現代日本に転生したけど、何かおかしくない?   作:匿名のななし

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08 名探偵との遭遇⑤

遠くのほうで、けたたましいサイレンの音が鳴り響いている。

眼下を見下ろせば、パトカーや消防車、救急車の赤いパトランプが、まるでおもちゃのように小さく、そしてせわしなく瞬いていた。

 

「あ、警察の人が来たみたいだね」

コナンくんがビルの下を覗き込み、安堵したように息をつく。

俺は二乃と顔を見合わせた。

警察。一般市民にとっては頼もしい味方だが、俺たちにとっては死神の次に厄介な存在だ。もしここで捕まれば、面倒な事情聴取を根掘り葉掘りされるに決まっている。「なぜ素手でアサルトライフルを持った男たちを制圧できたんですか?」なんて聞かれて、素直に答えられるわけがない。そもそも、俺たちは裏の揉め事処理屋だ。表の権力とはなるべく距離を置きたい。

 

「二乃。ずらかるぞ」

「わかってるわ。大黒さん」

二乃はヘリの座席で青ざめている大黒に向き直り、とびきり冷たい営業スマイルを浮かべた。

「残りの代金は、後日指定の銀行口座にきっちり振り込んでおいてくださいね。もし逃げたり、踏み倒そうとしたりしたら……地の果てまで取り立てに行きますからね。物理的に」

「ひっ……! わ、わかっておる! すぐ手配させる!」

俺たちのデタラメな立ち回りを特等席で見ていた大黒は、首が千切れるほどの勢いで何度も頷いた。

俺は満足して、コナンくんに軽く手を挙げた。

「じゃあな、名探偵。依頼があれば、また……いや、ない方がいいな。元気でな」

「えっ? お兄さんたち、どうやって帰るの!?」

 

少年が驚いて振り返るのを背に、俺はビルの屋上の端──ヘリポートの柵の向こう側へと向かった。

冷たい夜の強風が吹き込み、眼下には米花町のネオンの光が、どこか毒々しく広がっている。

俺はあらかじめ用意してあった、ワイヤーを撃ち出すためのランチャーをジャケットの裏から取り出した。

狙いを定めるのは、隣にある少し低いビルの屋上だ。

トリガーを引く。

パシュッ! と圧縮ガスが抜け、ワイヤーの先端が撃ち出された。

 

ガキンッ!!

 

硬質な金属音とともに、ワイヤーの先のアンカーが、向こうのコンクリート壁にしっかりと食い込み、固定される。

「お兄さんたち、逃げるの!? 警察に事情を話さなくていいの!?」

背後からコナンくんが叫ぶ。

「悪いなコナンくん。表の警察の人たちとお茶を飲むのは、俺たちの性に合わないんでね」

俺は二乃の腕を引き、俺の背中にしっかりと飛び乗らせた。

「しっかり掴まってろよ。落ちたらただのトマトケチャップだぞ」

「絶対よ! 絶対に、絶対に離さないでよね! 死んでも離さないから!」

二乃が俺の首に両腕をきつく巻きつけ、耳元で悲鳴のような声を上げた。

「わかってるって! 首絞めんな、苦しい! それに耳元で叫ぶな、鼓膜が破れる!」

俺はワイヤーの持ち手をしっかりと両手で握りしめる。

夜の風が吹き込む縁に足をかけ、ためらうことなく虚空に向かって跳躍した。

 

ヒュゴォォォォッ!!

 

冷たい風が、下から上へとものすごい勢いで吹き付けてくる。

頬を叩く風の強さに、思わず目を細めた。

右手に握りしめたワイヤーの持ち手からは、ギリギリと擦れるような嫌な音が伝わってくる。隣のビルに向かって撃ち込んだワイヤーは、俺と二乃の二人の重さを支えきれずに切れてしまうんじゃないか。

そんな不安が頭をよぎるが、もう後戻りはできない。

眼下には、米花町の夜の街並みが広がっていた。

赤や青のネオンサインが、チカチカと毒を含んだような色で輝いている。下を覗き込むと車が豆粒みたいに小さく見えて、ぞっとするほどの高さだ。

落ちたら、いくら俺の体が硬いといっても、ただのミートソースみたいになって終わるだろう。

 

「きゃあああああああああっ!!」

 

背中にしがみついている二乃が、耳のすぐそばで鼓膜が破れそうなほどの絶叫を上げた。

「うるさい! だから耳元で叫ぶな! 舌噛むぞバカ!」

俺も負けじと大声で叫び返す。

背中を覆っていた服は、さっきの爆弾騒ぎでほとんど焼け焦げてなくなってしまっている。だから、二乃の柔らかい腕や、密着した彼女の体温が、俺の素肌に直接伝わってきていた。

