閉じた図書館の客人、原因不明の右腕
扉の向こうから流れてきたのは、古い紙と、蝋燭の匂いだった。
暗い廊下へ台車を押し入れる。
右の車輪が石の継ぎ目を越える。
ゴトン。
左の車輪が続く。
コトン。
門前では遠くまで響いた音が、ここでは壁へ届く前に吸われていく。
廊下の両側に、本が積まれていた。
棚へ収まっているものだけではない。
床の隅。
窓のない壁際。
消えかけた蝋燭の下。
誰かが途中まで読み、戻す場所をまだ決めていない本が、館の奥へ続く目印のように置かれている。
先を案内していた妖精メイドが、一枚の扉の前で止まった。
「こちらです」
扉を開く。
細かな埃が、動いた空気に乗って蝋燭の光を横切る。
その先にも、本があった。
高い天井まで伸びた書架。
何段あるか数えられない棚。
朝の紅魔館へ入ったはずなのに、この部屋だけは一日の時刻を閉じ込めていた。
妖精メイドは中へ入らず、代わりに扉の内側で待っていた少女が一歩出た。
赤い髪。
背中には、妖精のものとは形の違う黒い羽がある。
少女は俺より先に台車を見た。
二つ並んだ大きな胴を、片方ずつ確かめる。
「本日の来訪者は、三名ですね」
「一名だ」
「ですが、大きな丸い方が二名ほど」
「あれはバスドラムだ。人間じゃない」
「ばすどらむ」
少女は初めて聞く言葉を確かめるように繰り返し、板に留めた紙へ何かを書き直した。
「では、来訪者一名、機材一式ですね」
「門でも同じ訂正をした」
少女は門から届いた紙と、二台のバスドラムを見比べた。
「訂正前は三名だった、とあります」
「また数えられた」
「実物を見ると、少しだけ気持ちは分かります」
「太鼓だぞ」
「はい。今はそう記録しました」
声は最後まで真面目だった。
門で直されたはずの人数が、実物を見た途端に元へ戻った。
「小悪魔」
書架の奥から、女の声がした。
「先に安全確認を」
「はい」
小悪魔と呼ばれた少女は、台車の周囲を一周した。
固定したスネア。
タム。
折り畳んだスタンド。
二台のバスドラム。
金具へ触れる前に、必ず俺を見る。
「動かしても?」
「構わない」
「こちらも?」
「固定具を外さなければ」
許可を取ったものだけを確かめていく。
床には、薄い線で円が描かれていた。
台車を入れる位置。
俺が座る椅子。
机までの距離。
何かあったときに扉へ戻るための幅。
「三十センチほど左へお願いします」
「円から外れる」
「円は描き直せます。今の位置だと、退避するときに二台のバスドラムに挟まれます」
台車を左へ寄せる。
小悪魔は床の線を布で消し、同じ大きさの円を描き直した。
機材へ合わせて安全を狭めない。
安全へ合わせて、観測する場所を動かしている。
「検査では、光と魔力を皮膚の外から通します。切ったり、針を刺したりはしません。痛みや違和感があれば、その場で止めます」
「止めると言えば止まる?」
「はい。途中でも」
「受ける。そのために来た」
小悪魔が頷き、書架の奥へ向く。
「パチュリー様、同意を確認しました」
頁をめくる音が止まった。
◇
本棚の間に、広い机が一つあった。
紫色の髪をした女が、その向こうに座っている。
こちらへ顔を上げても、すぐには口を開かなかった。
台車。
俺の右肩。
右手。
左手。
床へ描き直された円。
順に見てから、机の前の椅子を指した。
「座って」
台車の取っ手から両手を離し、椅子へ座る。
「話は聞いているわ。右腕を出して」
「俺の名前は確認しなくていいのか」
「門の記録にあるわ」
「人数を間違えた記録だ」
小悪魔が、紙を持ったまま視線を外した。
パチュリーは表情を変えない。
「訂正後の記録を読んだ。一名、機材一式」
「ならいい」
「右腕を」
袖を肩近くまでまくる。
机へ置いた右腕の下に、小悪魔が黒い布を敷いた。
