内板を見ながら歩き出す。
俺は首筋を緊張させ、エレベーターホールへと足を進めた。
一番奥にある、専用キーカードがないと乗れない特別仕様のエレベーター。
扉が静かに開き、中へ入る。ふかふかの絨毯に風景画。
いつ爆発するかわからない密室で、風景画を優雅に鑑賞する趣味は俺にはない。
「なんか、変に静かね……」
「嵐の前の静けさだよ。気を抜くなよ」
扉がゆっくりと閉まり始めた、その時だった。
「あ、すみません! 乗ります!」
パタパタという軽い足音。
俺が咄嗟に開くボタンを押すと、そこに立っていたのは、一人の少年だった。
青いジャケットに半ズボン。手には白いステッチの入ったサッカーボール。
「ありがとう、お兄さん!」
少年はあどけない笑みを浮かべ、エレベーターに乗り込んでくる。
見間違えるはずがない。
あの赤い蝶ネクタイ。顔の半分を覆う丸眼鏡。
そして何より、ここは『米花町』という呪われた舞台。
──終わった。
俺の頭の中で、決定的な破滅の音が鳴り響いた。
この子供がここにいる。
それはつまり、これから百パーセントの確率で、殺人事件か大掛かりな爆破テロが起きるという何よりの証明だった。
「お兄さんたちも、最上階に行くの?」
少年が首を傾げ、あどけない声で俺を見上げる。
眼鏡の奥の鋭い瞳が、ただの子供ではない底知れなさで、俺の顔と、不自然に膨らんだジャケットの下──防刃ベスト──をじっと観察しているのがわかった。
「……あー、うん。ちょっと用事があってね」
「ふーん。最上階はVIP専用なんだけどなぁ」
「ま、まあ、ちょっとしたおつかいだよ。お兄さんたち何でも屋だから」
「あれれ〜? お兄さん、すっごく汗かいてるよ? そんなに暑いの?」
無邪気な声の裏に潜む、獲物を値踏みするような眼光。
俺は引きつった笑顔を顔に貼り付け、震える手でエレベーターの『閉』ボタンを連打した。