普段ならちょっとドキドキするシチュエーションかもしれないが、今はそんなラブコメみたいなことを考えている余裕なんて一ミリもない。俺の頭の中は、無事に着地することだけでいっぱいだ。

 

ワイヤーがピンと張り詰め、俺たちの体を振り子のようにして、隣のビルの屋上へと凄まじいスピードで運んでいく。

コンクリートでできた平らな屋上が、ぐんぐんと目の前に迫ってきた。

「ほら、着地するぞ! ちゃんと掴まってろ!」

俺は空中で体を丸めるようにして、両足の筋肉に体の中のエネルギーをめいっぱい集めた。

見えないオーラのクッションを、靴の裏の少し下に分厚く作り出す。

足の裏がコンクリートに触れた瞬間、膝を柔らかく曲げて衝撃を極限まで逃がす。

 

トンッ。

 

思ったよりも軽い音とともに、俺たちは隣のビルの屋上に降り立った。勢い余って少し前に転がりそうになったが、なんとか踏みとどまる。

 

「ふう……着いたぞ、二乃」

俺がワイヤーの持ち手のスイッチを押して金具を外すと、二乃が俺の背中からずるずると崩れ落ちるようにして床にへたり込んだ。

「はぁ、はぁ……死ぬかと思った……もう心臓止まるかと思った……」

二乃は肩で息をしながら、乱れたピンク色の長い髪をかきあげた。顔は真っ青で、足がガタガタと生まれたての小鹿のように震えているのがわかる。

「ほら、立てるか? ここにずっといるわけにもいかない。下には警察の車がうじゃうじゃ集まってきてるはずだ」

俺が手を差し伸べると、二乃はその手を力強く握って立ち上がった。

 

「……あんたのせいよ。もっと安全な逃げ方があったでしょ」

「安全な逃げ方って、エレベーターが動くかどうかも分からんし、階段には警察の特殊部隊が登ってきてたじゃないか。捕まってあれこれ事情聴取されるよりはマシだろ?」

言い返しながら、ワイヤーを巻き取って道具をポケットに突っ込む。

そして、さっきまで俺たちがいたツインタワーのほうを振り返る。

上の方の階からは黒い煙が上がっていて、窓の奥で赤い光がチカチカと動いているのが見えた。ビルの下には、パトカーや消防車、それに救急車が何台も停まっていて、赤いランプが夜の闇をぐるぐると不気味に照らしている。

遠くからいくつも重なったサイレンの音が、耳障りな不協和音を作り出していた。

 

「さあ、早くこの街から出よう。ここは空気が悪すぎる」

俺たちはビルの屋上から続く非常用の階段を見つけ、音を立てないようにゆっくりと降りていった。

何十階分もの階段を降りるのは骨が折れるが、さっきみたいに銃を持った連中と追いかけっこをするのに比べれば、ただの散歩みたいなものだ。

ただ、俺の背中を覆う服がなくてスースーするのを気にしながら、ひたすら下を目指す。

 

「ねえ、八雲」

階段を降りながら、二乃が小さな声で話しかけてきた。

「あの大黒って人、本当に私たちのお金を振り込んでくれるかしら。もし逃げたりしたら……」

「大丈夫だろ。あのおっさん、俺たちの無茶苦茶な強さを目の前で見たんだ。約束を破ったら、俺たちがどこまででも追いかけてきて首根っこを掴んで吊るし上げるってわかってるはずだ。命が惜しければちゃんと払うさ」

俺がそう言うと、二乃は少しだけホッとしたように息を吐き、すぐにいつもの現金な顔に戻った。

 

「そうよね。あんな死地から無傷で助け出してあげたんだから、約束の報酬だけじゃ割に合わないわ。命の恩人なんだから、色をつけてドーンと臨時ボーナスを振り込んでくれてもバチは当たらないはずよ。あんたの服も焼け焦げちゃったんだし」

「違いない。期待して待つとしようぜ。これでしばらくはのんびりさせてもらうからな」

「毎日昼まで寝て、起きたらゲームして、お腹が空いたら出前を頼むんでしょ? ダメよ。お金があっても、生活のリズムはちゃんと整えなさい。それに、私の作るご飯じゃなくて出前なんて、許さないからね」

