現代日本に転生したけど、何かおかしくない? 作:匿名のななし
閉まるボタンを、俺は親指が折れるんじゃないかというくらいの勢いで連打する。
一秒でも早く、この扉を閉めたい。
そして、この少年を外に締め出したい。
だが。
そんな俺の黒い願いも虚しく、エレベーターの扉は安全装置が働き、ゆっくりと開ききってしまった。
「ふう、間に合ったぁ」
少年はあどけない声を上げ、エレベーターの中央に陣取った。
俺の足元で、彼が抱えるサッカーボールがわずかに揺れている。
……なぜ?
どうしてこんなところで、サッカーボールなんて持っているんだ?
ここはピカピカの超高層ビル。ボール遊びをするような場所じゃない。
ツッコミどころは山ほどある。
それなのに──喉がカラカラに張り付き、声が出ない。ぞ、っと背筋が冷たくなる。
「お兄さんたちも、上に行くの?」
少年が、大きな丸いメガネの奥から俺を見上げてくる。
その瞳は、子供特有の無邪気なものではない。どこか大人のような……もっと言えば、獲物を観察する探偵のような底知れない光。
気のせいか? いや、違う。
ただのませたガキだと思いたいが、この世界に「ただの偶然」なんてものはないのだ。
米花町。超高層ビル。連絡するための橋。
そして──蝶ネクタイをしたメガネの小学生。
役満。完全にフラグが完成してしまっている。
「……あ、ああ。そうだよ。上に行くんだ」
俺はひきつった笑顔のまま、ようやくそれだけを絞り出す。
「何階に行くの? ボクがボタン押してあげるよ」
少年が背伸びをして、操作パネルに手を伸ばそうとする。
「いや、いい! 大丈夫! 俺が押すから!」
俺は慌ててパネルの前に立ちふさがった。
この少年に階数を教えることすら恐ろしい。
俺たちの行く先を教えれば、そこが爆発の中心地になりそうな気がしたからだ。
「あら、可愛いわね」
空気を全く読まない二乃が、少年の前にしゃがみ込んで顔を覗き込む。
やめろ。関わるな。
俺の心の叫びも虚しく、二乃はニコニコと笑いかけている。
「ボク、お名前は? こんなところで一人で何してるの? お母さんかお父さんは一緒じゃないの?」
質問攻めに、少年は少しだけ困ったように眉を下げた。
「えっとね、ボクは……」
言いかけて、少年はチラリと俺の方を見た。
なぜ俺を見る?
頼む、言わないでくれ。その名前を聞いたら、俺はもう逃げ出せなくなる。
「ボク、知り合いのおじさんと一緒に来たんだけど、はぐれちゃったんだ。おじさん、このビルのオーナーさんとお友達で、今日はパーティーに呼ばれてるんだって」
「そうなんだ。じゃあ、上の会場に行けば会えるかもしれないわね」
「うん! だから上に行こうと思って」
少年はニコッと笑う。
オーナーの友達のおじさん。
それもまた、いかにも事件に巻き込まれそうなポジションだ。
おそらくそのおじさんは、ヒゲを生やしていて、いつも眠そうにしている探偵なんじゃないか?
あり得る。
俺は頭を抱えたくなった。
なんで今日なんだ。なんで俺がこの町に来たタイミングで、彼らと鉢合わせてしまうのか。
日本の神様は、俺にどれだけの試練を与えれば気が済むのだろうか。
「二乃、あんまり話しかけるなよ。ほら、もうすぐ着くから」
俺は階数表示を見上げながら、小声で二乃を急かした。
数字はどんどん上がっていく。
三十階、三十一階、三十二階。
耳の奥が少しだけツンとする。
エレベーターの中には、静かなクラシックの音楽が流れていた。
普段ならリラックスできるはずのメロディ。だが、今はこれから始まるパニック映画のオープニング曲にしか聞こえない。
コン、コン……。
少年は手持ち無沙汰な様子で、靴のつま先で床を叩いている。
その靴も、なんだか普通のスニーカーとは違うように見えた。側面にダイヤルみたいなものがついているのだ。
あれを回すと電気が走る? いや、ボールを蹴る力がバグみたいに跳ね上がるのか?
