ツーバス抱えて幻想入り   作:sakusan07

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戻った腕と、食べる前の一曲

 脈は、一度では終わらなかった。

 

 とくん、とくん、と存在しないはずの手首で繰り返している。

 

 右の袖をまくった。

 

 義手を固定していたベルトもソケットもない。

 

 肩から五本の指まで、生身の腕が続いていた。

 

「……は?」

 

 他に言いようがなかった。

 

 右手を握る。開く。人差し指だけ曲げる。親指を小指へ触れさせる。

 

 左手で手の甲をつねると、右手が痛んだ。

 

 痛い。

 

 十年ぶりに、右手が痛かった。

 

 頬に触れる。鼻、額、髪。

 

「長いな」

 

 短かったはずの黒髪が、肩より下まで伸びていた。

 

 服も変わっている。普段着のシャツではなく、黒い革のベストに金属鋲、脚には重いブーツ。鏡がなくても、会社帰りの人間には見えないと分かる。

 

 右腕に比べれば、髪と衣装は誤差だ。

 

 ただ、変える場所の優先順位は聞いてみたい。

 

 俺は左手で右手首を握り、右手で左手首を握り返した。

 

 両方に脈がある。

 

 両手で顔を覆えることに気づき、しばらく動けなかった。

 

「ねえ」

 

 頭上から、女の子の声がした。

 

 月を背に、小さな人影が浮いている。

 

 金色に近い髪。黒い服。闇の中でもはっきり見える赤い目。

 

 足は地面についていない。

 

「あなた、人間?」

 

 右腕が戻ったことに比べれば、空を飛ぶ少女くらいは誤差だった。

 

「そのつもりだ」

 

「そーなのかー」

 

 少女は俺より台車へ興味を移した。

 

「それ、なに?」

 

「ドラムだ」

 

「食べられる?」

 

「食べない方がいい。金属と木が多い」

 

「じゃあ」

 

 赤い目が、もう一度俺へ戻った。

 

「あなたは、食べられる?」

 

 冗談を待ったが、続きはなかった。

 

 視線が顔から首筋へ移り、胸元で止まる。弁当を選ぶ客より、ずっと真剣な目だった。

 

「食べられなくはないと思う」

 

「そーなのかー」

 

「ただし、あまり勧めない。三十五歳の会社員だ。疲労がたまってる」

 

「かいしゃいんって、食べると疲れるの?」

 

「食べなくても疲れる」

 

 少女は首を傾げた。

 

「でも、人間なんでしょ?」

 

「ああ」

 

「じゃあ、食べられるよね」

 

「理屈としては正しい」

 

「よかった」

 

「よくはない」

 

 少女が音もなく高度を下げた。

 

 後ろには消えた道。左右には木々。正面には、人間を食べ物として認識している空飛ぶ少女。

 

 金属スタンドは武器にできる。

 

 できるが、十年以上使ってきた機材を振り回すのは気が進まない。人命より機材が大事だとは言わない。比較対象が自分の命になると、一瞬迷うだけだ。

 

「食べる前に、一ついいか」

 

「なに?」

 

「一曲、聞かないか」

 

「音楽を聞いたら、おいしくなるの?」

 

「下味ではない」

 

「じゃあ、なんで聞くの?」

 

 俺は戻った右手を見た。

 

 命乞いの余興ではない。どこなのかも、相手が何なのかも分からないが、目の前にはドラムがある。

 

 そして今の俺には、両腕がある。

 

「俺が叩きたい。それを、お前に聞いてほしい」

 

「叩くと、どうなるの?」

 

「音が出る」

 

「それだけ?」

 

「普通はな」

 

 少女は台車の周囲を一周した。

 

「じゃあ、聞いてから食べる」

 

「交渉成立でいいのか、それ」

 

「うん。終わったら食べるね」

 

「成立してなかった」

 

 それでも、猶予はできた。

 

 ケースの留め具へ左手を伸ばしかけ、途中で止める。

 

