片腕で十年、匿名の一通
異世界へ行く方法として、トラックはかなり有名らしい。
誰かを助けて大型車に撥ねられ、目を覚ますと剣と魔法の世界にいる。最近はそういう話が多い。
俺も十年前、暴走したトラックに人生を変えられた。
ただし、死ななかった。
異世界にも行かなかった。
右腕だけを置いて、病院で目を覚ました。
だから俺は、トラックに轢かれて異世界へ行った男ではない。
トラックに轢かれたのに、十年間こちら側にいた男だった。
◇
事故が起きたのは、雨の夜だ。
向かいの歩道に、傘も差さずに立つ女がいた。肩を越えて伸びた髪と、雨の街には不似合いな白っぽい服だけを覚えている。
信号が赤へ変わった。
女は車道へ踏み出した。
濡れた路面を滑った大型トラックが、クラクションを鳴らしながら交差点へ突っ込んできた。
俺は走った。女の肩を左手で押し、歩道側へ突き飛ばした。
その先は音しか覚えていない。
タイヤが水を切る音。金属の潰れる音。骨の内側へ直接打ち込まれたような、低く濁った衝撃。
次に目を開けたとき、右肩から先がなくなっていた。
医者は命が助かったことを奇跡だと言った。警察は運転手を逮捕したと言った。事故を見ていた複数の人間は、俺が確かに女を突き飛ばしたと証言した。
だが、現場から女は発見されなかった。
遺体も、血痕も、搬送記録もない。
複数人が見たはずの女だけが、衝突の瞬間から抜け落ちていた。
十年経った今も、理由は分からない。
◇
パソコンの画面で、小節を示す縦線が先頭へ戻った。
キックが二つ鳴り、少し遅れてスネアが続く。そこで曲は途切れた。
三週間、同じ場所で止まっているプロジェクトだった。
「続きが出ないのは、腕の本数とは関係ないな」
右のシャツ袖は空のまま垂れている。自宅では外観用義手を着けない。
右腕を失って、バンドは辞めた。
ドラムは辞めなかった。
昔と同じ演奏を取り戻すのではなく、右手が担っていた音を左手と両足へ分けた。足りない音は電子パッドや打ち込みへ移した。事故より前から使っていたDAWは、叩けない時間にも曲を先へ進めてくれた。
できなくなったことを数え始めれば、一晩では足りない。
できることだけ数えれば、一曲くらいは作れる。
会社では、義手を気にして先回りする同僚に「その書類は逃げない」と言い、左手だけで先に片づけた。親切が嫌なわけではない。できることまで待たれると、自分の時間を他人に握られた気がした。
休日にはスタジオへ入り、左手と両足で生のドラムも叩いた。以前と同じ曲は叩けない。それでも、空いた場所へ何を置くか考える時間は、両腕があった頃より増えた。
受付で「ほかのメンバーは後からですか」と聞かれることもあった。「いや、機材の方が人数より多いだけだ」と答え、一人で二台のバスドラムを運び込んだ。
失った腕を克服したつもりはない。
ただ、十年間も毎日負け続けるほど、俺も暇ではなかった。
三十五歳になった今も、それが俺の日常だった。
新着メールの音が鳴るまでは。
送信者名に心当たりはない。
件名は『演奏依頼』。
『あなたの音が必要です。ツーバスを持って、この座標へ。夜の森で、最後まで演奏してください。』
署名も、報酬も、曲名もない。依頼と呼ぶには説明が足りず、迷惑メールと呼ぶには要求が具体的すぎた。
返信は、宛先不明で戻ってきた。
普通なら削除する。
夜の山へ来い。機材も持ってこい。最後まで演奏しろ。
不審者としても、もう少し愛想よく誘うだろう。
それでも、画面から目を離せなかった。
腕を失ってから来た演奏の依頼には、片腕でも叩けるのか見たいものと、片腕なのに頑張る姿を見たいものがあった。
このメールには、どちらも書かれていない。
ただ、俺の音が必要だと書いてある。
しかも、ツーバスを持ってこいとまで言っている。
信用したわけではない。差出人の善意も、山から無事に帰れる保証も、ひとつも信じていなかった。
それでも、行くかどうかを決めるのは俺だ。
「一曲ぶんくらいは、確かめるか」
未完成のプロジェクトを保存し、玄関に置いた義手を左手だけで装着した。
◇
指定座標の近くへ着いたのは、午後十一時を回った頃だった。
舗装の切れた林道で車を止め、荷室を開ける。
二台のバスドラム。スネア。タム。シンバル。スタンド。ペダル。スティックケース。
山奥へ一人で運ぶ荷物ではない。
だが、「ツーバスを持ってこい」と指定された以上、一台だけ置いていくのは演奏者として気持ちが悪い。
折り畳み式の台車へ機材を積み、荷締めベルトを左手と歯で固定する。
「……せめて現地にエレベーターくらい用意しておけよ」
返事はなかった。
短い黒髪へ夜気が触れる。外観用義手では台車を支えられない。左手で取っ手を握り、体重をかけて森へ入った。
座標へ近づくにつれ、白い霧が濃くなった。
地図上の現在位置が跳ねる。方位表示が回り、やがて画面そのものが暗くなる。
振り返ると、来たはずの林道が消えていた。
車の灯りも、台車が残した二本の跡もない。
「親切な演奏依頼だ」
帰り道まで片づけてくれたらしい。
前方には、木々の切れ目から淡い月光が落ちていた。
帰れないなら、進むしかない。
人生で何度か使った判断だ。正しかったことは、あまりない。
俺は台車を押し、霧の境目へ踏み込んだ。
一歩。
二歩。
三歩。
冷たい霧が身体を包む。
その奥で、右の手首が脈を打った。
外観用義手の手首ではない。
十年前に失ったはずの、俺の右腕が。