俺の隣にいるだけで、歩く武器庫みたいな存在だ。
危ないから、マジで近づかないでほしい。
四十階。
あと少しで、目的のVIP用ラウンジがある最上階だ。
お願いだから、何事もなくドアが開いてくれ。
大黒のおっさんに会って、適当に後ろに立って、時間が来たらすぐにお寿司を食べに行く。
それだけでいい。俺は何も望んでいないのだから。
俺の祈りが通じたのか、数字は四十五階を示した。
よし、あと少し。
あと少しで……。
ガクンッ!
突然、足元から凄まじい衝撃が突き上げる。
「うわっ!」
俺は思わず壁に手をついた。
「きゃっ! な、なによこれ!」
バランスを崩した二乃が、ギュッと俺の腕にしがみつく。
エレベーターが、急ブレーキをかけたように止まったのだ。
同時に、明るかった天井の照明がプツリと消え、箱の中が真っ暗になる。
……数秒の沈黙。
やがて、壁の隅にある薄暗い赤い非常灯だけが点滅し始めた。
赤い光に照らされた空間は、まるで血に染まった密室のよう。気味が悪いことこの上ない。
「……ほら、言わんこっちゃない」
壁にもたれかかり、深いため息をつく。
この町で、この少年と一緒にエレベーターに乗って無事に着くわけがないのだ。
「ちょっと、停電? まさか閉じ込められたの?」
二乃がスマホの明かりで周りを照らす。
「圏外だわ。どういうこと?」
「妨害されてるんだよ、きっと」
足元から、やけに冷静な声が響いた。
見下ろすと、少年が腕時計のフタを開け、光る文字盤をいじっている。
「妨害って……誰に?」
「たぶん、このビル全体が、誰かに乗っ取られたんだと思う」
さっきまでの無邪気さは完全に消え去り、確信に満ちた声だった。
俺は天井を仰ぐ。
「あーあ、一番面倒くさいパターンだ」
「ちょっと八雲、なんでそんなに冷静なのよ。テロリストってことでしょ?」
「冷静じゃないよ。泣いて家に帰りたいくらいパニックだよ。でも、こうなるんじゃないかって予想はしてたからね」
ジジッ……ガガガッ……!
突然、天井にある小さなスピーカーから、ざらついたノイズ音が響き始めた。
不快な音に続いて、声が聞こえてくる。機械を通して低く加工された、不気味な男の声だ。
『あー、聞こえているか、ビルの関係者、およびパーティーの参加者ども』
二乃が息を呑む。少年は壁のスピーカーを睨みつけるように見上げている。
『俺たちは、このビルを完全に制圧した。すべての出口は封鎖し、通信も遮断させてもらった。お前たちは今、完全に外の世界から切り離されている』
「完全に、って言いきるやつほど穴があるんだよね」
俺は思わずぼやいた。
映画の悪役はいつもそうだ。自分たちの計画は完璧だと思い込んでいる。
だが、その計画の中に『蝶ネクタイをした小学生』が紛れ込んでいる時点で、もう破綻していることに気づいていない。
可哀想な犯人たち。俺は少しだけ彼らに同情した。
『騒いでも無駄だ。すでに各フロアには、俺たちの仲間が銃を持って待機している。そして、もう一つ大事なお知らせがある』
スピーカーの向こうで、男が嫌らしい笑い声を上げる。
『このビルの主要な柱、および、二つのタワーを繋ぐあの連絡橋には、たっぷりとプラスチックの爆弾を仕掛けさせてもらった。スイッチ一つで、このピカピカのビルは、ただの瓦礫の山に変わるというわけだ』
「ほーら見ろ! やっぱり橋に爆弾仕掛けてるじゃないか!」
俺は暗闇の中で、二乃の方を指差して叫ぶ。
「俺の言った通りだろ! あんなデザインにするから狙われるんだよ! 設計したやつを今すぐ呼んでこい!」
「うるさいわね、こんな時にドヤ顔しないでよ!」
二乃が俺の脇腹を小突いた。地味に痛い。
『俺たちの要求は一つだ』
声が一段と低く、ドスを利かせたものに変わる。
『大黒を出せ。大黒グループの会長、大黒建造。あの悪党を、俺たちの前に連れてこい』
ゴクリ、と誰かが喉を鳴らす音がした。
