念能力者が行く多重クロス世界 作:匿名のななし
薄暗い階段の空間には、下の方から逃げていくお客さんたちの慌ただしい足音や、誰かが誰かを呼ぶ声が、かすかに響いてきている。
だが、俺たちがこれから向かう上の方からは、気味が悪いほどの静寂だけが漂っていた。
「五階分か……。エレベーターの電気が止まってるって、本当に不便だな。この高いビルの図面を描いたやつは、自分の足で階段を登る苦労を考えたことがあるのか?」
俺がぶつぶつと文句を言いながら一段飛ばしで階段を駆け上がると、すぐ後ろから二乃が荒い息を吐きながらついてくる。
「文句言ってないで……はぁ、はぁ……さっさと登りなさいよ。大黒のおじさんが……もし殺されでもしたら、うちの事務所は今月で倒産なんだから……!」
「わかってるって。絶対に死守してやるよ」
二乃の足取りがだんだんと重くなってきている。
無理もない。いくら念の修行で基礎体力が上がっているとはいえ、こんな張り詰めた空気の中で何階分も階段を駆け上がり続けるのはきついだろう。
それに比べて、俺の横をスイスイと登っていくメガネの少年はどうだ。
まったく息を切らす様子もなく、階段の手すりを身軽に飛び越えたりしながら、涼しい顔でついてきている。
「おい、ボウズ。お前、なんでそんなに元気なんだ? 本当に小学生なのか?」
俺が思わず尋ねると、少年は振り返って、無邪気な子どもの笑顔を浮かべた。
「ボク、サッカーやってるから体力には自信があるんだ! それに、この靴のおかげかな」
少年は自分の履いている赤いスニーカーを、指でトントンと叩いた。
「靴? 靴が体力に関係あるのか?」
「うん。歩くたびに足の裏にあるツボを刺激して、疲れをとってくれる機能がついてるんだよ」
「どんな便利グッズだよ。深夜のテレビ番組で売ってたら、俺が絶対に買うわ」
俺が呆れている間にも、俺たちは四十九階の踊り場まで到達していた。
あと一階。
ここで、上の階から激しい物音が聞こえてきた。
ドスン、バタン。
何か重いものをぶつけて、無理やり扉をこじ開けようとするような音だ。
俺は少年と二乃を手で制止し、そっと壁から顔を出して、五十階へと続く最後の通路の様子を窺った。
そこには、重厚な木でできた分厚い扉があった。おそらくあれが、大黒がいる特別な部屋の入り口だろう。
そして、その扉の前に、これまで相手にしてきた連中とは明らかに雰囲気の違う男たちが三人立っている。
一人は見上げるほどの背丈がある、岩のような巨漢。
もう一人は痩せこけた細身で、両手にナイフをくるくると回して持っている。
そして真ん中に立つ男。こいつが明らかにこのグループのまとめ役だ。他の連中とは違い、黒いスーツをパリッと着こなし、手には鈍く光る連射式のサブマシンガンを提げている。
「おい……あれって」
俺が息を呑むと、下から顔を出した少年が小さな声で言った。
「たぶん、大黒さんを生かして捕まえるのはもう諦めたんだ。さっきの四十五階の騒ぎや、見張りがやられたことで、これ以上時間をかけるのは自分たちにとって危ないと判断したんだと思う。狙っている相手をあの部屋ごとハチの巣にして、さっさと任務を終わらせるつもりだよ」
それを聞いた瞬間、俺の横で二乃の目の色がスッと変わった。
「冗談じゃないわよ……」
二乃の低くて冷たい声が、階段の空間に響く。
「大黒のおじさんが死んだら……私たちの残りのギャラはどうなるのよ。前金の半分しかもらってないのよ。残りの半分がないと、今月の家賃も光熱費も払えないじゃない!」
「行ってきなさい、八雲! 今すぐあいつらをぶっ飛ばして、大黒のおじさんの命と、私たちの生活費を守りなさい!」
「無茶言うなよ! 相手はサブマシンガンを持ってるんだぞ! 俺だって撃たれたら痛いんだってば!」
俺が涙目で抗議していると、少年が俺の前に立った。
「お兄さん、ボクがさっきみたいに道具を使って気を引くから、その隙に……」
「いや、いい」
俺は少年を手で制した。
これ以上、こいつの変な道具の力を借りるのは癪だ。それに、相手はもう部屋に突入しようとしている。気を引いている時間はない。
「まどろっこしいことは抜きだ。俺が正面から全部叩きのめす」
上の通路から、まとめ役の男の声が響いてきた。
「よし、準備完了だ。ドアをぶち破って、中にいる大黒をハチの巣にしろ!」
「うおおおい! 待ちやがれ!」
俺は階段の陰から飛び出し、通路に向かって全力で叫びながら駆け上がった。
「あ! なんだお前は!」
巨漢の男が俺に気づき、慌てて構えようとする。
「どこから沸いて出た! 撃ち殺せ!」
まとめ役の男が叫び、サブマシンガンの黒い筒先が俺に真っ直ぐ向けられた。
タタタタタタタッ!!
