小悪魔が運んできたのは、七枚の薄い板だった。
それぞれに違う印が刻まれている。
炎。
波。
枝。
刃。
山。
円い日輪。
欠けた月。
名前を並べられる前から、全部を覚える気はなかった。
「火、水、木、金、土、日、月。七つの属性よ」
「今から試験か」
「覚える必要はないわ。七つの物差しだと思えばいい。どの音が、どこへ強く作用するかを見る」
「一つの音に、一つの印?」
「最初の仮説では」
答えに、まだ余白を残している。
小悪魔は七枚の板を床へ置き始めた。
火と水は離す。
日と月は向かい合わせる。
土は二台のバスドラムの前。
金の印はスネアの近く。
そこまで置いたところで、壁に掛かった札の前で止まった。
札には、大きな字で「書庫内では静粛に」とある。
小悪魔は札を見る。
台車を見る。
二台のバスドラムを見る。
「あの、こちらの規則は」
「今日だけは例外よ」
「札に追記しておきますか」
「恒例行事にするつもりはないわ」
小悪魔は筆を戻し、代わりに札を裏返した。
裏には「整理中につき通行注意」と書かれていた。
「そっちはいいのか」
「今日は、だいたい合っています」
書架の間にできた空間へ機材を下ろす。
二台のバスドラム。
スネア。
タム。
シンバル。
スタンドを開くたび、金属の小さな音が本へ吸われる。
小悪魔は安全円を広げ、書架との間に透明な膜を張った。
「本へ触れるほど広がったら止めます」
「音で頁が動くのは?」
「観測対象です」
「本が飛んだら?」
「回収対象です」
「担当は」
「私です」
少しだけ返事が遅れた。
スローンへ座る。
右足を一つ目のペダルへ。
左足を二つ目へ。
左手にスティック。
右手にも一本。
パチュリーは安全円の外へ椅子を置き、膝の上に記録書を開いた。
「最初は遅く。一定の音量で」
「曲に注文をつけられるかは分からない」
「あなたには?」
「俺ならできる」
「なら十分」
パチュリーは七枚の板を見渡した。
「最初の数小節は、私も魔法を加えない。現れたものだけを記録する」
「途中からは?」
「必要なら条件を変える」
「曲を止めずに?」
「止めれば、演奏中の能力を測る意味がないでしょう」
実験のために曲を細切れにするつもりはないらしい。
俺が最後まで叩くことと、彼女が途中の変化を追うことは両立する。
小悪魔が透明な膜の外から片手を上げた。
「退避経路、確保できています。飛来物は、今のところありません」
「始まる前だからな」
「このまま終わる可能性も記録しておきます」
「たぶん消すことになるぞ」
右手を上げる。
まだ何もない空間へ、最初の一打を落とす。
ドン。
床へ低い振動が沈む。
土の印が、薄く灯った。
もう一打。
ドン。
赤黒い粒子がペダルの下からにじむ。
すぐには形にならない。
低い一打が二つ、三つと続くたび、粒子が床の上へ細い線を増やす。
一本は書架の手前で止まる。
一本は二台のバスドラムを囲む。
もう一本が頭上へ上がり、低い梁の輪郭を作る。
急に舞台が現れるのではない。
暗い書庫の中で、眠っていた場所だけが少しずつ起きる。
鉄骨が書架へぶつからない高さで組み上がる。
アンプ。
低い照明。
姿のないベースとギターの音。
図書館の暗さを追い払わず、その奥から形だけを起こしていく。
低いギターはまだ旋律にならない。
一音を長く残し、その下へベースが重なる。
キックのたびに床の重さが返り、タムを一つ入れると蝋燭の影が隣の棚へ移る。
パチュリーは音の名前より先に、起きた順番を書いていた。
パチュリーの筆が動く。
「低域。土。安定」
ハイハットを閉じて刻む。
チッ、チッ、チッ、チッ。
金の印が細く光る。
低いギターが加わると、蝋燭の炎が同じ方向へ傾いた。
火の印が赤くなる。
最初は、彼女の物差しどおりだった。
歌声が入る。
空気の中の埃が、ハイハットの細かな刻みへ揺れる。
スネアを一度打つ。
タン。
金の印が鋭く瞬く。
次の一打では、同じ打面を同じ強さで叩いた。
タン。
今度は金の光の外側へ、月の青白い輪が残った。
パチュリーの筆が止まる。
「今のは何属性ですか」
小悪魔が記録紙を見た。
「金よ」
「月も光っています」
「残響を拾った可能性がある」
パチュリーはそう書き足す。
俺は何も言わず、次の小節へ進む。
タムを低い方から回す。
土の印が揺れ、水の印へ光が流れ、最後のクラッシュで火が開いた。
古い頁が一枚だけめくれる。
続いて隣の本。
さらに奥の棚。
誰かが順番に指を置いたように、頁が一冊ずつ起きていく。
七つの印が拍を探し始める。
火。
水。
木。
金。
土。
日。
月。
名前は覚えなくても、色の違いなら見える。
上昇するギターへ合わせ、一拍ごとに別の印が灯る。
七拍目まで進み、次の小節の頭で全部が消える。
パチュリーが小さく頷いた。
「同期した」
その言葉の直後、曲が最初の大きな山へ入った。
両足で低域を押し上げる。
ドドン、ドドン。
二台のバスドラムが床を別々に打ち、ベースがその間を埋める。
七つの印が一度に灯った。
完全にはそろわない。
火が先に伸び、水があとを追う。
金の輪郭へ月の余韻が重なり、土の重さから木の持続音が枝分かれする。
天井近くへ、一瞬だけ魔法文字の線が走った。
未来を書き込む装置ではない。
今鳴っている音を追いきれず、空中へはみ出した記録だった。
クラッシュを打つ。
ジャァン。
火と日が同時に開く。
スネアを返す。
タン。
金と月がまた重なる。
パチュリーの筆が速くなる。
「同時干渉。隣接反応。残響の混入」
「つまり?」
小悪魔が光から目を離さず答える。
「一回叩いたのに、二か所以上が光っています」
「それなら分かる」
「厳密には違うわ」
「でも、だいたいは合っていますよね?」
「だいたいで魔法理論を記録しないで」
曲は最初の山を越え、低域を残したまま次の小節へ下りる。
パチュリーは七枚の板を見渡した。
「同じ音を、もう一度」
「同じ場所には戻れない」
「音量も打面もそろえられるでしょう」
「その前に鳴った音が違う」
「条件が変わる、ということ?」
「音は一発ずつ置いてるんじゃない。前の音を受けて、次へ渡してる」
彼女は反論しなかった。
記録書の一行を消し、別の言葉へ書き換える。
「なら、関係も測る」