『タイムリミットは一時間。それまでに大黒が現れなければ、まずは連絡橋を吹き飛ばす。その後は十分ごとに、下のフロアから順に爆破していく。逃げ場はないぞ。お前たちの命は、大黒のオッサンの命にかかっているんだ』
ブツッ。
無機質な音とともに、音声が途切れる。
再び、エレベーターの中は不気味な静寂に包まれた。
「……終わった」
俺はその場にしゃがみ込み、膝を抱える。
「大黒を出せって。俺たちの依頼人じゃないか。初日からいきなり大ボスに指名されてるよ。どうすんのこれ」
「どうするって……私たちは彼を護衛するために呼ばれたんでしょ? なら、犯人に渡すわけにはいかないじゃない」
二乃の凛とした声に震えはない。暗闇の中でも背筋をピンと伸ばしている気配が伝わってくる。本当に肝の据わったやつだ。
「あのさ、二乃。相手はビル全体に爆弾を仕掛けるようなプロの集団だよ? 銃だって持ってる。いくら俺が少しばかり体が硬いからって、そんな軍隊みたいな連中を相手にチャンバラできるわけないでしょ。俺はスーパーマンじゃないんだから」
「あんたならできるわよ。いつものように、弾を弾き返して、壁をぶち抜いて、ボスを殴り飛ばせば終わる話じゃない」
「簡単に言わないで! 俺のメンタルは豆腐なんだよ! 怖い人たちに銃口向けられたら、泣いて謝りたくなるんだから!」
俺が情けない声で抵抗していると、ずっと沈黙していた少年が口を開く。
「ねえ、お兄さんたち。大黒さんに呼ばれた人なの?」
ギクッとして、俺は少年を見た。
非常灯の赤い光の中で、丸メガネのレンズが妖しく光っている。
「ボディーガードとか、そういうお仕事の人?」
「あー……まあ、そんな感じの、なんでも屋みたいなもんかな」
俺が言葉を濁すと、少年は少し考えるように顎に手を当てた。
「そっか。でも、今はそれどころじゃないみたいだね」
少年はエレベーターの扉に近づき、隙間に指を差し込もうとする。
「ダメだよボク! 無理に開けようとしたら危ないわ!」
二乃が止めようとするが、少年は首を振る。
「このままここにいても、一時間後に爆発に巻き込まれるだけだよ。それに、さっきの凄まじい音を聞きつけて、犯人の一味が各フロアを見回りに来るかもしれない。その前にここから脱出しないと」
大人のような冷静な判断力。絶対に小学生のセリフじゃない。
どこでそんな知識を仕入れてくるんだ? ハワイで親父にでも教わったのか。
「脱出って言っても、エレベーターの扉は内側からはロックがかかってるはずよ。道具もないのに、どうやって開けるの?」
「天井の点検口を開ければ、外に出られるかもしれないけど……ちょっと高くて届かないや」
少年が天井を見上げる。
確かに、端のほうに四角い枠が見える。あそこから上のワイヤーがある空間に出られるはずだ。
でも、俺は嫌だった。
暗いし、汚いし、もし急に動き出したら体が挟まってミンチになってしまう。いくら体が硬くても、そんな挟まれ方をしたらただでは済まない。
「天井は却下。危なすぎる」
俺は立ち上がり、エレベーターの扉の前に立った。
「ここから出る。それが一番早い」
「でも、ロックされてるわよ?」
「ロックなんて──物理的に壊せばいいだけだ」
俺は深呼吸をして、体の中のスイッチを入れる。
丹田のあたりから湧き上がる熱いエネルギー。それを強化系の基本である『纏』で全身に留め、さらに両腕へとオーラを集中させる要領で練り上げた。
ドクン、ドクン……。
血管が波打ち、筋肉の繊維が一本一本、鋼のワイヤーのように強靭になっていく。皮膚の表面に、目に見えない強固なオーラの膜が張るのを感じた。
俺は扉の真ん中、左右に開く合わせ目のわずかな隙間に、両手の指先をねじ込む。
普通なら爪が剥がれて終わる。だが、気を集中させた俺の指は、鉄のクサビのように硬い金属の扉の隙間へ難なくめり込んでいく。
ギギッ……。
嫌な金属音が鳴る。
「え……お兄さん、何してるの?」
少年が驚いたような声を上げた。俺は無視して、両腕にさらに力を込める。
「ふんっ!」
短く息を吐き出し、左右の腕を外側に向かって思い切り広げた。
バキィィィン!!
