ツーバス抱えて幻想入り   作:sakusan07

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二人とも打たない一拍

 最初のサビが抜ける。

 

 一直線に並んでいた八つの拍がほどけ、伴奏は再び大きな二つの脈へ戻った。その内側を、三つずつ小さな拍が巡る。

 

「さっきの足場へ戻りましたね」

 

「六つだ」

 

「でも、最初ほど窮屈ではありません」

 

「互いに押し返すのをやめたからだろ」

 

 美鈴は胸の前で重ねた掌を、ゆっくり左右へ開いた。

 

 右の掌が前へ出る。

 

 左は肘の近くへ引く。

 

 肩、腰、最後に踵が動き、同じ場所へ戻る。

 

 そこでハイハットを閉じた。

 

 チッ。

 

「それだけですか?」

 

「広げたあと、元へ戻った」

 

「正解を決めるつもりはありません」

 

「採点する側が言うことか」

 

「今は交換です」

 

 次は拳だった。

 

 左足が半歩出る。

 

 腰が沈む。

 

 拳は俺へ向かわず、二人の間へ真っ直ぐ伸びて戻った。

 

 スネアを一打。

 

 タン。

 

「先ほどより迷いがありませんね」

 

「あんたの拳が、俺へ来ないと分かった」

 

「見ていますね」

 

「審査中だからな」

 

「今は交換です」

 

「訂正が細かい」

 

     ◇

 

 一つずつだった型が長くなる。

 

 大きく開く掌には、横へ広がる金属音。

 

 短く止まる拳には、余韻を残さないスネア。

 

 二歩の足運びには、左右へ分けた低音。

 

 美鈴は同じ順番を繰り返さない。

 

 拳を出すように見せ、掌を返す。

 

 前へ踏み込んだ足を、体重が乗る前に横へ送る。

 

 俺も見えた形を当てにいかない。

 

 起きた動きが収まってから、音へ変える。

 

 美鈴は構えを解き、次をこちらへ渡した。

 

 今度は、俺の音が終わるまで美鈴が待つ番だ。

 

 俺から三つ置く。

 

 右足で一打。

 

 少し遅らせてスネア。

 

 ハイハットを開き、すぐ閉じる。

 

 前へ出て、止まり、横へ場所を空ける。

 

 そんなつもりで置いた音だった。

 

 美鈴はすべてを聞き終えてから、一歩進んだ。

 

 腰を止める。

 

 掌で横の空間を払い、通れる幅を残す。

 

「そう聞こえたか」

 

「進んで、止まって、横へ」

 

「大体同じだ」

 

「正解ですか?」

 

「正解を決めないんだろう」

 

「覚えていますね」

 

「訂正が多いからな」

 

 違う形で返ってくる。

 

 その違いが、次の一つを選ばせる。

 

 審査の合格点を探すより、目の前の返事を待つ方が難しい。

 

 そして、面白かった。

 

     ◇

 

 見えないギターの旋律が低くなる。

 

 美鈴が今までより深く腰を落とした。

 

 右の拳を引く。

 

 俺はスティックをスネアの上へ構える。

 

 拳が出る。

 

 俺にも、門にも届かない位置で止まる。

 

 戻らない。

 

 美鈴は拳を置いたまま、俺を見る。

 

 右手は一打を打てる高さにある。

 

 右足へ重さを移せば、キックも続けられる。

 

 だが、下ろさなかった。

 

 美鈴の拳も戻らない。

 

 見えないギターが低い音を一本だけ残す。

 

 次の打音が来ない。

 

 門の上を風が抜ける。

 

 旗の端が鳴る。

 

 台車の金具から、溶けた氷の雫が落ちる。

 

 カン。

 

 館の内側では、皿が二枚重なった。

 

 俺たちが止まっていても、周りの時間は止まらない。

 

 打てる場所を空けておく。

 

 片腕になった直後は、鳴らせなくなった音を左手と両足で埋めようとした。

 

 埋めるほど、前と同じには戻れないと分かった。

 

 それから、鳴らせない場所と、鳴らさない場所を分けるようになった。

 

 今は右腕がある。

 

 打てないのではない。

 

 打たないと決められる。

 

 美鈴の拳が、一本ずつ開く。

 

 掌になり、ようやく引かれた。

 

 俺もスティックを下ろす。

 

 スネアは鳴らさない。

 