狭い通路に、鼓膜が破れそうになるほどの激しい銃の音が響き渡る。
火を噴く銃口から、数え切れないほどの弾丸が俺に向かって飛んでくる。
俺は走りながら、自分の体の中を流れるエネルギーのスイッチを全開にし、全身の血管という血管に気を巡らせた。筋肉を鋼の塊のように硬く引き締め、肌の表面に、目に見えない分厚いオーラの壁を展開する。
カンッ! キンッ! ガキンッ!
俺の胸や肩、お腹に、飛んできた弾丸が次々とぶつかっては弾き飛ばされていく。
誰かにものすごく強い力でデコピンを連続で食らっているような、ひたすら嫌な痛みが全身を走る。
「痛い! 痛い痛い! 痛いって言ってんだろこのバカヤロウ!」
俺は怒りに任せて叫びながら、雨のように降ってくる弾丸を突き破って真っ直ぐに突き進んだ。
「な、なんだこいつ! まったく効かねえぞ!」
まとめ役の男が、目をこれ以上ないくらいひん剥いて驚きの声を上げる。
「うおおおっ!」
巨漢の男が邪魔だと言わんばかりに前に出て、太い丸太のような腕を振り上げて殴りかかってきた。
俺はその巨大な拳を左手でがっしりと受け止め、そのまま腕を掴んで強引に俺の方へと引っ張り込んだ。
「お前は邪魔なんだよ!」
巨漢の柔らかいお腹の真ん中に、気を集中させた右の拳を全力でめり込ませる。
ドゴォッという鈍い音がして、巨漢は一瞬で白目を剥き、巨大な木が倒れるようにドスンと床に崩れ落ちた。
「このヤロウ!」
細身の男が両手のナイフを振り回して、俺の首のあたりを狙ってくる。
俺は一歩も後ろに下がらず、飛んできたナイフの刃を素手でぎゅっと掴み取った。
「なっ!?」
鋭い刃が手のひらの皮膚に食い込むが、オーラの壁に阻まれて一滴の血も出ない。そのままナイフをバキッと真っ二つにへし折り、驚いて石のように固まっている男の顎に向かって、強烈なアッパーカットを見舞った。
「ぐはっ!」
細身の男は後ろに吹き飛び、そのまま倒れ込んで動かなくなった。
残るは、まとめ役っぽいの男だけだ。
男は俺の異常な打たれ強さと馬鹿みたいな力に完全に心を折られ、後ずさりしながら壁に背中をぶつけた。
「ば、化け物め……俺に近づくな!」
男が半狂乱になってサブマシンガンの引き金を引こうとした瞬間。
俺は通路の壁に設置されていた赤い消火器をもぎ取り、手にオーラを込めてボーリングの球のように全力で投げつけた。
ギュオォォッ!