凄まじい破壊音がエレベーター内に響き渡る。
ロックの金具がひしゃげ、分厚い金属の扉が、まるでボール紙の箱を破るように強引にこじ開けられた。
レールが歪み、火花が散る。俺はそのまま扉を完全に押し開き、壁の中にめり込ませた。
「よし、開いた」
俺はパンパンと手のひらを払いながら、何事もなかったかのように振り返る。
二乃は「相変わらず脳筋ね」と呆れたように肩をすくめている。
だが、少年のほうは違った。目をまん丸に見開き、めり込んだ扉と俺の細い腕を交互に見つめている。口がポカンと開いている。
「……お、お兄さん。今の、どうやったの?」
「ん? ああ、火事場の馬鹿力ってやつだよ。ほら、母親が車の下敷きになった子供を助ける時に、車を持ち上げたりするっていうじゃない。あれと同じ」
適当な嘘を並べてごまかす。
「そんなレベルじゃないと思うけど……扉の金属が、飴みたいに曲がってるよ……」
少年はまだ信じられないという顔をしている。
彼のような論理的な思考をする人間にとって、俺のような力任せの存在は、一番理解しがたいバグみたいなものだろう。これで少し警戒して、近づいてこなくなればいいんだけど。
開いた扉の外を覗き込む。
エレベーターは中途半端な位置に止まっているわけではないようだ。目の前には、薄暗い廊下が続いている。壁の表示は「42F」。目的のフロアより少し下だ。
廊下の照明も消えていて、非常用の緑色の誘導灯だけがぼんやりと光っている。
さっきの扉を壊した轟音のせいか。
遠くのほうで、慌ただしい足音と怒号が響き始めていた。
「とりあえず、ここからは出よう。中に閉じ込められてるよりはマシだ」
俺は先に外に出て、周囲の安全を確かめた。今のところ、すぐ近くに人の気配はない。
二乃が少年の手を取って降りてくる。
「ねえ、これからどうするの? 階段で下まで降りる?」
「いや、さっきのアナウンスを聞いただろ。犯人は各フロアに待機してる。こんな四十階以上の高さを階段で降りていくなんて自殺行為だ。絶対にどこかで鉢合わせる」
「じゃあ、大人しくここで助けを待つ?」
「それもダメ。一時間後に爆弾がドカンだぞ。それに、俺たちの目的は大黒のオッサンを見つけることだ。仕事の途中でおめおめと逃げ帰ったら、後でどんなクレームをつけられるかわかったもんじゃない」
愚痴をこぼしていると、横で少年が見慣れないバッジ型の端末、あるいは特殊なスマホのようなものを操作しているのが見えた。画面がチカチカと光っている。
「ねえ、お兄さんたち」
少年が顔を上げて、俺たちを見た。
「犯人の目的は、大黒さんを捕まえることだよね。ってことは、大黒さんはまだ捕まってないってことだ」
「まあ、アナウンスを聞く限りはそうだな」
「大黒さんは、今日の午後二時に最上階のラウンジにいる予定だった。今は一時半。もし大黒さんがもうビルに到着しているなら、最上階の近くのどこかに隠れているはずだよ」
的確な推理だ。
確かに、これだけの騒ぎになっているのに大黒が捕まっていないということは、まだ犯人の手の届かないところに身を潜めている可能性が高い。
「なら、上に上がって探すしかないわね」
二乃が腕をまくるようにして言う。
「ちょっと待って。上に上がるって、階段を使うしかないんだぞ? 犯人と鉢合わせたらどうするんだよ」
「その時はあんたが何とかしなさいよ。お給料分は働いてもらわないと」
