見えない声が、もう一度歌った。
“Come on and break the ice.”
同じ言葉だった。
だが、もう氷をなくすための合図ではない。
右足。
ドン。
チルノが薄氷を割る。
左足。
ゴン。
割れた二枚を左右へ開く。
両足。
ドン。ゴン。
二つの反射板から戻った低音が、凍った打面の中央で重なった。
舞台の端にいた妖精たちも、細い氷柱を同じ間隔で鳴らす。
湖面すべては凍らない。
水の残った場所が低音を吸い、氷のある場所だけが輪郭を返す。
鳴る場所と、鳴らない場所。
その境が、次の一打を見せていた。
チルノが高く上がる。
六枚の羽が霧へ消え、青白い光だけが上へ細く続いた。
俺は追わない。
同じ低音を置く。
ドン。
光の先が、わずかに左へ傾く。
左足。
ゴン。
霧が割れた。
“Oh. Look. Here she comes.”
青い影が斜めに飛び込む。
チルノは一番薄い氷板へ片足で降り、沈む前にもう一度飛んだ。
氷板が低く鳴る。
ゴォン。
冒頭で現れたとき、俺は台車を庇っていた。
何を凍らせるか分からない、空から来た挑戦者だった。
今は、着地する場所が分かる。
俺の足が置いた低音へ、狙って降りてくる。
こちらも、その着地を次の拍として待っている。
同じ羽。
同じ速さ。
立っている場所だけが違った。
ドラムの前ではない。
音の中だ。
◇
歌声が途切れた。
残ったのは、低い弦と、二台のバスドラムと、氷を切る羽の音だった。
チルノが湖面すれすれを飛ぶ。
右へ傾けば、右足。
ドン。
左へ返れば、左足。
ゴン。
速さは上げない。
四つで始めた間隔を変えず、一打ごとの重さだけを湖の底へ送る。
右のビーターを氷の打面へ沈め、反動を待って左を落とす。
足だけを速く動かして、身体を上へ逃がさない。
片腕だった十年、左手だけでは残せない曲の重心を、両足で支えてきた。
今は両手がある。
それでも、底を支えるのは同じ両足だった。
チルノも高度を上げない。
氷板へ触れ、すぐ離れる。
着地のたびに氷が沈み、湖の水がその下で鳴った。
氷柱の先端が一つ折れる。
俺は、その瞬間へスネアを置く。
キン。
赤黒い粒子が肩からスティックへ流れ、氷の青と重なった場所だけが紫に光った。
右足。
左足。
チルノの着地。
三つの低音が、一つの円を作る。
チルノは円の外へ飛び出しかける。
だが、湖の下から返る音を聞き、中央へ戻った。
速さを足す代わりに、次の着地を深くする。
円は湖面の下へ沈み、外側から戻ってきた。
反射板が一斉に震え、アンプの低音が揺れへ太さを足す。
音が前へ走るのではない。
俺たちの真下へ集まってくる。
チルノが円の上を回る。
一周目は低く。
二周目は、さらに内側へ。
三周目で羽を畳み、中央へ落ちる。
俺は両足を上げた。
待つ。
青白い光が近づく。
まだ踏まない。
氷板が沈む寸前。
両足を落とした。
ガァン!
