紅い大広間
窓の外は、黒から青へ変わる途中だった。
博麗神社へ出るにはまだ早い。だが、出発の準備を始めるには十分な明るさがある。
右腕を前へ伸ばす。
握る。開く。手首を返し、肘を曲げ、肩を上げる。
時計塔で一曲叩いた疲れは残っている。筋肉を使った分だけの重さだ。痛みも熱もない。
二台のバスドラムは、壁際の台車へ固定してある。
右の車輪を回す。交換された輪は、床の継ぎ目を越えても引っかからなかった。左も同じ幅だけ進む。束ねたスタンドも揺れない。
美鈴は門前で、一曲を安全審査として受けた。
パチュリーは書庫で、戻った右腕と演奏で現れる力を調べた。
咲夜との時計塔では、その力を自分の意思で止め、二秒後に同じ位置から再開できた。
持ち帰る結果はそろった。
朝になれば神社へ行く。霊夢に調査の結果を話し、外の世界へ戻る方法をもう一度相談する。
荷紐を引いたところで、扉が三度鳴る。
「お目覚めですか」
「起きてる」
入ってきた咲夜は、俺より先に右腕を見た。
「痛みは」
「ない」
「可動に異常は」
「これから台車を押せる程度には」
「演奏について伺っています」
「一曲なら問題ない」
「では、お嬢様がお待ちです」
「大広間か」
「はい。ただし、昨夜の時点で承諾はいただいておりません」
咲夜は台車の脇に立ち、こちらの返事を待つ。
断れば、朝食を受け取り、そのまま門へ向かえる。神社へ着く時刻も早まる。
右腕の調査。能力の停止と再開。眠る部屋。交換された車輪。
この館で受け取ったものは、神社へ戻る判断を支える材料になっている。
「一曲だけ返す」
「何に対してでしょう」
「ここで世話になった分だ」
「お嬢様個人への返礼ではないのですね」
「聞かれたらそう言う」
「承知しました。終演後は」
「片づけて、朝飯を食って、神社へ出る」
「朝食は持ち運べる形にいたします」
「助かる」
「館の食器はお持ち出しになれません」
「食器を運ぶとは言ってない」
「確認です」
「何でも仕事にするな」
「必要なことですので」
時計塔の外でも、咲夜の答えは同じだった。
◇
大広間へ入る。
宴の机も飾りも片づけられ、石床の中央だけが大きく空いている。奥には階段があり、その上の赤い椅子にレミリア・スカーレットが座っていた。
左右の高窓には夜が残る。月明かりは細く床を切り、燭台の炎は階段の影を長く伸ばしていた。
「遅かったわね」
「早く来たそうだ」
「私が待ったのよ」
「予定より一分五十八秒早く到着しております」
「咲夜。どちらの味方なの」
「時刻の確認を」
「頼んでいないわ」
「失礼いたしました」
レミリアは咲夜を見てから、俺へ赤い瞳を戻した。
「朝には出るそうね」
「その予定だ」
「知っているわ」
それ以上は聞かず、椅子へ深く座り直す。
台車から機材を下ろす。
二台のバスドラムを並べ、スネアとタムを組み、スタンドを立てる。右のクラッシュを少し遠くへ置き、フロアタムを椅子へ寄せた。
右足を踏む。
ドン。
左足。
ドン。
低音が階段へ当たり、壁を回って戻ってくる。時計塔のような白線はない。広間の石も天井も、鳴ったものを隠さない。
スネアを弱く一度。
タン。
高い音は天井へ抜け、低い余韻だけが床に残った。
右のクラッシュをもう少し外へ動かし、フロアタムを椅子の近くへ寄せる。広いからと全部を広げれば、右腕へ余計な距離が増える。演奏後に神社へ向かうなら、鳴らす前から疲れを使う理由はない。
レミリアの視線が、動かしたクラッシュから右肩へ戻った。
「小さく組むのね」
「必要な幅にしてる」
「せっかく広間を空けたのに?」
「床の広さを全部叩くわけじゃない」
「見栄えも演奏のうちよ」
「音が出てから言え」
レミリアは不満そうに椅子の肘を指で叩いた。
コツ。
正確な拍ではない。待ちくたびれた者の一音だった。
「床を壊したら弁償よ」
「壊れそうか」
「壊れないわ」
「なら言うな」
「私の館で最初の命令をしたかったの」
「もう遅い。朝に出る話をした」
「それは報告の確認でしょう」
レミリアの口元が上がる。
設置が終わるまで急かしはしない。視線だけが、右肩、手首、両足、二台のバスドラムへ移る。
「美鈴は、あなたの一曲を安全審査にして、最後まで門前に残った」
レミリアが言う。
「パチュリーは書庫の予定を延ばした。咲夜は零時の報告を遅らせた」
「最後のは本人に聞け」
「聞いたわ。三人とも、別の理由を答えた」
「同じものを聞いても、仕事が違えば答えも変わる」
「だから、私の答えは私が決める」
レミリアが椅子を離れる。
赤い靴は、まだ階段の一番上にある。
「予測できない音を見せなさい」
「外すだけなら、曲にする必要はない」
「三人が仕事を越えて聞いたのは、でたらめな音?」
「違う」
「なら、音楽のまま私を外しなさい」
「曲がそう求めたらな」
スティックを握る。
能力を起こすと、石床の底から低い弦が現れた。
金管が遠い柱の間へ立ち、ギターは薄い輪郭だけを作る。歌も合唱もまだ来ない。
長いIntro。
弦が一度高くなり、また低い場所へ戻る。金管は広間の幅を測るように伸び、夜の残る窓へ余韻を置いた。
見えない演奏者の影が、柱の間へ一つずつ立つ。
アンプの赤黒い輪郭はまだ淡く、歌声の来る中央だけが空いている。大広間の装飾より大きな音の骨組みが現れても、レミリアは椅子へ戻らなかった。
翼を閉じたまま、曲と俺のどちらが先に動くか見ている。
俺は踏まない。
レミリアも急かさない。
曲が入口を開くまで、赤い靴と二本のスティックは動かない。
低いギターが加わる。
右足を一つ。
ドン。
「始めたわね」
「一曲だけだ」
Crimson Ascension。
広間の夜が、最初の拍を受け取った。