凄まじい速度で飛んだ消火器が男の胸に直撃し、ボンッ! という破裂音とともに真っ白な粉末が通路一帯に吹き出した。
「ぐはぁっ!? 目、目が……!」
視界を奪われ、粉を吸い込んでむせ返る男。
俺はその白い煙を突き抜けて一瞬で距離を詰め、男の顔面に向かって手加減なしの右の拳を叩き込んだ。
「がはっ!」
男の体は宙を舞い、通路の壁に激突して、そのまま床に崩れ落ちた。
「ふう……終わった」
俺は腕をさすりながら、大きく息を吐いた。
もう服がボロボロになってしまった。最悪だ。
「すごい、お兄さん! 本当に一瞬だったね!」
少年がダクトから飛び降りてきて、目を輝かせた。
二乃も遅れて降りてきて、倒れた男たちを見てホッとしたように息をつく。
「やるじゃない。やればできるじゃないの」
「だから、痛いんだってば。見てよこれ、腕が真っ赤になってる。アザになるかもしれない」
俺が文句を言うと、二乃は呆れたように肩をすくめた。
「そのくらい我慢しなさいよ。命があるだけマシでしょ」
「二乃ちゃんは冷たいなぁ。もっと労ってくれてもいいのに」
「ねえ、お兄さんたち」
少年が部屋の隅にある大きな扉を指差した。
「あそこが、大黒さんがいるはずのVIPラウンジへの入り口だよ」
「よし、これで任務完了だ。さっさと大黒のオッサンを見つけて、こんな物騒なところから逃げ出そうぜ」
俺が扉に向かって歩き出そうとした、その時だった。
「待って!」
少年が鋭い声を上げて、俺の前に立ちふさがった。
「どうしたんだよ、急に大声出して」
「あの扉……変だよ。よく見て」
少年が指差す先、重厚な木製の扉の枠の隙間から、何やら細い線のようなものが見える。
「なんだあれ? 糸?」
俺が顔を近づけて見ようとすると、少年が慌てて俺の服を引っ張った。
「ダメ! 近づいちゃダメだ! トラップだよ!」
「トラップ?」
「うん。あの扉を開けたら、爆発する仕掛けになってる」
少年は真剣な顔で言った。
「……は?」
俺は耳を疑った。
「爆発って……扉を開けたらドカンってこと?」
「そう。たぶん、中にいる大黒さんを閉じ込めておくための罠だ。無理に外に出ようとしても爆発するし、外から助けに入ろうとしても爆発する。確実に彼をこのフロアに留めておくための仕掛けだね」
俺は背筋が凍るのを感じた。
もし俺が、何も考えずにあの扉のノブを回していたら。
今頃、俺たちは木っ端微塵に吹き飛んでいただろう。
いくら俺の体が硬くても、至近距離での爆発は防ぎきれないかもしれない。
内臓が破裂するか、吹き飛ばされて窓ガラスを突き破り、五十階から真っ逆さまに落ちるか。
どっちにしても、悲惨な末路しか見えない。
「……おいおい、マジかよ。じゃあどうすんのさ。大黒のオッサンに会えないじゃないか」
俺が頭を抱えると、少年は顎に手を当てて考え込んだ。
「爆弾を解除するしかないね」
「解除って……君、爆弾の解体なんてできるの?」
俺が半信半疑で尋ねると、少年は当然のように頷いた。
「うん。ハワイで親父に教わったから」
「ハワイで親父に!? どんな英才教育受けてんだよ君は!」
俺は思わず大声でツッコんでしまった。
ハワイって、バカンスに行くところだろ? 海で泳いだり、パンケーキ食べたりするところだろ?
なんでそこで爆弾の解体の仕方を教わるんだよ。親父は何者なんだ。テロリストか? 傭兵か?
いや、もういい。この世界では真面目にツッコんだら負けだ。
少年はリュックサックを下ろし、中から小さな工具セットのようなものを取り出した。
ドライバーやニッパー、ペンチなどが綺麗に並んでいる。
「お兄さん、手伝って。扉の隙間から、中の配線が見えるように少しだけ開けてほしいんだ。でも、絶対にミリ単位で止めてね。少しでも大きく開けたら、起爆装置が作動しちゃうから」
「ミリ単位って……そんな器用なこと、俺にできると思うか?」
「お兄さんのその力なら、力のコントロールもできるはずだよ。お願い」
少年のまっすぐな瞳に見つめられ、俺はため息をつくしかなかった。
「わかったよ。やるよ、やればいいんだろ」
俺は気を練り、指先にオーラを集中させる。
細かい作業をする時は、力を込めるのとは逆に、オーラの膜を極限まで薄く、そして均一にする必要がある。
針の穴に糸を通すような、神経のすり減る作業だ。
「二乃、少し離れててくれ。もし失敗したら、君だけでも逃げるんだぞ」