チルノの着地と、二本のビーターが重なる。
湖面の円が、底から一度だけ光った。
反射板が低音を中央へ返し、氷柱が鳴り、薄片が紫を散らす。
氷はなくならない。
亀裂も残っている。
それでも、最初に俺たちを分けていたものは、もうどこにもなかった。
低い弦が消える。
アンプの輪郭が霧へほどけ、鉄骨が赤黒い粒子へ戻る。
氷柱の震えも一本ずつ止まった。
最後に、薄い氷片が一枚だけ宙へ残り、ゆっくり湖へ落ちる。
ちゃぷん。
小さな輪が、静かな湖へ広がった。
「それで」
スティックを膝へ置く。
「どっちが勝った」
チルノは胸を張りかけた。
だが、開いた口から声は出ない。
凍った二台のバスドラム。
左右へ傾いた反射板。
短くなった氷柱。
自分が割り、俺が叩き、また自分が並べたものを順番に見る。
六枚の羽が、まだ次の音を探すように一度だけ揺れた。
「次もやる!」
「勝ったのはどっちだ」
「次は、もっと大きいの作る!」
「答えになっていない」
「だって、次もやるなら終わってないでしょ?」
勝負を始めたのはチルノだった。
今は勝敗を決めるために次を求めているのではない。
今日聞いた音の先を、もう一度確かめたがっている。
「そうだな」
「じゃあ、まだ勝負中!」
「次に会うまで続くのか」
「うん!」
「長い勝負だ」
「最強になるには、それくらい必要!」
「次は何を鳴らす」
チルノは湖の北側を指した。
「あっちの氷はもっと厚いよ! その隣は薄くて、踏むとすぐ沈む!」
「沈む場所を舞台にするな」
「じゃあ、沈む前に飛ぶ!」
「俺は飛べない」
「今日、少し飛んだよ?」
「滑っただけだ」
「次に決めればいい!」
理屈は相変わらずだった。
だが、勝ったという一言で終わらせなかった。
それで十分だ。
◇
「動かせるようにするぞ」
「全部割る?」
「動くところだけだ」
チルノは、ペダルの軸、スタンドの脚、胴の下側を、俺が示す順番で見た。
先に試さず、聞いてから動く。
細い青い線が氷へ入り、機材を閉じ込めていた部分だけが外れた。
落ちた氷の一部を、チルノは最初の亀裂の脇へ重ねる。
「これ、残すのか」
「次に使う!」
「場所を覚えているのか」
「あたいの湖だよ?」
チルノが霧の向こうを指す。
白い幕の奥に、尖った屋根と高い塔が紅く浮かんでいた。
「あれが紅魔館か」
「そう! 紅くて、大きくて、門番がいる!」
「館の者を知っているのか」
「門番なら知ってる。強いよ!」
「お前よりもか」
「あたいも強い!」
「比較になっていない」
「でも、門は通してくれない」
「何をした」
「勝負しようとした!」
「それが理由だ」
台車の取っ手を右手で握る。
演奏を終えても、腕は消えない。
重さも、指先へ返る金属の冷たさも変わらなかった。
「あの館に、右腕と能力を調べられる者がいると聞いた」
チルノは全部を理解した顔ではない。
それでも、右腕を凍らせて確かめようとはしなかった。
「じゃあ、あたいが案内する!」
「門を通れるのか」
「近くまで!」
「その先は」
「門番に聞く!」
「先に聞くのか」
「今日、覚えた!」
胸を張る理由が、最強以外に一つ増えた。
機材を台車へ積み直し、水滴を拭う。
チルノは対岸へ氷板を一枚ずつ並べた。
先へ飛び去らず、車輪が二つとも乗ったのを見てから次を作る。
湖の中央を過ぎた頃、後ろで氷板が一枚沈んだ。
ゴォン。
「まだ鳴ってる!」
「余韻だ」
「よいん?」
「終わった音が、次の場所までついてくる」
「じゃあ、門まで持ってく!」
チルノが次の板へ降りる。
その前に、こちらを見た。
「しっかりつかまった?」
命令ではない。
俺が取っ手を握ったのを確かめるための問いだった。
「ああ」
「じゃあ、少しだけ速くする!」
「少しだけだ」
羽が開く。
台車が滑り始める。
板には短い上りが混ざり、速くなりすぎる前に台車を戻した。
チルノはそのたび俺を見てから、次の氷を作る。
霧の奥から、紅い壁が近づく。
最後の氷板が、湖岸の石畳へ薄く重なった。
車輪が石へ移る。
ゴトン。
チルノは門まで飛んでいかない。
湖岸の木の陰で止まり、声を落とした。
「案内は、あそこまで」
背後で、渡ってきた氷板が一枚ずつ水へ沈む。
コン。カン。
最後の一枚が沈むと、湖から続いていた余韻も途切れた。
前に残ったのは、石畳と、音のない紅い壁だった。
霧が横へ流れる。
巨大な門が現れた。
閉じた門の前。
一人分の影が立っている。
こちらを向いたまま、動かなかった。