二乃がツンと顎を上げて言う。

「はいはい、わかってますよ。二乃の手料理が一番おいしいってことはな。お腹すいたなぁ」

 

そんなくだらないやり取りをしているうちに、俺たちはビルの裏口にある重い鉄の扉にたどり着いた。

扉をそっと開けると、そこは暗い裏路地だった。

表の通りはサイレンの音と野次馬の声で騒がしいが、この裏路地には誰もいない。湿ったゴミの匂いと、ネズミが走るかすかな音がするだけだ。

俺たちは顔を隠しながら、大通りに出ないように裏道を縫って歩いた。

 

米花町という街は、本当にどこを見ても異常だ。

歩いているだけでどこからか悲鳴が聞こえてきそうな気がするし、すれ違う人がみんな何か隠し事を持っているように見える。黒い服を着た大きな男が歩いているだけで、「あいつ、カバンの中に爆弾を隠してるんじゃないか」と疑ってしまう。

自分の感覚がどんどんおかしくなっていくのを感じていた。早くタクシーを捕まえて、俺たちの住む平和な場所へ帰りたい。

でも、こんな大騒ぎになっている街で、流しのタクシーなんて走っているわけがなかった。

 

「全然タクシー通らないわね。足痛くなってきた」

二乃が寒そうに腕をさすりながら言う。

「そりゃそうだ。こんな爆発騒ぎのあった街に、好んで入ってくるタクシー運転手なんていないよ。来る時だって、お前がチップを弾んでやっと連れてきてもらったくらいだからな」

俺たちは米花町の境界線を越えるまで、ひたすら歩き続けるしかなかった。

 

足の裏が痛くなってきて、背中の寒さも限界に近づいてきた頃、ようやく別の街の明るい灯りが見えてきた。

大通りに出て手を挙げると、一台の空車のタクシーが目の前に停まってくれた。

 

「助かった……神様ありがとう……」

俺たちは逃げ込むように後部座席に乗り込み、運転手に事務所の住所を告げた。

窓ガラス越しに、米花町のネオンが後ろへと流れていく。

俺はふうっと大きく息を吐き出し、深くシートに背中を預けた。暖房の効いた車内は天国のように暖かくて、シートの柔らかさに包まれると、体中の強張りがいっきに解けていくのを感じた。

 

「さっきのあのメガネの男の子、コナンくんって言ったわね」

不意に、二乃がポツリと呟いた。

「ああ。あいつがどうかしたか?」

「あの子、ただの小学生じゃないわよね。サッカーボールで大人の男を吹き飛ばしたり、腕時計から変な針を飛ばして人を眠らせたり。それに、あの頭の回転の速さ。どう考えてもおかしいわ」

「ああ。見た目はただの子供なのに、頭脳は大人顔負け……いや、それ以上だったな。世の中、規格外のやつがいるもんだ」

俺は窓の外を見つめながら答えた。

 

「でもさ」

二乃が少し声を潜めて続ける。

「あんたも人のこと言えないわよ。あの子から見たら、あんたのほうがよっぽど規格外の化け物に見えたんじゃない? 素手で銃弾弾いて、鉄扉ぶち破ってたんだし」

「……まあ、そうかもしれないな」

俺は苦笑いした。

確かに、念能力者である俺も普通じゃない。でも、俺はただ体を鍛えて見えないエネルギーで身を守っているだけだ。あのコナンくんのように、おかしな道具を使いこなして大人たちを手のひらで転がすような真似はできない。

それに、彼が関わる場所には必ずと言っていいほど死体が転がり、大きな事件が起こる。まるでトラブルを引き寄せる磁石のような存在だ。

 

「もう二度と、あいつとは関わりたくないな」

俺は心からの本音をこぼした。

「依頼人があいつの知り合いだったら、その仕事はすぐに断ろう。いくらお金を積まれても、命がいくつあっても足りない」

「賛成。私も、あんな危ない橋を渡るのはもうごめんだわ。心臓に悪すぎる」

二乃も深く頷いた。

 

*

 

タクシーが俺たちの事務所兼自宅の前に着いたのは、夜もすっかり遅くなった時間だった。

メーターの料金を払い、車を降りる。

冷たい夜の空気が頬を撫でるが、ここは米花町じゃない。どこかで爆発が起きる心配も、黒ずくめの男に狙われる心配もない、俺たちの平和な拠点だ。

ギシギシと鳴る外階段を登り、ドアの前に立つ。ポケットから鍵を取り出し、鍵穴に差し込んで回す。

 

ガチャリ。

 