「嫌よ。あんたが失敗するわけないでしょ。私はここで見てるわ」
二乃は頑として動こうとしなかった。
強情なやつだ。でも、不思議と嫌な気はしない。
俺は扉のノブにそっと手をかけ、ミリ単位の感覚で、ゆっくりと、ゆっくりと扉を開いていった。
「ストップ!」
少年の声で、俺はピタリと動きを止める。
扉と枠の間に、わずか一センチほどの隙間ができた。
「よし、見えた。やっぱりだ。赤と青と黄色のコードが複雑に絡み合ってる。水銀レバーもついてるみたいだね」
少年が隙間からペンライトで中を照らしながら言った。
「水銀レバーって、なんだよそれ」
「少しでも傾いたり、振動が加わったりすると爆発する仕掛けだよ。だから、お兄さん。絶対に扉を揺らさないでね。くしゃみも厳禁だよ」
「わ、わかってるよ……」
俺の額から、冷や汗がポタポタと落ちる。
腕の筋肉がプルプルと震えそうになるのを、気合いで押さえ込む。
「それじゃあ、解体するよ。まずは、起爆装置の電源コードを切る。お兄さん、中の配線、見える?」
「ああ、見えるよ。ごちゃごちゃしてて気持ち悪いけどな」
「青いコードがあるでしょ? それをニッパーで切って。ボクの手だと隙間に入らないから」
少年が俺に小さなニッパーを渡してきた。
俺は震える手でニッパーを受け取り、扉の隙間に差し込んだ。
「青だな。青……これか」
青いコードをニッパーの刃で挟む。
「切るぞ。本当にいいんだな?」
「うん。信じて」
少年の言葉に背中を押され、俺は思い切ってニッパーを握り込んだ。
パチンッ。
小さな音がして、青いコードが切断された。
何も起きない。爆発もしない。
「ふう……心臓が止まるかと思った」
俺は大きく息を吐いた。
「まだだよ。水銀レバーを無効化しないと」
少年は真剣な顔のままだ。
「次はどうすればいいんだ?」
「赤いコードと黄色のコードが交差してる部分があるでしょ。そこの、赤い方だけを切って。間違えて黄色を切ったらドカンだよ」
「ドカンって、軽く言うなよ……」
俺は再びニッパーを構え、コードを見つめた。
赤と黄色。
薄暗い隙間の中で、ペンライトの光に照らされた二つの色は、妙に似通って見えた。
「どっちが赤だ? こっちか? いや、こっちか?」
目がチカチカしてくる。
「左側だよ、お兄さん! 落ち着いて!」
少年の声にハッとして、俺は左側のコードを刃で挟んだ。
「左……こっちだな。よし」
深呼吸をして、ニッパーを握る。
パチンッ。
赤いコードが切れ、だらりと垂れ下がった。
ピ────ーッ。
不意に、小さな電子音が鳴り響いた。
「なっ!?」
俺は飛び上がりそうになったが、水銀レバーのことを思い出して必死に堪えた。
「お、おい! 何か鳴ってるぞ! 失敗したんじゃないのか!?」
「違う! これはタイマーが作動した音だ!」
少年が叫んだ。
「電源は切ったはずなのに! ダミーのコードだったんだ!」
隙間から見える小さなデジタル時計の数字が、ものすごいスピードで減り始めている。
「三十秒……二十九、二十八……」
「おいおいおいおい! 冗談だろ!?」
俺はパニックになりかけた。
「八雲! 落ち着きなさい!」
二乃が俺の背中を強く叩いた。
「あんたなら何とかできるでしょ! いつもみたいに、力業でどうにかしなさいよ!」
「力業って、爆弾相手にどうしろって言うんだよ!」
「お兄さん! まだコードがあるはずだ! 黒いコードを探して!」
少年が必死にペンライトを動かす。
「黒……黒……あった! 奥の方に黒いコードがある!」
「それを切れば、今度こそ止まるはずだ! 早く!」
「十五秒……十四、十三……」
タイマーの音が、死へのカウントダウンのように響く。
俺はニッパーを奥に突っ込み、黒いコードを挟もうとした。
だが、届かない。
「くそっ、隙間が狭すぎてニッパーが入らない!」
「八雲! もうダメよ、逃げて!」
「十……九……」
もうダメだ。時間がない。
俺は覚悟を決めた。
「爆弾を窓から捨てる! 二乃! 少年! 伏せろ!」
俺は両手にオーラを集中させ、壁から爆弾を無理やり引きちぎった。
手の中には、あと七秒で爆発する重たい塊。
爆弾を小脇に抱え、ダッシュで窓ガラスに向かう。
「お兄さん! そのガラスは普通じゃ割れないくらい分厚いよ!」
「知るか! 俺の体の方が硬いんだよ!」
俺は窓ガラスに向かってジャンプし、オーラを極限まで集中させた右肩を、全力でガラスの中央に叩きつけた。
ガシャアァァァン!!