「今、叩けましたよね」

 

「叩けた」

 

「なぜ、叩かなかったんです?」

 

「あんたの拳が戻るか、そのまま踏み込むか分からなかった」

 

「怖くは?」

 

「怖くないと言えば、審査向けの答えになるか」

 

「減点です」

 

「なら、怖かった」

 

 美鈴が短く息を漏らした。

 

「私も、あなたが叩くと思っていました」

 

「それでも止めた」

 

「止めたあとへ、何を置く人か見たかったので」

 

「何も置かなかった」

 

「何も、ではありません」

 

 揃っていない二つの呼吸だけが残る。

 

 それでも、相手が動くまで待つ長さは共有できた。

 

「この間に、門へ進むとは思わなかったのか」

 

「思いました。止める準備もしていました。でも、進まなかった」

 

「休符は抜け道じゃない」

 

 あの一拍も曲の中だった。

 

 勝手に出ていけば、打たなかった意味がない。

 

 姿のない声が歌う。

 

 “No sword / No fear / Just the sound.”

 

「剣は最初から持っていない」

 

「工具箱のナイフは?」

 

「打面を切るためだ」

 

「覚えています」

 

「まだ審査中か」

 

「今は、演奏者として」

 

 続く声が、手を取れと歌う。

 

 “Take my hand / Take this song.”

 

 美鈴は拳を止めた場所へ、開いた右手を差し出した。

 

「握手です」

 

「見れば分かる」

 

「では、どうして止まるんです?」

 

「まだ通すとは言われていない」

 

「通す前に、敵ではないと決めることはできます」

 

 右のスティックを左手へ渡す。

 

 空いた右手を上げる。

 

 片腕だった十年、相手が右手を出すたび左手で返してきた。

 

 今は右手を差し出す。

 

 美鈴の掌へ重ねる。

 

 握り返された手は、見た目より硬い。

 

 武術を続けた手。

 

 戻ったときから、失う前と同じスティックだこを持っていた手。

 

 同じ時間ではない。

 

 それでも、硬さと熱は説明なしに伝わった。

 

 右手で握手を返すのは、十年ぶりだった。

 

「一曲は、まだ途中です」

 

「分かってる」

 

「次は、言葉を使いません」

 

「合図は」

 

「もう渡しています」

 

 指の力が抜ける。

 

 握手が解けた瞬間、美鈴の右足が石畳を滑った。

 

 声だけが消えた。

 

 ギターが長い旋律へ入り、その背後から低いオルガンが立ち上がる。

 

 美鈴の掌が前へ進む。

 

 拳が続く。

 

 足が着き、腰の高さが定まる。

 

 そこで初めて返す。

 

 低音。

 

 スネア。

 

 横へ開く金属音。

 

 先ほどより長い型でも、美鈴は順番を固定しない。

 

 俺も同じ形を写さない。

 

 美鈴が一歩を渡す。

 

 俺が低音を返す。

 

 俺が二打を渡す。

 

 美鈴が拳を二度出し、二つ目だけ掌へほどく。

 

 どちらが先かは、そのたび変わる。

 

 相手の返事を奪わない。

 

 動きも音も、最後まで運ぶ。

 

 右腕へ赤黒い光が浮かぶ。

 

 熱は強い。

 

 指の動きは乱れない。

 

 美鈴の足。

 

 ドン。

 

 掌。

 

 シャァッ。

 

 拳。

 

 タン。

 

 四つ目を置ける一拍が来る。

 

 右手をクラッシュへ上げる。

 

 美鈴も拳を引いた。

 

 だが、美鈴は動かない。

 

 俺も打たない。

 

 空いた一拍を、今度は確かめる必要がなかった。

 

 そこへ進まないことを、互いにもう知っている。

 

 次の瞬間、美鈴が横へ滑る。

 

 左のペダルを踏む。

 

 ドン。

 

 ギターが駆け上がる。

 

 掌が大きな円を描き、開いたハイハットの余韻が重なる。

 

 拳。

 

 タン。

 

 右足。

 

 ドン。

 

 左足。

 

 ドン。

 

 最後に両の掌が胸の前で重なる。

 

 クラッシュを鳴らす。

 

 ジャァン――!

 

 美鈴の足が戻る。

 

 俺も次の一打を置かない。

 

 美鈴は短く息を吐き、紅い門へ向き直った。

 

「通します」

 

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