念能力者が行く多重クロス世界 作:匿名のななし
まぶたの裏で、赤い光がチカチカと点滅していた。
俺はうつ伏せになったまま、ソファのクッションに顔を押し付ける。
いや、光じゃない。音が鳴っているんだ。
ヴィィィィン、というモーターの回転音。
それが俺の耳のすぐそばで、右へ左へと忙しなく移動している。
「ちょっと、いつまで寝てるのよ。そこ退いてくれないと掃除機がかけられないじゃない」
頭の上から降ってきた声に、俺はたまらず顔を上げた。
「えぇー……今何時だと思ってんのさ。大金を手に入れた富豪の、正しい休日の過ごし方を実践してる最中なの」
「午後一時よ。もうお昼もとうに過ぎてるわ。いつまでパジャマでゴロゴロしてるつもり?」
腰に手を当てて見下ろしてくるのは、うちの優秀すぎるアシスタント、中野二乃だ。
ピンク色の長い髪を後ろでまとめて、エプロン姿で掃除機を握りしめている。
「午後一時なんて、富豪にとっては早朝みたいなもんだろ。昨日、夜中の三時までゲームのレベル上げをしてたんだよ。あのダンジョン、敵の湧きがエグくてさぁ」
「そんなの知らないわよ! だいたい、今日は約束してたでしょ!」
掃除機の先っぽで、俺のすねをコツコツと突っついてくる。
俺の体は『オーラ』の膜で覆われているから、掃除機のヘッドで小突かれたくらいじゃ蚊が止まった程度の刺激しかない。だが、その一定のリズムが地味にウザい。
「約束? なんだっけ、そんなのした覚えはないけど」
「したわよ! 先週、あの大黒さんからお金が振り込まれた時、言ったじゃない。いっぱいお金が入ったんだから、今日は私のお買い物に一日付き合うこと! 荷物持ちが必要なの!」
そういえば、高級寿司を限界まで腹に詰め込んで思考が完全に停止していた時、「来週の休みは私の荷物持ちね!」と有無を言わさず押し切られた気がする。
「荷物持ちって……ネット通販で買えばいいじゃん。今日、めっちゃ日差し強いよ? 紫外線はお肌の敵だよ?」
「服やコスメは実物を見て買わないと意味がないの。あんたみたいなヨレヨレのシャツを三枚パックで買ってるような男には、一生理解できないでしょうけどね」
二乃は掃除機のスイッチを切り、俺の首根っこを掴んで強引に引き起こした。
「ほら、さっさと着替えて! メイクもバッチリ終わってるんだから、これ以上待たせたら今日の晩ご飯は抜きにするわよ」
出た。伝家の宝刀。
「わかった、わかったよ! 着替えるから! ご飯抜きだけは勘弁してくれ!」
渋々ソファから立ち上がり、押し入れから適当な服を引っ張り出した。
ジーパンに黒の無地Tシャツ、その上に薄手のグレーのパーカーを羽織る。
三分で準備を完了させてリビングに戻ると、エプロンを外した二乃が玄関の鏡の前でリップを塗り直しているところだった。
俺は思わず、足を止めた。
いつもの見慣れた制服姿や、部屋着の姿じゃない。
ふわりと揺れる膝上丈のフレアスカートに、淡いピンクのカーディガン。足元は低めのパンプスで綺麗にまとめられている。トレードマークの黒いリボンは外し、少し大人っぽいシュシュで髪をアップにしていた。
どこからどう見ても、オシャレな女子大生のお出かけスタイルだ。気合が入りすぎている。
「……なんか、いつもと雰囲気違うね」
正直な感想を口にすると、二乃は鏡越しにチラッとこちらを見て、ふいっと顔をそらした。
「と、当然でしょ。表参道に行くんだから。ダサい格好で行ったらお店に入れないわよ」
「表参道……またハードルが高い場所を選ぶねぇ」
「あんたも、もうちょっとマシな服着てこれないの? まるでコンビニにアイス買いに行く中学生みたいじゃない」
「これでいいんだよ。俺の役割はただの荷物置き場なんだから。荷物置き場がオシャレしてどうすんの」
「そういうひねくれたところ、本当に可愛げがないわね」
二乃は小さくため息をつき、お気に入りのショルダーバッグを肩にかけた。
「ほら、行くわよ。もたもたしてたら日が暮れちゃう」
最寄りの駅から電車に乗り、都心へと向かう。
