ツーバス抱えて幻想入り   作:sakusan07

1 / 25
第一話 闇の中でツーバスは鳴る――Into The Dark――
片腕で十年、匿名の一通


 異世界へ行く方法として、トラックはかなり有名らしい。

 

 誰かを助けて大型車に撥ねられ、目を覚ますと剣と魔法の世界にいる。最近はそういう話が多い。

 

 俺も十年前、暴走したトラックに人生を変えられた。

 

 ただし、死ななかった。

 

 異世界にも行かなかった。

 

 右腕だけを置いて、病院で目を覚ました。

 

 だから俺は、トラックに轢かれて異世界へ行った男ではない。

 

 トラックに轢かれたのに、十年間こちら側にいた男だった。

 

     ◇

 

 事故が起きたのは、雨の夜だ。

 

 向かいの歩道に、傘も差さずに立つ女がいた。肩を越えて伸びた髪と、雨の街には不似合いな白っぽい服だけを覚えている。

 

 信号が赤へ変わった。

 

 女は車道へ踏み出した。

 

 濡れた路面を滑った大型トラックが、クラクションを鳴らしながら交差点へ突っ込んできた。

 

 俺は走った。女の肩を左手で押し、歩道側へ突き飛ばした。

 

 その先は音しか覚えていない。

 

 タイヤが水を切る音。金属の潰れる音。骨の内側へ直接打ち込まれたような、低く濁った衝撃。

 

 次に目を開けたとき、右肩から先がなくなっていた。

 

 医者は命が助かったことを奇跡だと言った。警察は運転手を逮捕したと言った。事故を見ていた複数の人間は、俺が確かに女を突き飛ばしたと証言した。

 

 だが、現場から女は発見されなかった。

 

 遺体も、血痕も、搬送記録もない。

 

 複数人が見たはずの女だけが、衝突の瞬間から抜け落ちていた。

 

 十年経った今も、理由は分からない。

 

     ◇

 

 パソコンの画面で、小節を示す縦線が先頭へ戻った。

 

 キックが二つ鳴り、少し遅れてスネアが続く。そこで曲は途切れた。

 

 三週間、同じ場所で止まっているプロジェクトだった。

 

「続きが出ないのは、腕の本数とは関係ないな」

 

 右のシャツ袖は空のまま垂れている。自宅では外観用義手を着けない。

 

 右腕を失って、バンドは辞めた。

 

 ドラムは辞めなかった。

 

 昔と同じ演奏を取り戻すのではなく、右手が担っていた音を左手と両足へ分けた。足りない音は電子パッドや打ち込みへ移した。事故より前から使っていたDAWは、叩けない時間にも曲を先へ進めてくれた。

 

 できなくなったことを数え始めれば、一晩では足りない。

 

 できることだけ数えれば、一曲くらいは作れる。

 

 会社では、義手を気にして先回りする同僚に「その書類は逃げない」と言い、左手だけで先に片づけた。親切が嫌なわけではない。できることまで待たれると、自分の時間を他人に握られた気がした。

 

 休日にはスタジオへ入り、左手と両足で生のドラムも叩いた。以前と同じ曲は叩けない。それでも、空いた場所へ何を置くか考える時間は、両腕があった頃より増えた。

 

 受付で「ほかのメンバーは後からですか」と聞かれることもあった。「いや、機材の方が人数より多いだけだ」と答え、一人で二台のバスドラムを運び込んだ。

 

 失った腕を克服したつもりはない。

 

 ただ、十年間も毎日負け続けるほど、俺も暇ではなかった。

 

 三十五歳になった今も、それが俺の日常だった。

 

 新着メールの音が鳴るまでは。

 

 送信者名に心当たりはない。

 

 件名は『演奏依頼』。

 

『あなたの音が必要です。ツーバスを持って、この座標へ。夜の森で、最後まで演奏してください。』

 

 署名も、報酬も、曲名もない。依頼と呼ぶには説明が足りず、迷惑メールと呼ぶには要求が具体的すぎた。

 

 返信は、宛先不明で戻ってきた。

 

 普通なら削除する。

 

 夜の山へ来い。機材も持ってこい。最後まで演奏しろ。

 

 不審者としても、もう少し愛想よく誘うだろう。

 

 それでも、画面から目を離せなかった。

 

 腕を失ってから来た演奏の依頼には、片腕でも叩けるのか見たいものと、片腕なのに頑張る姿を見たいものがあった。

 

 このメールには、どちらも書かれていない。

 

 ただ、俺の音が必要だと書いてある。

 

 しかも、ツーバスを持ってこいとまで言っている。

 

 信用したわけではない。差出人の善意も、山から無事に帰れる保証も、ひとつも信じていなかった。

 

 それでも、行くかどうかを決めるのは俺だ。

 

「一曲ぶんくらいは、確かめるか」

 

 未完成のプロジェクトを保存し、玄関に置いた義手を左手だけで装着した。

 

     ◇

 

 指定座標の近くへ着いたのは、午後十一時を回った頃だった。

 

 舗装の切れた林道で車を止め、荷室を開ける。

 

 二台のバスドラム。スネア。タム。シンバル。スタンド。ペダル。スティックケース。

 

 山奥へ一人で運ぶ荷物ではない。

 

 だが、「ツーバスを持ってこい」と指定された以上、一台だけ置いていくのは演奏者として気持ちが悪い。

 

 折り畳み式の台車へ機材を積み、荷締めベルトを左手と歯で固定する。

 

「……せめて現地にエレベーターくらい用意しておけよ」

 

 返事はなかった。

 

 短い黒髪へ夜気が触れる。外観用義手では台車を支えられない。左手で取っ手を握り、体重をかけて森へ入った。

 

 座標へ近づくにつれ、白い霧が濃くなった。

 

 地図上の現在位置が跳ねる。方位表示が回り、やがて画面そのものが暗くなる。

 

 振り返ると、来たはずの林道が消えていた。

 

 車の灯りも、台車が残した二本の跡もない。

 

「親切な演奏依頼だ」

 

 帰り道まで片づけてくれたらしい。

 

 前方には、木々の切れ目から淡い月光が落ちていた。

 

 帰れないなら、進むしかない。

 

 人生で何度か使った判断だ。正しかったことは、あまりない。

 

 俺は台車を押し、霧の境目へ踏み込んだ。

 

 一歩。

 

 二歩。

 

 三歩。

 

 冷たい霧が身体を包む。

 

 その奥で、右の手首が脈を打った。

 

 外観用義手の手首ではない。

 

 十年前に失ったはずの、俺の右腕が。

 

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定
▲ページの一番上に飛ぶ  X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。