 右手で金具をつまみ、親指を押し込んだ。

 

 乾いた音を立て、蓋が開いた。

 

 片手なら、膝や木へケースを押しつけなければ開けられなかった。今は右手で箱を支え、左手で蓋を持ち上げられる。

 

 誰かにとっては、できて当然の作業だ。

 

「泣くの?」

 

「泣かない」

 

「怖いんだ」

 

「それは否定しない」

 

「じゃあ、お腹痛い?」

 

「俺とお前のどちらの話だ」

 

「あたしは減ってる」

 

「聞いてない」

 

 二台のバスドラムを並べると、少女は片方の胴へ腰掛けようとした。

 

「乗るな。割れる」

 

「これ、飛ばないの?」

 

「飛ばすものじゃない」

 

「でも丸いよ」

 

「丸いものが全部飛ぶなら、食卓は皿を出すたび大変だ」

 

「お皿は飛ぶよ?」

 

「そうなのか?」

 

「投げれば」

 

「それは知ってる」

 

 少女は反対側へ回り込む。

 

「大きい太鼓、二つもいるの?」

 

「いる」

 

「一つじゃ駄目?」

 

「駄目ではない」

 

「じゃあ一つでいいじゃない」

 

「二ついる」

 

「どっち?」

 

「両方だ」

 

 説明が通じたことはない。今回も例外ではなかった。

 

 少女は俺が組み上げる部品を一つずつ覗き込み、触ろうとしては止められた。最後にはスティックを一本持ち上げたので、左手を差し出す。

 

「返せ」

 

「これで叩くの?」

 

「ああ」

 

「強い?」

 

「何と比べてだ」

 

「あたし」

 

「叩く相手を間違えてる」

 

 少女は不満そうにスティックを返した。

 

「あたし、ルーミア」

 

「ルーミア」

 

「あなたは?」

 

「ただのドラマーだ」

 

「ただの、どらまー?」

 

「名前は、食べられなかったら教える」

 

「そーなのかー」

 

 設置を終え、椅子へ座った。

 

 両足を二台のペダルへ置く。

 

 左手で一本、右手でもう一本のスティックを取った。

 

 十年動かしていないはずの右手は、木の太さも握る角度も覚えている。

 

 右手でハイハットを軽く叩いた。

 

 チッ。

 

 足元の落ち葉が円を描いて退き、土の上へ赤黒い線が走った。木々の間には鉄骨が組み上がり、電源もない照明とアンプが明滅する。

 

 左から低いギター。右から、腹の底をなぞるベース。

 

 演奏者の姿はない。

 

「森が変になった!」

 

「俺も初めて見た」

 

「これ、あなたがやってるの?」

 

「半分くらいは」

 

「残りは?」

 

「知らない」

 

「知らないのにやってるの?」

 

「今のところな」

 

「変なの」

 

「空を飛びながら人間を食べる奴に言われたくない」

 

 どこでもメタルが演奏できる程度の能力。

 

 その名だけが、自分の内側に最初から書かれていた文字を、今になって読めたように浮かんだ。

 

 右腕は演奏より前に戻っている。能力が出したのは腕ではなく、この場所と伴奏らしい。

 

 ルーミアが、赤い照明の中から俺を呼んだ。

 

「ドラマー」

 

 直後、ステージのどこにも歌い手がいないのに、ボーカルが森を横切った。

 

 “Hear me calling”

 

 俺とルーミアが同時に振り向く。

 

「今の、誰?」

 

「俺が聞きたい」

 

 ギターが低い反復を始めた。

 

「始まるの?」

 

「今からだ」

 

 ルーミアの周囲から闇が膨らみ、月明かりと逃げ道を順に塗り潰していく。

 

 これは観客のための暗転ではない。

 

 捕食者が獲物の逃げ道を閉じている。

 

 俺は怖さを否定せず、深く息を吸った。

 

 スティックを交差させ、四つ数える。

 

 右腕を、最初の一打へ振り下ろした。

 

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