平日の昼下がりということもあって、車内はそこそこ空いていた。
並んで座席に腰を下ろし、ガタン、ゴトンという一定のリズムに揺られながら、ぼんやりと車内の吊り革広告を眺める。
隣に座る二乃からは、シャンプーの匂いというか、花の匂いというか、とてもいい香りが漂ってくる。
普段、事務所で一緒にいる時も距離は近いが、こうやって外で隣に座っていると、なぜか少しだけ変な緊張感がある。
別に深い意味はない。ただの買い物の付き添いだ。それ以上でもそれ以下でもない。
「ねえ、八雲」
二乃がスマートフォンから顔を上げて、俺を見た。
「ん? なに?」
「今日、予算はいくらまで出していいの?」
「予算? 君の買い物だろ? 君のお金で買うんだから、好きなだけ使えばいいじゃないか」
「違うわよ。あんたのお金で買うの」
「は?」
思わず間抜けな声が漏れた。
「なんで俺の金? 米花町のギャラ、ちゃんと半分君の口座に入れただろ?」
「あれは生活費と、いざという時のための貯金よ。今日は、あんたの取り分から出してもらうの」
二乃は悪びれる様子もなく、堂々と言い放つ。
「なんでそうなるのさ! 俺の取り分は俺のものだろ! ずっと欲しかった新しいゲーム機を買おうと思ってたのに!」
「ダメよ。あんた、放っておいたらすぐ無駄遣いして、ご飯代がないとか言い出すんだから。私があんたのお金の使い道を管理してあげるって言ってるの。感謝しなさい」
無茶苦茶な理屈だ。俺のものは俺のもの、君のものも俺のものってやつか。
「だいたい、米花町であのメガネの少年を屋上から助けたり、爆発するビルからワイヤー一つで飛び降りたり……私がどれだけ寿命を縮めたと思ってるの?」
二乃が少しだけ目を吊り上げて、俺の顔を下から覗き込んでくる。
「十年は縮んだんだからね。その慰謝料だと思えば安いものでしょ」
それを言われると、何も言い返せなくなる。
確かにあの時は完全に勢いだけで動いてしまった。結果的に誰も死ななかったから良かったものの、二乃には相当な心配をかけたはずだ。
「……わかったよ。買えばいいんだろ、買えば。でも上限は決めてくれよ。あんまり高いブランド物のバッグとかは勘弁してくれ」
「ふふっ、心配しなくても、そんな無茶な買い物はしないわよ。可愛い服と、コスメをいくつか見たいだけ」
二乃は嬉しそうに笑って、再びスマートフォンの画面に視線を落とした。
そこには、行きたいお店のリストがびっしりと並んでいる。無茶な買い物をしないと言いながら、あのリストを全部回るつもりなのだろうか。
早くも足の裏が痛くなってくるような錯覚を覚えながら、俺は深くため息をついた。
表参道の駅を出ると、そこは俺たちのアパートがある下町とは完全に別の国だった。
道の両側にはガラス張りのオシャレなブランドショップが立ち並び、歩いている人たちもみんな雑誌から抜け出してきたような格好をしている。
ここには、空から降ってくる鉄骨もなければ、突然銃を乱射し始める黒ずくめの男たちもいない。
ただひたすらに平和で、キラキラしていて、俺にとっては最高に居心地が悪い空間だった。
「わあ……! やっぱりこっちのお店は品揃えが違うわね!」
二乃は目を輝かせて、さっそく大きなガラス張りの服屋へと足を踏み入れた。
渋々その後をついていく。店内には、とにかくたくさんの色と布が溢れていた。
店員のお姉さんがニコニコと近づいてくる。
「いらっしゃいませ。何かお探しですか?」
「あ、えっと……春物のワンピースを見たいんですけど」
二乃が店員と話し込んでいる間、俺は入り口近くの隅っこに立ち、存在感を極限まで消す作業に入った。
俺の使う「絶」という技術だ。体から漏れるオーラを完全にシャットアウトし、周囲の風景に溶け込む。これを使えば、オシャレな空間で浮きまくっている俺のダサい私服も、誰の目にも止まらなくなるはずだ。
「八雲! ちょっとこっち来て!」
だが、その見えない努力も、二乃の鶴の一声で完全に破壊された。
「えー……ここで待ってちゃダメ?」
