夜までに知ったこと
書庫で共鳴した拍が、今度は廊下の時計に測られようとしていた。
右の車輪が継ぎ目を越える。
ゴトン。
左の車輪が続く。
コトン。
銀髪の女の靴音は、その二つに乱されない。
コツ。
コツ。
俺が台車を押す速さを変えても、同じ間隔でついてくる。
「時計塔へ行くんじゃないのか」
「今すぐではありません」
女は廊下の壁時計へ目を向けた。十一時まで、あと六分。
「書庫で聞いた二拍目と四拍目を、別の場所でも再現していただきます」
「俺は神社へ戻るところだ」
「承知しています」
台車を止める。
留め具が小さく鳴った。
「パチュリーに腕を調べてもらう用事は終わった。次は霊夢に、帰る方法を聞く」
「止めるつもりはありません。試験も、お断りいただけます」
「その前に、呼び方は」
「十六夜咲夜です。館では、咲夜で構いません」
「分かった」
咲夜の視線が、俺の右肩へ移る。
書庫で叩いた熱が、筋肉の奥に残っている。腕は上がる。指も握れる。だが続けて一曲を叩けば、何が疲労で何が異常か分からなくなる。
「今夜、通常業務の終了後に時計塔を使います」
「何時だ」
「二十三時四十分にお迎えします」
「半日近いな」
「右肩を休める時間でもあります」
断れば、今から神社へ向かえる。
ただし、境界をもう一度越えた後、この腕が今と同じとは限らない。始めた曲を自分の意思で止められるのか。止めた場所から戻せるのか。まだ確かめていない。
「遅れを再現するだけなら受けない」
「では、何を条件にしますか」
「俺が途中で演奏を全部止める。ドラムだけじゃない。出てきた伴奏も歌も照明もだ。そこから、同じ小節の同じ位置へ戻す」
「ご自身の能力の停止と再開を確かめるのですね」
「帰る前にな」
「館にとっても、予定外の演奏を本人が制御できるか確認できます」
「館の仕事にもなるわけか」
「ええ」
「一曲だけ。夜までに肩の熱が引かなければ中止する。終わったらここで一晩休む。朝、飯を食ったら神社へ戻る」
「客室と朝食を用意します」
「再開の合図は任せる」
「承知しました」
咲夜が懐中時計を開く。
カチン。
「二十三時四十分に」
「あと何時間だ」
「十二時間四十六分です」
「即答するな」
「時計を持っていますので」
◇
昼食は小さな食堂で出された。
パン、肉、スープ、水。右肩には冷たい布を当てる。
妖精メイドが砂糖壺を運んできた。盆の端が椅子へ当たり、白い壺が傾く。
「あっ」
床へ落ちるはずだった。
まばたきの後、砂糖壺は咲夜の手にあった。
さっきまで水差しを持って、俺の反対側にいたはずだ。
妖精メイドは壺が消えた場所と、咲夜の手を交互に見る。
「た、助かりました!」
「次は盆を両手で持ってください」
「はい!」
足音が遠ざかってから聞く。
「今、何をした」
「少々、時間を止めました」
「時間を止められるのか」
「ええ」
「壺一つに?」
「割れてから片づけるより早いので」
「戻したわけじゃないんだな」
「止めている間に受け取っただけです。落ちた事実を消したのではありません」
咲夜は砂糖壺を机へ戻した。
妖精メイドが置くつもりだった場所と、寸分違わない。
白い壺の中では、角砂糖が一つだけ斜めになっていた。
時間を止めても、傾く前へ戻ったわけではない。その形のまま、落ちる途中から場所だけが変わっている。
「便利な仕事道具だな」
「能力を道具と呼ぶのでしたら」
◇
午後は客室の椅子で眠った。
目を覚ますと十七時を過ぎている。腕を上げ、指を曲げ、手首を回す。昼の重さは薄れ、肩の熱も引いていた。
窓の外はすでに赤い。寝ている間にも、廊下の時計は一秒ずつ進んでいた。
右手でスティックを一本だけ持つ。
机は叩かない。
親指と人差し指で支え、中指で軽く返す。十年使ってきた左手より動きは固い。それでも、握り込まずに先端を上下させられる。
一曲を叩くための確認と、壊れるまで動かすことは違う。
夜に熱が戻れば中止する。その条件は変えない。
台車の右輪から、朝まであった傷が消えている。
壁際には古い車輪と工具、それから短い紙が置かれていた。
『右輪の摩耗を確認。予備へ交換。左右の直径差なし』
「時間を止めて直したのか」
誰もいない部屋で聞いてみる。
新しい車輪は静かに一周しただけだった。
交換に能力を使ったかは分からない。
確かなのは、昼から夕方までの間に、咲夜が自分の仕事をこなしながら台車の不具合まで片づけたことだけだった。
◇
夕食には盆が三つ来た。
俺に一つ。空いた席に一つ。二台のバスドラムの前に一つ。
「二つ多い」
「外からのお客様一名と、大きな丸いお連れ様二名です」
「太鼓だ」
「でも、ずっと一緒ですよ?」
「荷物だからな」
妖精メイドは二台を見比べ、しばらく考えた。
右の大きな太鼓へ顔を近づける。
次に左へ回る。
「確かに、お返事はしませんね」
「最初に確かめろ」
「食べないお客様ですか?」
「食べる太鼓がいたら連れてこい」
「厨房に聞いてきます!」
「聞かなくていい」
盆二つを抱えて走り去る。
夜までの残り時間は、もう五時間を切っていた。
砂糖壺を救った一瞬も、夕食の皿を数える時間も、咲夜にとっては同じ仕事の中にあるらしい。
夜の一曲だけが、まだ予定表の先に残っている。
◇
二十三時四十分。
扉が三度鳴る。
「お時間です」
右肩に熱はない。指も手首も動く。
咲夜は左手に懐中時計、右手に細長い革のケースを持っていた。
「状態は」
「一曲分なら動く。痛みもない」
「では、予定どおりに」
台車を押す。
右の車輪。
コトン。
左の車輪。
コトン。
後ろから靴音が追う。
コツ。
コツ。