この聞き慣れた音が、こんなにも安心できるものだとは知らなかった。

ドアを開けて中に入り、電気のスイッチをつける。

見慣れた殺風景な部屋。古ぼけたソファに、小さなテレビ。机の上には、朝食べたご飯の食器が綺麗に洗って伏せてある。

 

「帰ってきた……」

俺は靴を脱ぎ捨てるようにして上がり、そのまま床に大の字になって倒れ込んだ。

本当はソファにダイブしたいところだが、今の俺は爆発の煤と汗でドロドロだ。これ以上二乃の雷を落とされるのはご免だった。

 

「ちょっと、いくら疲れてるからって床に寝ないでよ。……って言いたいところだけど、私も今日はもう限界」

二乃も靴を脱ぐなり、玄関の壁にもたれかかって深い深呼吸をした。

見れば、彼女のピンク色の長い髪も白っぽい粉や煤で汚れ、服はシワシワで汗ばんでいる。爆風の中をくぐり抜け、ビルの屋上からワイヤーで飛び移るなんていう、人生で絶対にやらないようなハードなアクションをこなしたのだ。当然だろう。

 

「先、お風呂入ってきなよ。二乃も煤だらけだし、髪に煙の匂いが染み付いてるだろ」

「……言われなくてもそうさせてもらうわ。もう最悪。お肌もベタベタだし、髪もギシギシする」

二乃は重い足取りで洗面所へ向かいながら、クルッとこちらを振り返った。

「汚い服のまま、絶対にソファには座らないでよ! そこで待ってなさい!」

「はいはい、わかってますよーだ」

 

しっかり釘を刺してからバスルームに消えていく二乃を見送り、俺は床に転がったまま、ぼんやりと天井のシミを見つめた。

やがて、シャワーが勢いよく水を出す音が聞こえてくる。

今日一日の出来事が、脳裏にフラッシュバックした。米花町での爆破事件、銃を持った連中との殴り合い、そして空を飛んでの脱出。どれもこれも、思い出すだけで胃のあたりがキリキリと痛んでくる。

もうこんな危ない仕事は絶対にやらない。猫探しとか、浮気の証拠を写真に撮るとか、そういう平和で安全な仕事だけをして生きていくんだ。俺は心の中で固く誓いながら、自分の順番が来るのをじっと待った。

 

ガチャリとバスルームのドアが開き、石鹸のいい香りと共に、パジャマ姿の二乃が出てきた。

濡れた髪をタオルで拭きながら、俺を見下ろす。

「はぁー、生き返った。お待たせ、八雲。次入っていいわよ。……って、あんた本当にずっと床で寝てたのね」

「動く気力がなかったんだよ。じゃあ、遠慮なく洗わせてもらうわ」

 

入れ替わりでお風呂場へと向かい、服を脱いで鏡の前に立つ。

上半身は消火器の白い粉と、爆発の黒い煤で汚れて見るも無惨な姿だった。背中側を鏡に映して確認してみる。服が焼け焦げた部分以外に、傷は一つもなかった。

「よかった。痣もなんもないな」

ホッと息を吐き出し、お湯で全身の煤を念入りに落とす。

 

シャワーから上がって部屋に戻ると、テーブルの上に温かいお茶が入った湯飲みが二つ置かれていた。

二乃はドライヤーで髪をあらかた乾かし終えたらしく、ソファにちょこんと座っていた。

「ほら、お茶。冷めないうちに飲みなさい」

「サンキュー」

湯飲みを両手で包み込むように持ち、温かいお茶をゆっくりとすする。緑茶の香りと優しい渋みが、体の中に染み渡っていく。

「あー……生き返る」

俺が深くため息をつくと、二乃も自分のお茶を飲んで、ふうっと息を吐いた。

 

「ねえ、八雲」

「ん?」

「今日はお疲れ様。あんたがいなかったら、私、本当にどうなってたかわからなかったわ」

二乃が少しだけ下を向いて、小さな声で言った。

その顔は、いつもの強気な態度はどこへやら、年相応の女の子の素直な表情だった。

俺は照れ隠しに頭をぽりぽりと掻いた。

「何言ってんだよ。俺が二乃を守るのは当たり前だろ。お前がいなくなったら、誰が毎日うまいご飯を作ってくれるんだよ。俺は美味しい手料理のために体を張ってるようなもんだ」

俺がそう言うと、二乃は顔を上げて、プッと吹き出した。

「やっぱりあんたは、食い意地が張ってるだけのバカね。でも、そのバカなところのおかげで助かったわ。……ありがとう」

 