「ダメに決まってるでしょ! 意見を聞かせてって言ってるの!」
のそのそと二乃の元へ向かう。
二乃は大きな鏡の前に立ち、二つの服を自分の体に合わせていた。
右手には、淡い水色のふんわりとしたワンピース。
左手には、少し大人っぽいネイビーのタイトなワンピース。
「ねえ、どっちがいいと思う?」
出た。世の男性たちが最も恐れるという、究極の二択問題。
適当に「どっちでもいいんじゃない」と答えれば激怒されるし、「水色」と即答しても「えー、でもこっちの方が着回しできそうじゃない?」と反論される。正解が存在しない高難易度のゲームだ。
俺は脳細胞をフル回転させて、最も被害が少なくなる回答を探した。
「うーん……二乃はどっちが好きなんだ?」
「私が選べないからあんたに聞いてるんでしょ。逃げないで答えなさいよ」
退路は完全に断たれていた。
観念して、二つの服と二乃の顔を交互に見る。
「……水色の方かな」
「どうして?」
「えっと……春っぽいし、その……二乃の髪の色に合ってると思う。ネイビーだと少し重たいっていうか、今の季節なら明るい色の方がいいんじゃないかな」
しどろもどろに答えると、二乃は鏡の中の自分と水色のワンピースをじっと見つめた。
「ふーん……髪の色に合ってる、ね」
少しだけ口角を上げて、嬉しそうに呟く。
「わかった。じゃあ、こっちにする」
二乃は水色のワンピースを店員に渡し、「これも一緒にお願いします」と、いつの間にか選んでいたカーディガンやブラウスまで一緒にレジへ持っていった。
ちょっと待て。あの二択以外にも買うんかい。
お会計の時、俺は約束通り自分の財布からクレジットカードを出した。
店員のお姉さんが、「彼氏さん、優しいですね」なんてお世辞を言ってくる。
俺は「ははは……どうも」と引きつった笑いを返すしかなかった。二乃は何も言わず、ただ少しだけ頬を赤くしてそっぽを向いていた。
お店を出ると、右手には大きな紙袋が一つ追加されていた。
「はい、これお願いね。まだまだ行くわよ」
「お、おう……」
紙袋を受け取りながら、右腕に少しだけ気を集中させる。
荷物の重さなんて、俺からしたら羽のように軽い。いくら紙袋が増えようが、トラック一台分くらいなら片手で持てる自信がある。
これが、俺の能力の正しい使い道だ。よっぽど平和で有意義な使い方じゃないか。
その後も、表参道の通りを行ったり来たりしながら、いくつもの店をハシゴした。
謎のいい匂いがするアロマキャンドルを見たり、きらきらと光るガラスの小物が並ぶ店でピアスを選んだり。
そして極め付けは、一階のフロア全体がコスメ売り場になっている巨大なデパートだった。
「ちょっとリップの色を見たいだけだから、すぐ終わるわ」
そう言って足を踏み入れたが最後、そこは迷宮だった。
赤い口紅だけで、なんであんなに何十種類も色があるんだ。俺の目には全部同じ「赤」にしか見えないのに、二乃は「これは少し青みがかってる」とか「こっちはイエベ向きね」とか、謎の呪文を唱えながら手の甲に色を塗っては消しを繰り返している。
両手に五つほどの紙袋を抱えたまま、化粧品の匂いが充満するフロアで俺は完全に魂を抜かれていた。
「お待たせ。決まったわ」
三十分後、ようやく二乃が小さな袋を一つ持って戻ってきた。
「お、おう。いい色見つかった?」
「ええ。春の新作の限定色よ。買ってもらっちゃって悪いわね」
「いや、いいんだよ。これで君の機嫌が良くなって、美味しいご飯が食べられるなら安いもんだ」
俺が疲れた顔で笑うと、二乃は大量の紙袋を見て、少しだけ申し訳なさそうな顔をした。
「……ちょっと、買いすぎちゃったかしら。重くない?」
「全然。これくらい、空気みたいなもんだよ」
強がりじゃない。本当に空気みたいな軽さなのだ。
「ふふっ、さすがゴリラ並みの体力ね」
二乃が意地悪く笑う。
「誰がゴリラだ。せめてチンパンジーくらいにしてくれ」
「どっちも一緒でしょ。さあ、次はあっちのビルに行きましょう」
「えっ、まだ行くの?」
