脈は、一度では終わらなかった。
とくん、とくん、と存在しないはずの手首で繰り返している。
右の袖をまくった。
義手を固定していたベルトもソケットもない。
肩から五本の指まで、生身の腕が続いていた。
「……は?」
他に言いようがなかった。
右手を握る。開く。人差し指だけ曲げる。親指を小指へ触れさせる。
左手で手の甲をつねると、右手が痛んだ。
痛い。
十年ぶりに、右手が痛かった。
頬に触れる。鼻、額、髪。
「長いな」
短かったはずの黒髪が、肩より下まで伸びていた。
服も変わっている。普段着のシャツではなく、黒い革のベストに金属鋲、脚には重いブーツ。鏡がなくても、会社帰りの人間には見えないと分かる。
右腕に比べれば、髪と衣装は誤差だ。
ただ、変える場所の優先順位は聞いてみたい。
俺は左手で右手首を握り、右手で左手首を握り返した。
両方に脈がある。
両手で顔を覆えることに気づき、しばらく動けなかった。
「ねえ」
頭上から、女の子の声がした。
月を背に、小さな人影が浮いている。
金色に近い髪。黒い服。闇の中でもはっきり見える赤い目。
足は地面についていない。
「あなた、人間?」
右腕が戻ったことに比べれば、空を飛ぶ少女くらいは誤差だった。
「そのつもりだ」
「そーなのかー」
少女は俺より台車へ興味を移した。
「それ、なに?」
「ドラムだ」
「食べられる?」
「食べない方がいい。金属と木が多い」
「じゃあ」
赤い目が、もう一度俺へ戻った。
「あなたは、食べられる?」
冗談を待ったが、続きはなかった。
視線が顔から首筋へ移り、胸元で止まる。弁当を選ぶ客より、ずっと真剣な目だった。
「食べられなくはないと思う」
「そーなのかー」
「ただし、あまり勧めない。三十五歳の会社員だ。疲労がたまってる」
「かいしゃいんって、食べると疲れるの?」
「食べなくても疲れる」
少女は首を傾げた。
「でも、人間なんでしょ?」
「ああ」
「じゃあ、食べられるよね」
「理屈としては正しい」
「よかった」
「よくはない」
少女が音もなく高度を下げた。
後ろには消えた道。左右には木々。正面には、人間を食べ物として認識している空飛ぶ少女。
金属スタンドは武器にできる。
できるが、十年以上使ってきた機材を振り回すのは気が進まない。人命より機材が大事だとは言わない。比較対象が自分の命になると、一瞬迷うだけだ。
「食べる前に、一ついいか」
「なに?」
「一曲、聞かないか」
「音楽を聞いたら、おいしくなるの?」
「下味ではない」
「じゃあ、なんで聞くの?」
俺は戻った右手を見た。
命乞いの余興ではない。どこなのかも、相手が何なのかも分からないが、目の前にはドラムがある。
そして今の俺には、両腕がある。
「俺が叩きたい。それを、お前に聞いてほしい」
「叩くと、どうなるの?」
「音が出る」
「それだけ?」
「普通はな」
少女は台車の周囲を一周した。
「じゃあ、聞いてから食べる」
「交渉成立でいいのか、それ」
「うん。終わったら食べるね」
「成立してなかった」
それでも、猶予はできた。
ケースの留め具へ左手を伸ばしかけ、途中で止める。
右手で金具をつまみ、親指を押し込んだ。
乾いた音を立て、蓋が開いた。
片手なら、膝や木へケースを押しつけなければ開けられなかった。今は右手で箱を支え、左手で蓋を持ち上げられる。
誰かにとっては、できて当然の作業だ。
「泣くの?」
「泣かない」
「怖いんだ」
「それは否定しない」
「じゃあ、お腹痛い?」
「俺とお前のどちらの話だ」
「あたしは減ってる」
「聞いてない」
二台のバスドラムを並べると、少女は片方の胴へ腰掛けようとした。
「乗るな。割れる」
「これ、飛ばないの?」
「飛ばすものじゃない」
「でも丸いよ」
「丸いものが全部飛ぶなら、食卓は皿を出すたび大変だ」
「お皿は飛ぶよ?」
「そうなのか?」
「投げれば」
「それは知ってる」
少女は反対側へ回り込む。
「大きい太鼓、二つもいるの?」
「いる」
「一つじゃ駄目?」
「駄目ではない」
「じゃあ一つでいいじゃない」
「二ついる」
「どっち?」
「両方だ」
説明が通じたことはない。今回も例外ではなかった。
少女は俺が組み上げる部品を一つずつ覗き込み、触ろうとしては止められた。最後にはスティックを一本持ち上げたので、左手を差し出す。
「返せ」
「これで叩くの?」
「ああ」
「強い?」
「何と比べてだ」
「あたし」
「叩く相手を間違えてる」
少女は不満そうにスティックを返した。
「あたし、ルーミア」
「ルーミア」
「あなたは?」
「ただのドラマーだ」
「ただの、どらまー?」
「名前は、食べられなかったら教える」
「そーなのかー」
設置を終え、椅子へ座った。
両足を二台のペダルへ置く。
左手で一本、右手でもう一本のスティックを取った。
十年動かしていないはずの右手は、木の太さも握る角度も覚えている。
右手でハイハットを軽く叩いた。
チッ。
足元の落ち葉が円を描いて退き、土の上へ赤黒い線が走った。木々の間には鉄骨が組み上がり、電源もない照明とアンプが明滅する。
左から低いギター。右から、腹の底をなぞるベース。
演奏者の姿はない。
「森が変になった!」
「俺も初めて見た」
「これ、あなたがやってるの?」
「半分くらいは」
「残りは?」
「知らない」
「知らないのにやってるの?」
「今のところな」
「変なの」
「空を飛びながら人間を食べる奴に言われたくない」
どこでもメタルが演奏できる程度の能力。
その名だけが、自分の内側に最初から書かれていた文字を、今になって読めたように浮かんだ。
右腕は演奏より前に戻っている。能力が出したのは腕ではなく、この場所と伴奏らしい。
ルーミアが、赤い照明の中から俺を呼んだ。
「ドラマー」
直後、ステージのどこにも歌い手がいないのに、ボーカルが森を横切った。
“Hear me calling”
俺とルーミアが同時に振り向く。
「今の、誰?」
「俺が聞きたい」
ギターが低い反復を始めた。
「始まるの?」
「今からだ」
ルーミアの周囲から闇が膨らみ、月明かりと逃げ道を順に塗り潰していく。
これは観客のための暗転ではない。
捕食者が獲物の逃げ道を閉じている。
俺は怖さを否定せず、深く息を吸った。
スティックを交差させ、四つ数える。
右腕を、最初の一打へ振り下ろした。