パチュリーは触れない。
細い紫の光を指先から肩へ動かし、同じ道を戻す。
「いつ失ったの」
「十年前。事故で」
「戻ったのは」
「幻想郷へ来た夜だ」
「痛みは」
「なかった。今もない」
「右手を開いて」
開く。
「閉じて」
握る。
「指を一本ずつ。次に手首、肘、肩」
言われた場所を動かす。
光は動きへ遅れずについてきた。
右腕の奥には、門前で演奏した疲労が残っている。
重い。
だが、十年間使わなかった腕の重さではない。
今朝まで機材を運び、一曲を叩き終えた身体の重さだった。
「肩と前腕が疲れている。手首も少し」
パチュリーは左腕にも同じ光を通した。
「左にもある。程度は違うけれど、質は同じ」
「質?」
小悪魔が半歩寄る。
「右腕だけが異常なのではなく、両腕とも使った分だけ疲れている、という意味です」
「それなら分かる」
「今の説明で足りていたわ」
「念のためです」
「俺には助かった」
小悪魔は元の位置へ戻った。
結論までは言わない。
届きにくい言葉だけを、短く置き換える。
紫の光が右手首の周囲へ輪を作る。
脈に合わせて明滅し、肘を通り、肩から身体の内側へ続いた。
「幻ではない。一時的に形を与えられた魔力でもない。血が通り、神経がつながり、身体の一部として安定している」
「普通の腕?」
「今ここにあるものは、生きた右腕よ」
指先が黒い布へ沈んだ。
演奏が終われば消える借り物ではない。
俺が疲れれば疲れ、脈を打ち、今は自分の体温を持っている。
「なぜ戻った」
「分からない」
「幻想郷を出ても残る?」
「それも分からない」
「そこを確かめに来た」
「だから、分かったところと分からないところを分けている」
慰めるために可能性を足さない。
不安を消すために、根拠のない安全も言わない。
パチュリーは、今度は紫の光を俺の胸から左肩へ流した。
薄い輪が身体の外側へ浮かぶ。
朝露のように新しく、まだ空気へ馴染んでいない光だった。
同じ光を右肩へ移す。
そこで輪の色が変わった。
濃くなったのではない。
古い紙へ染みたインクのように、光が周囲へ馴染みすぎている。
「あなたが幻想郷へ来たのは、昨夜で間違いない?」
「ああ」
「なら、これは合わないわ」
「何がだ」
「身体と右腕で、境界を通った痕跡が違う。身体の痕跡は新しい。右腕のものは、昨夜ついたようには見えない」
「俺より先に、腕がここへ来たとでも?」
「そこまでは言っていない。時期も場所も原因も分からない。ただ、同時ではない可能性がある」
小悪魔が二つの輪を見比べた。
「こちらの方より、右腕の方が幻想郷では先輩、ということでしょうか」
「滞在歴だとは断定できないわ」
「腕に先輩扱いされる覚えはない」
「私も、腕だけのお客様を受け付けた記録はありません」
パチュリーの筆だけが止まらない。
「本人由来の生体。幻想郷内では安定。境界通過痕は身体と不一致。右腕側の痕跡が古い。原因不明」
原因不明の前に、十年前へつながるかもしれない線が一本増えた。
だが、それが事故の日から続いているとは、まだ誰も言っていない。
◇
「次は能力を確かめる」
パチュリーが何も書かれていない白い紙を置いた。
「今、出せる?」
「演奏せずに?」
「静止した状態で、どこまで反応するかを見る」
スティックを一本だけ抜き、右手に持つ。
何も変わらない。
赤黒い粒子も、照明も、鉄骨も現れない。
パチュリーが床の円を光らせる。
蝋燭が一度だけ揺れ、開いた本の頁が端から持ち上がった。
だが、それは彼女の魔法だった。
「無反応ね」
「叩いていないからな」
「その説明が正しいかは、結果を見てから決める」
白い紙には何も浮かばない。
「止まっているあなたからは、能力だけが読めない」
「なら、鳴らすしかないな」