耳をつんざく破壊音とともに、分厚い強化ガラスがクモの巣状にひび割れ、そのまま外へ向かって吹き飛んだ。粉々になった破片がキラキラと舞い散り、冷たい風が勢いよく吹き込んでくる。
「……五……四……」
破れた窓枠に足をかけ、眼下に広がる米花町の景色を見下ろす。
遠くには、どんよりとした灰色の雲。
その雲に向かって、俺は大きく振りかぶった。
腕がちぎれるくらいの力で投げなければ、遠くへは飛ばない。
「誰の許可を得て爆発しようとしてんだ、このポンコツがぁぁっ!!」
肩の関節が外れるかと思うくらいのフルスイング。
体中のすべてのオーラを注ぎ込み、爆弾を空に向かってぶん投げた。俺の手を離れた爆弾は、大砲の弾みたいに空気を切り裂きながら、遥か上空へと飛んでいく。
「……三……二……一……」
俺が窓辺で息を止めた瞬間。
ピカッ!
厚い雲の向こう側で、太陽がもう一つ生まれたような強烈な閃光が走った。ワンテンポ遅れて、ドゴォォォォン!! という腹の底に響く轟音が空から降ってくる。強烈な爆風が吹き込み、俺の髪や服を激しく揺らした。
空には、真っ黒な煙の塊がぽっかりと浮かんでいる。
「……あーあ。雨雲、吹き飛ばしちゃったよ」
俺がぼやくと、後ろから呆れ果てたようなため息が聞こえた。
振り返ると、二乃がへたり込んで腰を抜かしている。
少年は目を丸くして口をポカンと開けていた。
*
「ふう……終わった」
俺はへたり込み、床に大の字になって倒れた。
全身から汗が吹き出し、息が荒くなる。
「八雲!」
二乃が駆け寄り、俺の顔を覗き込んだ。
「あんた、無茶しすぎよ! 大丈夫なの!?」
「ああ……なんともない。ちょっと肩が伸びた気がするけど」
俺が冗談を言うと、二乃は目に涙を浮かべながら、俺の腕をポカポカと叩いた。
「バカ! 心臓が縮み上がったじゃない!」
「痛い痛い、二乃ちゃん、叩くのはやめて。俺、今すごく疲れてるから」
少年もホッとしたようにため息をつき、リュックサックを背負い直した。
「お兄さん、すごいね。まさか爆弾を空に放り投げるなんて。本当に漫画の主人公みたいだ」
「だから、漫画じゃないっての……。俺はただの、揉め事処理屋だよ」
俺は体を起こし、ふらつく足で立ち上がった。
「よし、爆弾は解除した。これで大黒のオッサンに会えるな」
俺は扉のノブを回し、今度こそゆっくりと押し開いた。
部屋の中は、薄暗かった。
重厚なカーテンが閉め切られ、外の光を完全に遮断している。
部屋の中央には、大きなマホガニーのデスクがあり、その奥の革張りの椅子に、一人の初老の男が座っていた。
「誰だ!」
男が怯えたような声を上げ、護身用の小さな拳銃をこちらに向けた。
「落ち着いてください、大黒さん。俺たちは、あなたに雇われたボディーガードです」
俺は両手を軽く上げながら、ゆっくりと部屋の中に入った。
男は俺の顔と、後ろにいる二乃、そして少年を交互に見比べた。
「ボディーガード? こんな若造と、小娘と、子供が?」
大黒は信じられないというように目を丸くした。
「ええ、まあ。色々と事情がありまして」
俺は苦笑しながら、デスクに近づいた。
「それにしても、ずいぶんと物騒な連中に狙われてるみたいですね。ビル全体が乗っ取られてますよ」
「あいつら……とうとうここまでやりおったか」
大黒は忌々しそうに舌打ちをし、拳銃を下ろした。
「わしのリゾート開発の利権を狙う、ハイエナどもめ。警察がアテにならんから裏の処理屋を呼んだが、まさかこんな連中が来るとはな。お前たち、本当にあのテロリストどもを相手にできるのか?」
「まあ、何人かはすでに片付けましたよ」
俺は親指でドアの外を指差した。
