「見えてから止めたのでは、遅いでしょう?」
美鈴が動かしたのは右足だけだった。
石畳の継ぎ目をまたぎ、左足を半歩引く。
両腕は下ろしたまま。
それでも、門まで続いていた道がそこで途切れたように見えた。
「今のも確認か」
「はい。あなたは私の足から見ました」
俺は美鈴の肩と腰へ視線を移した。
動くなら、どこから動く。
癖でそれを探していた。
「戦うつもりはない」
「戦わない人も、危険なら身構えます」
美鈴は俺の右側を指す。
「取っ手から手を離して、こちらへ二歩。荷物はそのままで」
一歩。
二歩。
右腕は歩幅に合わせて振れている。
右肩も、腕の重さに合わせて下がる。
だが、足を止める直前、身体の中心は左へ残った。
「今度は左足から」
左足を出す。
身体がわずかに左へ寄り、遅れて右足がその下へ入った。
腕の動きは変わらない。
それでも身体は、最初から右腕を数に入れていない。
腕が戻る前なら、台車の重さも、狭い場所を通る幅も、左側だけで決めていた。
今は右側にも身体がある。
それでも、十年続けた計算が先に答えを出す。
「十年か」
「何がです?」
「片腕で歩いていた時間だ」
右手を見る。
「腕が戻っても、重心まではやり直してくれないらしい」
「私に分かるのは、そこまでです」
「腕の正体は?」
「分かりません。生きた腕に見え、あなたも使えている。それ以上を分かったことにはしません」
「武術家なら、気で全部分かると思っていた」
「便利そうですね。私もそうなりたいです」
「なれないのか」
「分からないものは、分かりません」
分からないから通す。
分からないから帰す。
どちらにも逃げず、分かるところまで見ようとしている。
「では、次は何を見る」
「その能力です」
「ここで出せと?」
「まだ、そうは言っていません」
「出さなければ見せられない」
「だから困っています」
美鈴が台車を見る。
運んできた機材だけなら、変わった旅人の荷物で済む。
問題は、叩いたあとだ。
「口で説明した力を、口で安全だと言っても足りない」
「はい」
「身分証もない」
「はい」
「一曲やる」
「ここで?」
「身分証代わりだ」
「名前も生年月日も書いてありませんよ」
「身分証としては不合格だな」
「自分で言いますか」
「だが、門を通していいかは見せられる」
美鈴はすぐに答えない。
門の両側と、湖へ戻る石畳を見る。
一曲を許せば、どこへ何が届くかを測っている。
「勝負ではありませんね」
「お前を倒しても、腕の安全は分からない」
「倒されても、通す理由にはなりません」
「互いに必要ない」
「では、安全審査にします」
美鈴は指を三本立てた。
「始める合図を聞けること。止める合図で止まれること。人や門へ音を向けないこと」
「お前はどうする」
「攻撃ではなく、型で応じます」
「拳が当たりそうになったら」
「止めます」
「俺が止まれなければ」
「止めます」
同じ言葉だった。
一度目より、意味が具体的になっていた。
「音量は?」
「門も、壁も、館の中も揺らさない範囲で」
「かなり狭いな」
「門前ですから」
「途中で広がったら」
「止めます」
「本当に止めるのが好きだな」
「仕事です」
「合格点は」
「先に教えたら、そこだけ演じるでしょう?」
「門番らしいな」
「先ほども聞きました」
◇
演奏場所は、門から離れ、湖側へ開いた石畳に決める。
ドラムの正面へ紅い門を置かない。
左右の壁からも距離を取る。
能力が何を作っても、まず俺の側へ倒れる向きにする。
バスドラムを二台。
スネア、タム、ハイハット。
必要なものだけを組む。
スタンドを揺らし、ペダルを打面の手前で止める。
「設置も審査に入るのか」
「もう始まっていると言ったら?」
「合格点を先に教えないんだったな」
「覚えていますね」
「四回前の会話だ」
「回数で覚えているんですか」
「職業病だ」
台車を置き直す。
右の車輪。
ゴトン。
左の車輪。
コトン。
美鈴が言い当てた順番だ。
四回目の前に呼吸を浅くする。
「変えましたね」
「聞かれていると分かったからな」
「隠さなくても構いません」
「隠していない。選んだ」
「では、それも見ておきます」
何を選んでも審査材料になるらしい。
やりにくい相手だった。
スローンへ座る。
右手首を回す。
熱が指先から肘へ上がり、赤黒い粒子が右腕の輪郭へ一度だけ浮かんだ。
能力へ、一曲分の場所を求める。
石畳の継ぎ目から赤黒い光がにじむ。
低い鉄骨がドラムの後ろへ組み上がる。
門柱より低く。
アンプは中央へ向ける。
現れたのは、始まるための形だけだった。
照明はまだ点かない。
見えない弦も鳴らない。
右のペダルを踏み、ビーターを打面の直前で止める。
止められる。
次に左足。
こちらも止まる。
力を出す前の状態で、まず身体へ確認した。
「今なら、まだ止められますか」
「止められる」
「では、始めてください」
美鈴が演奏場所の外周へ立つ。
風が門の上を抜ける。
館の内側で、小さな扉が一度だけ開閉した。
台車に残った氷から雫が落ちる。
カン。
まだ、俺の音ではない。
俺へ一歩近づく。
足裏が着き、重心が沈む。
その瞬間、姿の見えない女の声が歌った。
“No words spoken, only sound.”
「ここまで、かなり話したが」
「ここからは、ということで」
美鈴が笑う。
俺は右足のペダルを踏んだ。
ドン。
一打だけ。
その一打を芯にして、低い伴奏が動き出す。
真っ直ぐ四つには割れない。細かな六つの拍を、三つずつ束ねて大きく二つで受ける。八分の六拍子。
揺れる輪の中へ、硬いメタルのリフが噛み込んでいた。丸い流れと直線的な音が、互いを潰さずに前へ進む。
美鈴の足運びに似ている。
低い音は門にも美鈴にも向かわない。
二人の間の石畳へ落ち、演奏場所として定めた範囲の内側だけを走った。
美鈴は次の一歩を急がない。
俺もペダルから力を抜く。
音が消える前に、美鈴が息を吸った。
俺も、同じ長さで息を吸った。