顔を引きつらせると、二乃は俺の腕をぐいっと引っ張った。
「行くわよ。次はあんたの番なんだから」
「俺の番?」
連れて行かれたのは、メンズの服が並ぶセレクトショップだった。
落ち着いた照明の店内に、いかにも高そうなシャツやジャケットが並んでいる。
「ほら、あんたのそのパーカー、首元がよれてるじゃない。それに、米花町でジャケットを一枚ダメにしたでしょ。代わりのものを買ってあげるわ」
「いや、俺は別に服なんて……」
「ダメ。揉め事処理屋の所長がそんなみすぼらしい格好してたら、大きな依頼が来ないわよ。私がコーディネートしてあげるから、大人しく着せ替え人形になりなさい」
言うが早いか、二乃はハンガーラックから次々と服を抜き出し、俺の胸に押し付けてきた。
「これなんかどうかしら。落ち着いたネイビーのジャケット。中は白のカットソーにして……あんた、肩幅はそこそこあるんだから、もっとラインが綺麗に出る服を着た方がいいのよ」
二乃は真剣な目で俺の体つきを観察し、服を選んでいく。さっき自分の服を選んでいた時と同じくらい、いや、それ以上に楽しそうだ。
「ほら、試着室に行って着てみて。早く」
背中を押されて試着室に押し込まれた。
渡された服に着替えて、カーテンを開ける。
自分でも驚くくらい、印象が変わっていた。いつものダボっとしたTシャツと違い、体にフィットした上質な生地のジャケットは、だらしない俺の雰囲気を少しだけマシに見せてくれている気がする。
「……どう?」
照れくさそうに言うと、二乃は少し目を丸くして、それから満足そうに腕を組んで頷いた。
「うん、悪くないわね。素材はいいんだから、磨けば少しは光るのよ。よし、これと、それに合わせるパンツも買っちゃいましょう。お会計は私が出してあげる」
「え、いいの? 結構高いよ、これ」
「いいのよ。あんたのお金で私の服を買ったんだから、これでお互い様でしょ」
二乃は財布を取り出し、スマートにレジで会計を済ませてくれた。
新しい服の入った紙袋が、さらに一つ増えた。荷物は多いが、不思議と心の中は重くなかった。誰かに服を選んでもらうなんて、前の人生を含めても初めてのことだったかもしれない。
「ありがとう。大事に着るよ」
素直にお礼を言うと、二乃はふいっと顔をそらして前を歩き出した。
「べ、別に。変な服の男と一緒に歩いてたら、私のセンスまで疑われるから買っただけよ。勘違いしないでよね」
早足で歩くその後ろ姿の耳が、少しだけ赤くなっているのを見逃さなかった。
「はぁ〜、歩き疲れた。ちょっと休憩しましょ」
紙袋が全部で七つになったところで、二乃がギブアップを宣言した。
俺たちは、裏通りにあるおしゃれなカフェに入ることにした。
テラス席があり、緑の植物がたくさん飾られている、いかにも女の子が好きそうな店だ。店内は甘い匂いで満ちていて、お客さんは九割が女性。残りの一割は、俺のように連れてこられたらしい、どこか居心地の悪そうな顔をした男たちだった。
奥の小さなテーブル席に座る。
「あ、これ美味しそう。季節のフルーツがたっぷり乗ったパンケーキだって」
二乃はメニューの写真を指差して目を輝かせている。
「俺はアイスコーヒーだけでいいや。甘いのはさっきのお寿司の卵焼きで十分」
「何言ってんの、甘いものは別腹よ。パンケーキ二つと、紅茶とコーヒーね」
勝手に注文を決めて、店員を呼んだ。
しばらくして運ばれてきたのは、三段に重ねられた分厚い生地の上に、イチゴやブルーベリー、生クリームが雪山のように盛られた暴力的なパンケーキだった。
「うわあ……」
そのボリュームに引いていると、二乃はスマートフォンを取り出し、色々な角度から写真を撮り始めた。
「ちょっと待ってね、今いい感じの光が入ってるから……よし、オッケー」
満足そうにスマートフォンをしまうと、フォークとナイフを手に取った。
「いただきまーす」
生クリームとフルーツをたっぷりと絡めて、一口大に切ったパンケーキを口に運ぶ。
その瞬間、二乃の顔がぱあっと明るくほころんだ。