「それより、大黒さん。ここにずっといても安全じゃありません。他の場所にも爆弾が仕掛けられてるみたいですし、いつ犯人たちがここになだれ込んでくるかわからない。早くこのビルから脱出しましょう」
「脱出と言っても、どこから逃げる? エレベーターも階段も、奴らに押さえられているんだろう?」
大黒の問いに、少年が前に出た。
「屋上だよ」
少年が自信満々に言った。
「屋上?」
「うん。このビルの屋上には、ヘリポートがあるはずだ。大黒さん、あなた、自分のプライベートヘリを呼んでるでしょ?」
大黒はハッとして少年を見た。
「な、なぜそれを……」
「デスクの上にある、航空無線のトランシーバーを見たからだよ。さっきから、誰かと連絡を取ろうとしてたみたいだけど、犯人の妨害電波で繋がらないんじゃない?」
大黒はぐぬぬと唸り、観念したように頷いた。
「その通りだ。わしは万が一のために、ヘリをビルの上空で待機させていた。だが、連絡が取れんことには降りてこさせられん」
「妨害電波の発生源は、たぶんビルの制御室だ。ボクがそこに行って、電波を止める。その間に、お兄さんたちは大黒さんを連れて屋上に向かって」
少年が驚くべき提案をした。
「ちょっと待てよ! お前一人で制御室に行く気か!? 犯人がうじゃうじゃいるかもしれないんだぞ!」
俺が止めるのも聞かず、少年は走り出そうとする。
「大丈夫、ボクにはこれがあるから」
少年は足元の靴をポンポンと叩いた。
「それに、ボクの知り合いのおじさんたちも、きっと制御室の近くにいるはずだから。合流して、犯人を倒すよ」
「おじさんって……あの、いつも眠そうにしてる探偵か?」
「うん、そうだよ!」
少年はニカッと笑い、そのまま部屋を飛び出していった。
「あ、おい! 待てって!」
俺が手を伸ばすより早く、少年の姿は廊下の奥へと消えてしまった。
「……行っちゃったわね」
二乃が呆然と呟いた。
「あいつ、本当に小学生かよ……。メンタルが強すぎるだろ」
俺は頭を抱えた。
でも、不思議と彼が失敗する気はしなかった。
あのメガネの少年が「大丈夫」と言ったなら、きっと大丈夫なのだ。
それが、この世界の法則だから。
「よし、俺たちは屋上を目指すぞ。大黒さん、ついてきてください」
俺は大黒を促し、部屋を出た。
屋上へ続く階段は、このVIPラウンジのすぐ横にあるはずだ。
階段の扉をそっと開け、上を見上げる。
幸い、見張りの姿はない。
「急ぎましょう。いつテロリストたちが上がってくるかわからない」
俺を先頭に、二乃、大黒と続いて階段を登り始めた。
五十階から屋上までは、ほんの数階の距離だ。
だが、その数階が、信じられないほど長く感じられた。
心臓の鼓動が耳の奥でうるさく鳴っている。
頼むから、もう誰も出てこないでくれ。
爆弾も、銃も、もう勘弁してくれ。
俺は心の中で神様に祈りながら、ひたすら階段を駆け上がった。
そして、ついに屋上へ続く重い鉄の扉の前にたどり着いた。
「よし、ここを開ければ……」
俺がノブに手をかけた瞬間。
バンッ!
背後で、銃声が響いた。
「きゃあっ!」
二乃の悲鳴。
振り返ると、階段の下から、黒い服を着た男たちが数人、こちらに銃口を向けて駆け上がってくるところだった。
「見つけたぞ! 大黒だ!」
「逃がすな! 撃て!」
ダダダダダッ!
無数の弾丸が、階段の壁を削り、俺たちの足元をかすめる。
「くそっ! ここまで来て!」
「八雲! 早く扉を開けて!」
二乃が叫ぶ。
俺は片手で弾丸を防ぎながら、もう片方の手で鉄の扉のノブを力任せに回し、蹴り開けた。
「行け! 早く外へ!」
俺の声に弾かれるように、二乃と大黒が屋上へと飛び出していく。
俺も後に続き、鉄の扉をピシャリと閉めて、内側から重いかんぬきを下ろした。
ガンッ! ガンガンッ!