「だから、俺は弾除けじゃないって……」
俺が泣き言を言っている間に、少年はスタスタと廊下の奥に向かって歩き出していた。
「ちょっと、どこ行くの!」
「ボク、ちょっとトイレに行ってくるね! 漏れちゃいそうだから!」
はい出た。テンプレの言い訳。
こんな非常時に、一人でトイレに行きたがる小学生がどこにいる?
どう考えても、単独で犯人の様子を探りに行くか、何か仕掛けをしようとしているに決まっている。
「おい、待てって! こんな時に一人でウロチョロするな!」
慌てて後を追いかけようとしたが、彼は見た目からは想像もつかないくらい足が速かった。角を曲がり、あっという間に姿が見えなくなってしまう。
「あーもう! なんなんだよあのメガネ!」
壁をドンと叩いて悪態をつく。
放っておけばいい。あの少年なら、勝手に犯人を麻酔銃で眠らせたり、サッカーボールで蹴り飛ばしたりして事件を解決してくれるはずだ。俺たちが関わる必要はない。
「ちょっと八雲! 何ボヤッとしてるのよ! 子供が一人で迷子になっちゃったじゃない!」
二乃が俺の背中をバシッと叩いた。
「見捨てる気!? もし犯人に見つかって撃たれでもしたらどうするのよ!」
「あいつは撃たれないよ! 逆に犯人がボコボコにされる未来しか見えないから!」
「意味のわからないこと言ってないで、早く追いかけるわよ!」
二乃に腕を掴まれ、少年が消えた角の方へと強引に引っ張られる。抵抗する気力もなく、俺はずるずると引きずられていく。
ああ、もう最悪だ。
なんで俺はこんな面倒くさいことに巻き込まれなきゃいけないんだ。ただ美味しいお寿司が食べたかっただけなのに。
角を曲がると、そこはまだ内装工事が終わっていないのか、コンクリートむき出しの広いスペースだった。
資材が積まれ、ブルーシートが被せられている。身を隠すにはちょうどいいが、見通しが悪くて不気味だ。
「……いないわね」
二乃が小声で呟く。
「あいつ、どこに行きやがったんだ」
目を凝らして周囲を見回す。
──その時だった。
「おい! そっちの通路はどうだ!」
「こっちは異常なしだ! アリ一匹いねえよ!」
ブルーシートの向こう側から、野太い男たちの声が聞こえてきた。
カチャリ……という硬い金属音が響く。銃の安全装置を外す音か、弾を装填する音か。どちらにしても俺の嫌いな音だ。
重いブーツの足音が二つ、ゆっくりとこちらに向かって近づいてくる。
俺は咄嗟に二乃の肩を抱き寄せ、近くに積んであった石膏ボードの山の下に身を隠した。
事態のヤバさを察した二乃も息を潜め、俺の腕の中にすっぽりと収まる。
俺は彼女を庇うようにして、背中の筋肉にオーラを集中させた。もし見つかって撃たれても、背中なら弾を弾き返せる。痛いのは我慢するしかない。
「……なあ、大黒の野郎、本当にまだこのビルの中にいるのか?」
「リーダーがそう言ってるんだから間違いないだろ。ネズミみたいにどこかに隠れてるはずだ。見つけて風穴を開けてやる」
物騒な会話が、石膏ボードのすぐ向こう側から聞こえる。
心臓が口から飛び出しそうになるのを必死に堪えながら、男たちの足元が通り過ぎるのを待った。
ザッ……ザッ……。
足音が、俺たちの隠れているすぐ手前でピタリと止まる。
「……おい、このブルーシートの裏、怪しくねえか?」
見つかるか?