「ん〜! すっごく美味しい! 生地がフワフワで、クリームの甘さとイチゴの酸味が絶妙だわ!」
本当に美味しそうに食べる。この子が食べる姿を見ていると、こちらまで幸せな気分になってくるから不思議だ。
俺も自分の分のパンケーキを一口切り取って食べてみる。
「うん、確かにうまい。でも、一人でこれ全部はキツいな……」
「残したら許さないわよ。ちゃんと全部食べなさい」
甘いパンケーキと苦いコーヒーを交互に口に運びながら、しばらくのんびりとした時間を過ごした。
周囲のお客さんたちの話し声や、店内に流れるボサノバの音楽が、心地よいノイズになって空間を包んでいる。
「なんか、こういうの久しぶりね」
二乃が紅茶のカップに口をつけながら、ふと言った。
「こういうの?」
「こうやって、何もない普通の日に、一緒にのんびりお茶を飲むこと。最近は変な事件に巻き込まれてばっかりだったから」
確かにそうかもしれない。
この事務所を始めてから、毎日のようにトラブルが舞い込んできた。
両目に星を宿した天才アイドルの護衛依頼でストーカーを叩きのめしたり、巨大な白い犬を探しに行って銀髪の侍が暴れるヤクザの抗争に巻き込まれたり、浮気調査の対象者が実は白いシルクハットを被った月下の奇術師だったり。
そして極め付けが、あの米花町でのテロ事件だ。
常に命の危険を感じながら、気を張り詰めて生きてきた。だからこそ、こうして平和な街でただの大学生みたいにパンケーキを食べているこの時間が、とても特別で贅沢なものに思えるのだ。
「そうだね。銃声も聞こえないし、時限爆弾の赤いカウントダウンも見なくて済む。平和って素晴らしいよ、本当に」
俺がしみじみとコーヒーをすすると、二乃はクスッと笑った。
「あんた、米花町でタイマーの止まらない爆弾を、窓ガラスをぶち破って空に放り投げた時、本気で疲れた顔してたわよ」
「そりゃ泣きそうになるだろ! 爆発寸前の塊を空の彼方に放り投げるなんて……俺のメンタルはあそこまで強くないっての」
「でも、最後はちゃんと助けに行ったじゃない。あんたのそういう、いざという時は逃げないところ……私は結構、見直したのよ」
二乃はカップの縁を指でなぞりながら、少しだけ視線を伏せて言った。
その言葉に、俺の胸の奥で、何かが小さく跳ねた。
「……いや、あれはただの反射っていうか。俺もなんであんなことしたのか、自分でもよくわかってないんだ」
照れ隠しで、残っていたアイスコーヒーを一気にストローで吸い上げる。
氷がカランと音を立てた。
「あんたが三年前に、私を助けてくれた時も、そんな感じだったわね」
二乃が窓の外の風景を見つめながら、懐かしそうに目を細める。
三年前か。
ヤクザに追われて、俺の事務所に飛び込んできたあの日のこと。
「あの時は、ただの生意気な女子高生だと思ってたけどな。まさかこんなに長く一緒にいることになるとは思わなかったよ」
「私だってそうよ。あんなだらしない男の面倒を、毎日毎日見ることになるなんて想像もしてなかったわ。でも……」
二乃はそこで言葉を区切り、俺の顔を真っ直ぐに見つめた。
強い意志を持った、あの大きな瞳。
「でも、今は……悪くないと思ってるわ。こうして、あんたの隣にいることも」
その言葉のストレートさに、俺は危うくコーヒーを吹き出しそうになった。
心臓の音がうるさい。
俺はこういう感情的なやり取りが苦手だ。昔から面倒なことは適当にやり過ごすのが俺のやり方だ。でも、今の彼女の真剣な目を見ていると、茶化して逃げることはできないような気がした。
「……俺も、まあ。君が作るご飯がないと生きていけない体になっちゃったしな。これからも、うちの優秀なアシスタントとして、よろしく頼むよ」
俺なりに精一杯の真面目な返事を絞り出すと、二乃はふふっと柔らかく笑った。
「アシスタントだけじゃ、もったいないくらい働いてると思うけどね。給料、もっと上げてもらうから覚悟しておきなさい」
「お手柔らかにお願いしますよ」