すぐに外から扉を叩く音と、銃弾が撃ち込まれる音が響く。
だが、この扉はかなり分厚い。そう簡単には破られないはずだ。
「はぁ、はぁ……」
俺は扉に背中を預け、ずるずると座り込んだ。
全身が汗と泥で汚れ、服はボロボロだ。
「八雲! 大丈夫!?」
二乃が駆け寄り、俺の体を気遣うように触れる。
「ああ……なんとかね」
俺は弱々しく笑い、屋上を見渡した。
冷たい風が吹き抜け、灰色の雲がすぐ頭の上を流れている。
屋上の中央には、大きな「H」の文字が書かれたヘリポートがあった。
「大黒さん、早くヘリを呼んでください!」
俺が叫ぶと、大黒は慌ててポケットからトランシーバーを取り出した。
「あ、ああ! こちら大黒! 聞こえるか!」
トランシーバーから、ノイズ混じりの声が返ってくる。
『会長! 無事ですか! 今すぐ向かいます!』
「繋がった! 妨害電波が消えたんだわ!」
二乃が嬉しそうに叫んだ。
あの少年が、制御室で何かやってくれたに違いない。
本当に、恐ろしい子供だ。
遠くの空から、パタパタというヘリコプターのローター音が近づいてくるのが見えた。
助かった。
これでようやく、このイカれた事件から解放される。
俺は深く息を吐き出し、目を閉じた。
今日の晩ご飯は、絶対に一番高いお寿司を腹いっぱい食べてやる。
ウニとイクラと、大トロも頼んでやる。
そんな平和な妄想を膨らませていた、その時だった。
チュドォォォォン!!
突然、足元から凄まじい爆発音が響き、屋上全体が激しく揺れた。
「うわあっ!?」
俺はバランスを崩し、床に倒れ込んだ。
二乃も大黒も、悲鳴を上げて転がっている。
「な、なんだ!? 今度は何だ!」
俺が立ち上がり、周囲を見回すと、信じられない光景が目に飛び込んできた。
俺たちが今いるこのタワーの隣。
少し低い方のタワーの中腹が、真っ赤な炎と黒煙を噴き上げているのだ。
そして、二つのタワーを繋いでいたあの連絡橋が。
無惨にも真ん中から折れ曲がり、崩れ落ちていくところだった。
「嘘だろ……」
俺は呆然とその光景を見つめた。
やっぱり爆破された。俺の嫌な予感は百パーセント的中してしまったのだ。
あんなデザインにするから……。
俺が心の中で設計者を呪っていると、二乃が青ざめた顔で俺の袖を引いた。
「八雲……あれ、見て……」
二乃が震える指で指し示したのは、炎に包まれた隣のタワーの屋上だった。
そこには、小さな人影があった。
青いジャケットに、半ズボン。
あの丸メガネの少年だ。
彼は、隣のタワーの屋上で、こちらに向かって何かを叫んでいるようだった。
その後ろからは、黒い煙が猛烈な勢いで迫ってきている。
「あいつ……なんであんなところにいるんだよ!」
俺は叫んだ。
制御室に行って電波を止めたまではよかったが、逃げ遅れて隣のタワーに取り残されてしまったらしい。
「どうしよう、八雲! あのままじゃ、あの子……!」
二乃が悲痛な声を上げる。
助けに行きたくても、橋はもうない。
ヘリが到着するまでには、まだ少し時間がかかる。
その間に、炎は確実に少年のいる屋上を飲み込んでしまうだろう。
「くそっ……!」
俺は拳を強く握りしめた。
あの少年は、この世界の主人公の一人だ。
こんなところで死ぬはずがない。絶対に何か、あり得ない方法で生き延びるはずだ。
例えば、サスペンダーでバンジージャンプをするとか、スケボーで空を飛ぶとか。
でも、もし万が一のことがあったら?
もし彼がただの子供として、あの炎の中に消えてしまったら?