まさにその瞬間だった。
「あっ……」
息が詰まるようなピリピリとした緊迫感に耐えきれず、俺の背中で息を潜めていた二乃の体が強張り、わずかに後ずさってしまう。
その靴底が、コンクリートの床に転がっていた空き缶を無情にも蹴り飛ばした。
カラン、カラカラカラッ!
静まり返ったフロアに、その乾いた音は絶望的なほど大きく響き渡る。
「……なんだ? こっちのブルーシートの裏から音がしたぞ」
男たちの意識が完全にこちらへ向いた。
「おい、そこ。ネズミが隠れてるなら大人しく出てきな。ハチの巣にされたくなければな」
ガチャッ。
アサルトライフルを構え直す音がはっきりと聞こえた。
二乃が顔面を蒼白にし、震える手で俺のシャツの裾を力強く握りしめる。いくら気が強くても、彼女は荒事に慣れていない。あの無機質な銃口を前にして平静でいられるはずがないのだ。
俺は彼女の震える手にそっと自分の手を重ねて安心させると、ゆっくりと立ち上がった。
「あー……すんません。足が痺れちゃって」
両手を軽く上げながら、わざとらしく大きなため息をつき、二乃を完全に背中に隠すように前に出る。
目の前には、黒い目出し帽を被った大柄な男が二人。
「動くな! 手を頭の後ろに組んで、ゆっくりとこっちに歩いてこい!」
大柄な男が威圧的な声を張り上げた。
その手に握られているのは、鈍い黒色に光るアサルトライフル。銃口が、俺の眉間と背後にいる二乃の胸のあたりを交互に行き来している。いつでも引き金を引けるよう、男の指はしっかりとトリガーにかかっていた。
俺は両手を肩の高さまで上げながら、頭の中で盛大に愚痴をこぼす。
なんだよ、アサルトライフルって。ここは日本だぞ。銃刀法って知ってるか?
あんな軍用のライフルを、どうやってこの米花町まで持ち込んだんだ。ネット通販で「テロリストお急ぎ便」みたいなオプションでもあるのか? 税関の仕事はどうなってる。
「あのー、すいません」
俺はひきつった愛想笑いを浮かべて話しかけた。
「俺たち、ちょっとトイレを探してたら迷子になっちゃいまして。ここは関係者以外立ち入り禁止ですかね? だったらすぐに帰りますんで、その物騒なおもちゃ、しまってもらえません?」
「ふざけるな! 誰がおもちゃだと言った!」
男の一人が、銃口を俺の顔のすぐ近くまで突きつけてきた。冷たい金属の匂いと、オイルの匂いが鼻を突く。
「いいから黙って手を頭の後ろに組め! それから、ゆっくりと床に膝をつけ!」
要求が多いな。
映画でよく見るポーズだが、実際にやると結構肩が痛いんだよね。もし相手が四十肩のサラリーマンだったらどうするつもりなんだろう。
「どうしよう、八雲……」
背中に隠れる二乃が、シャツの裾をギュッと掴みながら小声で聞いてきた。指先が少し震えているのがわかる。こんな状況で「早くあいつらをボコボコになさいよ」と急かしてこないだけ、彼女も状況のヤバさを正しく理解している証拠だ。
「どうするって言ってもねぇ……」
俺は両手を上げたまま、周囲の状況を冷静に分析する。
距離は三メートルほど。俺の強化なら、この距離から撃たれても体を硬くして弾丸を弾き返すことは十分に可能だ。だが、痛くないわけじゃない。全力のデコピンを素肌で受け止めるようなものだ。
服だってボロボロになる。
このジャケット、先月の稼ぎの半分をつぎ込んで買ったお気に入りの一着だぞ。これに風穴が開いたら、俺は泣いてしまうかもしれない。
それに、俺は自分を守れても、二乃を完全にカバーできる保証はない。
「わ、わかりましたよ。撃たないでくださいね。俺、痛いのは本当に嫌いなんで」
俺はゆっくりと手を頭の後ろに持っていこうとした。
──その時だった。
「ん? なんだ?」
男が振り返った瞬間。
背後から信じられないスピードで、サッカーボールが飛び込んできた。
ドゴォッ!