テーブルを挟んで向かい合って座る俺たちの間には、間違いなく、今までとは少し違う、穏やかで温かい空気が流れていた。
カフェを出る頃には、空はすっかりオレンジ色に染まり始めていた。
表参道の並木道に沿って、街灯が一つ、また一つとポツリポツリ点灯していく。
昼間の騒がしさは少しだけ落ち着き、代わりに夕暮れ特有の、どこか寂しげで、でも少しだけ浮かれた雰囲気が街を包み込んでいた。
俺の両手には、相変わらずたくさんの紙袋が提げられている。
「あー、よく歩いた。今日はたくさん買い物できて大満足だわ」
二乃は両手を軽く伸ばして、大きく深呼吸をした。
「君の体力の底無し具合には恐れ入るよ。明日、足が筋肉痛になってもしらないからな」
「失礼ね、これくらいで筋肉痛になんてならないわよ。だてにあんたの地獄の基礎トレーニングに付き合ってないんだから」
二乃は得意げに鼻を鳴らす。
確かに、彼女の基礎体力はそこらへんの大人とは比べ物にならないくらいに上がっている。
駅に向かう大通りは、家路を急ぐ人たちや、これから夜の街へ出かける人たちで混雑し始めていた。人と人がすれ違うのがやっとくらいの歩道を、俺たちは並んで歩いていく。
大きな紙袋を持っているせいで、俺は歩くスペースを余分に取ってしまい、通り過ぎる人たちと肩がぶつかりそうになる。
「おっと、すいません」
向かいから歩いてきたサラリーマンと軽く肩がぶつかり、少しだけ体勢を崩した。
「八雲、大丈夫? 荷物、やっぱり少し持とうか?」
「いや、平気平気。重さは全然感じないから。ただ、人混みだと袋が邪魔になるんだよね」
苦笑いしながら歩き直そうとした、その時だった。
スッ、と。
俺のパーカーの袖口を、小さな手が軽く掴んだ。
驚いて隣を見ると、二乃が前を向いたまま、俺の袖の端っこを指先でギュッと握りしめていた。
「……二乃?」
名前を呼ぶと、二乃は少しだけ歩くペースを速め、俺の斜め前を歩くような位置についた。
「はぐれたら面倒でしょ。あんた、ぼーっとしてるからすぐどこか行っちゃいそうだし」
前を向いたままの彼女の顔はよく見えない。
でも、俺の袖を掴むその指先には、少しだけ力が入っているのがわかった。
手を繋いでいるわけではない。ただ布の端を摘んでいるだけ。それでも、ピンと張ったその生地越しに彼女の体温が、歩調を合わせようとする不器用な気遣いが、俺の右腕にじんわりと伝わってくるような気がした。
一瞬だけ、その手を振り払うべきか、それともこのまま歩くべきか迷った。
でも、すぐに考えるのをやめた。今日くらいは、このまま流されてみるのも悪くない。
「迷子にならないでよね。俺、迷子の案内放送で君の名前を呼び出したりしたくないからな」
わざと意地悪く言うと、二乃は袖を掴んだまま、俺を振り返って強く睨みつけた。
「うるさいわね。迷子になるのはあんたの方でしょ」
そう言ってプイッと前を向いた彼女の横顔は、夕日のせいなのか、それとも別の理由なのか、ほんのりと赤く染まっているように見えた。
俺たちは、袖を繋いだまま、混雑する表参道の歩道を駅に向かって歩き続けた。
駅の地下へと続く階段が見えてくる。
冷たい地下の風が階段の下から吹き上げてきて、二乃のピンク色の髪をふわりと揺らした。
「ほら、八雲。早く改札通るわよ」
二乃は俺の袖から手を離し、バッグからICカードを取り出しながら階段を駆け下りていく。
俺は両手に提げた大量の紙袋を少しだけ持ち上げ直し、彼女の背中を追って階段を降りた。
改札口の電子音が、あちこちでピピッ、ピピッと鳴り響いている。
俺は自分の財布からカードを抜き出し、改札の青く光るパネルに勢いよく叩きつけた。
「ちょっと、置いてかないでよ!」
ゲートを抜けた先で、二乃が振り返って俺を急かすように手を振っている。
俺は大きく息を吸い込み、人混みを縫って彼女の元へと歩き出した。
「うるさいわね、あんたが歩幅を合わせなさいよ!」
俺の憎まれ口に、二乃はむっとした顔で言い返してくる。
俺たちの声は、地下鉄のホームに滑り込んでくる電車の轟音に心地よくかき消されていった。