俺の脳裏に、彼が笑顔で俺に「お兄さんが盾になってくれたからだよ」と言った顔が浮かんだ。
生意気で、大人びていて、でもどこか危なっかしいあの少年。
「……二乃」
俺は低く声をかけた。
「大黒のオッサンを連れて、ヘリに乗れ。ヘリが来たら、すぐに出発するんだ」
「えっ……八雲は?」
「俺は……ちょっとあいつを迎えに行ってくる」
「迎えに行くって、どうやって!? 橋はもうないのよ!」
二乃が半狂乱になって俺にすがりつく。
「距離はざっと三十メートルってところか。俺の瞬発力とオーラを全開にすれば、ギリギリ届くかもしれない」
「バカなこと言わないで! 届かなかったら、あんた落ちて死ぬのよ!」
「大丈夫だ。俺は運がいいからな」
俺は二乃の手を優しく払い除け、屋上の縁へと向かった。
「八雲! やめて! 行かないで!」
二乃の悲痛な叫び声が背中に突き刺さる。
俺はそれを振り切るように、全身の筋肉にすべてのオーラを集中させた。
限界を超えた気が、体の中で暴れ回り、筋肉が悲鳴を上げている。
炎と煙の向こう側、隣のタワーの屋上で、少年がこちらを見ている。
俺は深く息を吸い込み、コンクリートの床を全力で蹴り飛ばした。
「うおおおおおおおっ!!」
俺の体は、宙に浮いた。
風を切り裂き、眼下に広がる米花町のミニチュアのような景色を飛び越えていく。
重力に逆らい、あり得ない跳躍力で空を飛ぶ。
熱風が俺の体を包み込み、煙が視界を奪う。
「届け……届けえええっ!」
俺は腕を前に伸ばし、少年のいる屋上の縁に向かって指を引っかけた。
ガシッ!
硬いコンクリートの感触が、手のひらに伝わる。
「っ!」
肩の関節が外れそうになるほどの衝撃をこらえ、俺は片手で屋上の縁にぶら下がった。
「お兄さん!」
少年が驚いた顔でこちらを見下ろしている。
「よっ……と」
俺は強引に体を持ち上げ、屋上に転がり込んだ。
「お、お前……無茶しすぎだろ……」
俺は息も絶え絶えに少年に文句を言った。
「お兄さんこそ……なんで来たのさ。ボク、車で飛び移ろうと思ってたのに」
少年は、屋上の端に停まっていたスポーツカーを指差した。
「は? 車で飛ぶ? お前、映画の見過ぎだろ……」
俺は呆れて笑いそうになった。
「さあ、おしゃべりは終わりだ。ここはもうすぐ崩れる。俺にしっかりしがみついてろ」
俺は少年を背負い、再びオーラを練り直した。
炎がすぐそこまで迫っている。
「行くぞ!」
俺は少年を背負ったまま、再び宙に舞い上がった。
炎と煙を抜け、二乃たちが待つタワーの屋上へと着地する。
ドスッ。
「八雲!」
二乃が泣きそうな顔で駆け寄ってきた。
ちょうどその時、頭上から凄まじい風圧とともに、大黒のプライベートヘリが降りてきた。
「さあ、乗るわよ!」
二乃が俺の腕を引っ張り、ヘリの機内へと押し込む。
大黒もすでに乗り込んでいた。
俺は少年を座席に下ろし、自分もシートベルトを締めた。
ヘリがゆっくりと上昇し、炎に包まれたツインタワーから離れていく。
「はぁ……終わった」
俺はシートに深く背中を預け、目を閉じた。
全身が痛い。服はボロボロで、煤だらけだ。
「八雲……本当に、バカなんだから」
隣に座る二乃が、ハンカチで俺の顔の汚れを拭きながら、小さく鼻をすする。
「ごめんな。でも、見捨てられなかったんだよ」
俺が苦笑すると、向かいの席に座っていた少年が、大きなメガネの奥から俺を見つめてきた。
「お兄さん、ありがとう。助けてくれて」
「いいってことよ。俺たち、チームだろ?」
俺がウインクをすると、少年は無邪気な笑顔を浮かべた。
「うん! また何か事件があったら、お兄さんにお願いするね!」
「それは全力で遠慮するよ……」
俺は本気でため息をついた。
「……なぁ、ボウズ。お前、本当に何者なんだ? ただの小学生じゃないことくらい、もうわかってるぞ」
俺の真っ直ぐな問いかけに、少年は少しだけ驚いたような顔をした。
そして、メガネの位置をクイッと直し、自信に満ちた、あの『探偵』の顔で言い放った。
「江戸川コナン。探偵さ」
江戸川コナン。
その名前を、俺は脳の奥深くに刻み込んだ。
絶対に敵に回してはいけない、要注意人物のリストの、一番上に。
そして、もう二度と、この死神メガネとは関わりたくない。
そう心に誓いながら、俺はヘリの窓から遠ざかる米花町の景色を眺めていた。