「ぐあっ!?」
くぐもった悲鳴とともに、フル装備の男が宙を舞い、床に叩きつけられる。
「な、なんだ!?」
残された一人がパニックを起こし、銃口を振り回した。
「今だ、お兄さん! その人、右肩でストックを構えてる! 左下の死角が広いよ!」
ブルーシートの陰から、あの丸メガネの少年の声が響いた。
「悪いね、オジさん。俺も忙しいんで!」
俺は両手を下ろし、気を爆発させてコンクリートを蹴る。狙うは左側。
男の指が引き金を引いた。マズルフラッシュ。
俺は避けない。背後にいる二乃を守るため、体中のオーラを練り上げて硬度を増し、右腕を盾のように掲げた。
ガキンッ!
硬質な音とともに、手の甲に重い衝撃が走る。
「痛っ! ちょっと赤くなっただろ!」
俺は文句を叫びながら、男の懐に完全に潜り込む。
「ば、化け物……!」
「ただの健康優良児だよ」
驚愕で固まった男のみぞおちを、正確に打ち抜く。
ドスッ、と鈍い音がして、大男が白目を剥いて崩れ落ちた。そのまま振り返り、床に転がって呻いているもう一人のうなじにも手刀を落とし、完全に沈黙させる。
「……ふう。終わったよ、二乃」
振り返ると、二乃は呆然とした顔で立ち尽くしていた。
「あんた……今、弾弾いたわよね?」
「弾いたよ。避けて二乃に当たったら困るし」
俺が軽く手首を振ると、二乃が珍しくしおらしく俯き、自身の腕をギュッと抱きしめる。
「……ごめんなさい。私がドジ踏んだせいで」
「気にするなって。あんな状況になったら、誰だって足すくむっての」
俺は苦笑し、二乃の頭にポンと手を乗せた。
そこへ、パタパタという足音とともに少年があどけない声を上げて現れた。
「お兄さん、すごいね! カンフーの達人みたいだったよ!」
手には、少しへこんだサッカーボール。
「さっきのボール、君が蹴ったのか?」
「博士が作ってくれた特別な靴なんだ! 電気と磁力でツボを刺激して……」
どんなトンデモ科学だ。俺は呆れ半分で少年に視線を落とした。
「お前なぁ。離れた場所からあいつらの気を引こうとしてくれたのは分かるけど、心臓に悪いだろ」
「エヘヘ……でも、お兄さんが盾になってくれたおかげで背後から狙う隙ができたよ。二人とも怪我がなくてよかった!」
言い訳は子供っぽいが、その目は全く笑っていない。合理的で的確な計算。こいつは絶対にただの小学生じゃない。
「……まあいい。助けられたのは事実だ。ありがとうな。で? 君はこれからどうするつもりだ?」
「上に決まってるでしょ」
少年はキリッとした表情で上を指差した。
「大黒さんはまだ捕まってない。セキュリティが厳重なVIPフロアの隠し部屋かシェルターに逃げ込んでるはずだよ」
スラスラと流れるような推理。
俺はもう、彼が小学生であるという事実を完全に脳内から消去することにした。
こいつは『名探偵』という概念そのものが具現化した存在なのだ。
そう思わなければ、俺の精神が持たない。