二乃の笑顔を見て、俺もつられて笑ってしまった。

この笑顔が見られるなら、たまには少し危ない橋を渡るのも悪くないかもしれない。

いや、やっぱり危ないのは嫌だ。俺は首を横に振って、その考えを即座に打ち消した。

 

*

 

それから数日が経った。

俺たちは、大黒のオッサンからの振り込みを心待ちにしながら、事務所でゴロゴロと平和に過ごしていた。

テレビのニュースでは、連日あの米花町のツインタワーの事件が報道されていた。

『テロリストのグループを逮捕』『爆発の原因は不明』『警察の迅速な対応により、人質は全員無事に救出』

俺たちの活躍は綺麗さっぱりと隠されていたが、表のニュースに出ないのは俺たちにとって都合がいい。目立つことは、さらなる面倒ごとを引き寄せるだけだからだ。

 

そして、待ちに待ったその日の朝。

二乃が銀行の通帳記入から帰ってくるなり、ものすごい勢いで事務所のドアを開け放った。

 

「八雲! 入ってるわよ! 入ってる!」

二乃の声が裏返っている。

「おおっ! マジか!」

俺はソファから飛び起き、二乃が突き出してきた通帳をひったくるようにして見た。

そこには、大黒のグループ会社の名前で、信じられないようなゼロの数が並んだ金額が印字されていた。

 

「最初の約束の倍額……どころじゃないわ。桁が違う! 依頼料の他に、ものすごい額の臨時ボーナスが上乗せされてる!」

「す、すげえ……これ、お高い車が買えるくらいはあるぞ。服の弁償代なんて軽くお釣りがくる!」

俺は震える手で通帳の数字を数えた。

「これで、しばらくは遊んで暮らせるわね!」

二乃が両手を上げて飛び跳ねる。

「ああ、夢のぐうたら生活の始まりだ! 毎日昼まで寝て、ゲームして、漫画読んで……」

「だから、そのだらしない生活はやめなさいって言ってるでしょ!」

二乃が俺の背中をバシッと叩く。

「でも、今日は特別よ。約束通り、一番高いお寿司を食べに行きましょう! お腹をペコペコに空かせてからね!」

「おう! 任せとけ! 胃薬もちゃんと準備して、限界まで食ってやる!」

 

その日の夜。

俺たちは新宿の少し奥まった場所にある、見るからに敷居の高そうな高級寿司店にやってきた。

入り口には暖簾が一つかかっているだけで、看板も小さい。中に入ると白木のカウンターがピカピカに磨かれていて、静かで凛とした空気が漂っていた。

俺たちは案内されたカウンターの席に座り、おしぼりで手を拭いた。目の前には、白衣を着た職人のおじさんが鋭い目でこちらを見ている。

 

「……なんか、すげえ緊張するな」

俺が小声で言うと、二乃は平然とした顔でお茶をすすった。

「堂々としてなさいよ。お金はたっぷりあるんだから」

 

メニューを開いてみると、「おまかせ」という文字と目が飛び出るような値段が書かれていた。単品のメニューには値段が書かれていない。いくら取られるかわからない恐怖と戦いながら食べるシステムなのか。

 

「大将、とりあえずおまかせのコースで。それと、別で大トロとウニをいくつか握ってください」

二乃が、まるでこの店の常連みたいにすらすらと注文する。

「かしこまりました」

職人の低い声とともに、コースが始まった。

 

最初に出てきたのは、ヒラメの薄造りだった。透き通るような白い身に、少しだけすだちが絞ってある。箸でつまんで口に入れると、身の弾力と、噛むほどに広がる甘みがたまらない。

「うまっ……!」

俺は思わず声を漏らした。普段食べている百円の回転寿司とは、まったく別の食べ物だ。

続いて、イカ、アジ、中トロと、次々に美しいお寿司が目の前の皿に置かれていく。どれもこれも、口の中に入れた瞬間に酢飯がほろりと崩れて、ネタの旨味と混ざり合う。わさびのツンとした辛さが鼻へ抜けていく。

「おいしい……」

二乃も目を細めて、幸せそうな顔で頬張っている。

 

