ツーバス抱えて幻想入り   作:sakusan07

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書かれていない現在の音

 記録書が閉じた音は、演奏の中では小さかった。

 

 それでも、書庫の空気が変わった。

 

 誰も筆を止めろとは言っていない。

 

 理論を捨てろとも言っていない。

 

 今だけ、紙へ写すより先に鳴っているものを見る。

 

 パチュリーの両手が、空中の鍵盤へ戻る。

 

 曲の音圧が少し引く。

 

 代わりに、左右の書架の間が広くなる。

 

 壁が動いたのではない。

 

 音が、今まで届かなかった棚の奥へ入っていく。

 

 閉じた本の背が低く震える。

 

 蝋燭の炎が一本ずつ呼吸する。

 

 小悪魔は三本のペンを握ったまま、書く手を止めた。

 

 網に収まった本も、開いた頁を静かに伏せる。

 

 沈黙がなくなったわけではない。

 

 音の間にある静けさまで、演奏の内側へ入った。

 

 パチュリーが月の陰りを含んだ和音を置く。

 

 俺はすぐ返さない。

 

 残響が棚の奥へ届くまで待つ。

 

 次に土の重さを含んだ低音が来る。

 

 両足で短く返す。

 

 ドドッ。

 

 火が上がる前に金の輪郭をスネアで切り、切れた先へ水の旋律が流れる。

 

 七つの色は混ざらない。

 

 互いの場所を奪わず、組み合わせだけを変えて巡る。

 

 火の印が灯ると、頬へ乾いた熱が触れる。

 

 次の小節では、同じ赤い光の下で空気が湿る。

 

 水の印が反応したからだと考える前に、低いタムが胸へ重さを返す。

 

 金の光はシンバルだけを照らさない。

 

 本の角、スタンドの留め具、パチュリーの指先へ細い輪郭を与える。

 

 月の青白さが落ちると、頁の文字より、その上を通る影の方が濃くなる。

 

 色の名前を追わなくても、温度、湿り気、重さ、硬さ、明るさの違いなら身体で分かる。

 

 小悪魔も記録板ではなく、自分の掌を一度開いた。

 

 そこへ移る熱と冷たさを確かめ、何も言わず手を下ろす。

 

 歌声が消える。

 

 太いオルガンと、二本のギターが残る。

 

 一方のギターが高い旋律を上げる。

 

 もう一方が三度下で寄り添い、途中から別の方向へ離れる。

 

 パチュリーのオルガンは追いかけない。

 

 古い式のように整った別の旋律を置き、問いへ同じ言葉では答えない。

 

 俺はその間にいる。

 

 ギターは前へ進む。

 

 オルガンは長く残る。

 

 違う時間を、キックで同じ床へつなぐ。

 

 右足。

 

 左足。

 

 左手。

 

 最後に、戻った右手。

 

 十年前に腕を失ってから、足で埋めた音がある。

 

 左手だけで輪郭を残すため、打つ位置を変えた音がある。

 

 演奏できない日にも、机の上や打面のない場所で数え続けた小節がある。

 

 できなくなった形を、そのまま追いかけたわけではない。

 

 左手で二つの役目を分けた。

 

 右手が置かれていた場所を、両足の細かな連打でつないだ。

 

 届かない打面は減らし、残した一打の位置を深くした。

 

 元の四肢を前提にした譜面を、別の身体で鳴る形へ組み直した。

 

 誰かに見せるためではない。

 

 音楽をやめなかった時間が、左手と両足に残った。

 

 右腕が戻っても、それらは消えなかった。

 

 四肢がそろったから事故の前へ戻ったのではない。

 

 失ったあとに覚えた動きへ、今の右手が加わっている。

 

 スネアの中央を右手で打つ。

 

 左手がすぐ隣へ細い音を置く。

 

 両足がその下を走り、片腕だった時間を隠さず一つのフレーズにする。

 

 紫の視線が、右腕だけを追うのをやめた。

 

 足元。

 

 左手。

 

 肩の動き。

 

 呼吸。

 

 全部を同じ演奏として見る。

 

 ギターソロが速い線を描く。

 

 一度上がった旋律が、古い階段を下りるように短い音を連ねる。

 

 パチュリーは同じ階段を使わない。

 

 長い和音を一段ずつ差し込み、ギターが通ったあとへ別の道を作る。

 

 二本目のギターがその間へ入り、三つの声が一瞬だけ重なる。

 

 俺は速さを合わせるのではなく、着地する拍だけをそろえる。

 

 細かなキックを四つ。

 

 間を一つ。

 

 スネアをわずかに後ろへ置く。

 

 違う長さの旋律が、そこで同じ床へ降りる。

 

 パチュリーの対旋律が、その線を細かく分けて答える。

 

 分けた音を、俺のドラムがもう一度流れへ戻す。

 

 火の熱がクラッシュへ移る。

 

 金の硬さがギターの先端へ移る。

 

 月の陰りがオルガンの下へ沈み、日の光が高い倍音から開く。

 

 同じ属性が、同じ場所に留まらない。

 

 それでも消えない。

 

 分類は壊れていない。

 

 分類されたものが、演奏の中で動いている。

 

 パチュリーは一度も記録書へ手を伸ばさなかった。

 

 閉じた表紙の上へ、埃が一粒だけ落ちる。

 

 普段なら、それさえ観測の対象にしたはずだった。

 

 今は見ない。

 

 見落としたのではなく、何を見るかを自分で選んでいる。

 

 七枚の板に出た反応は、もう紙の上だけにはなかった。

 

 どの音程で木が伸び、どの間隔で月が残り、どこへ金の輪郭を置けば火を切らずに済むか。

 

 パチュリーの指が覚えている。

 

 彼女は測ったものを手放さず、その場で組み替えている。

 

 自由に弾くことと、何も考えずに弾くことを同じにはしない。

 

 だから、こちらも雑には返せなかった。

 

 一打ごとの位置を、いつもより深く選ぶ。

 

 代わりに、自分の和音を一つ変えた。

 

 整いすぎていた終わりを半拍だけ開ける。

 

 俺はそこへ一打を入れず、次の小節まで待った。

 

 美鈴の前で覚えたからではない。

 

 もともと音楽には、打たないことでしか残せない場所がある。

 

 だが今は、相手もその場所を開けたと分かる。

 

 次の一拍で、右手のスティックを落とす。

 

 タン。

 

 七つの印が同時に灯る。

 

 どれが正しいかを争わない光だった。

 

 小悪魔は網を下ろした。

 

 飛んでいた本も、もう一冊も落ちなかった。

 

 誰も説明しないまま、器楽部が最後の高音へ届く。

 

 パチュリーが俺を見る。

 

 初めて、右腕でも記録紙でもなく、演奏している俺を見る。

 

「続けて」

 

 短い言葉のあと、歌声が戻った。

 

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