そして、ついに別で頼んだ大トロがやってきた。淡いピンク色の身に、細かい白い線が網の目のように入っていて、表面が脂でキラキラと光っている。

「いただきまーす」

俺は指で大トロをつまみ、そのまま口の中へ放り込んだ。瞬間、とろけるような脂の甘みが口いっぱいに広がり、噛む必要がないくらいに溶けてなくなった。

「うおおお……なにこれ。肉みたいだ。いや、肉よりうまいぞこれ!」

俺が感動していると、隣でウニを食べていた二乃が、うっとりとしたため息をついた。

「このウニ、海の味がするわ。嫌な臭みがまったくなくて、クリーミーで……ほっぺた落ちそう」

 

俺たちは、言葉を失うくらい美味しいお寿司を、これでもかというくらいお腹に詰め込んだ。大トロのおかわり、イクラの海苔巻き、ふっくらと煮てある穴子、最後に甘い卵焼き。職人の流れるような手さばきを見ながら、夢のような時間を過ごした。

 

店を出た時には、俺の胃袋ははち切れそうなくらいに膨れ上がっていた。

「ふう……もう一歩も歩けない」

俺がお腹をさすりながら言うと、二乃も満足そうに微笑んだ。

「本当に美味しかったわね。あのおじさんの命を助けた甲斐があったわ」

「ああ、これなら命を張った甲斐があったってもんだ」

 

俺たちは夜風に当たりながら、ゆっくりとした足取りで駅へと向かった。

ネオンの光が街を照らしているが、この新宿の街もあの米花町に比べればまだマシに思える。もちろん裏路地に入ればヤクザのケンカなんかがあるかもしれないが、わざわざそんなところに行かなければ安全だ。

 

「さて、明日からは本当に何もしないぞ。最低でも一ヶ月は休む」

俺が伸びをしながら宣言する。

「そうね。たまにはゆっくり休むのもいいかもしれないわ」

二乃も珍しく俺の意見に賛成してくれた。

「でも、家の掃除と洗濯はあんたの当番よ。私は美味しいご飯を作ることに専念するから」

「ええー、休みにならないじゃないか」

「共同生活のルールでしょ。働かざる者食うべからずよ」

 

二乃はふふっと笑うと、少しだけ歩調を緩めて俺の横顔を見上げた。

「……それに、せっかく大金が入ったんだし、たまには外でパーッと使うのも悪くないわね。明日、新しくできたショッピングモールに付き合ってよ」

「え? 買い物? 俺は家でダラダラとゲームしてたいんだけど……」

「却下。私の服も見たいし、あんたのその野暮ったい私服もコーディネートしてあげる。あ、気になってた映画もやってるから、それも見るわよ」

「それ、完全に俺の休みが一日潰れるやつじゃん」

「大金星を挙げた相棒への労いよ。ポップコーンくらいは奢ってあげるから、大人しく荷物持ちしなさいよね」

「はいはい……」

映画に買い物って、端から見たら完全に休日のデートだよな。まあ、たまには付き合ってやるか。荷物持ちだけど。

 

事務所に戻り、俺はソファに寝転がってスマートフォンをいじり始めた。

ネットのニュースや、色々な掲示板を適当に眺める。平和なニュースを見ていると心が落ち着く。

『亀有の交番で、また警官が自転車でトラックと並走』

相変わらず、あの眉毛の繋がったおまわりさんは人間をやめているらしい。

『帝愛グループ、新たな地下施設の建設を計画か』

これも関わってはいけない話題だ。

 

「八雲、何見てるの?」

パジャマに着替えた二乃が、俺の隣に座り込んでスマートフォンの画面を覗き込んできた。

「いや、なんでもないよ。ちょっと変なニュースがあっただけだ」

俺は慌てて画面を消し、スマートフォンをテーブルの上に裏返して置いた。

「変なニュースって、米花町より変なところがあるの?」

「さあな。でも、この世界はどこに行っても変なことだらけだからな。俺たちは、なるべくそういうのに関わらないように生きていくのが一番だ」

「そうね。お金も手に入ったし、しばらくは平和に暮らしましょう。明日のためにもう寝るわよ。あんたも夜更かししないで早く寝なさいよ」

「ああ、おやすみ」

二乃が奥の部屋へと消えていくのを見送って、俺は再びソファに寝転がった。

 

天井のシミを見つめながら、これから先のことについてぼんやりと考える。

大金を手に入れたとはいえ、俺たちのこの不思議な日常がそう簡単に終わるとは思えない。揉め事処理屋という看板がある限り、また何か面倒な事件が転がり込んでくるに決まっている。

その時は、また文句を言いながら、痛い思いをしながら、なんとか切り抜けていくしかないのだろう。

 

でもまあ、隣で二乃が美味しいご飯を作ってくれる限りは。

そんな生活も、悪くないかもしれない。

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